題名:マキアヴェッリと私

 

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日付:1998/8/30

初めに 君主について  リーダーについて 軍事について  人間について 彼に向けられた言葉について


初めに

 この文章は、塩野七生著、「マキアヴェッリ語録」の「読者に」の項に書いてある「あなたの関心が刺激された箇所について、あなたのご意見を聞かせていただきたいのです」という言葉に触発されて書き始めたものである。

この「読者に」の項が書かれて既に10年がたっている。その間に筆者は「ローマ人の物語」を一年に一冊書き下ろすという仕事にとりかかっている。果たして私が書いた物が仮にまあ人様に読んでいただいて問題の無いものになったとして(この可能性はかなり低い)、さらにその文章を私がプリントアウトして送付するという困難(怠け者の私にとって)を成し遂げたとして(この可能性もまたまた低い)も果たして著者の当初の目的-

「お寄せいただいたご意見をベースにしていずれ一作著せたらと思います。"マキアヴェッリと日本人”とでも題しましょうか」

-に役立つかどうかはなはだ疑問である。作者はもう”マキアヴェッリと日本人”を書き始めているかもしれないし、あるいは「”ローマ人の物語”に注力するためしばらく延期」モードにはいっているかもしれないのだ。

おまけに作者がまだ「マキアヴェッリと日本人」を書く意図を持っていて、かつ私がこの文章を送付できたとしても、私が作者に役立つ内容をかけるかどうか、という問題が残る。しかしながら仮に私が書いた文章の最初の3文字しか読まれなかったとしてもそれはそれで著者の「役に立つ」事だと私は勝手に主張する。「こんな馬鹿な意見を書いて来る人もいるんだな」というのはそれで一つの”マキアヴェッリの言葉に触れた日本人”のデータである。「なんで35の立派な教育を受けた(はず)の大人がこんなあほな事を書けるんだろう」と思われれたとしても、それはそれで著者に何かを考えさせたことにはなるではないか。

 

しかしながら最終的にそれがどのような結果に終わろうとも、その経緯を記載してホームページに載せるのはそんなに悪くないことであるという事実に最近気がつき始めている。従ってこの文章がどのような運命をたどろうとも私は「また駄文を一つ書くことができた」という満足感に浸れるわけだ。おまけに誰かが間違ってこのページにたどり着いたとすれば私の満足感はさらに高揚することだろう。

書き方としては、まず「マキアヴェッリ語録」から私が「何かを書きたくなった」フレーズを引用し(太字はマキアヴェッリ語録からの引用。部の名前と部ごとに振られた番号を併記してある)、そこから駄弁をのべつづけると言った感じになるだろう。ホームページを作っていて気が付いたことだが、私は一つのきっかけから何かともでもなく話がそれていく質の頭を持っているようである。可能性は少ないが最終的に作者に送ることを念頭に置いているのだからあまりそれることはしないように少しは心がけることにしようか。

 

君主について

 

まず私が初めて「マキアヴェッリ」という言葉を耳にした時のことから書くことにしよう。

 

私が高校の時には社会科の一分野として「倫理・社会」なる教科があった。この科目の正確な定義は知らないが、古今東西の思想、哲学なるものを網羅する科目だった記憶がある。定義を覚えていないくらいだから内容についても大したことは覚えていない。先生が「美のイデア」と発音するときに普通日本人は「イ」にアクセントが来るのが、この先生はどういうわけか(あるいはこれが正しい発音なのかもしれないが)「デ」にアクセントをつけていたことくらいだ。そして肝心な「美のイデア」がなんであったかはさっぱり覚えていない。

しかしながらここでも私の数ある信条のうちの一つ「学校の勉強を侮ってはいけない」をあてはめることができる。この授業で耳にした、あるいは試験前に一生懸命頭に詰め込んだ言葉はその後私がいろいろな本を読み散らかす際のきっかけとなっているのだ。そしてマキアヴェッリに関してもそうであった。

