題名:書評

五郎の入り口に戻る

日付:1998/3/8

修正:1998/5/22

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CanLearnSomething-Part1

落語と私(桂米朝著 文春文庫)

私が愛読していたサイト「筆先三寸」のある日の日記で取り上げられていた。どんな本だろう、と興味をもって読んでみた。

元々は中学高校生向けの落語の入門書として書かれたとのこと。その目的からであろうか。文章は勤めて平易で、誰もが感じる落語に関する疑問について答えることから始まっていく。

し かし読み進めていくにつれ、その平易な言葉に込められた意味、気持ち、芸に対する厳しさ、そして愛情が伝わってき、思わず背筋がのびるような気がしてく る。私も社会人であるから何かのプロであるはずだ。しかし私はその生業としているものに対してこれほどまでに真剣に正直に対峙しているだろうか。そんなこ とを考え出す。

本当の事を言えば「はじめに」を読んだところで「まいった」と言う気にさせられたのだ。抜き書きでこの思いがつたわるかどうかわからないのだが、たとえばこの一節。

「この本には私は少しもウソや誇張は書いていないつもりです。みなさんに落語という物をわかっていただきたくて一生懸命に書きました。」

こ うした文言を照れずに正直に言葉のままに書ける人間がどれほどいるだろうか。そしてその正直に一生懸命に書いた文章が語りかけてくる物はなんだろうか。そ うした思いは巻末にある「評論家」なる方が書いた解説を読むときに一層強まる。本文とこの解説の落差は一体どうしたことか。これが芸に真摯に向き合った人 間と、したり顔で評論などしている人間の差なのだろうか、と。

「筆先三寸」の作者、むしまるさんは、この本を座右の銘として本当にいつも手の届くところに置いているとのこと。私もそうすることにしよう。しかしページを開くのには勇気が居る。自分の姿を振り返り恥じ入ることになるのを覚悟しなくてはこの本を手に取ることはできない。

 

自省録(マルクス・アウレーリウス著、神谷美恵子訳 岩波文庫)

何故私がこの本を読むようになったかといえば、例によってレクター博士-T・ハリスというべきか-の影響なのである。HANNIBALには

「世俗的な名誉など屑も同然と悟ったとき、人はいかに振る舞えばいいのか?後世の人間の評価など、当代の人間のそれにしかずと、マルクス・アウレリウス同様に信じるにいたったときには?」

とあり、「羊たちの沈黙」では、レクターが犯人を割り出す重要な手がかりを与える時

"First principles, Clarice. Simplicity.

Read Marcus Aurelius. Of each particular thing, ask: What is it, in itself, what is its nature...?"

と言う。となればミーハーは私としてはマルクス・アウレリウスの言葉を読まずには居られない。

しかしこうしたきっかけでもなければ私がこの本を手にすることはなかったことは間違いない。第一私はこうした哲学だの、思想だのという本はいつも敬遠しているし、どこかで聞いたような説教の話はもっと嫌いだ。

 

この本の原題は「自分自身に」とのこと。並べられた言葉は他人に読ませるためのものではない。飾り立てたきれい事ではない自分自身に向けた本当の心からの言葉だ。

何かが声高にさけばれているとすれば、現実はそうなっていない

と は私がいつも思っていることだが、この本を読んでいてそれを何度か思い出した。自分がいらだつこと。他人の気になる行動、それへの非難。それらをいましめ る言葉は何度もでてくる。こうした言葉がある、ということは皇帝が一人の人間として、日々の生活の中でそうした感情に何度も悩まされた、ということを意味 している。

 

「もっともよい復讐の方法は、自分まで同じ様な行為をしないことだ」

「よし君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに同じ事をやり続けるであろう」

 

この言葉が他人に向かって発せられた言葉であれば

「はん」

と思うだけだ。ああ、大変素晴らしいお説ですね。

しかしこれが自分に向けた言葉であることを思えば、これらの言葉ははその人間の心からの叫びと聞くことができる。そしてそれは、心の中にわきあがる復讐心、怒りと戦おうとした人間がいたということを示しているのだ。

 

