題名:-693934日

五郎の入り口に戻る

日付:2001/12/2


目を覚ますと、一時間十分寝過ごしていた。

なんとは無しの不快感とともに上半身を起こす。自分で決めた起床時刻だからそれほど律儀に守る必要はないとは思う。しかし自分が忙しい、というか少なくとも問題を抱えている身であることも知っている。惰眠を貪る贅沢は許されない、とかすかに気がせくのだが1時間10分余分に考えたからといってその問題が解決するとも思えない。

などと考えているとどうにも体を持ち上げにくい。ええい、うだうだしている場合か。伝え聞くところによると時の行政府の長も言っているそうだ。

「明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。”人間のつとめを果たすために私は起きるのだ”」

起きなければ。そして自分の、人間としての勤めを果たすのだ。というか首になると困るからとにかく行くのだ。

職場に着くと日々の細々とした仕事が待ち受けている。それを半ば機械的にこなしながらも頭からはより大きな問題が離れない。内なる葛藤にうち勝って職場にはきたものの,,,うちの団体いつまでもつのかな。つぶれちゃったら失職だなあ。このご時世求職活動はつらそうだし。

それは彼の行く手にたれ込めた暗雲とも言うべきもの、いや雲よりももっとはっきりとした形を取り始めている危機だった。彼が所属している団体はここのところどんどん縮小している。如何に多くの支持者を獲得するか。その競争に負けつつあるのだ。

頭を振って自分に言い聞かせる。ネガティブな考えにとりつかれてどうする。大丈夫。こっちの方がはるかにその説くところ、目指すところにおいて勝っている。それについては自信がある。皆にそのことさえ理解してもらえれば、、しかしあのミスラとかいう奴の華やかさはどうだ。みんな我々の素晴らしい言葉を聞く前にその輝きに魅せられてあちらにふらふら、というのが現実だ。

「ええい、理を解さぬ愚民共め」

心の中でひそかにののしりの声をあげ、あわてて自分を叱りつける。何を言うのだ。人類皆兄弟。Nobody is perfect.右の頬を打たれたら左の頬を出すのが当団体のスローガンではないか。しかしなんとなくわかるのだ。その民達の気持ちが。私だって自分の内なる声に耳を傾けるだけの勇気があれば聞こえるかもしれない。

「なんだか華やかで楽しそう」

という声が。いや何を不遜な事を。

そんなこんなとを考えているうちに、いつしか会議の時間となる。はいはい。会議をするのも神の御心にそうというわけでございますね。ああ神よ、あなたの御名において会議なのです。何度聖書を読み返しても、そりゃあもう隅から隅まで一語たりともおろそかにせず読み返しても

「会議をしなさい。そして時間を浪費しなさい」

と言ったあなたの言葉は見つからないけど会議なのです。劣勢を挽回する起死回生の案を協議するための会議なのです。しかし会話の75%は意味不明なのです。残りの25%は評論と愚痴なのです。でも会議なのです。そして周りの雰囲気から察するに私は発言を求められているようなのです。

「私もこの現状には心を痛めております。可及的すみやかに当方の総力を挙げて不退転の決意で取り組むべきと存じます。」

この発言が適切なものであろうはずがない。しかしそれは問題ではない。どうせ奴ら-特にあの長老-は人の話など聞いていないのだ。席の端に座っている長老タガマッティはちょっと表情をゆがめただけでまたわけの分からないことをしゃべりだす。

会話はまた私から離れていく。空気の振動で揺れる鼓膜を感じつつボンヤリと考える。あの団体が信奉する太陽の象徴ミスラ。ああ、はなやかだよなあ。輝いてるよなあ。5才になる私の子供が冬至に行われるミスラ教の祭りに参加したいと言ってきかない。キリストの言葉を並べ、理を尽くして説明しても行きたい、行きたいの繰り返し。しかし泣きわめかれようがけっとばされようが子供の参加を許す事ができないのも当然だ。

でもなあ、彼は心の中でつぶやきながら壁に飾ってある像に目を向ける。やせさらばえた男が十字架にかけられたその姿は確かに何かを語っているのかもしれないが、ただでさえ気分が滅入りがちなこの時期にふさわしい物とも思えない。それにくらべてあのミスラという奴は、、、いかんいかん。

