題名:書評-今週の蒼天航路-Part2

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日付:1999/7/2

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1999/12/9 十九巻 その二百十一 南の策動

・いよいよ北伐をはたした曹操が南に向かう。この戦いの理由は簡単ではない。

たとえばこういう書き方ができる。曹操というのはとんでもない残虐者であり、簒奪者である。従ってそれを打つことは大義にかなっていると。しかし大義とはつまるところなんであろう。

一番わかりやすく一番意味がないのが「漢帝国の簒奪者」というものだ。理屈は通じないが一般庶民には一番アピールしたであろう。それは大義と言えるかもしれないがその意味するところは全く不明である。

曹操は残虐であったが合理的に政治を行った。では何故それと戦う必要があるのか。仮に家の存続だけが目的であるならば、孫という名前の為に多くの人間を殺す価値があるのか。

この漫画の中でも過去に数度こうした「??」がつく動機が顔をだしたことがある。しかし今週を見てみるとありがたいことに今回は戦いの理由そのものについても面白く読ませてもらえそうだ。

・話はそれるが、戦前の日本では「中国から撤兵するなどということは、この地で死んだ英霊に申し訳がたたない」とかいう書き方が出てくることがある。しかしたとえば日本軍が中国から撤退して、霊が幽霊になって顔をだしたことがあるのか。あまりそういう話は聞かないようである。国にとって自分たちに対する誇りを持つ、というは重要なことだ。そして誇りとは所詮不合理なものである。しかしそれがふくらみすぎれば結局のところ元も子もなくなりすってんてんになる。

・これから描かれようとしている戦いこそが三国志の三国志たる所以なのかもしれない。それぞれの国にそれぞれの人間がいたからこそ、それぞれの国が続き、そして争ったのだと。これまでは3国がそれぞれの地域で(正確に言えば蜀はまだだが)足場を固めるところであった。そしてその固まった足場はようやく衝突しようとしている。これから赤壁の戦いまでどれだけの日数と枚数を費やして描かれるかしらないが、それが完結する前の間に死ねば私は現世への未練のために幽霊になって登場しそうである。

・孫権は今のところぼーっと黙っている。そして周ユは理をもって、そして意を持って周りを動かしている。この後孫権が口を開くときが楽しみであるが。

 

1999/12/2 十九巻 その二百十 軍略は止まず

・郭嘉は軍師のまま死ぬことになった。彼は曹操と死ぬ間際まで普通にしゃべっている。純粋軍師たる郭嘉にとってすぐそばにあろうが、少し先にあろうが死というものにとらわれる意味はなかったのであろう。彼は「自分がやりたいこと」から出発し、それを追い求めた。それがいつ中断するかは天命であり、いつ下るかは人のあずかりしらぬこと。であればそれに心をとらわれて生を損なうのは彼らにはまったく無縁のことのようだ。

あるいは、彼は「日が暮れてしまうことも気にせず夢中になって遊んでいる子供」のようなものかもしれない。気がついたときには辺りは真っ暗になっている。そして郭嘉は血を吐いて死んでしまった。しかしそれまでそんなことは気にもかけていない。

・曹操は今回こう言っている。自分がやりたいこと、すごいことを頭に描き、それに策をつけていく、と。まず最初にそのすばらしい絵が描けるかどうか、そしてそれに策がつけられるかが「想像力」というものであろう。「マキアヴェッリと私」の中で私は自分なりの「想像力」について書いている。そして今週の曹操の言葉を観て私はたぶん私が考えているところの「想像力」と著者が曹操に語らせている「想像力」は大きくへだってはいないと思った。すばらしいごちそう、及びそれを実現するための策が大きな問題の構図となる。それを頭の中にちゃんと描けなければ、いずれにしてもろくなことはできない-自己満足を除いてだが。そして現実は最初に描いた「すごいごちそう」を遙かに越える事は滅多にない。従ってもしあなたがある集団を率いる立場に「公式」になっており、かつその集団が「いまいちだ」と思うのであれば、いろいろな原因の一つとして「自分の想像力の欠如」を考えるべきだ。「いまいちだ」と思う集団の姿はあなたの頭のなかにある「ごちそう」の姿かもしれないのだ。

