題名:Clinton-part19

五郎の入り口に戻る

日付:2001/10/1

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2002/4/12-非理

中東情勢が先の見えない状況に陥っている。シャロンはアラファトを「敵」と宣言してしまい追放すら視野にいれているという。このような動きは近衛文麿の

「爾後国民政府を対手とせず」

と同じである。良かろうが悪かろうが交渉相手がいない状態でどうするというのか。この台詞をはいたあと日本がどのような状況に追い込まれたか。ただただ先の見えない武力行動の泥沼にはまりこんだだけではないか。いったい何がしたいのだ。

イスラエルの首相は大日本帝国の首相よりも分別-あるいは現実的な思慮-があってほしいと願うのみである。世界中にちらばりながらも生き延びてきた民族にはそうしたものがあってほしい、というのは今のところ願望にすぎない。

このようなニュースはいったん閉鎖され、先頃再会したCNN.CO.JPを観ればトップにでてくる。では親愛なるasahi.comはといえば、やれ参考人招致だのやれ政策秘書だの見出しばかりだ。少し前は失言報道ばかり、最近はスキャンダル報道ばかり。少しは政策のことも論じてはもらえないものかと思う。そうした話題ばかり取り上げていればすむほど日本は平穏な状況にあるとは思えないのだが。

しかしそうした騒ぎを観ていても少しは考えることがある。景気よく他人を批判する発言を繰り返したふたりの人間-辻本と田中という名前だが-は「国民的人気」を博した。人は無責任な批判的発言をなにより好むものだが、他人のそうした行動に賛意を示す人も少なくはないようだ。しかしそれはいわば喧嘩をしているときの野次馬の声援にすぎない。彼らはその主張に賛成しているわけでもその人物を支持しているわけでもないのだ。ただ騒ぎがおもしろいと。そうした「実体のない声援」を自分への支持と勘違いしたのが辻本。幼稚さ、素人っぽさを何より重んじるマスメディアには格好の人材であっただろう。しかし自ら危機に追い込まれたとき、マスメディアを「選択」して発言してしまったことが彼女の命取りとなった。

スポーツの報道を観ていても思うことだが、彼らは取材を拒否されることを極端に忌み嫌う。イチローが大リーグで活躍し始めたころ、以下のような記事を読んだことがある。

「今の大リーグはレベルが低下しているからあれくらいの活躍は当たり前だ。真の大リーガーになるためにはメディアの取材に答えろ」(勝手に要約)

マイクをつきつけ、舌っ足らずの声で発せられる

「今のごきぶんはぁ?今年は何本ヒットを打てますかぁ?」

という問いに答えることが真の大リーガーへの道、と主張しかねない位彼らは取材に応じない人間を容赦なく罵倒する。辻本の独占出演で視聴率をかせいだテレビ朝日以外はその時点から論調が変わったように思える。

その辻本に比べれば田中はまだ分別があるといえる。究極的にはどうなるかわからないが今は完全黙秘を続けているからだ。しかし田中にしろ鈴木にしろ権勢を持っているときにいかにいばりちらしたとしても末路は惨めな物だ。自分が気にもかけず買いまくった恨みはそこら中に残っており落ち目になった途端それが噴出する。芸能の世界では野村とかいう女性も同じ道をたどったか。「わかりやすい」言動でマスメディアに珍重され、落ち目になると徹底的にたたかれる。ここで勝者はどのフェーズにあっても部数、視聴率を稼いだマスメディアであり、敗者はそうした意味のない騒ぎに気をとられ、肝心な問題を忘れた人間なのだろうか。

現実を観ずに幻想の中に生きるのはそうした愚かな政治家と視聴者ばかりではない。みずほ銀行のオンラインシステムが統合早々とんでもないトラブルを起こし続けている。最近2chという掲示板を時々のぞくようになった。何かと悪評が高い場所だがマスメディアというフィルタを通さない「人の声」が聞けるのも確か。プログラマが集う掲示板には第一線でシステム開発をしているであろう人たちへの同情の言葉が寄せられている。

日本の兵卒は優秀だが高級将校は無能である、といったのはソ連の将官だったか。その伝統は今にも生き続けている。

「できるはずのない」

現実を無視し幻想に基づき無茶苦茶な計画を立案、第一線の兵士を戦死に餓死に追い込むのも、システム開発者を連続して徹夜させあげくのはてにはシステムの崩壊に追い込むのも根は同じ事。危機を伝える第一線の報告に

