題名:巡り巡って
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成田空港周辺-空と大地の記念館:千葉県(2015/11/07)
天気はよく風はほとんどなく、気温は寒くと暑くもない。こんな好条件は滅多にない。であればバスにのるのではなく歩くべきではなかろうか。そんなことを考えながらてくてく歩く。ふと気づけば、道路脇にこんな光景が広がっている。
スーパーボウルでバドワイザーがCMを撮影するのではないかと思うような見事な牧場風景である。目的地までの道のりのことを忘れしばしその場に佇む。とても静かで平和な光景だ。
しかしこの地が闘争の地であったのはそう遠い昔ではない(あるいは遠いかもしれない。私が子供の頃だから)成田空港建設にあたっては激しい戦いがあった。私が通っていた大学にも「三里塚へ」という看板が設置されていた。昔読んでいたマンガ雑誌に農民側から書かれた物語が連載されていた。その主張にはある程度の理があったと思う。しかし彼らが人命を奪って(警官が3名殺されている)まで守りたかったものはなんなのか。今や空港は機能し、この地は静かである。
などと考えながらてくてく歩き続ける。空港脇の道路には時々機動隊の車両が走る。警備は依然として必要だし、そもそも空港に対して悪さをしたいのは国内の過激派ばかりではない。空港のフェンスは多くの場所で2重になっている。そして場所によってはこのような頑丈なフェンスが並んでいる。
こういうフェンスが必要とされたときもあったのだろう。
などと考えながらてくてく歩き続ける。それまでずっと空港の脇を歩いていたのだが道はそこから離れ出す。とても立派な歩道があり歩くのに不便は感じないが果たして正しい道なのかどうか不安になる。何度かiPhoneの画面を確認する。まもなく看板がでる。そこを曲がるが再び不安が襲ってくる。その度iPhoneを取り出しとにかく前に進む。そのうち前方に陸橋がみえてきた。ここで間違いないようだ。
最初前に見えている円形のものは管制塔かと思った。ではさっそく見学、としたいところだが問題がある。まだ時間が早いのだ。開館は10時だからそれまで待たなくてはならない。まだ1時間半もある。こうした状況は前日からわかっており、屋外に展示してある飛行機でも見て時間をつぶそうかと思っていたのだが予想外の障害が現れた。
「屋外展示エリアも、入館チケットが必要です」
という恐ろしい看板が立っている。しょうがない。と思ってそちらをぼんやりみると、人が何人かいることがわかる。小さな脚立とかカメラをもっており、推測だが成田空港に発着する何か特別な飛行機を撮影しようとしているのではなかろうか。他にも開館前の博物館にはいろいろな人が来る。幼稚園の遠足とおぼしきバスが到着し、子供達が手をつないであるいてくる。黒塗りのタクシーが何台も停まり中からバリッとスーツを着た人が出てくる。彼らと彼女が何なのかはよくわからない。
私はぶらぶらと航空博物館の周りを歩く。まず帰りのバスが出る場所を調べ時間を調べる。バスの本数は少ない。この後行かなくてはならないところがあるので逃すと大変である。そこからなにやら仏塔が見える。そちらにてくてく歩いていく。
成田平和仏舎利塔/日本山妙本寺とのこと。なぜここにこんなものがあるのか。仏塔の前に説明文がある。
この仏塔はもともと空港への障害物として構築されたようだ。宗教関係者らしい美しい言葉で説明をまとめているところはさすがだと思うが、この棒は当時も立っていたのだろうか。立っていたとしたらこの言葉は誰に向けられていたのだろう。
といったところで博物館に戻る。少し時間が早いが目的とする場所に向かう。途中にはまたもやハニワがある。
ハニワハニワと唱えながら歩き続ける。駐車場が広い。歩いているがなかなか目的地が近づかないが遠くに見えている。
ここが今日の目的地、成田空港 空と大地の歴史館である。この名前からはなんの場所がわからないが、成田空港建築に伴う抗争の歴史を残すための場所だとか。ここがオープンしたのが2011年というのには驚く。まだ10時5分位前だが自動扉は開き、中にはいると「どうぞー」と言ってくれる。ここは土足禁止らしく靴を脱いでスリッパに変える。広くない展示場だが、内容はみっちりだ。
長年「そもそもなぜこんなところに空港があるのか」と思っていた。答えはちゃんと書いてあった。当時どこにつくろうにも反対運動がおこったとのこと。
今から考えれば海の上に作っておけばなあと思うがそれは後知恵というもの。海に作れば漁業組合が猛反対してくる。結局国がもっている牧場と県が所有している土地がたくさんある三里塚に急遽決定する。
そこに土地を持っている人たちは反対する。この「土地を持っている」のがいつからかもちゃんと展示されている。戦後沖縄から来た人たちも多く、入植者間でトラブルもあったのだそうな。平成の今から考えることだが、当時は全般的に荒っぽい時代だったのだろう。「巨人の星」で捩り鉢巻きをしめた運転手が
「バッキャロー!」
と怒鳴っていた頃だ。
とはいえ国から「とっととでてけ」と言われて大人しく引き下がる人はいないだろう。農民たちが反対運動を起こす。そこあるある展示はこれも今から考えてだが何かを考えさせる。
老年行動隊長は「明治天皇と毛沢東を尊敬する」人だったとのこと。この二人の組み合わせから隊長がどういう人だったかなんとなく想像がつく。毛沢東バッジといっても今の人は知るまいな。実物は初めてみた。そしてこれを反対同盟に配ったのは新左翼とのこと。このテロリストたちを招き入れたことが双方にとってどのような厄災だったかも当時は予見できなかったことだろう。
安田講堂に学生たちが閉じこもり、放水を受けていた映像は少し覚えている。子供ごころには何も感じなかったが大人はどのようにそれを眺めていたのだろうか。このヘルメットをかぶったテロリストたちは農民がどうなろうと知ったことではなかった。そして警官が殺される。
農民たちは自分たちが何を招き入れてしまったのかこのとき悟ったのではなかろうか。「終戦」への展望を持たず武力戦争を始めた点では農民と大日本帝國は似たようなレベルだったか。
先ほど挙げた農民側から書かれたマンガでも「このとき青年行動隊は歓声を挙げた」と書いてあった。そのあと完成間近の管制塔に反対派の一部が侵入、機器を破壊する。先日見つけたあるサイトにはこの時のことがこう書かかれている。
この快挙に全国の多くの市民運動家が拍手を贈りました。
ここには同じ行為が「そうした行為に世論は不支持が圧倒的だった」と書いてある。かたくなに狭い範囲に閉じこもり「戦果」に歓声を挙げていたのはまさしく大日本帝國の姿だ。名誉ある終戦のためには国民の支持は欠かせないものだっただろうに。
南北戦争について書かれた本に「流血は和解を不可能にするもっとも確実な手段」とあったのを思い出す。本来の目的は忘れられ復讐が目的化される。だから今遠いところから見ると戦いのバカバカしさだけが目につく。今日のような静かで美しい日には特に。
気がつけばかなり長い間展示を見ていたことになる。そろそろ次の場所に行かなくては。バス停にはこんなポスターが貼ってある。
はにわ祭でいいではないか。そう考えるとこの「闘争の歴史」はもっと広く学ばせるべきだと思う。武力闘争とはなんと馬鹿げたことか。仮にその当事者たちがどれほど真面目に取り組んでいようとも。そして悪の組織がなくても、少しの過ちの積み重ねで戦争が起こり多くの人が不幸になるということを教えるためにも。
そんなことを考えながら東京駅行きのバスに乗る。
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