その授業で、ある日教師が「君主論」の一部を紹介し、その部分についての感想を聞いた。今ではいくつかのキーワードを覚えているだけだが、今回あらたにこの本を読み直してみたら、その一部(と思われる場所)はやはり載っていた。

君主編 26: 君主にとっては、愛されるのと怖れられるのととどちらが望ましいであろうか。(中略)わたしは、愛されるよりも怖れられるほうが、君主にとって安全な選択であるといいたい。(中略)それにしても、君主たる物、たとえ愛される君主像は捨てざるを得ないとしても、恨みや憎悪だけは避けねばらない。それでいて、怖れられるように努めねばならない。(中略)

人は自分のもちものが奪われたときよりも、父親が死んだことのほうを、早く忘れる物である。

教師に指名された私はこう答えた「なかなか良い事を言っていると思います。愛されるよりも怖れられる君主であれというのは私の考えにもあっています」

教師はこの文章を紹介し、自由に意見を述べさせることが目的だったのだろう。私の答えに対して特に何も言わなかった。ただ私が明確に覚えているのは教師の顔にうかんだ「意外の念」である。私が世の中に「マキアヴェッリズム」なる言葉が存在し、その言葉の意味がどのようなものであるかを知ったのはその後のことである。おそらく教師は「ちょっとこの主張はねえ。。。」といった類の反応を期待していたのではないか。

高校2年生だった私がどのように考えてこういう答えをしたかは今となっては正確に思い出せない。しかし当時から統治には「怖れ」の感情が必要不可欠である、と考えていたのだろう。あるいは単に昔からひねくれ者だった私は「愛されるなんて何を甘いことを言っているんだ」と思っていたのかもしれない。

 

あれからおよそ20年がたったが(正確に言えば19年だ。年が増えてくるとこういうところにこだわってしまう)私の考えは基本的に変わっていない。今このマキアヴェッリの言葉に関して考えるところを書いてみたい。

先日Deep Imapctという映画を見た。基本的には「巨大隕石が地球に衝突する」という想定に基づくお涙頂戴の映画であるが、一つだけふと興味を持った部分があった。「これで地球がおしまいになるかもしれない」という状態で、米国内で100万人が地下シェルターに避難する。それを実に効率よく軍隊が護衛していくのだが、もしこの軍隊の各自の生存が保証されていないとしたら、果たして彼らはあれほど整然と「選ばれた100万人」を護衛していっただろうか、という点である。

この映画にはその他にも明日に絶望した人達が略奪、暴行、殺人に走ることもバックにちょっとだけでてくる。どうせ犯罪を犯したところで裁かれることもないし、刑務所にはいる暇も無かろう、という考えがこうした無秩序を生むというところだろうか。

何故この映画の話をだしたかというと、社会秩序の維持には法と裁き、及び罰則というシステム。及びそのシステムに対する「怖れ」が必要不可欠である事を言いたかったからだ。人間いくら「他人のため」とか「社会のため」とか「人の性は善である」と言ったところで、自分の害になる恐れがなければなんでも自分のやりたいようにやってしまう部分があるのは否定できない。

身近なところから言えば人を数人集めてグループをつくり、その中にある程度の秩序をもたらそうと思えば、必ず(それが表にでているかでていないかは別として)「怖れ」の念が必要となる。これは国家的なレベルに至っても当てはまる事だと考える。

「他者(あるいは君主)に対する愛」というのも確かにグループの秩序維持には役立つだろう。しかし人間はおしなべて自分を一番深く愛する物であること。また他者に対する愛というのは非常に移ろいやすい(これは別に男女間の愛に限った話ではない)ものであることを考えれば、それに頼るのは愚か者としか言いようがない。「かわいさあまってにくさ100倍」とも言うではないか。「愛」は確かにそのグループを構成するものの励みにはなるだろう。しかしグループの維持のためにあてにするにはあまりにもあやふやである。

