題名:映画評

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日付:1998/3/8

修正:1998/4/22

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最終絶叫計画-Scary Movie(2000/9/3)

私は

「アメリカ的な徹底的な馬鹿馬鹿しさだけがある映画」

というのは結構好きである。Austin Powers, Hot Shot, Naked Gunシリーズなど。こうした映画はやはり乗れるか乗れないかで評価は180度反対になると思うが、私はいつも楽しんで観ている。

さて、この映画は題名からしてばかばかしい。邦題を誰がつけたか知らないが、原題を直訳すれば

「恐い映画」

である。何のひねりもない。そして映画そのものも同様である。

「馬鹿馬鹿しさだけがある映画」は確かなのだが、その「馬鹿馬鹿しさ」は、どんなくだらない下ネタでも、伏せ字になる言葉があるだけで笑える中学生か小学生が喜びそうなものだ。この映画に比べればドリフターズの

「8時だよ全員集合」

のほうが知的な笑いであるかのように思える。従ってたった1時間半の映画なのだが、やたらと長く感じた。

ビデオで観るのが適当と思うが、それでも最後まで観るのはなかなかつらかろう。ビデオの最初だけ観ればよい状況(これは何のことだろう)ではよい選択肢かもしれないが。

 

ミッシヨン・インポッシブル2-Mission Impossible 2 (2000/7/8)

まずこの映画の良いところ。主演女優は実にエキゾチックに美しい。彼女は黒人の血を引いているのだろうか。Mission Impossibleではフランスのちょっと変わった雰囲気の美人を起用していた。二人に共通するのは、美しさとそれがくずれる一線上でバランスを保た美しさを持っていることである。その伝統は受け継がれたようだ。

他には何を書けばよいのだろう?Mission Impossibleは謎解き、化かし合い。それに派手なアクション、と楽しんで観ることができる映画だった。一部で「ストーリーに無理がある」という意見も聞いたが嘘は嘘として楽しんで観れた。

「2」になって何が残ったか。底の浅いベタな恋愛。ご都合主義で理解に苦しむストーリー。「これはやられた」と思えるところは一つもなかった。

そして最後に延々と続くのはこれまたとってつけたようなアクションシーン。単に「バイクのアクションをいれてみたかったぞ」と言うのか。それとも「カンフーアクションもできるところを見せたかったぞ」というのか。

昔懐かしの音楽は作品ごとにアレンジされる。Mission Impossibleのアレンジはとても気に入っていた。しかし今回最後に流れるアレンジは雑音としか聞こえない。

私が敬愛するAnthony Hopkinsは指示をだす役で登場する。しかし彼自体はストーリーに何の関わりもない。ただでてきてセリフをいくつかしゃべっただけ。なんというもったいない使い方だろうか。

正直言って何を考えてこの映画を作ったのか聞いてみたい気がする。柳の下にドジョウがいない、というのは知っているが、せめてミミズくらいいたっていいではないか。「シュリ」はハリウッド映画においついた、という宣伝文句がついていたが、この映画を観た後ではそれはあながち嘘ではないのではないか、と思える。

 

グラディエーター-Gladiator(2000/7/1)

この映画のポスターには

「これは2001年のタイタニックだ」

というどこかのレビューが載っている。観る前にチェックしたCNNのレビューは

「この映画では、ストーリーを気にしてはいけない。明らかに撮影をしながら脚本を書いている。」

見終わった後の感想を二つ。

「こんなにCGにつぎこんだ大金を浪費した映画を観たのはGodzilla以来だ」

「東洋の始皇帝暗殺、西洋のGladiator」

特に最後のは気に入っている。この映画も一番すばらしかったのは最初の戦闘シーンだ。そしてその後はだらだらと物語が続く。昔クレオパトラという映画はその豪華な撮影セットや長期ロケの費用でハリウッドを傾けたそうだが、CGの進歩でローマの街並み、それに大群衆の再現をしてもハリウッドはびくともしない。それらのシーンは印象的だが、ストーリーにはどうしても金を払う気になれない。そして始皇帝暗殺と同じく

今の価値基準を過去に持ち込む

のてんこ盛りだ。

「民主主義万歳。権力を皇帝から民衆の代表たる元老院へ」

「人権を守ろう。殺戮より慈悲を。Gladiatorの戦いは廃止」

Godzillaと同じく映画が終わったときに人が席を立つ速度の速かったこと。この映画を「映画の日」の特別割引で見たのは正解だった。(金返せといっても-1000円なのだ)主演男優と憎まれ役の男優はいずれも好演していると思う。すばらしいCG。良い演技。それで映画か退屈なのだから「金の浪費」という言葉が頭をかすめるのもしょうがない。

 

さて、映画を観ていて考えたことを少し。この映画の中では剣闘士の戦いは見せ物であり、それに歓呼する観客の姿は人間というものの心の一端を現している。今でこそ死刑廃止論がまかりとおっているが、そう遠くない過去に死刑もまた見せ物だったのだ。

人間という動物の質がそう簡単に変わるとは思わない。今はルールの中での格闘技がその変わりを果たしているのか、あるいはコンピューターゲームがその一端を担っているのか。いずれにしても人間が自らの野蛮性を飼い慣らす努力、は少なくとも或程度の成果を収めていると思ってもよいようだ。

 

シン・レッド・ライン- The Thin Red Line(1999/4/29)(参考文献へ

この映画を見始めて、30分くらいたったときに、わたしの前に年輩の方が座った。この人は大変姿勢がよろしく、わたしの視界の下半分は常にこの人の頭でカバーされることになった。

普通だったらこういうことがあっても、大して気にはしない。ところがこの日は最後まで頭が気になり、この人の頭の動きの反対の方向に移動して大変だった。何故か?

