日付:2000/2/1
「YDの逆襲-Part2」において、私はその合コンの起源についてこう書いた。「YDに今日の相手は誰なんだ?と聞くと別の合コンで知り合った相手であり、その女性側の友達からの要望で今日の合コンがあるんだそうな。」
しかしこれは正確ではない-嘘と呼ぶまでにあたらないにしても。彼はこのとき上記の内容に加えて
「かくしてもしょうがないんですけど私の彼女です」
と言ったのである。そして話をきけばその「彼女」というのは所謂世間でいうところの彼女ではなく、もう「将来を考えたおつきあい」であるという。そして合コンにおいてその「彼女」を目の当たりにした私とbunは内心こう思った。
「なぜYDにこのようなすてきな彼女が。。」
これが世の中の理というものであるならば、そのままに歩むしかないのだが。
しかしながらYDが私たちの友人であることを思えばこれは彼にとって大変良いことであり、しかも友達にとっての良いニュースは我々にとってもうれしい話だ。いつか良いニュースが聞けるであろうかと思いながら日を送っていると今度は元いた職場の別の友達から「有力筋からの情報」としてYDが一月に結婚する、という情報がまわってきた。
月日は流れて12月の19日。これも「Polypus&JMS Live 12/19」にはかかなかったことだが、演奏がすべて終了した後、私は客席に来ていた「山田の奥さん」こと日本シリーズと腰痛仲間と仲良く話していた。そのときYDが突然私に向かって言った。
「大坪さん。2次会に出席していただきたいんですけど」
私は二つ返事で承諾した。(実際に「はいはい」と言ったかもしれない)その後
「2次会ではどんちゃかやるの?」と聞いた。すると彼らは若干顔を見合わせながら
「ちょっと」
といった。なんでもYDのかたるところによれば「日本シリーズ」があまりさわがしいのが嫌いなんだそうな。では披露宴ではどんちゃかやるのか?聞けばこれまた
「ちょっと」
である。やはり「日本シリーズ」はさわがしいのが嫌いなのだそうだが。
さて、その日の話はそこまで。YDから
「そろそろ2次会の招待状がついたのではないでしょうか?」
という言葉で始まるメールが届いたのは1月11日である。本当にその日帰ってみたら往復はがきが届いていた。考えてみれば普通2次会というのは「でます?」「でるよ」というメールのやりとりでおしまいなのだが、さすがにYDのものとなれば出欠確認もきちんとしてくる。
このメールにはもう一つ「当日「乾杯の音頭&ちょっと一言」をお願いできないでしょうか?」と書いてあった。メールに書いてあるところによれば
「乾杯の際の発言の自由については全面的に擁護いたします。KWさんたちは今回の2次会をY2K(YD 2ji Kai)問題と呼び、私の過去を暴露することに、てぐすねをひいているようです。」
だそうである。私としては特に彼の過去について語るところもないから、まあ
「この前彼と一緒に何度合コンにでたか数えようとしたのですが、二桁になったところで放り出しまして、、聞けば奥様も合コンで知り合ったとのこと」
とでも言ってみようか。
などと考えながらメールの残りを読んでみると彼は律儀にこの前のライブでの我々の演奏について感想といくつかのRecommendationを書いてくれている。我々のバンドの技量についてもっと自信をもっていいといってくれると同時に、「もっと観客にアピールすること」を心がけては、と言ってくれていた。
確かに考えてみれば、私は何故かカンフー着をきていたが、他のバンドのメンバーはみんなおとなしい格好をしていた。バランスを考えるのであれば、私の格好は一人浮いていたのであろう。思えば私が愛するバンドQueenでもVoのフレディ・マーキュリーが変態を極めており、反対にベースはどこにいるかわからないような人だが、すくなくともギタリストは変態と地味の中間のような派手な格好をしていたではないか。というわけで今度人前でやることがあれば、他のメンバーにももう少し派手な格好をさせることにしよう。(私は目立ちたがりやだからこれ以上地味な格好はしたくない。。。やるなら地味すぎて人目を引くような格好だ)
などと彼のメールに触発され、あれこれ考えている間に冬がどっとやってきた。とても寒くなり私は布団の中で冬眠するモードとなった。そうして冬眠している間に先だ先だと思っていたYDの2次会は数日後に迫ってきた。