また「愛」は「怖れ」よりも遙かに曖昧とした感情である。その曖昧さからともすれば「愛」は「甘え」へとつながり、グループの構成員が「甘え」に流れ出すとそのグループは必ず無秩序に陥る。

従ってリーダーあるいは君主-は必ずどこか怖れられなくてはいけない。個人が怖れられないとしても、その集団を指導するグループに自分がコントロールできる「怖れられる人物」を要している必要がある。あるいはこの方が望ましいかもしれない。恐れと愛の役割を分担し、を同時に実現することができるからである。

社会にでて10年以上立ったが、私の上記のマキアヴェッリの言葉に対する意見はこのように基本的に変化していない。言葉だけは多くなったと思うが。

さてここでもう一つ生じる疑問がある。上記のように現実の人の動きを見れば「怖れ」が「愛される」ことよりもリーダーとして重要であることは明白だと(少なくとも私には)考えられるのだが、何故「愛される」ことが必要である、と人は考えるのだろうか、という疑問である。私は「愛される」ことのほうが言葉として美しく響き、かつ人にとってかかげやすいスローガンだからではないかと思うのだが。

 

次に最初にあげたマキアヴェッリの言葉の後半で強調されている「怖れられる」ことと「恨みや憎悪を避ける」ことの両立について書いてみよう。これは確かに良いことを言っていると思う。実際「怖れ」は必ずしも「嫌悪」の情には結びつかないが、「恨みや憎悪」は必ず「嫌悪」の情に結びつくのである。さらにはそれらの感情は「時期を見ての復讐、不服従」へとつながる。こうした感情が蓄積されれば、表面上平穏に見える集団であっても(たいてい)いつか一気に崩壊する。そしてその体制が崩壊した後にもその集団に蔓延していた恨みは深刻な後遺症を残すことにもなる。

それでは「怖れ」と「恨み、憎悪」の間にどのような違いがあり、どのような行動によってその区別がなされるのか。

私の意見であり、これが一般に認められるかどうかわからないが、次のように考えている。リーダーが非常に過酷な措置をとったとしよう。それが厳重な処罰であり、あるいは過酷な労働かもしれない。

仮にその理由が知らされない、あるいは構成員にとって見えないとした場合に、「怖れ」と「恨み、憎悪」を分けるのは日頃からの信頼である。構成員からリーダーがうける信頼とはリーダーの行動が常にグループの利益を目指したもので一貫しているという実績をつみあげることだけにより獲得されるものである。そしてグループの利益になるものであれば、それが過酷な内容であっても毅然として実施するリーダーを構成員は「怖れ」を持って見つめる。ただしもちろんのことだがここで「グループの利益」というものは「グループ構成員の利益」に何らかの形で結びつている必要がある。この場合の「グループ構成員の利益」とは場合によって非常に多様であるためなんとも具体例で説明がしにくいのだが。

この場合多くの場合は、リーダーにとって見えている「グループの利益と行動のつながり」がグループ構成員に見えないかもしれない。それどころか、リーダーの決断が、大所高所からの視点にたって為されたものであれば、あるほどその関係は見えにくくなる。従って「実績のつみかさね」と簡単に書いたことはそう簡単に達成されるわけではない。論語にある「人は此をよらしむべし、しらしむるべからず」という言葉は悪用されやすい言葉ではあるが、古今東西の一面の真実でもある。可能であれば大きな判断(それと同時にわかりにくい判断)をする前に、小規模で結果がすぐでるような判断を何度か行い、グループの構成員の信頼を勝ち得ることができれば望ましい。しかし時と場合によってはそれができないことも多い。そうした場合にはリーダーは何によるべきだろうか?

