題名:マキアヴェッリと私

 

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日付:1998/8/30

初めに 君主について  リーダーについて 軍事について  人間について 彼に向けられた言葉について


リーダーについて

さてここまでの記述で、私は「君主」という言葉と「リーダー」という言葉を混同して使っている。今まで私が書いた論旨からいえばこの二つを混同してみてもそう大きな問題は無いはずだ。実のところこの本の前書きにもこう書いてある

「「君主」の語源であるプリンチペとは現代でも、第一人者、リーダー、指導者を指す場合にしばしば用いられる表現であり、「国家」も場合によっては共同体とか組織とかに意訳して読んでもさしつかえない、というのが西欧での読み方であることもお伝えしておきましょう。」

しかしながら、私が14年にわたる会社生活で見聞きした事実から帰納的に導き出したリーダー像というのはちょっとここで書いたこととは異なる。そのことについてちょっと書いてみよう。

まず記述の前提として、私の社会人生活というものがどのような会社においてであったかを書いてみたい。(実際世の中にはたくさん世界があり、その世界ごとに異なった常識が存在するのだ)私が長い間働いていた会社。その後に数ヶ月働いた会社というのは、いずれも世間の基準で言えば大企業中の大企業とでもいうべき会社であった。歴史は長く、組織はとてもしっかりしている。入社してくる人間はまあ平均的ではあるが真面目でそこそこ優秀だ。いずれも比較的同業他社との厳しい競争にさらされない、やや独占的な商売をしている。(実は2年ほど結構競争の激しい業界の職場でも働いたのだが、彼らはもともと競争する気がなかったから結果としては同じことだった)

次にこうした組織で「優秀なリーダー」というのが何を持ってはかることができるかを、最初に定義しておこう。これは簡単で上位に上がっていく人間が組織から見たときの「優秀なリーダ」なのである。上位にいるということは、組織にとってのインパクトも大きい。この定義にはあまり異論がないものと思う。

さて、ここまでの記述で中心的に書いてきたのは君主と統治される人民の関係、リーダーとそのグループの構成員の関係であった。君主たる物その関係に気をくばらなくてはならない、というわけだ。しかしながら私が観察から導き出した結論というのはこれのちょうど反対である。会社において「優秀なリーダー」が一番「気に懸けなくてよいもの」はそのグループの構成員、部下の感情、自分に向けられた視線なのである。ちょっと世間で信じられているのとは反対だが、これは事実である。実際部下から嫌われて軽蔑される人間ほど出世するのだ。

私が導き出したこの結論は、次のように考えればやや合理性を持ってくる。私が働いていたような会社では、組織がしっかりしているから、多少リーダーが変なことをやろうが、全体としては大して影響があるわけでもない。厳しい競争にさらされているわけでもないから、部下のやる気と能力を最大限に引き出す必要などない。そもそも優秀な人材が入ってくるし、彼らはリーダーが多少妙な事をやろうが、生真面目に働くようにできている。上司を軽蔑はしていても、そのグループが崩壊することなどあり得ない。会社にとってはそれだけで十分なのである。

マキアヴェッリの言葉から引用してみよう。

君主編:31(一部)君主たる物は才能ある人材を登用し、その功績に対しては十分に報いることも知らねばならない。

これは「君主」が尊敬を得るためには正しいのかも知れないが、先ほどから私が述べている「組織」においては全く不必要なことだ。こんなことをしなくても私が勤めたような会社では社員はそれなりに働く。確かにこういったことをすれば社員の生産性があがるとともに、尊敬も得られるかもしれない。しかしそんなことは意味のないことなのである。

