題名:書評-今週の蒼天航路

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日付:1999/7/2

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1999/9/2:十八巻 その二百 許都へ

・曹植とベン氏の別れである。彼を送り出すベン氏の表情は、一族をまとめる立場として、そして母としての厳しさと子に対するいつくしみ、心配に満ちている。危なっかしい子供ほどかわいく、そして厳しく接してしまうものであろうか。ふと我と我が身を省みるとこちらはどうひいき目に見ても「安心な息子」とは言えない。私も怒られている間が花と思うことにしよう。

さて、これまた「親の心子知らず」とはよく言ったもの。母の心配もよそに曹植は自分の問題で頭がいっぱいのようだ。近衛兵にからむところで「やはり曹操の子供か」という表情を見せる。彼が14であることを思えばこの表情は「この親にしてこの子あり」としか言いようがない。

 

 

1999/8/26:十八巻 その百九十九 夢幻一夜

・曹家の様子が続いている。曹操から文と天への志を受けついだ曹植が大変いい表情を見せるが、それは一瞬のことだ。シン氏は心をすぐに閉ざすし、ベン氏は曹植に何が起こっているかを見抜き心配りを忘れない。曹家を率いていくというのはかくも大変なことか。

「人は天など信じずに、自分の意志で自分の人生を生きるべきだ」と曹植は言い放つ。その顔は大変きれいに見えるがどこかたよりない。天を信じるべきではない。しかし天があることは知らねばならない。シン氏はその曹植の言葉と表情の美しさに一瞬心を開き、そしてその表情にある「危うさ」を思い直し心を閉ざしたのではないか。天に否応なしに直面させられているシン氏にはその美しさだけに酔っていることはできなかったのだろう。

 

1999/8/5:十八巻 その百九十八 天命の人

・曹丕とならび、その名を知られている曹植の登場である。彼は特に文章に巧みであったことが知られている。しかしながら14になるまで曹操に名前も覚えてもらえない。

赤ん坊をあやしながら、それが自分の子供か、孫かも覚えていない。そうした曹操を口を「へ」の字に曲げながら眺めるベン氏にはまたまた笑わせてもらった。それがまた自分の子供の妻であっても興味を引く女であれば小指の爪の形まで覚えているのだからなおさらである。

曹植は曹丕に比べれば文人らしいちょっと大人しめ、芸術家肌の書き方だ。しかしながら兄の嫁であっても惚れてしまえばまっすぐ夜這いをかけてしまうところはさすがに親の血というやつか。彼の口説き文句はとても理屈っぽく、それがまた結構かわいらしい。文才のあふれる人間が「一発やらせろ」と言えばこうなるのか。

・その曹植の気を引こうとする女の子達のそれぞれの様子も結構おもしろかった。実生活で観察したところからも、女の子にはそれぞれの気をひくポーズというのが存在している気がする。或女の子は色っぽいしぐさをし、別の女の子は目をくるっと見開いてちょっと上目遣いに見つめる。それを見て「でへへっへ」とならないで冷静にみてしまったりするのは私が年をとった証拠かもしれない。

 

1999/7/29:十七巻 その百九十七 乱世のディーバ

私が愛する曹操の第一夫人、ベン氏の登場である。ここしばらく姿が見えなかったから「どうしたのであろう」と時々考えていた。先週曹丕が登場したとき「あれ?今19ってことは結構曹操が年がいってからの子供だな」と思っていた。今週7年子宝に恵まれなかったベン氏の言葉がでてくる。「皇帝の母になりたい」というい野望をもつベン氏でなくても7年子供が出来なければ女性の苦悩は深かろう。「子宝」とはよく言った物だ。