また

「おお想像力よ。神々にかけていうが、あっちへ行け、おまえがやってきたのと同じように。なぜなら私はお前を必要としないのだ。それなのにお前は昔からの習慣でやってきてしまった。私は別にお前に腹を立てているわけではないが、ただあっちへ行ってくれ」

という言葉を読んだ時にはマキアヴェッリの次の言葉を思い出した。

いかなる職業でも、想像力なしにその道で大成することは不可能だからである

確 かにマキアヴェッリの言うことは正しい。しかし想像力は恐怖、苦しみ、悩みも何倍にもしてくれる。行動の帰結、他人の感情、将来的な影響、これらを想像す ることなく現在今目の前にあるものだけに思考を限ることができれば、どんなに幸せなことだろう。しかし皇帝にはそれはできない。

皇帝は想像力を否定しはしない。しかしそれらがもたらす物を考える時、こうさけばざるを得ない事もあったのだろう。最初から想像力のかけらも持ち合わせず、目の前のことだけに本能的に反応している人間はこうした悩みとは無縁だ。

 

こうした本を読むとき私は心に残った節があるページの端を折っておく。そしてこの本は原型を失うほど折られた端だらけになった。解説には以下のような文章が引用されており、私も全く同意する。

「マルクス・アウレーリウスの宗教は..絶対的宗教である。それは一つの高邁なる良心が宇宙の前に面と向かって据え置かれたという簡単な事実の結果として 生じる物である。これは或る(特定の)人種や国に属する物ではない。いかなる革命も進歩も発見もこれを変えることは出来ない。」

この本が古来多くの人の心を動かし、読みつがれてきた、という事実には少し安心したりする。現実と、自分の心ときちんと向かい合おうとしている人たちは私が思うよりたくさんいるに違いない。

 

最 後に妙な感想を。今はなくなってしまったが私が高校のとき、「倫理・社会」という科目があり、古今東西のあれこれの思想家についてならった。なぜこの本が その科目でとりあげられていなかったのか、とふと考える。思うにこの本の内容が、あまりにも時代や立場を越えて普遍的だからではないか。学校の授業で教え るためには、「スコラ哲学」だの「○○派」だのにカテゴリ分けし、レッテルを貼れないと都合が悪いのだろうか。

 

コンサルタントの秘密参考文献に戻る

G・ M・ワインバーグ著、共立出版、ISBN4-320-02537-7 C3041。ワインバーグの著書はどれもこれも非常におもしろい。コンサルタントの秘密となっているが、少しでも何かの組織で働いたことのある人であれ ば、その職業、役職を問わずこの本を読む価値があるかもしれない。しかしながらこの本を(私の偏った見方において)ちゃんを読んでいる人間をきわめて少数 しかみたことがないのも事実である。ましてや○○重工の幹部の方には無用の長物であろう。

 

聖なる予言(参考文献に戻る

ジェームズ・レッドフィールド著、山川夫妻訳。この本をこのカテゴリーに入れてあるのは、この本の内容から何かを学べるという意味ではない。この本が世間でもてはやされたところに何かを学べるという意味である。

内容としては陳腐な「これからは霊的に進化して精神の時代になるのです」という主張を、多少フィクションをおりまぜながら長々と書いた物。

著者紹介にある「大学で社会学修士と、カウンセリングの教育学修士を終了し。。。」という白人男性が書きそうな内容である。

「これまで私たちは欠乏の恐怖と支配の必要性から抜け出せず、人に与えると言うことができなかったために環境を守ることも民主化することも、貧しい人々を 食べさせることもできませんでした。私たちがそこから抜け出せなかったのは、別の人生の見方を知らなかったからです」

と いうまるで「別の人生の見方を知れば、物質の欠乏や貧困は一気に解消だ」のような脳天気な主張の後に、さすがに良心がとがめたのか「でももっと安価なエネ ルギーが必要でしょ」と全くもっともな問いを発する。しかしその問題に対する答えは、「核融合、超伝導、人工頭脳などがあります」と当時はやっていた科学 のトピックを適当に並べておしまいにする。

こんな脳天気な事が言えるのは、一時これも流行語になった3K(汚い、きつい、きけん) の仕事を他の国からの出稼ぎ労働者に押しつけている日本人か、同じくそういった「人がやりたがらない仕事」を貧しい移民や不法労働者に安い賃金で押しつけ て「物質の充足だけでは精神の満足は得られない」などと傲慢な事を言える米国人しかいないだろう。その「物質の充足が得たい」と思っている人間のほうが、 世界にははるかに多いだろうに。

