題名:巡り巡って

五郎の入り口に戻る

日付:2002/12/10


牛久大仏:茨城県(2002/12/1)

去年の8月にここを訪れた。そのときは大仏の展望室に昇ったところでトイレに行きたくなり、

「どこかにトイレはないか」

と探しつつ大仏の胎内を全速でかけおりてしまった。(大仏の中にトイレは無いのだ)ここは「巡り巡って」で取り上げるにまことに格好と思うのだが、かくのごとき事情でろくに観ていないのであった。ああ、悔しい。

しかしなあ、2度行くような場所と思えないし。とはいって他に行くところが有るわけではなし。そんなことを悶々と考えながらはっと気がつくと常磐線に乗り一路牛久に向かって進んでいるのであった。

駅を下りると断片的な記憶に従って歩を進める。バスがくるまで時間があるからご飯を食べる。食べながらもどことなく鬱な気分がわき起こる。今日はどう控えめに観ても良い天気とは言えない。小雨がぱらついている。かといって家にいようと思うほどの降りでないから出ないのももったいない。とはいっても大仏再訪問以外にすることもないのか。嗚呼。おれは一体ここで何をしているのだ。しかしそんな気分も葉が落ちた山の彼方に大仏の姿が浮かびあがった瞬間消えてしまった。巨大なそのお姿は今日の霧雨にかすんでなおさら異様な物に写る。私はなんとか写真を撮ろうとしたが車窓に浮かんでは消えるそのお姿をとらえることは最後までできなかった。

ほどなくしてバスを降りる。若い女性二人連れも同じ停留所で下りる。彼女たちもこの寒空に大仏見物であるか。そんなことを考えながらそのお姿を撮影する。

昔のゴジラは身長50m、体重2万トンだったからこの大仏の前に立てば手の辺りまでしか届かないであろう。がんばれ僕らの阿弥陀如来などと考えながら入り口を目指す。みやげものやらなにやら売っている店が数軒つらなっているのだが、その中にレーガン元大統領の胸像がある。

この場所で大仏に大阪弁を喋らせた宣伝をすればすぐ隣から抗議がくるが、元米国大統領なら問題ないということなのだろうか。

さて、そこからいろいろな物が並んでいる。頭部の小型版というのがあり、本物はこれの「1000個分のボリュームに相当します」と書いてある。「ボリューム」とはなんぞや、と思うのだが後で他の場所に使われていた内容と合わせて考えるに体積のことであろう。ということは寸法が1/10の模型ということか。

その隣にはこんなものがある。

巨大なうんこにしか見えないが、大仏の頭髪なのだそうな。直径1mとのこと。

その先にはなにやら門があり、そこには小さな鐘がある。木槌もあるから思いっきりたたいてみた。当然の事ながら一番ダメージを受けるのは一番近くにいる私の鼓膜である。そこをくぐると看板があり、ここで振り返ると釈迦弥陀二尊が拝めると書いてある。さて、と振り返ると門の上に何かいる。ほいほい、と思うがそれ自体どうということもない。

そこから大仏までは一直線。この前来たときは横風が強くて大仏を拝むどころではなかった覚えがあるが今日も雨がしとしとふっておりあまり上を見たくはない。というわけで下を見てみる。すると小さな橋があり「南無阿弥陀仏と六歩で渡りましょう」という看板があり足形までついている。その通り渡れば確かに南無阿弥陀仏となる。馬鹿馬鹿しいと思いながらやってみた私がいうのだから間違いない。大仏の前に来ると

「ここから見上げると大迫力です」

という文字が上向きの矢印とともに書いてある。見上げると確かに大仏がでっかく見えるのだが、不幸にして今日は雨だからあまり見上げているわけにはいかない。

大仏の入り口は後ろにある。そこで東南亜細亜から来たとおぼしき一団と一緒になる。かかっている絵馬にも日本語以外の文字で書かれたものが多いが、ここは東南亜細亜から来た人達には人気スポットなのであろうか。

ひとかたまりの人数が集まると部屋に入れられる。後ろの扉が閉まると辺りが暗くなり、説教が流れる。なんでもこの部屋が暗いのは

「欲望で目が閉ざされた無明の状態を表している」

のだそうだ。そこから救ってもらうには阿弥陀如来のあれこれがなんたらかんたら、と話は続く。勝手に部屋を暗くして於いてそれは貴様の欲望のせいだもないももんだ。

扉があくと線香のにおいがする。線香がたかれており、先ほどの東南亜細亜の人達はちゃんとその煙を手で寄せたりしている。日本人の私は全く気にせずそこを通り過ぎる。脇には光の川が何かで表現され、そこに色とりどりに輝く小さな仏像がある。

階段を上がると、大仏建築10年の歴史が写真で示されている。建築途中の大仏というのはなかなかおもしろいもので、上に上がってしまうとその大きさを実感できない顔も、地面において人と比較するとその巨大さに驚く。他にいろいろな説明図もあり、今は銅の色をしている大仏もあと50−100年たつと綺麗な青銅の色(鎌倉の大仏のような色)になるのだそうな。もし私がその時生きていればまた来ようと思う。50年たったら90才。まだ生きてるかな。