となれば会社にとって一番重要なのはその組織を維持することとなる。仮に不合理な組織であっても(実際どんな組織であっても必ず不合理な点を抱えているのだ)それを盲目的に遵守する、あるいはより上位のリーダーに無条件に服従する。これが組織の維持の為には大切なことだ。部下というのは結構上司の姿を間違えずにとらえるものだから、こういうリーダーはだいたい「会社に阿るもの」として軽蔑される。あの男は自分の意見を持たず、上司の意に従っているだけだと。おまけに組織の非合理をそのまま部下に押しつけるわけだから、だいたい部下に嫌われる。しかしこれはあくまでも部下の評価であって、会社の評価ではない。そして上司が「よいリーダーである」ことを決める、すなわち出世することを決めるのは部下ではなくて、会社なのだ。従って「リーダーは部下の評判を一切気に懸けることはない。軽蔑されようが全く問題ない。」という結論が合理性を持ってくるわけである。あまたあるビジネス書とかでこんな事を書いている本は見たことがないが(その以前にあまりビジネス書など読んだことがないのだが)事実は尊重しなければならない。この論議はどこかが間違っているのかもしれないが、私にはそれがどこかわからない。

実際問題として、その会社が隆盛を極めるか、あるいは下降をたどるかというのは、もちろん経営者を初めとするその会社のリーダー達によるところも多いのだろう。しかしそれよりは単に時の運というものに大きく依存しているように思える。長い目で見ればこれは正しくないのかもしれない。所詮内実のない会社の好調は長続きはしない。しかし人生は短く、そして会社生活はもっと短い。持って生まれたリーダーとしての力量がありながら、不遇をかこち、自分よりも遙かにリーダーとして下等な人間がたまたま業績好調な組織に属し、あたかもその業績の好調さは自分のリーダーシップによるものだ、とばかり得意げに「リーダー哲学」をふきまくるのをじっと聞かなければならない人間がいかに多いことか。

一つ例をあげよう。私は以前勤めていた会社で一度部署を変わった。前にいた部署は人材がとても豊富だった。-もっともこれは新しい部署に異動してから気が付いたことなのだが。結果として新しい部署では私は日々とんでもないストレスに見回れることになった。

ところがその新しい部署に奇跡的に大きな仕事が舞い込んだのである。(実際これは単に大赤字を知りつつ何も考えないで受注しただけなのであるが)そして元いた部署は彼らのせいではない,世界情勢の劇的な変化に起因した構造変化で不況にあえいでいた。

ある日もといた部署の人達がある部品を新しい部署が受注したプロジェクトに売り込みに来た。私はその新しい部署で受注していたプロジェクトに従事していたわけだが「ああ。これほどまでにリーダークラスの人材が不足していてはこの先見通しが立たない。あの部署の誰でもいいから来てくれれば素晴らしい働きができるものを」と常日頃思っていた。

売り込みに来た人達は私が知った人達だった。彼らは小さくなって部品を売り込んだ。それに尊大な態度で応対し、自分の知性のなさを露呈するような「リーダー哲学」の演説をしたあげく、冷たく追い返したのは新しい部署の上司だ。私の目からみれば、プロジェクトのリーダーという点から見れば、新しい部署の上司は元いた部署の人達の足下にも及ばないのに。そう思うと所詮良きリーダーたることを学ぶよりは、単に運だけにかけるか、あるいは世の中の仕組みを考え、構造的に人に尊大になれる立場(役人はそうだ)に回るほうが良いのかも知れない、と思ったりすることもある。マキアヴェッリの次のセリフに示されていることは、おそらく今私がいわんとしていることと同義だろう。

 

国家編44:困難な時代には、真の力量をそなえた人物が活躍するが、太平の世の中では、財の豊かな者や門閥にささえられた者が、わが世の春を謳歌することになる。

衆に優れた大人物は、国家が太平を謳歌している時代には、えてして冷遇されるものなのだ。

(中略)

この現象は衆に優れた力量をもつ人物に対し、二重に屈辱を与えることになる。

第一は、力量に相応した活躍の場を与えられないこと、であり、第二は、自分より劣った人々がのさばるのを、静観していなければならないという屈辱である。

 

だんだん話はリーダーから離れていくようだ。この話題は後で「人間について」でふれることがあるかもしれない。

 

さてこの章の最後に、それまでさんざん君主について書いてきたマキアヴェッリが述べた次の言葉について書いてみよう。

君主編73:リーダーの素質とは所詮持って生まれた天性のものによるのではないだろうか。だからいくら条理を説いて教えても、所詮は学べる質のものではないのではないだろうか。

