題名:巡り巡って

五郎の入り口に戻る
日付:2022/7/27


筑波海軍航空隊記念館:茨城県(2023/8/20)

私は考えていた。行くべきか、やめるべきか。

今日は8月20日。受付完了を告げるメールの日付は7/29。「この頃になれば元気も回復しているだろう」と思っていた。しかしお盆前の激務+名古屋までの往復自動車運転による疲労は一週間たった今でも色濃く残っている。体は重く、何事にも気力がわかない。これは疲労の蓄積ではなくうつ病なのではないかと考え始める。

状況を冷静に見つめれば、出かける計画を中止し、家で大人しくしているべき。と思うのだが受付完了メールには「ご予約のキャンセルや変更を行う場合、必ずお電話にてご連絡くださいませ。」と書いてある。電話をせねばならぬのだ(後から考えればそんなことは必要ないとわかるのだが、うつ状態ではそう考えてしまう)再度目的地までの所用時間を確かめる。車で行けば1時間50分。それくらいならなんとかなるだろう。おまけに車で行けば最寄駅からこの炎天下を2km歩く必要もなくなるし。

昨日まで「明日は映画に行く」と宣言していた奥様に、何の気なしに「筑波まで車で行くから」とつげる。すると「今日は買い物に行きたいし、クリーニングも出したい。車を使う」と言われる。「映画に行くのではなかったのか」と問うたとしても何の役にも立たない。私は「わかりました。大丈夫。私は電車で行きます。(最寄駅からこの熱気の中を30分歩くけど)」と告げる。大丈夫。きっとペットボトルで水分を補給しながら歩けば大丈夫。行きと帰りの電車の中で眠ることもできるし、それに電車と徒歩なら自分が車にはねられることはあっても、他人を跳ねてしまうことはないだろう。

そう決意するとにこやかに家を出る。とはいえ2回乗り換えるまでは「いやー、電車賃をあまり使わないうちに回れ右して、時間つぶして帰ればよくない?」と考えていた。そんなことを考えているうちに電車は進む。品川から特急がでておりそれにのればあとは最寄駅まで1時間ちょっとらしい。

この電車がなかなか豪華な特急であり、かつ特急券が必要な割に座席指定が無い人のために「どこから人がのってくるかの」の表示灯などがついている。感心していいんだか戸惑うべきなのかよくわからない。おまけに表示灯は赤と緑になるのだが、どちらの色の場所に座ればいのかよくわからない。

などと考えているうち眠りに落ちる。これができるところが電車のいいところ。自動車でこれをやったらあの世行きである。

目が覚めて少しぼんやりしていたら最寄の友部駅についた。ホームにおりると予想通りの熱気と日差しである。これから30分はこの中を歩かなければならない。スマホによれば南口をでてほぼ一直線に進めばよいらしい。

というわけでてくてく歩き出す。コンビニがあればそこで飲み物を買おうと思っていた。ところがコンビニがなかなかみつからない。はて、コンビニはどこか。このままでは体が干上がり、行き倒れになる。そんなことを考えながら歩いていると思わぬものが見つかった。

道場

最初は「なにやら和風だが怪しげな建物だ」と思った。近寄って看板を見て驚愕する。そこに記載されていたのは「玄和会 常井道場」という文字。この文字でなぜ私が動揺するか。「玄和会」というのは私が大学時代はいっていた空手のサークルが所属していた流派。とてもマイナーであり「弁証法的唯物論を空手に応用」というのが売り文句であった。海水浴客がいる浜辺で空手の道着を着て歌いながら行進させられたとか、異様なエピソードを書き出すとキリがない。いずれにせよとてもマイナーで貧乏だったはずなのだが、こんなところに道場が立っていたとは。しかも「常井」とは当時の幹部というか流派のトップ選手で「柔道選手ではないか」と思えるような人の苗字と同じ。果たしてあの人がここに道場を作ったのだろうか。

などと昔のことを思い出しながら歩を進める。そのうち前方にスーパーマーケットが見えてきた。やれうれしや。あそこで水分とお昼ご飯を補給しようと思う。中にはいると涼しく、しかも食べ物がたくさんある。チキンバーガーとペットボトルを買って再び熱気の中に戻る。