それは個人としての資質以外には無いという気がしている。ではその資質とは?については後述する。

さて、この「君主として避けるべき」「恨み、憎悪」に関しては本書に何カ所か言及されている。いくつかあげてみよう。

君主編 28: 君主にとっての最大の悪徳は、憎しみを買うことと軽蔑されることである。(中略)憎悪は、国民のもちものに手を出したときに生ずるのだから、それをしなければ避けるのはやさしい。

マキアヴェッリは繰り返し「他人のもちものに手を出すと憎しみを買うこととなる」と戒めている。しかしながらこの「他人のもちものに手を出す」というのは少しわかりにくい、というか私にとってこの部分に同意するためにはいくつか注釈を付け加える必要があると思われる。

「他人のもちものに手を出す」とは具体的に何を意味しているのだろうか?たとえば法律を厳格に適応して厳罰を下す(あるいは首をちょんぎる)というのは私から見ると「怖れ」を買う行為であり、かつグループの秩序維持にはやむ終えない可能性もある行為である。

しかしながら世の中必ずその「行為の意図」を近視眼的に判断する人はいると思う。それが仮にリーダーから見て「必要やむを得ない行為」であったにしても、その関係者から「私にとって重要な人を奪われた」という声が出てくることもあるかもしれない。

先ほど引用した26番には「人は自分のもちものが奪われたときよりも、父親が死んだことのほうを、早く忘れる物である」という部分がある。基本的には私も同感だが、場合によっては人は「父親」を「自分の持ち物」と同列に見なすかも知れない。「父親」が「子供」に置き換わればなおさらだ。

この際にはなおさら前述した「君主への信頼」が必要となる。「信頼」は必ずしも「愛」とは同値ではない。「怖ろしい君主であり、とても愛する気にはならないが、手腕は確かだ」という構成員の感想もあり得る。

しかしながら特にグループが大きくなり、かつ君主が大きな観点から、長い目でみて最善と思える策をとればとるほど、その妥当性はそのグループの構成員にはわかりづらくなる。そして現実に近くで見える「奪われた重要な人」によって憎悪の気持ちを買うかも知れない。ここで前述した「よらしむべし、知らしむるべからず」と同じ問題に直面することになる。

さてここででてくる「軽蔑」に関しては次の項に

君主編 27:君主にとって、厳重の上にも厳重に警戒しなければならないことは、軽蔑されたり見くびられたりすることである。

という記述がある。

ここで「軽蔑」を強く戒めているが、これはリーダーの最低必要条件(十分条件ではない。実世界ではそう勘違いしている人間は多いが)がそのグループの秩序を保つことであれば、容易に納得できることだ。誰も軽蔑している相手からの命令を本心から受けたりはしない。心の底で構成員が憎悪を抱き、復讐を考えているのと違い、こうした「軽蔑」は即効性をもってそのグループを崩壊に導くかもしれない。「軽蔑されるリーダー」であれば「いないのと同じと思われているリーダー」のほうが遙かに好ましい。「いないのと同じと思われるリーダー」は実はそのグループにとって有益なリーダーである可能性があるからである。(これは東洋流の考え方だ)

次の項もほとんど同じ内容であるが、ここに挙げられている「こういう君主は軽蔑を買いやすい」は結構興味深い。

君主編 28(一部)一方、軽蔑は、君主の気が変わりやすく、軽薄で、女性的で、小心者で、決断力に欠ける場合に国民の心中に芽生えてくる。

 

世の中大変うるさくなって、かつ私は小心者なので、こうした「女性的」という言葉をNegativeな意味で使っている部分を見るとぎょっとする。マキアヴェッリが現在にいきる人であれば、山のような投書をもらうことになってしまうのだろうか、などと妙な心配をしてしまう。

しかしまあそこはそれ。別に「女性に多く見られる特徴がリーダーに向いていない」と言ったところで、「女性はリーダーに向いていない」と言っているわけではないのだ。私が接した人達を見ていても、確かに女性と男性の間にはその気質において傾向の違いは存在しているようだ。事実は尊重せねばならん。従ってここで、前述した内容と関連づけて、私が考える「女性に多く見られる性質の傾向」のどこがリーダーに不適なのかを書いてみたいと思う。