 

北朝鮮 その衝撃の実像(参考文献に戻る

講談社+α文庫、朝鮮日報「月刊朝鮮」+黄民基 北朝鮮からの亡命者の声、金日成、金正日の珍しい肉声、及び北朝鮮訪問者の声等を集めた本。

い くつか興味深い点がある。一つは、その肉声がほとんど知られていない金正日の言葉が(翻訳ではあるが)載っている点。従来から「話し言葉は書き言葉に比べ て支離滅裂」と思っている私だが、親愛なる金正日の発言の支離滅裂さは群を抜いている。正直言って何を言っているのかほとんど理解できない。本文から引用 するとこうだ。

「今では社会主義をおよそ30年間やってみると、人民をたべさせて、生きると言うことは西側世界に進出しなければとうていできない。厳然と西側世界より遅 れているんですから。今。それを人々が今この問題意識が、このとても問題意識がとても重要なんですが、このわれわれが今克服するためには、東ヨーロッパの 国々は今ちょっと苦しいでしょう」

同 じ本に「金正日を間近で見、言葉を交わしたことのある数少ない人々は共通して西側観測筋の金正日の人格的な疑問を否定する」と書いてあるが、どこをどう読 めばこういう評価がでるのかどうしても理解できない。今の私に唯一考えられる筋の通った仮説というのは「金正日の人格面に疑問を抱かない人間だけが金正日 に会うことができる」という奴である。この会話を聞けば何故あの男が人前でしゃべれないか。外国からの訪問者に対して会わないか容易に理解できる。

この本を読むと、北朝鮮の人の暮らし、あるいは物の考え方の一端をかいまみることができる。北朝鮮の貧しさ、統制社会、賄賂社会の話は広く知られているので、ここではちょっとうがった部分の感想を書いてみよう。

 

い ろいろな立場の亡命者のうち、東ドイツに留学したことのある亡命者の言葉で興味深いのは、彼らの喧嘩早さである。東ドイツへの留学生が相手(多分東ドイツ の学生だろう)が「金日成首領様は天から来られた方だ」といって何の興味をしめさないというので「そのことが私たちを憤激させました。それでそいつを捕ま えて殴りました」などととんでもない事を言っている。

時々戦前の日本も今の北朝鮮と同じようだったという人がいる。しかしたとえば 戦前アメリカに留学した人間が「天皇陛下は神様だ」と言って無視されたからといって、アメリカ人を殴ったなどという話は聞いたことがない。もちろん日本の 中だけで神道精神に凝り固まって暮らしていた人にはそれくらいやりかねない人もいたかもしれないが。

この例だけでなく、この本に載っている亡命者の言葉、考え方には時々(全部ではない)「浅はかさ」が伺える。これは周りに対して「無知」だから行動が「浅はか」に見える、というのとは別の次元の話だ。

た とえば韓国からわざわざ奥さんつれて北朝鮮に亡命し、結局一人で逃げ出してきた人の手記が載っている。奥さんは最初の北朝鮮亡命の時にさんざん反対するの だが、この人はその意見を押し切り、最終的には(いろいろ理由はあるにしろ)その反対してくれた奥さんを残して一人だけ帰ってくるのだ。こうした行動には 彼なりの深い理由があるのかもしれないが、少なくとも彼の手記からはそうした「深さ」は全く伝わってこない。

「浅はか」と私が感じるところがあるから亡命という一世一代のかけにでられるのか、この本だけから結論づけるのは早急にすぎるだろう。

い ずれにせよおそらく私が生きている間に(これもいつのことか知れないが)どのような経過をとってであれ、この「神制国家」の人々ともっと親密につきあう機 会が増えるだろう。「北朝鮮にも普通の人が住んでいる」と無邪気に喜ぶ人々もいるようだが、おそらく内面の考え方のギャップは私が生きている間には簡単に は埋まりも狭まりもしないのではないか。

 