平坦な一本道をひたすら歩く。気がつくと私の前にも道を歩いている男性がいる。同じ場所を目指しているのだろうか?いずれにせよ私のほうが少し足が早い。その人を追い抜くと視界の中には人影がなくなる。そうだよな。こんな暑い日に外をひたすら歩いている人なんていないよなあ。時々水分を補給しながらも歩き続ける。そのうちこんな看板が見えてきた。

看板

看板があるからにはあと500mで目的地に辿り着くはず。あと500m。大丈夫。意識ははっきりしている。であれば多分私は無事に目的地に辿り着くだろう。

しばらく歩くと、左に曲がるべき場所がある。「県立こころの医療センター」の中にあるらしい。なぜそうした病院と一緒の場所にあるかについて私が知るのはもう少し先のこと。

そこを曲がるといくつか見るべきものがある。

正門
桜並木

かつての正門、そして桜並木である。道を進んでいくと筑波隊司令部庁舎がある。

庁舎

反対側のエリアでは若者がスポーツをしている。

若者たち

その対比にしばらく思いをはせるがあまり長いこと立っていると倒れそうでもある。庁舎の先にある建物が受付らしい。そちらに向かう。

なかにはいるとチケットを購入する。この場所だけのチケットか、少し離れたところにある地下指揮所も合わせたものにするかと問われるので、両方のをお願いする。とはいえその選択にそれほど自信があったわけではない。今日の講演会は1時半から。そして地下指揮所の見学は時間指定であり、1時と2時が選択肢として存在する。何分かかりますか?と問えば20分ほどとのこと。ならば1時の回に参加してそれから高速で戻ればなんとかなるか。

相手は地下指揮所の場所を説明してくれる。ここから1.2kmほど離れているとのこと。相手は当然のように「今日車ですよね」と問う。私は「歩きです」と答える。相手は驚いた顔をして「レンタサイクルもありますが」と教えてくれる。1.2kmを早足でいけばなんとかなるかと思っていたが、やはりここは文明の利器に頼るべきだろう。素直に申込書を書き、自転車を借りる。

とはいえ、自転車にはあまりいい思い出がない。遠い昔中学の修学旅行ではこけて顔に傷を作った。多感な年頃だから顔に傷をつけて残りの修学旅行を過ごすのはつらかった。女の子も見ているというのに。ここでも何かよからぬことが起こるのではないか。しかし選択肢はない。

受付所の入り口付近にある自転車にまたがり、ヘルメットをちゃんとかぶる。若い頃だったらヘルメットをかぶるのを躊躇したかもしれないが、頭をうってひどいことになってから「見栄をはるんじゃなかった」と後悔しても遅い。そもそも還暦男性など誰も見ていない。というわけであごひもを閉めて出発。最初の10mはちょっとたよりないがそのうち感覚を思い出す。

さきほど曲がった角を、逆の方向に曲がる。ずっと続くフェンスにそって走り続ける。後半はゆるかやかな下りになっているが、これは良いニュースではない。帰りに今より疲れた状態で上り坂に直面しなければならぬ。などといやな予感に囚われている場合ではない。そのうち言われた曲がり角が見えてきた。小さな看板も見えたような気がする。そこを曲がると舗装されていない道路である。これはどこまでいくのであろうか、と不安になったあたりで建物が見えてきた。駐車場らしき場所に自転車を止めると建物のほうに向かう。青年がおり「1時の回ですか?」と聞いた後にあれこれ説明してくれる。まだ時間は12時40分頃であるが、予想とは異なり、来た人から自由に見学してよいようである。

地下指揮所入り口

これが地下指揮所の入り口。入り口がなければただの盛り上がったエリアである。彼がいうには中は天井が低いという。頭をぶつけないように気をつけてください。また足元がぬかるんでいるので気をつけてくださいとのこと。説明が終わると、懐中電灯の使い方を説明してくれ、ではいってらっしゃいとなる。 さっそく入り口に向かう。

扉

中はひんやりとしているが、湿度が高く快適とは言えない。大きな部屋が二つに小さな部屋が三つほどある。ここが作戦室だったとか無線機がありましたとか説明が書いてある。当時は照明が多く設置されていたようだが、ここにいたらどんな気分であっただろう。ベッドもあったそうだが、確かに地上にいるよりは安全かも知れぬ。とはいえ爆弾が降ってきたら果たして耐えられたのだろうか。当時はたくさんの人がこの狭い空間にいたのだろうか。そんなことを考えながら中をめぐる。