かすかに頭を振ると彼の意識はほんの少し会議に戻る。どうやら

「当団体も、ミスラの祝祭に対抗するイベントをぶちあげよう」

という話しになっているようだ。対抗するイベント。それは一体なんだ。何ならあのスローガンを実践してみるか。彼の心は再び内なる世界に向かう。聖職者総出でベニヤ板(ところでベニヤ板ってなんだろう)から顔だけだして客に左の頬を殴らせる。そして微笑みを浮かべながら呼びかけるのだ。

「右の頬にもあなたの鉄拳を。さあっ、さあっ」

彼の脳裏にはその光景が鮮やかに描かれる。延々と続くベニヤ板からつきだされる顔、顔、顔。頬を張らし口から血を流しながらも微笑みを浮かべる顔が並ぶ光景はなぜか彼の感性を刺激する。一番腫れ上がっているのはあのうっとうしい長老タマガッティの顔。いつしか自分の顔が緩んでいたのに気がつかなかったのは不注意であったか。

はっと我に返る。会話はいつしか静かになり、視線が自分に注がれている。一人黙って怪しげなほほえみを浮かべる自分の姿はそれほど異様であったか、という考えにたどり着いたのはそれからだいぶたってのこと。今はそんな余裕はない。

何かしゃべらなくては、しかしいくらなんでも同じことをいうわけにはいかない。しょうがない。ここは苦しいときの神頼み。

「ジーザスの。。。」

と言い出したところで部屋にざわめきが広がり、その後を続けるのをためらってしまう。「ジーザスの御心のままに」とかなんとかいおうと思ったのだがこれはどうしたことか。周りの反応を見てみると眉をひそめるもの。半分笑っているもの、つまるところ何かよくないことを言ってしまったらしいのだが文脈がわからないことにはなんともならない。

やがて長老タガマッティが口を開く。場は静かになる。

「では彼の提案を取り入れることにしよう。12月25日はジーザスの誕生日という線でイベントを企画する。責任者は彼。本日はこれにて散会」

参加者は哀れみとも嫌悪ともつかない表情を彼に向けながら部屋を出ていく。彼にできることは曖昧な笑顔を浮かべながらそれにうなずくことだけ。

その後後輩を脅しつけてようやく自分が何の責任者になったかを知ることができた。とにかく派手なイベントということで誰か偉人の誕生日にしては、という提案がなされたその瞬間、私が恐れ多い名前をいってしまったというわけだ。後輩は言う。

「(私の名前)さん。タガマッティ、"にやっ" てきたない顔をゆがませてましたよ」

私は頭を抱える。せめてその場でそのことを知っていれば

「いやー、つい茶目っ気を出してしまうんですよ。まあいろいろなアイディアを出した方がもりあがるでしょん。えへへへ。」

とかなんとか言ってごまかしたものを。しかしこんな無茶な案にすがるなんて、長老も相当煮詰まっているんだな。

しかし何をしろと言うのだ。ジーザスが生まれた時の様子はまあそこそこ記述されているが、それだけでは情報が足りない。そもそも彼が12月25日生まれだという証拠はどこにもない。いままでは季節がいいから、という理由でなんとなく春だとされていたのだ。桜の花びらが美しく舞う中神の御子がお生まれになる。いい絵柄じゃないか。それをいきなり真冬のこの日にったあいくらなんでも無茶ではないか。ミスラの連中が我々に向ける言葉が聞こえるようだ。

「あーあ。何も我々に対抗するためにそんな無茶なことまでしなくてもいいのに」

「よっぽど煮詰まってるんですねえ。あなたがたの幸運をミスラにお祈りしてあげましょう」

ううむ。では何かでっちあげるか。

「ジーザス生誕の謎を解き明かす幻の古文書発見」

とか言って。しかし相手が相手だけになんとなく天罰がありそうな気がする。考えようとするだけで萎縮してしまいそこから頭は一歩も動かない。

嗚呼、聖職者の身でありながら不遜なイベントの責任者にされてしまった俺の運命や如何。大丈夫か、俺。やれるのか俺。

などと頭の中で言葉をつなぎあわせてみる。それが半ば芝居がかったものであるのは、その後に「にやっ」と笑う自分の顔を想定できるからだ。タガマッティの奴め、無理難題を私に押しつけ自分から遠ざけたつもりだろうが、そうはいかない。最近