彼女は正史に輝く名前をとどめている。正史に現れる中でもっとも興味を引かれる人間の一人だ。(少なくとも私はそう思っている)そこに記された言葉、行動がどこまで真実を写しているかは私の知るところではないが、まったくの虚像とは思われない。「蒼天航路」では彼女は音曲を通じて曹操の心を知る。この漫画のなかで曹操は自分の考え、感情をわかりやすく語る人間ではない。音曲に現れるその心を聞き取り、それに共鳴できる、というのはやはり第一夫人のなせる技、というところであろうか。

最後のページで「いい年をして新妻との初夜を忘れるとは進歩がなさすぎます」とベン氏が曹操に説教をする。あの魔王の曹操にだ。電車の中で思わず声をだして笑ってしまった。

・さてそこにもう一人登場するのが一番新しい妻で、曹操の寵愛を独り占めにし、息子を跡継ぎにしようと野望ともつ女性だ。考えてみれば曹操のところに嫁にくる、というのはまともな神経でできるわざではない。若い頃の曹操であればとにかく、「姦雄」として名をはせている今の曹操であればなおさらだ。この女性はいわゆる容姿端麗タイプではない。実に癖のありそうな顔つきをしている。それだけに今後彼女がどのように活躍してくれるか実に楽しみである。

 

1999/7/23:十七巻 その百九十六 曹の血脈

・久々に曹家が描かれた。正史の中では官渡の戦いの後の袁家との戦いもかなり長く詳細に描かれているのだが、大抵の物語ではあっさりと省略されている。この蒼天航路においても袁家3兄弟は単行本16巻の裏表紙に仲良く生首となって登場するだけだ。

・今週は最初「今週は書くまでもない」とスキップしようかと考えていた。しかし何度か読み返しているうちに最後のページ、曹操の表情が気にかかるようになった。我が子にも猛獣のような感情を向ける曹操とはいかなる人間であったのか。

何故曹操は「姦雄」として名前を残したのだろうか。たとえば正史で彼の行動を追ってみると、それは基本的に合理主義、現実主義でつらぬかれているように思える。そして彼は部下の言葉に耳を傾ける度量、それに自らの失敗を認め、そこから学ぶだけの器量があったように思える。従ってそれだけであれば彼は後世に悪名を残したとは思えない。

正史からは私はその答えをうまく見つけることができないでいる。蒼天航路での答えは今週彼が見せた「猛獣のような感情」ではないかと思う。孔明は曹操を評して「法家の怪物」と言った。法家とは客観的、合理性をもった法律を元に世を治めようとする立場だ。現代の裁判官が己の感情のままに裁判を判決を下せないように、そこには感情がはいる余地は比較的少ないように思える。

しかしながら曹操はただの法家ではない。それがその血を濃く受けついだ息子すらをも戦慄させる「激情」ではないか。合理、客観性を重んじながら時々見せる激情、それが孔明が「法家の怪物」と呼んだ所以であり、そして悪名を後世に残した理由ではないかと。

私は別の文章で自分が考えるリーダー像を書いてみたことがある。そこには合理性、現実性、それに想像力はリーダーが備えるべき資質としてはいっていたが激情は入っていない。この資質についてはよくわからない。

・後に魏の皇帝となる曹丕が登場した。彼は以前登場して若死にした曹昴とは全く違ったタイプの曹操の息子だ。この二人のその後の運命を「当然」と思わせるような人物の描き方である。しかし曹丕は曹操の激情に戦慄した。それが結局彼が父親に及ばなかったことを示しているのではないか。

 

1999/7/16:十七巻 その百九十五 侠気、鳴り止まず

・今週号の中で、劉表が孔明に問いを発する「天下とは何か」と。

孔明の答えはこうだ。「天下とは絶対的にこの世に存在する森羅万象すべてのもの」「でも一個の人間にとっては、はわずか60,70年の生の間に知り得たものが天下です。」

最近よく考える。人間が60,70年の生の間に知り得るものはどれくらいだろう。そして森羅万象すべてのものとはどれくらいのものだろう。物心ついてから脳が活動を停止するまでにどれくらいの事を知ることができるのだろうと。

