題名:35歳

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日付:1998/1/25

トシちゃん25歳 釈迦 曹操 チャーチル ヒトラー 芥川龍之介 イーゴリ・A・ブリタノフ


高校時代から私が好きな漫画に「マカロニほうれん荘」というのがある。この漫画の主人公は今ひとつはっきりしないのだが、主要な登場人物の一人に「膝方歳三」という25歳の男性がいる。通称「としちゃん25歳である」

私が25歳になったときにある人がバースデーカードを送ってくれた。それには「妖怪25歳、人が25歳になると現れて”あと5年で30歳だよ”とつげる」という言葉が書いてあった。もちろんマカロニほうれん荘からの引用である。

さてもうすぐ私は35歳の誕生日を迎える。そんなことを考えていたら別のエピソードを思い出した。

「きんどーさん40歳」が、としちゃん25歳を無理矢理墓の下に埋めてお経を読んでいる。次のコマではいきなりきんどーさんが、中年婦人の姿になっていて

「はやいものね。トシが死んでもう10年。生きていれば35歳、男盛りだったでしょうに。。。惜しいことをしたわ」と涙を拭っている。

高校生だった私は「そうか。35と言えば、家族も持っているだろうし、仕事ものっているところで確かに男盛りかもしれないな」などと思っていた。

もうすぐその年になる私は無職で独身だ。誰がこのような未来を想像しただろう?この年にこんなことをしていて良いのだろうか?とはいってもなってしまったものはどうしようもない。良いも悪いも前に進むだけだ。しかしこの状況は世間的に見れば、あるいは歴史をさかのぼってみればどうなのだろう?

さて、というわけで(全く前フリとつながらないのだが)あちこちで読んだ「35歳の時」をまとめてみようと思ったのがこの文章の趣旨である。

 

 

釈迦:悟りを得て仏陀となったのが35歳の時。(世界の名言ー「臨終の言葉」;参考文献参照

彼が悟りを得た方法というのは苦行林においての6年間にわたる静座禅定であったと前掲書には書いてある。ここでは、前掲書に書いてあったこと「だけ」を元に勝手な戯言をならべてみたいと思う。(実は他の資料をほとんど読んでいないだけなのだが)

思うのだが彼は6年の間何を考えていたのだろう。またその思索は何を元としていたのだろう?

6年にわたって座っていたということは、彼は29の時に座り始めたわけだ。また彼はもともとは王の息子、太子であった。古今東西王の息子が世の中の様々な生活について良く知っている、などと述べた奴はいない。だいたい彼らは「世間知らず」と決まっている。

ものごころついてから29になるまでの20年あまりの、しかも限られた世界での人生の記憶を元に「人生」に関する思索を深めたのだろうか?

これは私のような凡人にはおよそ不可能なことのように思える。人の世について考えるためにはまず人の世について知らなくてはならない。(少なくとも私の考えによればそうだ。)現実をはなれていくら思想を組み立てていってもそれは文字通り「空論」となるだけだ。現実を知らない「若者の高邁な理想」を聞いて苦笑した経験のある方には同意していただけると思う。

しかし事実は認めようではないか。彼が語った言葉は数千年たった今でも語り伝えられ(どこまでが本当に彼が言った言葉かわからないが)世界中で相当数の人々の心に(ある程度)語りかけているのである。だからここでは次のような仮定をうちたてることができる。

 

「釈迦のような非凡な人間は私のような凡人と違って、二十数年の生涯のなかで得た経験からも普遍的な人生に関する真理をうち立てることができる。」

これはある程度(私にとっては)説得力のある仮説であるように思える。日常生活から上記仮説を支持するいくつかの事実を観察することができるからだ。

 

(1)人間は必ずしも歳をとって経験を重ねるほど賢くなるとは限らない。(あるいはその逆の仮説のほうが事実に近いのではないか、とも思える時がある。)ということは、逆に若くして賢人となる人がいてもいいわけだ。

 

(2)同じ経験から何を学ぶか、観察するかは、人によって極端に大きな差がある。高橋留美子の作品、あるいはOL進化論などを読んだ方は「なぜここまで人間の生態を細かく観察できるるのか?」と関心させられることもあるだろう。また逆の例をさがそうと思えば会社に行って首を90度ほどまわせば十分である。たいていの人間は他人の生態どころか、現実をほとんどみていないのだ。あるいは「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分がみたいと欲することしか見ていない」と言った方がいいのかもしれない。自分がみたいと欲することしか見なくて、現実、あるいは経験から何かを学べるわけがない。

 

なるほど。これで釈迦がなぜ偉大な思想をうち立てることができたか、なんとなくわかったような気になった。

さて、釈迦本人についてはいいとしよう。では世の中にあまたいる坊主、神父、牧師の類はどうなのだろう?彼らは教典を読んで、それについて思索を巡らすだけで人生の真理に近づくことができるのだろうか?もちろん幾人かはそうだろう。しかし大多数はそうではないのではないか?というのが最近持っている疑念である。彼らは彼らが信奉する教典については何かを知っているかもしれない。しかし世の中について何をしっているのか?

少ない人生経験から多大の真理を見つけることができる人は「たまにはいるが滅多にいない」と思っている。そんな人がたくさんいるなら釈迦がごろごろ誕生してしまって困ることになるではないか。

 

これに調子にのってほかの3大宗教の方々の年齢も調べてみようかと思った。イエスが生まれたのがBC7〜BC2、死んだのがAD32年頃という情報を載せているホームページがあった。これによれば、おそらく死んだときに彼は35前後だったのではあるまいか?