あるいはこう書いてもいいと思う。「すごいごちそう」を想像するのと「なんだかわからないけど、誰も観たことがないようなごちそうがほしいな」と思い浮かべるのとは全く違うということだ。後者が出来る人は山ほどいる。前者が出来る人は滅多にいない。

ただ比較すると私のモデルは現実から枝を伸ばしていくのに対し、曹操が語っているモデルはまず「すごいごちそう」を描き、そこから現実に足をおろしていくように思える。これが歴史に名を残す天才と靴磨きの差というやつか。

・郭嘉が死んだ瞬間の曹操の表情はまるで仁王のようだ。そして軍礼をする。最後のページには曹操の漢詩が訳を交えずに掲げられているが、その簡素な表現こそが曹操の信条を語っている。飾る必要はない。ここに書いてある文字が曹操の語った言葉なのだ。

・ちなみに袁家の二人の兄弟は最初のコマで、仲良く烏の餌になっている。いずれにしても彼らは死んでしまったのだから、その死骸がどうなろうと関係はない。首が飛ぶ瞬間に彼らは少しでも現実を認識したのだろうか?あるいはそれができなかったほうが彼らにとって幸せな人生であったのかもしれないが。

 

1999/11/25 十九巻 その二百九 臣から王へ

・袁家の二人の兄弟は、そのままで首をはねられてしまった。袁家一族は本当に親といい子供といい独特のキャラクターであった。意志強固とも言えるし、鈍いとも言える。「自己の信念に忠実」は「現実を直視した上で」とワンセット、というのが最近開発した信条だ。袁家にはその後半が欠けていた。そして現実から拒絶された。しかし仮に曹操がいなければ彼らが確かに新しい王朝を作っていたかもしれないのだ。そしてその場合には「自己の信念に忠実なものが成功を収める」ところだけが強調されていたであろう。

あるいは、目を背けたくなるような現実を直視するだけの度量なくして(実際この度量がある人はきわめてまれだと思うが)天下をねらいたければ、どうしても「現実を直視した上で」はかけてしまうのかもしれない。そして現実にはそこが欠けたリーダーのほうが遙かに多いのかもしれない。

・「曹操はその存在が問い」とは興味深いセリフだ。彼は確かに存在するだけで他人を動かさずには居られない。健安文学誕生の時の楽団を思い出してみよう。曹操が鼓をととん、と打っただけで彼女たちは生まれ変わったように演奏を始めた。曹操は人が「様子見」の立場(N○○が大好きなやつだが)にとどまることを許さない何かを持っているようだ。

・「やりたい戦を考え続ければそれが政に繋がっていく」曹操はこう言った。「戦争とは政治の一形態である」とは誰の言葉であったか。どちらの立場からも始めても視野を限らず考えをつきつめていけばお互いに通じるものなかもしれない。もっとも戦前の日本の統帥権のように、政を忘れ戦のみを考えるようなのは論外である。それに国がひっぱられた結果はごらんの通りだ。表裏一体の政と戦がどちらかだけに偏れば必ず結果は恐ろしい物になる。今の日本は表も裏もぱっとしないが、とりあえず一体化していることだけは間違いない。

・そしてその「戦と政のリーダー」としての王となりうる、と曹操に認められた郭嘉の命は長くない。彼の死がこういう形で描かれるとは思ってもみなかったが。

1999/11/11:十八巻 その二百八 陶酔止みて後

・戦いは敵の首領の敗北とともにあっさりと方がついた。その戦い自体について書くことはない。覇を語ると言うことは、曹操と覇王として対峙しようということであり、争いに敗れれば首がなくなるのは当然だ。

・最後のページが気になる。郭嘉には死相がでている。そしてそれを見る曹操の視線もちょっと危うげだ。今週は「来週を期待」というところだろうか。

 