この世のあり方は様々でとても窮め尽くすことはできず、そしてこの身が60,70年で知り得る事は少ない。限られた知見で無限の事象を追いかければ心が疲れるばかりだ、と似た言葉は荘子にあったような気がする。「天下は性悪女のようなもの」とは蒼天航路の孔明の言葉だ。性悪であろうがなかろうが女性をおいかければ決してつかまえることはなく、2本の足でたっていれば、向こうのほうから肩にとまってくれることもある。(そうでないことのほうが多いが)しばらくは2本の足でぼんやりと立ってみるか。

しかし孔明が劉表を評して言った「天下と性交せず、自慰にふけるだけで恍惚感を得られる方」とは私自身にも当てはまることかもしれない。

 

上の文章を書きながら考えた。時々やたらと一般化した「真理」を述べるのが好きな人に会う。「男ってのは。。」とか「女ってのは。。」とか「世の中ってのは。。」とか「人生ってのは。。」とか。そしてそうした言葉はたいていの場合とても退屈だ。そしていつも思う。何故この人はこれほど簡単にこれほど多様性に富んだ天の下にある事象をくくってしまえるのだろうと。男にもいろいろな人がおり、女にもいろいろな人がおり、そして人生は聞けば聞くほど人によって異なっているように思えるのに。

最近こう考えることがある。そうして簡単に天下をくくってしまえる人にとっては、そうした簡単な姿が天下なのだと。相手はたぶん狭い世界-井戸の壁のくぼみのような-に安住しているのだろう。しかしその狭いくぼみにおいてさえ、その人の驚きを誘うものはあるに違いない。しかしその驚きも自分の尺度にあうようにゆがめてみることができ、「私は天下を知った」と言えるのだと。

そうであれば、彼らに対して何を語ることができよう。彼はたぶん自分が知り得た「天下」についての一般論を述べているのだ。それが他人からみて何を意味しようとも。

 

・孔明は言葉で劉表を殺した。孔明はただ劉表のありのままの姿を淡々とのべただけだ。しかし「自分を愛すること最高の色情魔」であり、自分で自分を慰めてきた人間が、自分のありのままの姿をつきつけられれば、それはひどい衝撃だろう。とどめは「曹操には遠く及ばない」という言葉だ。自分を愛し、自分が最上であると思うことで生をつないできた人間が、自分が他人に遠く及ばないと言われればそれは死んでもおかしくない。

孔明はそれほどまでに劉表という人間がいかなるものであるかを見抜き、そして彼につきつけたのだ。この力は尋常ではない。しかし「人を見抜く目」というものが、人によってひどく差があるという事実に驚かされることがある私としては「そういう人もいるやもしれん」と思ったりする。

そしてその孔明に涙を流させる劉備。今までの三国志もので、軍師であるところの孔明と、主君であるところの劉備の関係が今ひとつわからなかった。そこまで孔明が優れた人間であるならば、孔明が主君になればいいではないかと。しかし最近の蒼天航路を読んで、二人がそれぞれの役柄に落ち着いている理由がおぼろげに見えてきた気がする。

 

1999/7/10:十七巻 その百九十四 真っ向将軍

ここしばらく孔明を中心として、劉備が描かれている。今週は久しぶりに少し曹操の名前がでてきた。

孔明が練兵をしている中におりたち、10年も戦をしていない兵達が突進してくるのに正面から向き合い「怖い」と言う。そして曹操の兵達の姿を思い浮かべるだけで気絶しそうだという。

前にも同じ様なセリフを孔明ははいている。関羽と張飛に戦場で会えば気絶してしまうだろう、というのがそれだ。

この言葉は著者が描こうとしている孔明について二つの事を物語っていると思う。一つには孔明は大変に感じやすい(いろいろな意味で)人間であること。彼は彼のまわりにいる女性の言葉によれば「私たちから聞く話だけで何もかもわかってしまう」人である。それは女性の言葉を真摯に受け止め、そこから何を考察できるか考えているからに違いない。そうして相手からの言葉をまともに受け止めていればおそらく痛みを感じることも多いだろう。あるいは対面する現実の姿に迷い、悩み、おそれを抱くこともあるだろう。