ちなみに本書の冒頭、黄民基氏の解説に、日本人の意識調査で 42%が「自分にとって一番大事なものは家族」という結果がでたことをあげ「この日本人の意識に金日成の銅像の前で泣き叫ぶ青年の姿がダブってならなかっ た」という意味不明のコメントがついている。黄民基氏がどこの人か知らないが、とにかく日本は全体主義に向かう、と思いたいようである。日本人は家族が大 切だと思っている。日本人にとって家族とは国家のことだ。だからかつてのように「天皇陛下万歳」(金日成万歳のように)と叫ぶに違いない、という推論か。 日本人の意識調査の結果が「自分にとって一番大事なものは天皇陛下」であれば、北朝鮮の青年と姿がダブるのもわかるが、このコメントも金正日なみに不可解 である。

また序文「北朝鮮をどう見るか」という文章-この文章の作者は間違いなく韓国の人だ-の中には「日本が北朝鮮に肩入れしな ければ南北の均衡はすべての部門で南側の圧倒的な優勢に傾くことになるだろう」というこれまた「?」が浮かぶような部分がある。いろいろな国の人が日本を 「どのように見るか」ではなく「どのように見ようと思っているか」のこれまた一端が伺えて興味深い。

 

どくとるマンボウ航海記 参考文献に戻る

こ の本は何故かずいぶんと前から大坪家に存在している。最近本屋でこの本を立ち読みしたが、少し訂正されたことがあることに気が付く。実家にあるハードカ バー版には井伏鱒二か誰かの推薦文がついている。そしてその文章には「これは背伸びをせず、卑屈にもならず書かれた初めての海外旅行記である」と書いて あった。当時は海外旅行なるものが大変めずらしい時代だったのだろう。そして旅行記を書いた人も相当な数に上ったのだろうが、それはどうしても方に力のは いったものであったのだろう。

さえそんな訳であるからこの本は幼少の頃から何度か読み返している。私は北杜夫の作品は「どくとるマ ンボウ」シリーズと「さびしい王様」シリーズしか読んでいないので、この人はほかにどんな作品を書いているか知らない。しかし大変に頭の良い人であること は間違いなさそうだ。軽くすらすらと読める文章だが、そのなかに作者のいろいろな思いを読んで取る事ができる。あるいは私が書いている文章もなにがしかの 影響を受けているのかも知れない。

ちなみに先ほどあげた「どくとるマンボウ」シリーズも、「さびしい王様」も、最初の作品がやはりすばらしい。2作目以降はやはりなんとも、、、。柳の下に泥鰌はそうそうはいない、ということか。

大 学病院で研究生活を送っていた筆者がひょんなことから漁船の船医として船に乗り組み、世界中を旅行することになる。この本が書かれた当時筆者がいくつだっ たかわからないが、旅行をしてからいくばくかの時が流れていたのだろう。この本のそこかしこに、若くて元気だった自分、そしてそれだからできた無茶、と いったものを懐かしむ調子が見えるような気がする。私自身がそうしたことを懐かしむ年齢に近付いているからだろうか。

 

キリスト教の歴史

講 談社学術文庫、小田垣雅也著。私は米国のTVなんかで日曜の朝の牧師(だか神父だか)の説教を聞くと、なんとなく嫌悪感を感じる質の人間である。しかしキ リスト教についてどれくらい知っているのか?というとはなはだ心許ない。というわけでいつも勉強したいとは思っているのである。

し かしながら宗教関係の本はなんでもそうだが、私が知りたいのは「キリスト教」について、であって、キリスト教に入信したいわけではない。いわば「聖書に書 いてあるイエスの言葉」などには興味はない。実際に彼が何をしたのか、あるいは彼をキリストに祭り上げたのは誰なのか、それが何をひきおこしたのか、が知 りたいだけなのだ。こう考えて本を探すと結構いい本がないことに気が付く。

さてこの本は筆者の言葉に依れば「大学で行った「キリス ト教概説」の講義内容をまとめたもの」だそうである。今まで大学で哲学関係の講義をとって、いつも「なんだかだまされたような気がする」という気がしてい たが、この本を読んでその感じが間違っていなかったことを思い出した。話が答えにくい、あるいはおそらく筆者が答えたくないエリアにさしかかると、哲学を 学んでいる人には意味がわかるのかもしれないが、とても一般の大学生が「概説」で理解できるとは思えない(当然私にも何を言っているか解らない)言葉を並 べてごまかす。あるいは論理的な詭弁を弄していかにも自分が何か意味のあることを言っているようにごまかす。