1999/11/4:十八巻 その二百七 交錯せしは生死

・緊迫した戦いが続いている。郭嘉の危うさはそのままに。この戦いについては言葉で書くことはない。

・今週笑えたのは、本当に許猪の後ろを目立たないように行軍してきている曹操だ。「遠くから見ても殿は殿だ」と自分だけが気がついていない。これが曹操の笑えるところだが、彼の限界かもしれない。彼は何でもできるわけではないし、何にでもなれるわけではない。これが劉備であれば、本当に身をやつして一平卒のごとくふるまうことができるだろう。そして曹操自身はそのことに気がついていない。

・上記の事は、劉備が曹操の元にいたときに「あんた自分じゃ気がつかねえかな。あんたすごくおっかねえんだよ」と何となく相通じる事があるように思える。曹操は自分の「おっかなさ」に自分で気がついていない。

 

1999/10/28:十八巻 その二百六 戦場の眼

・戦いが始まった。戦いが見えない状態で郭嘉はとても楽しそう。これこそが彼が望んでいた戦いであるならば彼にふさわしい死に場所-それが何であれ-与えられればよいと思うが。しかし戦いに破れた軍師の死に場所とは所詮あっけなく惨めなものなのかもしれないし、それがふさわしいのかもしれない。そして郭嘉の表情はあいかわらず子供のままだ。

・この漫画全般に言えることだが、ストーリーの大筋というものは誰もが知っている話なのである。そしてこの戦いが最終的にどうなるか、また袁家のふたり(あいかわらずだが)がどうなるかも誰もが知っている。しかしそれを読ませる力量がこの作者にはある。この戦いが「皆が知っている結末」にどう続いていくのか、しばらく目が離せない。

 

1999/10/21:十八巻 その二百五 漢人にあらず

・烏丸族の頭領は今回の行軍を曹操が率いているものだと考えている。しかしながら率いているのは郭嘉だ。曹操は「目立たぬように行軍してこい」と郭嘉に言われているだけだ。今週号を読んでいて思った。郭嘉はもうすぐ死ぬのだな、と。

・袁家の二人の兄弟、特に袁尚はいつものままだ。しぶといと言えば言えるが、鈍感とも言える。これが袁家の血というものか。

・官渡の戦いで、「将軍は兵卒に」という曹操の言葉に対し、一人だけ(正確に言えば曹仁もだが)よろいをぬがす辺りを威圧しまくっていたのが張遼だ。彼には関羽にあるような頭のよさが見受けられない。しかしそれでも少しずつ変わりつつはあるのだろうか。

・彼と郭嘉がどのような戦いを見せてくれるか。張遼が「10倍の敵に戦いをしかけるか」と言ったときの郭嘉の表情は少年のようだ。自分の好きなこと、徹することだけで心身がいっぱいになってしまっているかのようだ。そしてそれが成就するにせよ、破れるにせよその命は長くない。

・上の文を書いていて思った。子供らしさとは、何か自分の興味のあることだけで一杯になり、他の事を忘れてしまうことではないか。所謂「夢中」というやつだ。子供は目の前のボールに夢中になるから通りに飛び出しはねられてしまう、大人はボールだけに集中しはしないから飛び出さない。しかし子供の時のような表情をみせることはできない。子供は遊んでいるとき、とてつもないパワーを持続し、それが切れると(うちの姉の表現を借りれば)突然死のごとく深い眠りに落ちる。大人になると、目覚めている間は息切れし、眠っては夢にも驚き浅い眠りから覚める。今の郭嘉は眠りもせずに行軍している。確かに子供のようだ。

 

1999/10/14:十八巻 その二百四 純粋軍師

・袁家の弟二人はまだ生きていた。これからの戦いは、正史でも記述があるが、それをどのように描いてくれるか楽しみだ。最後に現れたカラスの格好をした男は最終的にどうやってあの二人を殺すのか。あるいはそうではないのか。

・ここでの敵は「ここではあたりまえに飛んで居るぞ」という騎馬民族だ。そして曹操に「できるだけ目立たぬように行軍してきてくだされ」という郭嘉。これが彼の最後の戦いとなるのだろうか。

・何かに徹することはそれだけで芸となりうることだが、行きすぎればおそらくある危険である。カクが郭嘉に感じている危うさがそれだとすれば、郭嘉がどのような戦いを見せてくれるか尚楽しみというものだ。

