題名:主張

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日付:2000/12/27


大統一理論について (2001/1/4)

などと仰々しい題をつけてみたが、ここから書くことは本来の大統一理論とはほとんど関係がない。とはいっても、私がこの言葉をどのような意味で使っているかは書いて置かねばならない。

この世の中には様々な種類の力がある。とはいっても愛の力だの天行力だのハンドパワーなどというものではない。きちんと物理の世界で定義されている力だ。強い核力、弱い核力、電磁気力それに重力であり、最初の二つはなにやらさっぱりわからないが電磁気力のおかげで携帯はぶるぶるとふるえ、最後の重力のおかげでりんごはすこんと落ちる。これらに加えて5番目の力を発見したと叫ぶのは自由だが、それにはかなりの勇気もしくは無神経さが必要である。

さて、この文章の題名、「大統一理論」とは何なのかと言えば、このうち最初の3っつの力-強い核力、弱い核力、電磁気力-は

「大統一エネルギーと呼ばれる非常に高いエネルギーでは区別が付かなくなり、単一の力の異なる側面にすぎなくなる」

というものである。つまり異なるように見える力も高い高いエネルギー状態では統一されている、と考えるわけだ。逆に言えば高いエネルギー状態で同じように見える力でも低エネルギーに持ってくれば別の異なった力になる。

 

さて、私は聞きかじった知識を見当はずれな方に適応して妙な蘊蓄をたれるのが大好きである。一般相対性理論が語るところによれば、質量を持つ物体の周りの空間はゆがんでおり、その空間のゆがみが「重力の作用」として観測されるという。などと聞くと内容の理解もほったらかし、さっそく使わずには居られない。以前働いていた職場に大変体格のいい男がいた。この男は上半身が異常にがっしりとしており、身長も結構高い。とにかく質量が大きそうだ。ただ単に太っているのではなく、こうしたがっちりした体格で大質量の男、というのは周りにいると圧迫感を感じる。私はある宴会で(もちろんこの男が居ないときだが)

「あいつの周りによると重力場がゆがんでいる気がする」

とわめいた。この訳のわからない冗談に一人だけ反応してくれた男がいた。彼はその昔大学で超弦理論などを専攻しており、この「重力場がゆがむ」という言葉が彼の心の琴線にふれたのだろう。若干一名にしても受けてくれたことで大変私は気をよくし(私は滅多に冗談を言わないが、それは思い浮かばないからではなく、受けないからである)次なるネタを考えた。

ある日私はその男と「好みの女性のタイプ」について話をしていた。私と彼があげる「好みの女性芸能人」は全く異なっていた。端的に言えば「女性」ということ以外に共通項はないように思える。しかし職場にいる女性の中で好みのタイプは、という質問に対する答えは一致した。彼はその事実をもって

「二人の女性の好みはそれほど異なっていない。なぜなら共通項があるからだ」

と主張した。しかし私はそれに異を唱えた。

「彼女は大統一理論における超高エネルギー状態のようなものだ。彼女が好みだからといって、それは何事も説明したことにならない。低エネルギーになれば、君と私の好みは電磁気力と強い核力ほど異なっているかもしれないのだ」

残念なことにこの比喩は全く受けなかった。しかし自分で適当にでっちあげたこの言葉が私は結構気に入っている。なぜならばこの理論は結構応用がきき、それを支持する現実の観察結果もけっこうたくさん存在しているからである。たとえばこうした「大統一エネルギーを有する女性」というのは数十人か数百人に一人、あるいは数千人に一人かは知らないが、確かに存在するのである。多少の女性の好みの違い、性別の違い、あるいはゲイであるかストレートであるかに関わらず

「彼女は素敵だ」

と言わせるような女性が。あるいはそんな例をあげなくても世代を越え、好みを越え愛されていくものを揚げれば十分かもしれない。たとえばビートルズの音楽。私にはあの素晴らしい作品達は大統一エネルギーの域に達しているように思えるのだ。そのエネルギーたるやすごいもので、今でもCD屋とかでビートルズのメロディが流れていると、併せて歌ったりそこらへんを叩いてリズムをとったり、はてまた踊り出したりする衝動を抑えるのに苦労するのだが、これは私だけではあるまい。

 

何ですか。その視線は。

 