「設定された条件の元で好き勝手なストーリーをでっち上げることに喜びを見いだす人間の一団」

がいることを知ったのだ。彼と彼女たちは、かのキリストに対して不遜な駄洒落を言うことなど全く意に介さない。まだ時間はある。「キリスト」「生誕」「12月25日」と縛りを設定し一月も予告しておけば、結構な数の「伝説」が集まるに違いない。彼はその時のことを想像し始める。ああ、どんな文章が集まるのだろう。きっと想像を絶するようなものがこれでもかこれでもか、と発表されるに違いない。そこから厳選したストーリーをタガマッティにぶつけてやる。その時こそ奴の顔がゆがむのをじっくり観察して絵日記に書いてやる。

寝床にはいってそんなことをしばらく考える。いや、そんな先の事を考えるのはやめよう。どうせ先の事なんてわかんないし。かの行政府の長-いや皇帝と呼ぶべきか-も言っている。

「想像の産物は抹殺してしまえ」

そう、それは無駄なことなのだ。彼が如何に想像力を広げようが今日なされた決定が時間と空間を越え広がっていくということなど思いもよらない。それどころかそうして広まった先でその日について好き勝手な法螺を文章にする輩がうじゃうじゃいようなどお釈迦様でも見通せまい。

そうしているうちに時間は過ぎ、自然は彼に安らぎをもたらそうとしている。頭の動きはゆっくりとなりやがて彼は眠りに就くのだった


デジタルライフで開催された「クリスマス雑文祭」参加作品である。縛りは以下の通り。

テーマ クリスマスにまつわるお話。

* 題名 特に決めません。…特に決めません、という題名ではありません。お好きなように付けてください。

* 始め 「目を覚ますと、一時間十分寝過ごしていた」

* 結び 「眠りに就くのだった。」

* お題 文中に以下の三つのフレーズを入れてください。漢字を開いたり、句読点を変えたりしてかまいません(始め・結びも同様)。

「なんとなくわかる」

「つい茶目っ気を出してしまう」

(クリスマスの駄洒落を一つ入れる)

 

縛りのアイディア募集段階ではもっと困難きわまりないものも揚げられていたのだが、幸いにしてそれらは無くなった。しかし「駄洒落」をどうしてくれよう。私は普段駄洒落は滅多に使わないのに。この最大の難問は、会議の時間、私の頭から無駄な会話をシャットアウトし、沈思黙考するネタとなってくれた。これはうれしい誤算と呼ぶべきか。かくのごとく私は駄洒落を生み出す過程に喜びを見いだしてしまったからその結果については知らないのである。

この文のアイディアはアイザック・アシモフ著、山高昭訳「時間と宇宙について」の「ものみな始めあり」からとっている。該当部分を以下に引用する。

「ローマ帝国の時代に、勃興しつつあったキリスト教にとってもっとも危険な相手はミスラ教だったが、これはペルシャに発した宗派であって、太陽を熱烈に崇拝するものだった。その儀式は太陽を象徴するミスラという神話的人物を中心に行われ、その誕生日は12月25日、すなわちほぼ冬至の頃に祝われた。(中略)

ところが、キリスト教はイエスの生誕を12月25日にすることによって、(これを裏付ける伝記的な証拠は何もない)ついにミスラ教のお株を奪ったのである。」

であるからして根っから私がでっちあげた話しでもない。当初

「クリスマスという言葉を使わない」

とか

「恋愛話、もてない話はダメ」

という縛りも候補に挙がっていた頃、どうしてくれようと思っているうちにふと思いついたのである。文中に引用した行政府の長-皇帝の言葉は「自省録」から取ったが、12月25日がキリストの誕生日になった当時の皇帝がマルクス・アウレーリウスであったかどうかなんて私の知るところではない。

題名は当初「愛されることについて」、次に「ものみな始めあり」とし、最後には妙な数字となった。この雑文祭りの告知ページにはJava Scriptを使ったカウントダウンがあったのだが、Netscapeのブラウザではこの数値が表示されたのである。主催のあいば氏によれば、この日はローマ時代、キリストの処刑後にあたるという。誕生日が12月25日にされてしまったのはそれからだいぶ後かもしれないが、そういう細かいことはクリスマスに免じて気にしないのである。

とは書いたものの、あまりに長くておもしろくない、とは雑文祭に参加した他の人の文章を読んで思うところ。というわけで

「つまらないなら、せめて短く」

をモットーに書いてみたのが続編

 

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注釈