 

1999/9/30:十八巻 その二百三 軍師一代

・しばらく続いた曹家のシリーズが終わり、また戦いの日々である。今度はあまり描かれることのなかった北への遠征だ。私は前に袁家の3兄弟はすでに死んでしまったかと思っていたが、今週号を読むとまだ北で生きているのかもしれない。この北との戦いは、正史ではかなりの分量を裂いて描かれているが、私が読んだ他の三国志ものだと、(それらは劉備を主人公としていることもあってか)あっさりと片づけられている。この戦いがどのように描かれるか興味があるところだ。

・久しぶりに郭嘉が登場した。以前関羽の元に現れ、彼らを孔明に引き合わせた謎の坊主が郭嘉では無いかと思っていたがどうやら違ったようだ。他の軍師が「彼は殿の多面的な本質がわからない」というが、おそらくそれがわかっていないのは他の軍師達の方だ。曹操の多面性とそれぞれの方面での深さは到底常人の及ぶところではない。その面の多さのみをまねしてみても薄っぺらい猿まねに終わるだけだ。

郭嘉はあくまでも軍師たろうとしている。武の世界で曹操を越えようとしているのではない。自分の選んだ道に徹しようとしているのだ。

その彼が行軍の困難につきあたり浮かべる笑顔は彼の会心の笑顔のように見える。これであってこそ彼が選んだ道での才を発揮できるのだ。戦いは正と奇がいりまじり、極めがたい物である。平時には正のみに徹し、決まった道を歩むことで大過なくすごせるだろう。しかし戦いにおいては定石を覚え、それに従うだけでは結果は得られない。想像力を働かせ、そこに存在はしているが、誰も見えず、そして思いつけないものを見、それを実行しなければならない。その戦いにおいての自由な想像力こそが軍師たる郭嘉の生き甲斐か。その生き甲斐に出会ったとき彼の顔に浮かぶ笑顔はどこかうらやましくもある。

 

1999/9/16:十八巻 その二百二 誕生の宴

・文学が生まれた。今週書いてある「中国初めての文学」ということについては私はもう少し勉強せねばならない。しかしとりあえず書いてあることを正しい物とおいてみよう。

曹操は何よりも「才」を重んじた。そして人々の「才」を生かした。これは誰もが言えることのようでありながら、実は容易ではない。特に自分が異形の才を持った人間に「上司」として対したとき、何ができるかを考えてみれば良い。

相手は自分よりも何十倍か先を見通す目を持っているかもしれない。その「才」を生かせる立場では貴方のことを気にもかけないかもしれない。下手に口出しをすればあなたを馬鹿にするかもしれない。それであなたは部下の「才」を認め、自由にそれをのばし、かつグループとしてまとめることができるだろうか。

今までそう言うことが出来た人間を見たことがない。確かに存在する、とはあちこちの本に書いてあるが見たことはないのだ。さて、そうした場面に直面したとき、あなたが一番たよれるのは「儒」の思想である。自分は上役だから、年上だから、長く世の中にいるから部下は自分に従うべきだ、という「君は君たり、臣は臣たり」の思想である。あなたが本当に欲しているのは大抵の場合、"Yes Sir"と答える部下なのだ。

孔子の説いたところは深くそして現実に人に根ざしていたように思えるが、その後発達した儒家の思想は形式ばかりが強固になり支配者にとってまことに好都合なものであった。そしてそれが今日までアジアの隅々に生きているのは所以のないことではない。

先週の書評で「ふと思った。姦雄と呼ばれ、後世に悪名を残した曹操の元にどうしてこれだけの人が集まったのか。皆この楽士たちと同じように曹操から聞こえるメロディに惹かれたのではないかと。それが危険であるとしりつつも思わず一緒に奏でたくなるようなそんなメロディを彼は発していたのではないかと。」と書いた。今週を見ればその曹操が奏でていた音楽とは、個人の才を認め、不合理な束縛から解き放つ考えと、それを国としてまとめることのできる自信と度量だったのだと思える。