最近私はこの言葉と同じ事を考えるようになった。私の観察によれば優秀なリーダーになるためには(実はこれは極めて数が少ないのだが)その人の生まれ持った資質と、ある程度の経験が必要である。そしてもちろんのことだが(これも生まれ持った資質に含まれると思うのだが)経験から教訓を学び取り、次に生かせる、と言った能力が必要だ(これができる人は実にまれなのだが)

私はまだ結婚していないし子供もいない。しかし姉のところに姪が二人と甥が一人いる。姉の育て方をみていると、別に違った教育をしているわけではない。しかし数年経つとその性格の違いは明らかとなってくる。2番目の姪は甘ったれで、私の父と母と別れるときには必ず泣いてしまう。可愛いと言えばいえるのだろうがリーダーにはあまり向かないだろう。3番目の甥はいいリーダーかどうかは知らないが、「おい、行こうぜー」とか他の子供達に言っているようである。私は彼は将来まああまり融通は利かないが、いい係長くらいにはなるのではないかと思っている。

そういう彼らを見ていると、人の性格を形成する上で確かに後天的なものも大きいのだろうが、所詮は生まれて持ったところで大枠が決まっているのではないかと思えてくる。マキアヴェッリが「リーダーかくあるべき論」をさんざん述べた後にこういう事を書いているのは妙な重みがある。彼も多くの人に「良いリーダーとは」と説いた後でその説いた相手が結局リーダーとして何も変化していないことを見、「結局は生まれつきだよな」とぶつぶつ言っていたのではないだろうか。

さてそう書いていてもしょうがないので、「リーダーの資質」というもの関してもうちょっと書いてみよう。

「リーダーの資質」についてはいろいろな事が言われている。曰く部下の面倒見が良い。曰く決断力がある。曰く責任感がある。これらの点については何処でも誰でもが言っていることなのでここでは書かない。ここで取り上げたいのは最近痛感することになった。次の資質である。

人間編53:軍の指揮官にとって、最も重要な資質はなにかと問われれば、想像力である、と答えよう。

この資質の重要性はなにも軍の指揮官にかぎらない。

いかなる職業でも、想像力なしにその道で大成することは不可能だからである。

この「想像力」というのはちょっと日本語ではなじみが薄い言葉だ。私だけかもしれないが「想像力」というとどうも「空想力」と同義にとってしまう気がする。実際この言葉を仮に向けたとすると「そうか。マキアヴェッリは良いことをいうな。俺には想像力があるぞ」と言いそうな人間を3人は思いつく。しかし私の定義からすると彼らの「想像力」とはだぼらを吹く能力とか、とりとめのないうわ言を言う能力なのだが。

さていかなる職業でもというからあらゆる業界のリーダーに関してマキアヴェッリはこの言葉を向けている、と考えてもそうおかしくはなかろう。では私の考えるところの「想像力」とは「だぼら」と「うわごと」とどこが違うのか。

この件に関しては今後の人生(あと何年あるかは神のみぞ知るところだが)の中で変わる可能性が高い。しかし現在考えていることを書いてみたい。

私が考えるところというのは、2段階に分かれる。まず直面しているところの問題がどのようなものか。それに対する解決策は何か。情報が不足しているとすればどこか、という「問題の構図」を頭の中に描くことである。そんなことはあたりまえだ、と言われるかもしれないが私はこれが出きる人を滅多に見たことがない。実際問題として世の中に自分がしゃべっている言葉の意味が分かっていないと思われる人は相当な割合にのぼるのだが、彼らが私が言ったところの「問題の構図」を頭の中にちゃんと描いているとはとても思えない。次によくあるのが目の前の状況だけをみて近視眼的な対応をする人達である。これは問題の上辺しか頭の中に入っていないからとしか私には思えない。