イエスとういう人間を客観的に研究した本をまだ読んだことがない。だから彼についてはコメントすることはできない。

ホテルにとまるとたいてい「仏教聖典」と「新約聖書」がおいてある。あまり暇なときにはそれらをひもといてみる。新約聖書の「キリストの言葉」のあたりは、なかなか関心するところもあるが、後ろの方になるとどうにもいけない。「こっちにくれば助けてやる。あっちに行くならば貴様は地獄行きだ」という排他的な論調が目についてしまう。

こうした選民意識はある程度キリスト教(イエス本人ではないかもしれないが)につきまとっている気もする。あるいは宗教というものは選民意識から自由にはなれないのではないか、と思うときもある。

もし新約聖書に書いてあるイエスの言葉が彼の言葉だとすれば、こういった傾向は全く不本意なものであろう。少なくとも生前彼が「私はキリストだ」と叫んだ事実は確認できないようだ。彼は別に自分が新しい宗教を始めているなんてことは考えなかったのであるから、当然それを信奉し他の宗教といざこざが起こる、あるいはその名の下に恐ろしい殺戮が起こるなんてことは考えもしなかっただろう。しかし所詮死人に口なしである。彼が天国が地獄だかで切歯扼腕していても世の中にたくさんの「排他的なキリスト教」がはびこるのを止めることはできない。

さて残るイスラム教については。。。これから勉強だ。

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注釈

マカロニほうれん荘:(参考文献一覧へ)私は高校のころ、この漫画に影響されて自分のことを「としちゃん」と呼んでいた。「としちゃんて誰?」と聞かれるのもいつものことだったが。本文に戻る

 

釈迦:正直言って私の仏教に関する理解はお世辞にも「浅い」とも言えないくらい少ない。しかしなんとなく仏教徒のほうがキリスト教徒よりも宗教の名の下に過激な行動に走らない、という話を聞いたことはある(自分で確かめるほどこの比較に必要な知識があるわけではないが)本文に戻る

 

空論:空論を嫌悪する私は「実事求是」(トピック一覧へ)という言葉が好きである。しかしそれを唱えた人間の生涯を思うと頭をひねらざるを得ない言葉でもある。本文に戻る

 

歳をとって経験を重ねるほど賢くなるとは限らない:(トピック一覧参照)のTハリス著、Silence of the Lambs(羊たちの沈黙)(参考文献参照)中のクロフォードのセリフをちょっと変更してある。原文はこのように続く「人は歳をとるにつれて賢明になるかどうか私にはわからないが、ひどい目に遭うことをある程度さけることは覚える。」このセリフの「ある程度」というところに重きをおくべきように思える。人間歳をとっても結構ひどい間違いを繰り返し、ひどい目にあう例はいくらでもある。本文に戻る

 

逆の仮説のほうが事実:今までの経験からすれば

大前提:人間は歳をとればとるほど人生経験をつんで賢明になる

小前提:私はあなたより年上である

結論:従って私はあなたより賢明である。

結論から導出される結論:従ってあなたは私の言うことに従うべきだ

という妙な論法を必要以上に振り回す人間にあまり「賢明」な人は多くないようだ。本文に戻る

 

高橋留美子の作品、あるいはOL進化論:高橋留美子の作品である「うる星やつら(参考文献参照)」「めぞん一刻(参考文献参照)」あるいはOL進化論(参考文献参照)はその人間観察の細かさ、正確さに驚かされることが多い。特にOL進化論は時代を超えた普遍的なOLの姿を描いていると私の周りのOLから評価が高い。作者は専業漫画家+主婦であることを考えれば、彼女がどこからその観察を得ているか、は驚くばかりである。本文に戻る

 

人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分がみたいと欲することしか見ていない:(トピック一覧)これはユリウス・カエサルの言葉である。本文に戻る

 

坊主、神父、牧師の類:キリスト教のどちらかが神父でどちらかが牧師なのだと思った。彼らにしてみれば深遠な区別があるのかもしれないが、関係ない人間からみればまことにくだらない区別である。「神の愛」を説教する彼らは、こうしていつも差別化をはかり、、そのことで自らのIdentityを主張しているように思える。ガリバー旅行記(参考文献参照)にでてくる"Big Endian, Small Endian"(卵のを割るときに大きな方の端を割る人と、小さな方の端を割る人)という宗教界の対立を揶揄したと思われる比喩はまことに見事だ。 本文に戻る

 

選民意識から自由にはなれない;あなたの神様と私の神様。さてどっちが本当の神様?所詮どっちも人が観念的に作ったものだから客観的には比べられないね。じゃあ殴り合いで決着をつけよう。他人を殴っていいかって?だってこちらは「正しい」神を信じる選ばれた民で、連中は間違った神を信じてる悪魔だ。悪魔をなぐってどこが悪い?(トピック一覧)というのが宗教にまつわるいざこざの図ではないか、と思うときがある。もっともこういった類のいざこざは一神教においての方が激しくなるのかもしれない。多神教でなんでも神様にできるのであれば、「まあ隣の神様がいても」と寛容になれるかもしれない。

人間、相手の立場に深く同情してしまっては喧嘩はできない。「連中は人間でない。正しい人間は我々だけだ。我々は選ばれた民なのだ。」という大義名分ほど喧嘩を見事に正当化するものはない。本文に戻る

 

彼が天国が地獄だかで切歯扼腕していても:創始者の死去後、学派が発展して行くにつれて、創始者がうちたてた高遠な理想が次第に薄れ。。。特に自分とは異なる意見を持つ人間に対しての寛容さが薄れ、排他的、あるいはほかの派に対して攻撃的になるのはあちこちでみられる現象のようだ。「論語」(参考文献一覧)とその後の儒家の発展、あるいは荘子の「内編」と「外・雑編」(参考文献一覧)の比較などをみるとそれは明白である。本文に戻る