題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:1998/5/29

 


9章:最後の出張

さて日本に帰ってちょうど一月私は3度目の出張にでかけた。1989年の7月15日である。

このころになると、大分スタディの方向も見えており、-そうでないと困る。これは一年契約のスタディで、10月末までなのである-また英語もそれなりになんとかなる、と思い始めて(これが思い上がりであったことは時を経ずして明らかになるが)結構余裕で出張に臨むことができた。

行きの飛行機の中では、ダラスでの長い長い待ち時間も含めてだいたい寝ていた。今から考えれば気力は充実していたものの私の体力の方はつきかかっていたのだろう。本来私はあまりアクティブに飛び回れる方ではない。怠惰な性もあるが、体力が持たないというのもその理由なのだろう。

この出張ではSAICの新顔であるブラッドが登場した。最終的に提案するシステムのコストがいくらになるか?という検討をせねばならず、それは日本側では私の担当となっていたからである。

この男は極めて気のいい男であり、、かつ3回目ともなると「何?ブラッドとのミーティングについてきてくれ?冗談じゃないよ」と人に付き添いを頼む訳にはいかなくなってきた。

彼と最初に彼の部屋で話したことを覚えている。正直言って彼が行っていることは2割も理解できなかった。ここでまた私は自分のHearing力よりも自分の想像力にたよらざるをえないことを発見する。当時私は彼が「コストの試算をすると、場合によってはEngineerの足をひっぱることになりかねないけど、でも大切なことだからしなければならないんだ」と言った(と思う)私は「そうだね」と答えた。

次に彼は内容は理解できなかったが多分Yes かNoで答えられない質問をした。要するにWhat, When, How等で始まる質問である。それに対し私は"i think so"と答えてしまった。部屋を出た後でこのことに気がついたが後の祭りである。しかし慣れとは恐ろしい物で、一回目の出張だったら布団をかぶって3時間ほど落ち込むような事象でも3回目となると「いやーこんなこと言っちゃったんですよ」と笑い話にできるのである。

時を同じくして私同様今回の仕事が米国にきた初めての機会であったBig Eの英語力の向上もめざましい物があった。彼はTOEICの点数だけから言えば私よりも低かったはずなのだが、USATodayを愛読し、積極的に会話をしてこの3ヶ月で見違えるように英語力が向上した。この後彼はしばしば一人で出張するようになる。そして「TOEICが400点位の人間でも3ヶ月一生懸命出張に来て勉強すれば、結構しゃべれるようになる」という誤った概念を私は持つことになる。実はこの「事実」は「Big Eは大変優秀な社員である」という命題の方を証明していることに気が付いたのはそれから数年後のことである。

仕事に関して言えば今回は会議の前から上司が来ていたので「メモを取らずに仕事をするとは何事だ」とどなられることもなかった。もっとも彼がモーテルについた時にBig Eとロビーまで万歳三唱をやりに行ったかどうかは覚えていない。多分「いろいろと問題があるから」ということで、二人で空港まで迎えにいったのではなかろうか。

今回は各社から集めた意見を集約して皆の了解をとった。一通り説明して例のHadroに呼ばれたので「また何か馬鹿なことでも書いたかな?」と思っていって見れば「なかなかよくできてる」とお褒めの言葉をいただいた。とかくのごとく仕事は順調だったのである。

というわけで仕事以外のことを書いて見よう。向こうにいる間は当然のことながらほとんど外食である。最初の出張の時はそれこそステーキハウスからイタリアンからドイツ料理からあちこちにトライしたのだが、滞在が長くなってくるとどうもオリエンタルフードから歩いて行けるところにあるSizzlerばかりに行くようになる。オリエンタルフードでも特に我々が愛したのはChinese RestaurantのEmpress of Chinaである。

ここには愛想のいいオーナーがいる。ただし統一教会の新聞がおいてあったから彼はその手の人なのかもしれない。しかしそんなことはどうでもよろしい。結構広いchinese Restaurantで、多分昔はダンスフロアーか何かだったのではないだろうか。