「知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知るということだ」というのは「論語」の中の言葉だ。孔子がこの言葉を述べ、それが長い年月を経て今日まで伝えられているのはそれが滅多にないことだからである。この言葉は私が言うところの「問題の構図」を頭に描くところと相通ずるものがあるのではないかと思う。構図がはっきりすれば何を持っていて何を持っていないかそれがはっきりするはずだ。それが明確になるということが「知る」ということだと孔子は言っているのである。

 

さて、問題の構図が描けたとしよう。次の段階として、必要なのはそれがどのように発展していく可能性があるか、あるいは変化を加えることによりどのように変化するか、その変化はどのような別の変化を引き起こすか、それらを想像することである。いわば頭のなかで状況のシミュレーションをするわけだから、元のモデルがちゃんとできていなければまともな結果がでるわけはない。そしてそのモデルに加える変化について、何を思いつくかによっては人に「奇策を好む」と見られることにもなろうし、「当たり前の考えしかしない」と思われることにもなろう。しかしもしそのシミュレーションの精度が高く、そしてその結果が好ましいものであれば、その人はグループを正しい方向に導くことができる可能性は高くなる。

この際「自分が何を目的としているか。頭の中の各要素はその目的のためにどういう影響を与えるか」という意識を常に念頭置いておくことが必要である。これがないと世の中によく見られる。「仕事が遅れている。だからみんなでウサギ飛びをしよう」とい言った類の指示が飛び出してしまう。ウサギ飛びがどう仕事の遅れの解消に結びつくのか。仕事の遅れの原因はなんなのか。それらを想像することできずにリーダーとなった人間はとかくこうした「よくはわからないがとにかく気合いをいれてがんばれ」という指示を出すことで満足感にひたることができる。これはちょっとうらやましいことでもあるが。

さてこの「明白な目的意識」はとても重要である。全ての要素はそれが「目的達成」のためにどのような意味を持っているか、のみから評価されなければならない。リーダーとは必ずそのグループを率いて何かをすることを期待されている存在である。その「何か」をよく考えずに闇雲に進んだ所で闇雲な場所に到達するだけだ。しかしながらこうした「明確な目的意識」を持つことは時として回りから悪評を被る原因ともなる。「ネクタイを締めることが作業効率向上、売り上げ増大になんの意味があるのか」などと考えてネクタイをしないで会社に行けば(もちろんその職場がどう合理的に考えてもネクタイの着用を要求しない場所であることが前提だが)大抵の場合「あいつは服装がいいかげんだ。ろくな奴ではない」という評判をとってしまうだろう。あなたは「作業効率向上、売り上げ増大」という明確な目的意識を持ってネクタイ有害という結論を導きだしたかもしれないが、回りの人は「とにかく集団の不文律に従う」というこれまた明確な目的意識を持っているかもしれないからだ。この事については「彼にむけられた言葉について」で再考する。

 

さてここまで私の考える「リーダーが持つべき想像力」について書いてきたわけだが、この想像力とあわせて持つ必要のある要素-既に「目的意識」については書いているが-をあと二つ書いてみよう。

先ほど私があげた「リーダーのものの考え方」は基本的に合理的に考える事を前提としている。まず頭の中に問題のモデルを作り、そこから目的達成の為に様々なシミュレーションを行い行動を決定するわけだkら、自然と考え方は筋道のあたったものになるわけだ。この合理的な思考方法、というのは一つの大きな要素であるという気がする。世の中に自分が認識しているかどうかは別として論理のふっとんだ思考方法をする人はとてもたくさんいる。いつか見た「人による考え方の違い」というビデオでは、目的に向かって道をまっすぐ歩いていく人と、ぐるぐる螺旋状に回ったり、寄り道しながら歩いていったり、いろいろな思考方法をする人がいることを示していた。その中で他人がその言葉を聞いて理解しやすいのは「合理的」と呼ばれる類のものであると思う。相手が何を言っているかわからないのに(これは論理が全く理解できないという意味だ)相手に尊敬や畏怖の念を抱くのはこれまた難しい。