「そんな悲観的な事を言うとはたるんでる。徹夜してなんとかしろ」

と言ったところで現実は微動だにしない。ここで考えるべきは

「この会社は本業(システムを顧客に提供するのも立派な本業だが)でも同じことをしてはいまいか」

ということだ。回収が不能な債権に関する第一線からの報告に

「なんとかしろ」

と言ってそれは存在しないものと扱っていないかと。

しかし最近、現実の声に耳を傾けず無茶苦茶な計画を押しつけることは、体の良い責任逃れの方法でもある、ということに気がついた。「全部は絶対できません」と言われても決して

「これはやらなくていい」

とは言わない。結果として当初の要求は満足されないのだが、言った本人は

「私はちゃんとやれ、と言ったのに。やらなくていいとは一言も言っていないのに。できないとは全くけしからん」

と自分の責任ではない、と主張することができる。この場合全体としてみてそれは有効な方法か、などは考える必要がない。とにかく自分のケツさえ守れればそれで十分。できないものはできない。何故現実の世界ではこの自明とも思える命題がほとんどの場合偽とされるのか。その結果が今回のみずほのような騒ぎにさえならなければ、この

「無理を通して道理引っ込める」

ロジックが大手を振ってまかり通るのが世の中というものなのだろうが。

 

2002/2/5-会社と社会

着任早々重要な相手との会議を「心身ともにパニックだった」と土壇場でキャンセル。上司の意向とは全く異なることを出先でべらべら。つきあう相手の秘密も別の場所でべらべら。

統括することになった部署は確かに問題が多い。では職場風紀の改善ができるかと言えば部下ともうまくやれず、部署の機能はほぼ停止状態。では問題のある人間を更迭できるかと言えば、上司からの徹底更迭の指示に反し、ストライキをかまえる。上司から呼び出されれば「美容院に行く」といって断る。その間も仕事はたまる一方。

こんな人間が会社にいれば、「首にされて当然だ」と誰もが思う。しかし社会-政治の世界となるとそうは思われないのが不思議なところだ。無能な大臣を更迭したことで、内閣支持率が上がるかと思えば、落ちたのである。

時を同じくして大橋とか言う男も辞職した。この男がどのような人間であるかは以前から誰もが知っていたこと。私が驚くのはこのような人間に票を投じた人間の数-41万である。

前から時々考えることがある。会社での責任者は決して部下からの投票で選ばれたりしない。しかし社会の責任者はそうではない。民主主義とは衆愚政治でもあるのだ。無能な人間を首にしたことで離れる支持など最初からあってなきがごとき。しかしその数字の大きさには正直驚く。マスメディアはうれしそうに小泉離れ加速、などとはしゃぐ。つい先週まで外務大臣の非をあげつらっていた雑誌は一斉に前外務大臣を礼賛。内閣は、改革はおしまいだと騒ぎ立てる。前外務大臣が構造改革で何をしたというのか。思うに彼らは理由は何であれ騒ぎ立てれば売り上げが伸びると思っているのだろう。

その外務大臣が何もしなかった国際会議を経てアフガニスタンではようやく暫定統治機構が動き出した。女性は社会参加を許されるようになり、戦闘しか知らない男達は「仕事を探さなければ」という問題にようやく直面できることとなった。問題は山積しているのだろうが、「非戦」という言葉に隠れ判断を放棄してきた人たちは次の事実には目を向けねばなるまい。すなわちタリバンーアルカイダを崩壊させ、アフガニスタンの女性に顔を出す自由をもたらすためには爆弾と銃とミサイルの助けを必要としたということを。ひどい話だがそれが現実なのだ。ちなみに外務大臣の罷免に伴い内閣支持をやめた人たちの多くが読んでいるであろう雑誌で取り上げられているのは

「カルザイ議長のファッションと小泉首相の紋付き袴のガチンコ対決」

なのである。平和な国に住み戦争絶対反対を唱え、主張よりファッションに興味を抱く。そういっていられる安寧な生活は何に支えられているのか。

さて、会社-企業のほうではかの雪印の行為がまたもや発覚である。こちらは責任者が会社内でのルールに従い、社会のルールの方を軽んじた結果。しかし私にはそうしたことが行われる事情というのがなんとなく想像できたりする。最初につとめた会社の兄弟会社は少し前に不祥事隠しで名をあげてくれた。そしてその