 

例をあげてみよう。たとえばよく言われることで一神教は多神教に比べて他の宗教に対して寛容でないと言う。それに対する筆者の見解はこうだ。

「しかしこの排他性を、多神教に見られるような寛容性と対立した排他性と理解することは間違いである。およそ神が「あるという者」として存在そのものであ るならば、それ以外の者を神とすることがそもそもありえない。もしこの排他性を寛容性と対立する排他性と理解するとしたら、それは人間の錯覚か、「あると いう者」として神が理解されていないかのどちらかである」

誰 かこの文章の意味が理解できたら教えてほしい。あるいは彼には理解できるのかも知れない。しかし普通の人間には理解ができないほうに私は100円かける。 従ってこの「排他性」がどんなに高尚な意味を持っていようが、結局一般人が信仰する一神教は「排他的」になるのである。しかし筆者は(私には)意味不明の 言葉をふりまわして、この質問に答えようとしない。あたかも

「一神教は排他的ではない。私にはそれが解っている。それが理解できない連中が悪いのだ」

と言わんばかりだ。

さてもっとわかりやすい例を挙げよう。この本の最後にでてくる「現代のキリスト教-キリスト教と我々」の中の一節である。

ここにはこういう一節がある。私も興味がある「宗教間の対話」の問題だ。

「絶対性を主張しない宗教はない。それは宗教が人間の生か死かの、つまりかけがえのない問題に関わることだからである。自己の信仰が多くの中の一つ、つま り相対的なものだということに甘んずるのは宗教の自殺である。この意味では宗教間の対話はあり得ないとも言える」

この言葉はまあそれ単独では理解できる。しかしここから筆者は得意の言葉を持って読者を煙に巻く。

「しかし絶対は、それが本当に絶対である限り、相対には依存しない。したがって自己の宗教の絶対性に関する主張には依存しない。なぜなら主張と言うことは 人間によってなされるのであり、その限りそれは相対的な現象だからである。だから絶対性についての宗教の主張を超えたところでのみ、その宗教は絶対的であ りうることになる。そして宗教の間に対話があり得るとしたら、それはそれぞれの宗教が自分を相対視するのではなく、自分の立場は絶対的でありながら、その 絶対性についての主張を超えた水準でのみありえるだろう。」

さて結局宗教間の対話はどうなるのか?さっぱりわからない。などと頭を抱えたまま読み進めると最後の結びの言葉はこうだ。

「自分が社会の中心でなく、人間が宇宙の中心でないという自覚が信仰であると言える。してみると近代の人間中心主義の矛盾が露呈している現代は、その非宗教的相貌にもかかわらず、きわめて宗教的な時代であると言えるかも知れぬのである」

この

「現代は人間中心主義の矛盾が露呈している。」

「人間が宇宙の中心でないという自覚が信仰(宗教?)である」

「従って現代は宗教的な時代である」

というのは、私でもわかる集合の包含関係を誤用した詭弁である。仮に私が2番目の命題を

「人間が宇宙の中心でないという自覚が荘子の思想である」

と入れ替えれば

「従っ て現代は荘子の思想的な時代である」と結論を導き出せる。なんでもお好み次第である。要するにこの論理を応用すると「人間に相対性を感じさせるもの」であ れば何でも「現代は○○的な時代である」と言うことができる。こんな簡単な詭弁でも講義で早口に最後に言われれば「おお。何か面白いことを言った」と思わ せることはできるだろう。しかし本にしてしまうとばればれだ。もっとも彼がこうした問題に対して意味のない言葉を並べていること自体が、宗教が直面してい る問題の深刻さを示している、、、と思って私は「もうちょっとましな本はないか」と思って探索を続けるわけである。

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注釈

何かが声高にさけばれているとすれば、現実はそうなっていない:(トピック一覧)参照:北朝鮮本文に戻る 

 

いかなる職業でも、想像力なしにその道で大成することは不可能だからである:「マキアヴェッリ語録」(参考文献)から本文に戻る

 

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