しかし世の中にはこういう考え方ではなく、いわゆる「天才的な思いつき」をする人がいるのも事実だ。天才とは定義によって我々凡人にはとかく思考方法が理解しがたい。しかもそれがぴたっとあたったりするところが天才の天才たるゆえんだろう。あるいは天才を極めてほとんど神とも思われるほどの才能を発揮すればリーダーというよりは、カリスマ性を発揮し「教祖」に近い存在になれるかもしれない。あるいはリーダーを補佐する「参謀」の役にはなれるかもしれない。

しかし私の私見ではそうした「天才型」の人は所詮リーダーには向かない。参謀には向くのかも知れない。あるいはおかかえ占い師か。実際世の中で「リーダー」としてあげられる人のうち、合理性を極めた意味での天才-これはモデルに対し何が本当の制約か、何が思いこみかを明確に識別して、本人から見れば合理的、他人から見れば「突拍子もない発想をする」人のことだ-はいても、常人理解できないし、本人にも説明できないがなぜかあたる予想で「天才的なリーダー」と呼ばれた人はいないのではないか。

さて最後に必要な資質であるが、それは「現実性」である。ところがやっかいなことにこの「現実性」とは前述した「合理性」とは両立しない。だからこの二つを追い求める人はいくばくかの困難に直面することになる。

この二つが両立しない理由は簡単だ。現実は合理的にできていないのである。でこぼこなものにまっすぐな定規をあてても何も計測できる訳ではない。「まっすぐな定規のほうが合理的だ」などとわめていてみてもなにもおこらない。

しかしこの現実性というのは常に重要だ。いかにそれが合理的な信念であろうが、美しくひびく言葉であろうが、現実から遊離してしまったとたんにいい場合には「妄想、戯言」となる。悪い場合にはとんでもない災厄を多くの人にもたらすことができるのである。

実際の社会において例をいくつもあげることは容易だが、社会主義のたどった運命について書いておこう。

高校のころの政治経済(当時はこういう科目があった)の副読本の内容を未だに覚えている。おそらくあの副読本は担当の教師が選定したものであり、彼はまだ社会主義の幻想に浸っていることができた幸せな時代に生きていた人でもあった。その本の内容には明らかな左傾がみられた。資本主義社会の害悪をするどく記述したかと思うと、社会主義国家に関しては伺い知ることの難しい現実(当時はそうだったのだ)よりも、党のスローガンのような内容を記述する。そこに描かれているのは社会主義国家のユートピアだ。当時高校生だった私は「なんとなくうさんくさい」と思いながら「確かに理屈は通っているように思える」と思いながらその記述を読んだ覚えがある。

それから10年以上がたち、ソ連の崩壊とともに、北朝鮮以外(北朝鮮が社会主義国家ということに関しては多々論議があると思うが)の社会主義国家は崩壊し、その国で何が行われていたか、現実はどのようだったかが明らかになった。そしてそれは恐るべきものだった。この負債に対してどれくらいの間支払いを続けなくてはならないのか想像もできないほどだ。

その原因についてはおそらく山のような記述がなされているだろうからいちいち書くことはしない。しかし原因の一つが一見合理性を持つ論理にしばられてしまって、現実に起こっていることから政策が遊離していったことであるのは間違いないと思う。ある本には「社会主義は人間はみな神様のような人だったら成り立った理論だった」と書いてある。実際の国家の、党の遠大な利益と勲章よりも、目に見える自分の利益のために一生懸命になって働く存在なのだ。(好ましかろうかなんだろうが、人間の本質は変わらない。しかし「人間は神のような存在であってほしい」という願望が「人間は神のような存在だ」という現実に見え始めたところから恐ろしい厄災が始まったのではないか。組織の建前が現実から遊離すれば、その組織は遠からず崩壊するのだ

 

話がそれそうなので、もとに戻そう。現実性をもつこと。(仮にここまで読んでくれた人がいてとしての話だが)こんなことはあたりまえに聞こえるかもしれない。ではなぜ私がこれを書くか、といえば答えは簡単。私の観察によれば、現実をちゃんと見据えることができる人より、自分の願望を現実として見てしまう人のほうがはるかに多いからである。