「隠す」

という体質は私がつとめていた会社にも共通のものだったのである。

大きな企業に勤める。不満もあるだろうが、まあ一生懸命働きなさい。何?それはたくさん残業するってことだよ。上司より早く帰らないってことだよ。なに会社の言うとおりやっていれば食いっぱぐれはないんだから。意見はどんどん言ってくれ。だけど会社のやることは常に正しい。文句がある?君はもっと馬鹿にならなくてはいけないよ

今回の事件を聞き

「うちの会社にも同じようなことが。改めねば」

などと考える人間は所詮長くつとめることはできない。雪印と同じことをやっていても

「全くけしからん。企業としての心構えがなっていない」

と断言できる人間が出世するのが会社と言うところである。

しかしその中にいる間、そうした会社の文化は如何に大きな力を持つことだろう。私は自分がその会社を辞めるときどう感じたかをおぼろげながら覚えている。なにか大切な、重要なものを失う気がしてひどく不安に感じたものだ。それはあるいは「幻想」だったのかもしれない。しかし次の聖書の言葉も真実であろう。

幻がなければ民は堕落する」(箴言29章18節 日本聖書協会新共同訳)

自分で自分のあるべき幻想を作ることもあれば、○○社員という幻想で自らを律する人もある。それぞれの道だが会社が幻想を与えてくれなくなればいかに不安に思おうと自分で立つしかない。雪印につとめている人達は今そのchallengeに直面しているのか。

 

2001/11/20-XP

2001年11月16日の朝、NHKニュースではWindows XPの発売をこう報じた。(寝ぼけていたのでうろ覚え)

「高速大容量の画像表示などに対応したパソコンの新しい基本ソフトが発売されました......Microsoftがパソコンの基本ソフトを大がかりに改訂するのはインターネットブームを生み出したWindows 95以来6年ぶりになります」

昔の話なので記憶が定かではないが、日本でWindows 3.1が発売されたとき、NHKのお昼のニュース(当時昼みの時間、会社で放送されていたのだ)ではこういった。

「機種の違うパソコンでも同じソフトが動くようにする基本ソフトが発売されました」

いずれも実体を知っている人であれば、にやっと皮肉な笑いを浮かべるような表現だ。これらの台詞はMicrosoft社のなんらかの関与なしに想像もつかないし、天下のNHKが報道していることにどのくらい「同様の内容」が含まれているか想像するのはなかなか楽しいことだ。

実際彼らは利益を上げることが使命の営利企業だから、売るためであれば何でも書く。NHKはともかく週刊朝日などは

「ブッシュこそテロリストだ」

とラディンが涙を流すような見出しをでかでかと出してくれた。タリバンは宣伝や広告に金をかける必要が全くない。何かを言えば、それを「事実」として世界中のマスメディアが大きく報じてくれる。

毎朝TVをつけるたびに少し祈るような気持ちになる。何事も起こっていませんようにと。朝の5時前、いつもの音楽が流れているのを聞き少しほっとする。しかし戦いは現実に起こっており、そこで何が行われているか考えるだけでも気持ちが沈んでいく。

「戦いに勝つほどおぞましいことはない。負けることをのぞけば」

とはRed Storm Risingの中で引用されていた台詞。タリバンが撤退した意図は不明だしまだ戦いは続くのだが、「解放された」地域でひげをそったり女性が顔を出したりするのはよほど勇気がないとできないことだと思う。正と邪は我々が日常なんとなく考えているよりはるかに相対的なものだ。コレリ大尉のマンドリンという映画には、占領軍の一員であるチャーミングなドイツ兵とつきあったために、ゲリラから絞首刑にされるギリシャ人女性がでてくる。フランス解放の後にはドイツ兵とつきあったフランス娘は丸坊主にされた。あのようなこと、あるいはあれよりひどいことはどれほど行われているのだろうか。

「同盟とか連盟とかいうものにろくなもんはない」

というのは「沈黙の艦隊」の中の台詞。北部同盟、国際連盟、そうした団体に何を期待できるのか。期待せねばならんのか。

戦争を絶対起こしてはならないという固い決意を持つ、という言葉は実に手軽で費用もかからない。おまけに思考を停止するのにもってこいだ。しかし人あるところ争いがあるのがこの世の姿というもの。そこから目をそらしたところで現実は少しも変わってくれない。