逆に「視野が狭い人、願望が現実に見えてしまう人はなんと幸いであることか」とはここ1年で私が何度も痛感した事である。自分の周りの狭い世界で安住していられる人には迷いもなければ怖れもない。そこで安住しているためには、「鈍感さ」が必要である。自分の世界だけで理解できないことにでくわしても、その事実をねじまげ、その狭い世界の中に無理矢理押し込める。あるいは単に無視する。現実も相手の言葉もまともに受け取ろうとしない、そしてそれを何とも思わない、そうした鈍感さがあってこそ狭い世界で王となり、平穏に暮らすことができる。

 

こんなことを考えてみた。関羽や張飛の武を見て知っていても「いや。あんなもんは戦場では役にたたん」と(根拠もなく)豪語しているほうが、「あの二人に戦場で会えばそれだけで気絶してしまうだろう」と思うよりもはるかに幸せに心静かに暮らせると思う。そして前者の人は本当に戦場で関羽や張飛に相対してしまい、恐怖の表情とともに殺されるかもしれない。しかしそんな機会にでくわさなければおそらく彼は一生を平穏のうちに暮らせるかもしれないのだ。

逆に後者の人は戦場で相対しもしないうちから戦場での関羽、張飛を想像し、冷や汗を流すことになるかもしれない。そして悪夢にうなされることになるかもしれない。取り越し苦労と言えばそうかもしれないが、おそらく極力戦場で関羽、張飛と遭遇することを避けようとするだろう。現実を直視すればそのほうがはるかに安全なのだ。

 

兵を見て心底「怖い」と思って腰抜けになってしまうようでは狭い世界にとじこもり安住に暮らすことはできまい。しかし孔明は井戸の壁のくぼみでふんぞり返っている人間の対局にある人間として描かれようとしているのではないか。現実を真正面から受け止める。受け止めた現実から多くの事を知ろうと思えば敏感にならざるを得ない。敏感になるということは、現実に生きることにより感じる痛みも多くなると言うことである。しかし私が今まで知る限り、それしか現実を知り、現実にうまく対処していく方法はないのではないか、と思っているのだが。

 

もう一つは彼が想像力に富んだ人間であるということだ。10年も実戦を戦わず練兵している兵を見て、彼は羅刹と呼ばれる曹操の軍団がどのようなものであるかをまざまざと想像した。ここで言っている想像力とは空想力ではない。彼の考えは自由な考えであるが現実を離れてはいない。自分に都合のよい現実離れした考えの中に遊ぶ力が空想力。現実をふまえ、まだ見ぬ事象であっても自由に、リアルに想像できるのが想像力。孔明の考えはもちろん後者である。

 

現実を正面から受け止め、そしてそこからまだ見ぬ現実をありありと想像する。こうした心を持つ人はあるいは後世に名を残すような事業を成し遂げるかもしれないが、その生涯は痛みの連続だろう。孔明が今後どのような生涯をおくるのか(曹操が死んだ時点で話が終わるとすれば、彼の死は描かれないのだが)興味深いところである。

 

1999/7/1:十七巻 その百九十三「孔明のいる風景」

今週から週間モーニング連載の「蒼天航路」についてちょこちょこと書いてみたい。必ずしも書くネタがあるわけではないかもしれないから、とぎれとぎれになるかもしれないが。。

・孔明が劉備のもとに登場した。史実の孔明というのは、どちらかと言えばまじめで、政治方面において長けた人だったように思える。一方他の三国志ものではたいてい神秘的な力を持った軍師として描かれているようだ。