そこのChiense Foodはとてもおいしい。足繁く通っているとだんだん店の人とも友達になる。そのうち「うちにはチャンポンがあるわよ」と言い出した。頼んでみると確かに日本のチャンポンである。この料理をどこで覚えたのか知らないが。

ウェイトレスは何人かいるが、我々が仲良くなったのは26歳でオーナーの娘の愛華(アイファン)と韓国人の美玉(ミオク)である。アイファンは実にきれいでスタイルもよろしい。いつか私が彼女をじろじろと嫌らしい目で見ていたらしく、I社員が大笑いしながら「大坪社員、その表情が恥ずかしいんですけど」と言った。ミオクも感じのいい人であったが、美人コンテストにでればアイファンの敵では無かろう。

時を前後して両方と仲良くなった我々であったが、ミオクのアイファンに対する敵愾心というのはちょっとおそろしいものがあった。我々がアイファンと仲良く談笑していると、後ろをミオクが通っていく。その表情を一瞬かいま見た私は一瞬石になってしまおうかと思った。かのメドゥーサも嫉妬に燃えたときが一番石化の効果が高かったのではないだろうか。女同士の確執というのは男性の想像を遙かにこえたところに存在しているのだと思う。

そのうちミオクの姿が見えなくなった。統一教会の秘密に深入りしすぎたために消されてしまったのでは無かろうか、などとくだらない冗談をたたきながら夕食は楽しく過ぎていった。

Empress of Chinaでチャンポンを腹一杯食べてご機嫌のある日、私は帰りにスーパーによった。ご機嫌の私はYellow Submaineを鼻歌で歌っていた。するとレジのお姉ちゃんが何か言う。「?」と2回くらい聞き返すと、後ろにいたおばさんが"Is that a song from movie Yellow Submarine ?"とゆっくり私に聞き取れるようにしゃべってくれた。"Yes!" と言うと、そのおばさんはレジのお姉さんに向かって「ほらね。ゆっくりしゃべればわかるのよ。」と言った。

たわいもないといえばたわいもない会話だが、私は今に至るまで、このとき私がいかにご機嫌だったかを覚えている。ちゃんと英語が通じたじゃないか。3ヶ月泣きそうな思いをしながらすごしたのは無駄ではなかった。-この感想はついこの前英語の試験を受けたときの「3年間泣くような思いをしながら過ごしたのは無駄ではなかった」と全く同じである。単に期間が違うだけだ。そしてこの言葉は「XXの間泣くような思いをしたのに。。。」と対になっている。必ずそう思う機会がやってくる。どの方向を見てもどれだけ進んでも前にも後ろにも道は果てしなく続いていると言葉ではわかっているのだが。

 

さて仕事もだいたい方がついた。私の上司は先に日本に帰っており、私は帰国前に作業の進捗状況の報告をした。その時彼は「今君がもとやっていた仕事が忙しくなっているから、次の出張は見合わせてもらうかもしれないよ」と言った。私は「了解しました」と答えた。

一月ぶりに日本に帰ればまたいつもの朝礼だ。「大坪君が戻ってきました」と紹介をうけ、何かしゃべれと言われたので「今度は2ヶ月くらい日本にいることになると思います」と答えた。次の出張は見合わせろ、というのだから次の次に行くことになるのだろう、と単純に考えたのだ。

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注釈

3年間泣くような思いをしながら過ごしたのは無駄ではなかった:府中へ」を参照のこと。本文に戻る

 

どの方向を見てもどれだけ進んでも前にも後ろにも道は果てしなく続いている:トピック一覧)この信条を持っていると、就職の面接で「大坪さんの”これは人に負けない”と思っているのはどんな分野ですか」と聞かれて返答に窮することになる。そしてそれを「この男はアホだ」ととる会社もある。本文に戻る