城を攻めるのは下中の下策。戦の上手な人はそれを避け、相手の企みの段階でそれを破る、というのは孫子の言葉だがそうした意味で米国は初戦に完敗してしまったわけだ。戦後50年をすぎた今、日本でも「戦いが見えないうちに勝つ」ことを真剣に考えるべきではなかろうかと思う。武力に訴えるのがいやならば情報力収集能力を強化すべきではないか。孫子の最後が「用間篇(スパイを用いることについて)であるのは理由のないことではない。弱いウサギは大きな耳を持っている。そうしたためにこそ外交機密費があると思うのだが、その外務を司る役所は全く次元の異なった騒動ばかり引き起こしている。

かの外務大臣の異常さ、無能さをあげつらう必要もあるまい。何をしようと彼女を支持し続ける人はおそらく私が考えているよりも数多く存在するのだろうし、そうした声も20歳を過ぎていれば一票としてカウントされるのが民主主義というもの。しかしそうした無能な大臣をいつまでも罷免しない首相の態度は頑迷としか言いようがない。自分の信念を曲げないのは時と場合によっては賞賛されるべき資質だが、過ちを認めないことはいつの時代にも非難されるべき事柄だ。事態が流動的に推移し続ける昨今に当たってそうした態度は破滅的な結果をもたらしかねない。

しかし日本の一市民の生活にはアフガニスタンでの戦争や、議員先生方の愚行等とかは(今のところ)あまり関係がない。先日東京モーターショーに行った。この自動車業界というところは変わったところだと前から思っていた。自動車関係の情報を発するニュースサイトにはなぜかいつもキャンペーンガールの特集ページが存在しているのである。

テロの関係もあり、入場チェックは厳しかったし、「派手なパフォーマンスは自粛」というお達しがでているとは聞いていた。しかしそれであっても会場の異様さは予想以上だった。観客はいくつかのタイプに大別することができる。

・本当に車が好きな人

・暇つぶしにきてみた人

・普通の人が興味を持ちそうにない自動車部品に食い入るように見入るおそらくは、その業界関係の人

・カメラを抱え、女性の写真を撮ることだけが目的の男性

私でも興味を持つようなBMWのミニクーパーよりも、何を展示しているか全くわからないのだが、女性が二人変わった格好をして立っているブースの方が人を集めているのは異様としかいいようがない。冒頭に書いたWindows XPの発売イベントでも、結局人を集めたのはきれいな女性をゲストに招いたところだったと言う。こうした

「とにかくきれいな女性を出せば人集めができる」

的な文化はこの国のそこかしこに存在して私を悩ましてくれる。

同じショーに行った男は

「車の展示と、女性の展示と会場をわけてくれませんかねえ」

と言っていたが私も全く同感だ。撮られる女性が同意しているのであれば、それに対して他人である私がどれほど変質的なイメージを持とうが関係のないこと。しかしそうした場に居合わせたくはないのだ。女性の写真を撮りたい人には女性を、車を見たい人には車を。分煙という知恵に見習ってほしいものだが。

 

2001/9/30-New war

今回のテロに対し、こうした意見を何度か耳にする。

「テロには反対するが武力は何も解決しない。とにかく戦争はやめて」

こうした言葉で己の思考を停止させ、そこに安住していられる人を私はうらやましく思う。あるいはこれに

「国際法に則って対処を」

という言葉を恥じることもなく発表できる某政党のような神経もうらやましい限りだ。ラディンがのこのこと法廷に出廷すると言うのだろうか。出てこない場合はそう主張した人間が捕まえて来てくれるのだろうか。

こうした言葉を口にする人達に私が観たところでは共通する性質がある。すなわち

「ではどうするのか」

という問いに全く無関心でいられる、ということだ。ナチスドイツを打倒したのは「話し合い」だったのだろうか。チェンバレンが選択した「平和的解決」は事態を解決したのだろうか、それとも悪化させたのだろうか。オウム真理教によるテロを曲がりなりにも制圧したのは「話し合い」だったのだろうか。それとも警察力を削減し、宗教の自由をさらに認めたことだっとのだろうか。サリンを地下鉄に撒かれるのを未然に防げなかったのは何故か。歴史的な事実、そして冷徹な現実から目をそらしているのはあやしげな教科書を記述する人たちだけなのか、「武力反対、平和的な話し合い」を叫び続ける人達はどうなのか。