女性の性格を男性の性格と比較した場合に言われることは大変たくさんある。私は男で、女性のご機嫌を取り持つ立場にあるものであるから、女性に対してのネガティブな言葉がまず頭に浮かぶ。ある女性はこの両者の性質を違いについて概略次のような意見を述べてきた。(ちなみに元の話題は「語学の学習方法について」である)曰く

「男はいろいろ比較検討した結果を結論とするから、一度決めた結論を変更するのは難しい。

女の場合は直感的に決めるので、結論が最終決定ではない。だから語学の学習に関してもとりあえず何かを学習して、その後、いままでの知識が否定されることがあっても、気にせずその時点でベストと思える物を取り入れることが出来る」

 

彼女がいわんとするところはつまるところ「男は頭が固い。女は頭が柔軟だ」のようである。 ちなみにこの理論を私の回りの数人の女性に大して披露してみたところ、大変うけがよかった。

さて、その「女性の柔軟な思考方法」であるが、リーダーが「「結論」が最終決定ではない」などと公言し、「今までの経緯が否定されることがあっても気にせずにその時ベストだと思うものを取り入れる」なんてことをやられた日には、その下にいる人間はたまった物ではない。下からみれば「あのリーダーの言うことは全部物事を比較して考えたわけではない思いつき。3日立てばまた全然違う事を言って平然としている」という状態だ。語学の学習にこうした性行が役立つかどうかはここでは考察しないが「君主」としてこの性行が望ましいものではないと言うのは(N○○グループではどうか知らないが)明白だ。そう思うと先ほど引用したマキアヴェッリの言葉のうち「女性的」というのは、結局他の形容詞とだぶる言葉なのかな、と思ったりもする。

とは言えここで言われているのは「女性的」な性格であって、「女性そのもの」ではないのだ。世の中女性的な男もいれば、男性的な女もいる。一般論とは所詮一般論であり、例外は(そのうちどちらが例外かわからなくなることもあるが)数限りなくいる。所詮は人を一人一人先入観を持たずに見つめる以外にその人がどのような人間であるかを見極める方法はないのだろう。

さて話が変な方向にずれているが、話がころころ変わる、という印象を相手に与えると、やはり相手からは畏怖の念を持ってもらえないようである。リーダーたる物その考えをいちいち全て部下に伝える必要はない、とはよく言われる所だ。部下にしてみればリーダーの頭の中身を全部理解できたわけではないが、とにかくあの人の言うことは重みがある、と思えれば良いのだろう。ところが言うことがごろごろ変わるようだと「あの人は実は何も考えていないのではないか」と頭の中の見透かされてしまう。頭の中身がからっぽだと言うことを見透かした相手に尊敬と恐れの念を持つのはやはり無理なことだろう。(もつようなフリをすることは必須だが)

さて次の章ではマキアヴェッリの言葉を引用しつつ私が見聞きした現実世界の「リーダー」について少し書いてみよう。

次の章


注釈

マキアヴェッリ語録:(参考文献一覧)この人の本を読み始めたのは最近である。本文に戻る

 

経緯を記載してホームページに載せる:何故こんな事を考えるようになったかというと、「府中へ」が結局第一次選抜で不合格、という結果に終わったにもかかわらず五郎の部で上位を争うヒット作になったからである。本文に戻る

 

学校の勉強を侮ってはいけない:(トピック一覧)いざというときの知識はほとんど学校の試験前の詰め込み勉強にたよっている気がする。本文に戻る

 

Deep Imapct:(参考文献一覧)この監督の「観客に頭で考える暇を与えず涙をしぼりとる」技術は大した物だ。本文に戻る

 

論語:(参考文献一覧)この本の中には普通「儒学」という言葉から想像するのとはほど遠い人間世界に普遍的にあてはまる言葉が納められていると思う。本文に戻る

 

N○○グループではどうか知らないが:N○○グループの中で派遣社員として働いていたころ、自分の会社の上司に「こんなんですよ」と言ったら「いや。それはすばらしいことだ」と繰り返し言われた。N○○グループとは世間の常識が通用しない場所のようである。本文に戻る