正史を読む限りにおいて、孔明は戦を指揮して卓抜な結果を得たことはない。先日或本を読んでいたら、

「戦術とは突き詰めれば賭博の一種である。賭博に必要なものは、勘と勇気であって、組織的頭脳は必ずしも必須の要ではない。(中略)これに反して、「後方」は綿密なる計算と経済的運用とを要する経営者の才能を必要とし、戦機に適合する補給を最大限に工夫する頭脳を根底とする」

と書いてあった。こうした区分けで考えるならば、孔明というのは「博打人」と言うよりはまさに「経営者」としての才能を備えた「後方補給担当」が適役の人間であったように思えるのだが。

さて、蒼天航路で孔明がどのように描かれるか興味を持っていたら、今のところかなり神秘的な人物として描かれているようだ。「賭博」に必要な勘と勇気と、合理を極めた経営者としての才能を併せ持ったのが曹操である。先週号で孔明が使っていた「法家の怪物」とはこのようなことを意味しているのではないか。これに対して孔明はどのような人間として描かれるのだろう。彼がこの後どのように曹操との戦いにからんでくるかは興味のあるところである。

 

・この漫画に描かれる女性はいろいろな意味でとてもSexyだ。孔明の周りにいる色々な人種の美女の集団もしかりである。彼女たちはそれぞれに個性的な顔立ちをしている。いわゆる単純に整った顔というのが一人もない。ちょっとアゴがはっていたり、あるいはハナぺちゃだったりしているが、そこがまた孔明の周りにいるということなのか。そのうちの一人のセリフにこういうのがある。

「つまらない人達ばかり。。見られてもちっとも欲情してこないわ。もっと質素だけど許都の方がずっといいわ。」

彼女たちから見て魔王と呼ばれている曹操が作った都の許都のほうが魅力的に思えるのは或意味当然かもしれない。ちなみにああいう美女は見られると欲情するものなのだろうか?それともそれはもっと一般的なことなのだろうか?

私が合コンでときどきやる(もっとも相手を慎重に観察して後のことであるが)話題に「まじめなスケベ話」というのがある。この中の質問の一つに「あなたの考える卑わいな妄想とは?」というのがある。男性の答えにはそんな突飛なことはないのだが、女性の答えは結構バラエティに富んでいて面白い。ある女性は「裸で大勢の男性に見られているところ」と答えてくれた。人によって強弱はあるかもしれないが、多少なりともこうした傾向はあるのかもしれない。しかしどちらにしても「つまらない人達」の一員である私には縁の無い話であるが。

 

・今週号は劉備たち4人がならんで立ちションベンをするところで終わっている。いきなり割り込んできた孔明を驚いて見つめる劉備と張飛。姿勢はそのままで目だけ細めている関羽。それぞれのキャラクターが描かれた久々に笑える一こまだった。

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注釈

曹操:(トピック一覧)トピック一覧経由関連場所を読んでもらえると、私がこの人物について書いたことが参照できる。本文に戻る

 

そうした言葉はたいていの場合とても退屈だ:トピック一覧)ところがたいていの場合話している方は偉大な真理を聞かせてやっている、と思っているから始末が悪いが。本文に戻る

 

荘子:(参考文献一覧)この本からの言葉を引用することが多いのは驚くばかりである。本文に戻る

 

視野が狭い人、願望が現実に見えてしまう人はなんと幸いであることか:(トピック一覧)N○○で働いているとこの事を何度も何度も痛感する。本文に戻る

 

或本:伊藤正徳著「帝国陸軍の最後」(参考文献一覧)3:死闘篇のインパール作戦の項より。本文に戻る

まじめなスケベ話:(トピック一覧)相手をよく見極めること。あくまでも真面目に話すことが鉄則である。それでもたぶんかなりの確率で「何言ってるのこの○○。しかたがないから興味あるフリをしておこうかしら」という風に相手を不愉快にしていたとは思うのだが。本文に戻る

 

私が愛する:「五郎に関するFAQ-好きな女性のタイプは」を参照のこと。本文に戻る