指揮所内部
指揮所内部
指揮所内部

一通り見ると外にでて零戦のレプリカを見る。元軍事オタクなので「なるほど。流石に翼の折りたたみ機構までは作っていないな」とかどうでもいいところにこだわる。

翼端
全体像

エンジン部分の再現度合いを見れば、そのような忠実度が求められたものでないことは明白なのだが、だからオタクはうるさいねえ。

といったところで地下指揮所の見学はおしまい。また自転車にまたがると来た道を戻る。行きはロクに使っていなかったギアを使えばゆるかやかな上り坂も問題にならないことを知る。途中で一度休み写真を撮る。

夏空

あまり立ち止まっていると体力を消耗するばかり。がんばってペダルをこぐ。受付所に戻ったのは1時すぎだった。講演開始までにはまだ時間がある。先に地下指揮所を見学したのは良い判断だった。(私にしては珍しく)

というわけで2階にあがり講演会場が開くのを待つ。さまざまな展示があるのだが、頭がぼーっとしており内容が頭に入ってこない。今こうして思い起こすとそれは熱中症ではないかと思うが、多分そこまで深刻ではなかっただろう。そのうち講演会場の扉が開く。

講演してくれるのはここの館長とのこと。内容はこのあたり一旦3kmにわたって作られた地下通路、それに地下に存在していた部屋の探索結果である。

普通に見たのではただの平坦な土地と建物にしか見えないが、建物にそって3kmにわたる地下通路が作られていたらしい。そこを探訪したビデオが上映されるが、通路にたくさん配管が存在しておりなかなか苦労している様子も伝わってくる。この配管がなぜあるかといえば、戦後この場所が精神病院として使われた際に設置されたとのこと。

指揮所の裏には「何もないエリア」があるのだが、そこを金属探知機で調査しあたりをつけて掘ったところ地下室が発見された。この場所の存在を知っていた人は相当数存在していたと私などは推定するし、証言もちらほら存在するらしいのだが、本当に空間があるとは予想していなかったとのこと。

説明を聴きながら私は考える。確かに圧倒的な火力を誇る米軍に対抗しようと思えば地下に潜るしかない、とは硫黄島でも効果をあげた戦術。しかしここに米軍が攻めてきた時、本当にこの基地に立てこもり抵抗しようとしたのだろうか。硫黄島と違い、米軍からすれば別にここを迂回しても東京への進路が妨げられるわけではない。飛行場はそれは占拠したいかもしれないけど、他にも飛行場は山ほどあるし。

ここの指令が「基地を要塞化」と書いた文書があるとのこと。しかしそれになんの意味があったのか。しかしそれを問えば当時の戦争になんの意味があったのかについて答えられる人はいまい。

そんなことを考えているうちに講演はお開きとなる。私はありがとうございました、といってその場所を後にする。隣の建物を見学するのだ。

部屋
エンジン

頭がかなりぼんやりしておりろくな写真をとっていない。扇風機がいくつも設置されており少し涼しいがかといって快適というわけではない。この暑い空気は当時も変わらなかったのだろうな。1階にはB-29のエンジンが設置されている。日本のエンジン技術者がみて「ウームウーム」とうなったという「平凡にしてすごい」エンジン。この場所が指揮所として使われていた時にも興味を持ったがその後の歴史にも興味をもった。

この場所は戦後一時学校として使われ、その後精神病院になったとのこと。先ほど紹介した地下の配管により破壊されている落書きがあるのだが、それは当時はやっていた淡谷のりこの歌詞だという。わざわざ地下にもぐってそんなことを落書きするのが学生らしくてよい。

今は海軍の建物だった雰囲気にされているが、学校だった頃、それに精神病院だったころここはどんな雰囲気だったのだろうか。

そんなことを考えているうちにこの場所の見学をおしまいとする。再び駅までの長い道のりだがさすがに日は傾いており、先ほどほどつらくはない。駅につくとペットボトルのお茶を一気にのみほし一息つく。

  前の章| 次の章 | 一覧に戻る | 県別Index


注釈