しかしその先には妙なものがある。TV番組で「世界一の大仏に世界一のマフラーをプレゼント」という企画をやったときのマフラーの切れ端がぶらさがっているのだ。マフラーの他の部分は東北で水害に遭った人達におくったということだが水害に遭った人もそんな物を送られて却って迷惑したのではなかろうか。

そこからエレベーターで5階に登る。3階から5階といっても高さの差は数十mある。下りると三つの窓があり、どこから観ても同じ景色が見える、これは仏だかと心が一つだか云々ともっともらしい説明が書かれているが、つまるところ窓の角度を変えてあるだけである。左右に釈迦の生涯を説明するための写真がかざってある。そこにある「釈迦は苦行をすて悟りを開いた」というエピソードに心を引かれる。これは私が人一番会社での苦行-長時間の会議やら意味のない残業-を嫌う人間だからである。苦行をしたところで悟りを得られるわけでも仕事が進むわけでもない。ちゃんと考えましょう。釈迦もそう言っています。

もういいだろう、と階段で一つ下の階におり、さらにエレベーターで3階に下りると壁一杯に仏像が並んでいる。先ほどの東南亜細亜の人達はここが一番気にいって居るようだった。写真などとっているが大仏内は撮影禁止なのであった。係りの人にNo Pictureとか言われている。

今日はトイレを探してかけずり回る必要もないので、ゆっくり見て回る。すると3300体と言われる仏像のうち名前が入っているのはそう多くないことに気がつく。特に裏に回ってみるとまだ空き地がいっぱいある。名前は個人とか家ばかりでなく、○○幼稚園とか△△保育園の仏もある。なんとか有限公司という名前まである。中国からわざわざ来て100万円払って名前を載せたのか。上のほうの段になると名前を読むこともできない。

一通り回り階段を下りると写経をする場所がある。何人かが一心に筆を動かしている。脇から覗いてみると下にお手本を置いて、その上からなぞっているのであった。写経というのはこうやるのか、と感心しているとそのうちの一人がお経をうなりだした。一同驚愕する。

その先には宣伝用ポスターがはってあり、

「お墓でかざるあなたの花道?」

とかいうコピーが書いてある。最後の「?」がポイントか。でもって花道を飾るべき様々な墓石の写真がある。デザイン墓地というのがあり、墓石が書物の格好をしている。私が愛読する「ボートの3人男」には

「村や街に到着したとき、あわてふためいて墓地へおもむき、墓石を鑑賞するのが紳士のなすべきことだ」

という一説があるからこうした変わった格好の墓石もそうした紳士の楽しみと成りうるのかもしれない。その横にはガーデニング墓地というのがあり、お花が植えてある。ただし所詮ウサギ小屋の日本でやるガーデニングだから墓石の周りに無理に花を突っ込んでみましたという感じで観ていてわびしくなる。

そこから階段を下りると大仏内部の見物はおしまい。外に出ると小さな動物園があるので行ってみる。ウサギやらリスやら放し飼いになっており、さわったりできるらしい。別にさわってみようとも思わないが私の顔をみた係りのお姉さんが扉を開けてくれたのでウサギのエリアに入る。冷たい雨が降っている日だから屋根のあるところでみんな丸まって動かない。私を観ると2−3匹よってくる。もちろんえさを求めてである。私が何も持っていないことを知るとみんなあっちにいってしまう。せっかくだから頭でもなでようかと思ってもみんな逃げる。

動物エリアの中ではお猿さんのショウもやっている。横浜のランドマークタワーの展望台にもお猿さんがおり、芸をみせた後にかごをもって金を集める。その事実を知ってからは猿を観ると金を取られるのではないかという脅迫観念に襲われるようになり、落ち着いて観ることができなくなった。座らず立ったままで観てみる。どうもここの猿は二軍らしい。竹馬をやるために呼ばれて、自分の椅子などを持っていこうとして怒られている。それがギャグではなくて、本当に間違えているようなのだ。内股で立ち寒そうにしているその猿を観ているとなんとなく同情してしまう。私も物事をうまくやれずに怒られることに関しては自信がある。そう考えると猿に自分の姿が重なる。あの猿も家に帰れば食器を「喜んで洗わせていただいたり」するのだろうか。お互い強く生きようと心の中でつぶやくとその場を後にする。猿にしてみれば「おまえと一緒にするな」ということなのかもしれないが。

これで大仏見物はおしまい。帰りのバスをまちながらぼんやりと大仏のお姿を眺める。この大仏がずもーんずもーんと歩きゴジラと戦う所はさぞかし勇壮であろう。ゴーストバスターズでは自由の女神が歩いたのだから、誰かそんな映画でも作ってくれぬかなあ。

おまけ:大きさの比較図

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注釈