現実に何かを変えたいと思えば、必ず現実と向き合う必要がある」というのは私の数ある信念のなかの一つだが、なぜこんなことを信念としてあげるかと言えば自分になかなかできないことであるし、世の中でやっている人を滅多にみかけないからでもある。ある目的地に行こうと思えば地図をみなければならない。しかし不思議なことだが世の中には「ああ。ここの地理はこういう風になっているに違いない。だからこう行けば到達できるはずだ」と地図も現実の道もみないで判断を下す人がいかに多いことか。こうして地図の例で書くと「何の話だ」と思われるかもしれないが、あなたにいくばくかの想像力があれば、おそらく現実世界でこうしたたぐいの指示にでくわしたことに思い当たるはずだ。かのジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)も言っている「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分がみたいと欲することしか見ていない。」彼がどのような人間であったか私には表現することができない。しかし軍事、政治の面で有能であることを示したことだけは間違いない。そして彼はこの言葉に表されるとおり常に現実を見つめる人だった。そうでなければ「多くの人は自分がみたいと欲することしか見ていない」などという言葉をはくわけがない。自分が現実を重んじるが故にほかの人々が幻想を現実と取り違えていることがことさら目に付いたのだろう。

さてこれで私は「想像力」「目的意識」「合理性」「現実性」という、私が考えるリーダーに必要な要素についてあげてみた。数え上げることは自分が実行することとは全く別の事象であり、とても簡単なことだ。従って私がここにあげた要素を備えているなどとはとてもいえないし、そのために努力しているか、というのもはなはだあやしいものだ。おまけにこの文章を書いている時点では私は派遣社員として靴磨きのような仕事をしているからこんな「リーダーとは」を考えたところでなんの役にも立たない。あるいはかえって有害なのかもしれない。所詮自分にそれを実践する機会はまわってこないのだから、空想をもてあそんだところでなんの役にも立たない。

この章で書いたことはほかの章でまたふれることがあるかもしれない。次には彼の「軍事」に対する言葉について考察する。

次の章


注釈

部下から嫌われて軽蔑される人間ほど出世するのだ:(トピック一覧)平和な安定した社会、とはこういうものであろう。本文に戻る

 

仕事が遅れている。だからみんなでウサギ飛びをしよう:(トピック一覧)物議は醸し出すかもしれないがわかりやすく言い直すと「仕事が遅れている。だから全員休日出勤だ」と言えるだろうか。リーダーが明確な方針をだすだけで仕事がスムーズに進み出すような場合でも「みんなで休日出勤」が好きな人はこういうだろう。そしてみんなが休日出勤したところで何も問題は解決しないだろう。本文に戻る

 

「天才型」の人は所詮リーダーには向かない:あるいは人は言うかもしれない。日本のプロ野球(少なくとも1990年代においては)の監督というのは、何をいっているかさっぱりわからないが(彼は「風がふいてきた」という理由で投手を交代させるのだ)、とにかく天才型の人がもてはやらされるではないか、と。それに答えるのは簡単である。日本のプロ野球は技術や勝利を競う場所ではない。そんなことよりは、とにかくファンにうけることが重要なのである。プロ野球に存在する何をいっているかわからない監督はリーダーとしての役割を期待されているのではない。チームは優勝しないだろうが、ファンが喜ぶ、という目的に合致しているが故に監督の地位にいるのである。本文に戻る

 

現実は合理的にできていない:(トピック一覧)楠正成がかかげた「非理法権天」という言葉は結構好きである。本文に戻る

 

組織の建前が現実から遊離すれば、その組織は遠からず崩壊する:(トピック一覧)トピック一覧経由「敵対水域」の書評をみてもらうと、このことに関する別の考察が書いてある。本文に戻る

 

現実に何かを変えたいと思えば、必ず現実と向き合う必要がある:(トピック一覧)向き合いたくない現実も世の中には多いかもしれないが。本文に戻る

 

人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分がみたいと欲することしか見ていない:(トピック一覧)ここの記述はローマ人の物語(参考文献参照)によった。この本によればこの言葉はカエサル記述の「内乱記」からのもの。本文に戻る