・或本によれば、人は「自分を認めてもらいたい」という欲望と、「それを拒絶されることへの恐怖感」との間で揺れ動いている存在だという。史記には「士は己を知る者の為に死す」とある。己を認めてもらえれば、死んでもかまわない、という感情だ。もし自分に自負心、自尊心というものがあり、それが儒という硬直した束縛から自由に表現できる可能性があるとなれば、そこが姦雄の君臨する国であっても人が、才が集まるのは当然だ。

・皆が曹操の奏でる太鼓に合わせて足を踏みならす。その音は「俺も自由にしゃべっていいのか。俺にもしゃべらせろ。俺の才を見てくれ。」という声の様に聞こえる。皆が献帝と踊り出す、その姿は自由であり、文字通り「手の舞い足の踏むところを知らず」といったようだ。

踊りとは音楽とは、人の心の表れ、叫びなのだと思う。決められた様式に従う事だけが踊りなのではない。様式を単に無視することだけが踊りでもない。様式を使ったり無視できたりしながら表される心のかたちこそが踊りなのだ。

・その踊りの中、それぞれの表情が描かれる。曹丕の表情はどこか興味深い。彼はすでに父の言葉に単純に感動するだけの子供ではなくなっているかのようだ。曹操という人間のすごさに感動する気持ちと、「確かに今は及ばない。しかし俺にもいつかは」という自負心がまざりあっているかのように思える。

 

1999/9/9:十八巻 その二百一 才の奔流

・このような漫画を観たことがない。

これまで蒼天航路を読んで何度かこういう感想を持った。しかし今週は今までにないほど驚いた。

献帝の前で、文、言葉に関する論議が巻き起こる。それを引き起こしたのは内におさえることができぬ才能を持った曹植であり、それを囃し、踊るのは曹操だ。孔融と陳リンが交わす言葉の論議を曹操は鼓をたたいて囃す。その論議に己の地位、そんなものでなくても己の意を持って割り入ろうなどと考えもしない。その姿は楽しんで居るとも真面目ともとれる。これこそが曹操の一つの顔なのだ。

今まで漫画でこのような人間の描き方を観たことがない。固いともとれる「言葉に関する論議」で人を描くとは。恋や争いや危機や挫折や日常の中で人を描く姿を何度も見てきたが、今週の蒼天航路を観た後ではなんとありふれた描き方かと思える。

彼らが発する言葉はこの作者が元から持っていた物なのだろうか、それとも作者が持っていた種がが曹操を描くうちにわき出てきた物なのだろうか。

・しかし。曹操は曹植を自分の子供としては全く観ていない。彼は曹植の才能のみを観ている。それは確かに天下人としては正しい姿勢かもしれない。しかし母親であるベン氏の涙ももっともである。

・父と私は誰に言われもしないのに駄文を書き散らかしている。この言葉はどこからわいてくるものだろうか。

・曹操が鼓をたたいたところで、楽器をもった女性達がぴくっと反応する。そして言われたわけでもないのに前のめりの真剣な表情になり楽器を構える。曹操の舞とともに楽曲がいきなりよみがえったような音を奏で始めたのが聞こえるようだ。

ふと思った。姦雄と呼ばれ、後世に悪名を残した曹操の元にどうしてこれだけの人が集まったのか。皆この楽士たちと同じように曹操から聞こえるメロディに惹かれたのではないかと。それが危険であるとしりつつも思わず一緒に奏でたくなるようなそんなメロディを彼は発していたのではないかと。

・今週号の表紙は曹家一族である。子供達と妻達が一人一人実に面白く描かれている。題字で隠されている部分があるのが残念だ。

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注釈

「自己の信念に忠実」は「現実を直視した上で」とワンセット:トピック一覧)半分だけなら簡単なことだが。本文に戻る

史記:参考文献一覧)この言葉に続くのは「女は己を喜ぶ物の為に容作る」である。本文に戻る 

士は己を知る者の為に死す:(トピック一覧):トピック一覧関連部分を参照してもらうと、この言葉に関するあれやこれやの考察を観ることが出来る。本文に戻る