人間がどのような願望を持とうと、現実の世界に存在するのは

「最低の手段」

「最悪の手段」

の間での選択がほとんどではなかろうか。見通すことのできない未来に対し困難な決断を下し、それに責任を持つのが現実世界で生きる、ということだと思うのだが

「最悪の選択肢はいやー。最低の選択肢ははんたーい。」

と叫び、「平和」「話し合い」という言葉で思考を停止し、決断を回避、それへの責任を負わないことが大手を振ってまかり通るのもこの世の姿ではあるのだろうが。

その経済に関するコメントはあまり尊敬するわけにはいかないDr. Ed Yardeniがコラムで「ブッシュの演説は見事だった」と述べている。CNN.COMに掲載された全Scriptを読む限りその意見に私も同調しないわけにはいかない。これはまさしく攻撃を受け、多数の国民を殺傷された国のリーダーの言葉だ。そして、それを読み、次のような疑問を頭に浮かべることは多分無駄ではないと思う。すなわち太平洋戦争で飛行機に乗ったまま「敵艦」に体当たりした人達、ビルに突っ込んだテロリスト、それにBushが演説で触れた人達-携帯電話でハイジャックされた他の旅客機がビルに突っ込んだ事を知り、自らの命をなげうってテロリストに立ち向かった乗客-の間に違いはあるのか。あるとすればそれは何なのか、と。

そのアメリカは今までの所、という強固な条件付きだが、実に冷静に賢明な対応をしていると思う。前政権の「思いのままにミサイルをぶっぱなす」から一転し、慎重に外交努力、情報収集を行っている。テロリストとの戦いは、国と国との武力衝突のようにはいかない。米国政府高官が口にしているように、この戦いは武力だけで短期に勝利を得る事ができた湾岸戦争とは全く様相を異にすると思うし、そうでなければならない。Infinite Justiceというかなり思い上がった作戦名がEndurnig Freedomと変更されたのは、そうした認識を示すものではないかと考えたくもなる。「最悪の選択肢」であっても、テロリストと同じレベルで殴り合うことだけは避けるべきだし、それは可能であってほしいと願っている。

 

それに対し、相変わらずワンテンポ遅れて対応しているのが愛する我が国である。湾岸の時は金だけ出して、他の国から無視された。これはいかん、と10年たった今しゃかりきになって自衛隊を動かそうとしているが、今度は戦い自体の性質が変わってしまっている。武力だけでなく、外交、金融、情報、難民支援など多角的な総合力を必要とするものになっているのだから、イージス艦など出さずとも身のある貢献の方法はいくつもあるはずなのだが。

しかし多くを望むのは所詮無理かもしれない。せめて足だけはひっぱらないで、何もしないでいて、というのが期待できる最善のところではなかろうか。日本の外務大臣はテロの直後に米国国務省の移転先-重要機密事項だ-を記者団に向かいぺらぺらしゃべってくれた。こんな国を下手に戦闘に参加させたら、何をし出すかわかったものではない。

そうした無能な人間を情報や判断の外に置くのは当然の義務。しかし国家が危機に瀕している今こそ無能な大臣達を罷免し、その職責を果たせる人間を任命すべきではあるまいか。自分の判断に責任を持つのは悪いことではないが、それは過ちをそのままにしておくことで果たせるものではない。

 

さて、同じく環境の変化にテンポ違いの対応を続け衰退の一途をたどる日本のプロ野球では無能な監督がようやく辞表を出した。それに対する「街の声」というのは所詮メディアが好きに編集するものだが一人として

「彼の監督としての手腕を惜しむ」とも

「あれだけ無能な監督は辞任すべきだ」

ともいわないのは異常な事だ。昔ヒーローだった。あこがれの選手だった。それが監督として何の意味があるのか。いや、それが意味を持つような世界を作り上げてしまったがために、実力のある選手はどんどん国外に逃げ出し、今や全体がMLBのファームとなろうとしているのだ。その球団を中心にプロ野球の素人芸化を推進した某TV局は今度のテロの恐ろしいシーンに音楽や効果音をかぶせ(私は観ていない。他人の文章で読んだだけだが)報道したという。彼らが何よりも愛する視聴率の低下から彼らが何かを学ぶことはあるのだろうか。

 

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注釈

 異常な事だ:「それだけは聞かんとってくれ」「第102回 いい人なのに」参照の事。本文に戻る