さて、私がこうした自分がでっちあげた真理に到達したのは数年前のこと。何故今になって文字にしたかと言えば訳がある。

うちの父は何故かはしらねどインターネットというものをそれほど高く評価していない。あれこれサイトを見たがくだらない事を書いているサイトばかりだというのだ。そこから派生して世の中に存在する不合理のいくつかの背後にインターネットの存在があるのではないかと父は考える。確かにそのうちのいくつかは私も反論しようがないものだから、真っ向から反論したりはしない。しかしこう言ってみるわけだ。

「しかしお父様。父上が書いた文章を見知らぬ人にも読んでもらえ、感想を送ってもらえる、というのはこれはインターネットの良いところではありませんか」

父に語りかけた言葉であるが、その意味するところは自分にとっても真実だ。何の目的もなく、せいぜい会社の仲間内で回覧する文章、あるいは仲間内に回覧しても絶対読んでもらえそうもない文章を色々な人に読んでもらえる。そして運がよければ感想を教えてもらえる。あと数十年早く生まれていれば、おそらくこうした事は知らないまま生涯を終えていたことだろう。

そこから私は言葉を続ける。

「インターネットの中にはそれはそれはたくさんの訪問者を集めるサイトがあります。そうしたサイトはたくさんの、色々なタイプのサイトからリンクされています。大統一エネルギーのようなもので、そうしたサイトは個々人ごとに異なる”好みのサイト”の傾向を越えて支持を集めるのです。

そうしたサイトに比べると、うちのはまあ低エネルギー状態における弱い核力のようなものでしょうか。万人に受けるというわけにはいかないようです。しかし丁寧に読んでくれる人たちもいて、そうした人たちに私はいつも感謝の念をささげているのです。」

父が私のわけのわからない比喩にどのような感想を抱いたかは定かではない。私がわけのわからないことを口走るのは今に始まったことではないし、その戯言に二番目に長くつきあったのは父だろうから(一番はたぶん母だ)今更どうとうこともないのかもしれない。しかし私が言いたかったことは伝わったらしく父はうれしそうな表情を浮かべた。

そして私も心の中で笑顔を浮かべている。大坪家の書庫を作り始めて3年立ちました。節操もなく目的もなく書き散らしている文章なのですが、読んでいただけるのが何よりもうれしいことです。訪問してくれた人には様々な理由があるでしょう。真面目に暗号について学ぼうとおもったり、あるいは私を実生活で知っており「大坪は何を書いているのか」調べようと思ったり、はてまた「パンスト」「恥ずかしい 体験談 看護婦」あるいは「自殺の仕方」について興味を抱いていたりする人だったりするかもしれず、このサイトがご期待にそえるものであったかどうかもわかりません。しかしその訪問が、頁が開いた瞬間

「なんだこれ」

と思って「戻る」ボタンを押されるようなものであったとしても、私たち親子にとってはうれしいことです。というのは真っ赤な嘘で、そうした行動を示すアクセス解析ログを見ると

「ああ。やはり芸のない稚拙な文章ばかりのサイトなんて読んでもらえないのね。しくしく」

となるというのが本当なのです。しかし私は見栄っ張りだからそうした事はあまり公にしないのであったがまあそれはそれ。

 

この先このサイトがどうなるかは解りませんし、それどころか私がどこまで生きているかも定かならないのが世の定めですが、最近こうした駄文を書き散らすことが結構気に入っていることに気がついています。

私が幼少の頃の夢の一つは

「年をとっておじいさんになったらおうちで少年サンデーを読んですごしたい」

でありました。三つ子の魂百までともうしまして今でも考えていることは大してかわらないのですが、最近この夢を少し修正したいと思っています。

「おじいさんになって引退したらおうちで雑文を書き散らしてすごしたい」

と。

このサイトが大統一エネルギーの高みに達することはおそらくないでしょう。しかし少しでも人に読んでいただけるかいがあるものにするべくそこそこと精進を続けたいと思っているのです。気が向いた時で結構ですので末永く訪問していただけると幸いです。

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注釈

というもの:「ホーキング宇宙を語る」(参考文献)から本文に戻る

少年サンデー:なんでこんなことを考えたかと言うと、当時少年サンデーは一年に一冊買ってもらえればいいほうだったからである。実はそれが毎週発行されている雑誌で、読み捨ててもよい、ということを知ったときの衝撃は大きかったが。本文に戻る