1月28日の金曜日私はいつも時間通り目覚めた。時計は5時20分を指している。あと10分したら立ち上がって着替えなければならない。しかしこの日私は10年を越える会社生活のなかで、それまでに一度もしなかった事をしたのである。
腰はどうしてもあがらなかった。別に腰痛になったわけではない。
この会社では今日は1+1=−3だと言われる。いくらなんでも負の数ではおかしいだろう、とあれこれ心配してみたり、「1+1=2じゃないでしょうか」とあちこち説得してみても、明日になればこんどは1+1=2iで虚数になっている。それを決めるのは元○社の「幹部社員」と呼ばれるお公家さま達だから、私のような雑巾掛けに「暖かい言葉」を慈悲の心でかけることはあっても、進言など聞く耳を持たない。また雑巾掛けがどう思おうと高貴な方には関係のないことである。
となれば今日会社に行って何ができると言うのだろう?行って何にもならないとすればどうして無理に腰をあげる必要があるだろう? お公家様が1+1=虚数だというのであればそれでいいではないか。心配して何になる?別に人が死ぬ訳じゃなし。
そう思うと私は布団をかぶって寝た。私はひどい風邪なのだ。そして午後にはよくなるはずだから今日のうちに名古屋に帰ろう。
風邪のせいかどうか知らないが頭痛に襲われながら私は寝ていた。そして退屈なのでビデオを見だした。私が愛しているAlly McBealである。その中でこのようなエピソードがある。
或会社では、従業員同士の交際に非常に厳しい制限を設けていた。何故かといえばセクハラに伴う訴訟を避けるためである。(実際訴訟大国アメリカでは何でもセクハラになりうるし、いい弁護士さえやとえば何でもありになる)
それを知りながらつきあった二人が解雇された。Ally McBealが勤める事務所は彼らの側で弁護をする。そして最終弁論で変人でありながら有能な弁護士であるJohnがこういう。
会社は仕事をするところであるが、人と出会う場所でもある。そうした出会いが必ずしも良い結果になったりはしない。私も同僚と一時つきあったがうまくいかなかあった。しかし、そうした可能性をすべてつんでしまう、というのが正しいことだろうか。その次に彼はこう続ける、
"People interact, and that is wonderful"
私が何故こんな事を思い出すか。この会社に入ってからというもの、この(私から観ればだが)風変わりな公家社会で生きる人たち、そこで育った人たちとつきあう事に少し疲れていたからである。世の中でただしいこと、間違っていることの大部分は相対的なものだ。私も年をとったから、自分が考える、そして自分が理にかなっていると思った事を主張したりはしない。まして、世の中がそれと違うからといっていらいらするなどというのはもってのほかだ。しかし1+1=虚数になる会社では上がどちらで下がどちらかも定かではない。こうした無重量状態のような世界で暮らし、その中で人と接するのはとても疲れることだ。
いつか私の姉が私に向かって
「おまえは対人恐怖症だからな」
と言ったことがある。そう言われた時に私は「?」と思ったものだが、最近どうやら姉の言葉にはちゃんとした根拠があったのではないか、と思うようになっている。
そして今の私にはJohnのセリフを聞き「確かにそのはずなのだが。。」と考えずには居られないのだ。人が関わりあう、そのことは本当にすばらしいことなのだろうか?であれば何故私はこれほど疲れているのだろうか?人が関わり会う場所が「社会」だとすれば、私は所詮社会に適合できない人間なのだろうか?
こんな事を考えていると、人里離れたところに暮らし、爆弾を送りつけていた「ユナ・ボマー」の物語などが妙にリアルに感じてしまう。もっとも彼の場合、爆弾を送りつける、ということはまだ社会と接しようとしていた、と思えたりもするのだが。彼は私と比べれば気のいい男だったかもしれない。
さて、夕方だ。腰をあげ名古屋に帰ろう。大丈夫。名古屋で会うのはだいたい知った人ばかりのはずだから。今の会社の人間とは一滴も酒を飲むことができないが、彼らとだったらきっとビールを飲んで騒ぐくらいのことはできるはずだ
YD:「この名前はよく登場するが何者だ?」と思った方は4XX Official Web Siteを観ていただきたい。このバンドのベースマンである。本文に戻る