この映画には筋というものが存在しない。特定の主人公がいるわけでもない。登場人物は次々と現れ消えて行くがそれぞれ大して印象的でもない。戦争のシーンとともに、平和な島民の生活と美しい自然、それに母国での平和な思いで(女性といちゃついているところだが)がランダムに(もちろん制作者には意図があるのだろうが)まざる。なんとなく何を描こうとしたのかわからないでもないのだが全般的に見てただ退屈なだけだ。

そうした筋のない映画の中で唯一一貫しているのが、最初から最後まで誰かの独白が流れていることだ。これがいかにも「戦争映画」で流したくなるような独白で、さっぱり何を言っているのかわからない。深みのある言葉があればいいのだが、訳を見る限り自己陶酔の癖がある中学生が日記に書きそうな言葉の羅列だ。それらの言葉はとても英語では聞き取れない。それでなくても筋がないのだから、映像だけ見ていてもなんのことやらさっぱりわからない。ますます字幕を読まなくてはいけなくなる。それが前の人の頭が気になった理由だ。つまりこの映画は映像でかたるよりも独白が中心だったように思えるのだ。詩の朗読のように。

宣伝文句を見ると、この監督は20年ぶりに復活を遂げたそうだ。この映画を見ていると20年間沈黙していたのはちゃんと理由があったのではないかと思えてくる。こうした訳の分からない言葉が並ぶ筋のない映画(あるいは他の形式-たとえば演劇-であっても)を大変喜ぶ人たちがいるのは知っている。しかしわたしは幸か不幸かそういう感性を持っていない。2時間51分ただ退屈なだけだった。わたしには力んで作ったのはわかるけど「すべった」映画として写るだけだ。

この映画の舞台はなぜガダルカナルなのか?この内容だったらどこの戦争でも同じではないか?と考えていて、おそらく南洋の島の美しい風景をいれたかったからだな、と思いついた。こんな美しい場所で人は殺し合わなくてはならないのか?という陳腐な言葉を言いたかったのか。そう思うと私の頭の中には次の言葉が浮かぶ。そうだよ。周りが人間の目に美しい南洋の島だろうが、地獄のようなジャングルだろうが、冬のロシアだろうが、戦争ってのは定義によって殺し合いなんだよ。南洋の島が美しいってのも人間の目にそう映るだけで、自然の中でも生き物は殺しあってるんだよ。

実際映画の設定を考えるときそれ以外に理由が見あたらないのだ。相手が第2次大戦の日本人であることに何の意味があるわけでもない。戦闘を描いたシーンは、一昔前の米国兵はほとんど死なない戦争映画を見ているようだ。(機関銃5丁を持った少なくとも日本兵20名がひそんでいるトーチカを破壊するのに、小銃持った米国兵7名だけで十分なのだ)

この映画にでてくる日本軍はとても弱い。彼らは遠くから砲撃と銃撃をしている時は強いが、米国兵が白兵戦でつっこむと自動小銃の前に順に飛び出しばたばたたおれ、あるいは泣きながらにげまどう。簡単に手をあげて降伏し、涙をながしてわけのわからないことを叫びまくる。あるいは地べたに座ってお経を読み続ける。

色々な太平洋諸島の戦いに関する本を読んだが、この映画に描かれている日本軍はわたしが読んだことのまるで逆である。重火器は持っていないが(日本は貧乏だったし、制海権を失っていたから重火器の輸送は困難だった)白兵戦では狂ったように戦うのが本に描かれている日本軍の姿なのだが。自分が戦争にでたわけではないから、どちらか本当の姿なのか知らないが、もしこの映画にあるとおりだったら、米軍は何故あれほど死傷者を出しながら侵攻せねばならなかったのかとても理解できない。また「降伏よりは死を選ぶ」不文律であれほどまでに多くの日本兵が死ななければならなかったのかも理解できない。あまりに「猿っぽく」描かれている日本兵の姿をみて、この監督には人種的偏見があるのではないか、と思ってしまった。

またまた宣伝文句には「主演級のトップスターが出演を志願」とある。実際トラボルタや、G・クルーニーなど私でも知っている顔がでてくるが、それは全くの付け足しだ。何の意味もないちょい役ででてくる。単に映画にはくをつけるために存在しているかのようだ。

この映画にいくらの値段をつけるかだいぶ考えたが、正直言って他人が「見に行こうかと思っている」と言ったらためらいなく「やめろ」と言うと思う。従って−1800円とした。この映画がアカデミーを受賞しないのはわかるが、ノミネートされるのすら理解に苦しむ。所詮アカデミーとはあの業界の内輪の行事なのだろうか。

 

始皇帝暗殺(1999/1/24)

史記」の刺客列伝の中で豫譲とならび最も有名な荊軻による秦王政(後の始皇帝)の暗殺未遂事件の映画化。

この映画の前評判は決して悪くなかった。うちの母は「中国ってやることがえぐい。日本の及ぶところではない。中国の映画って本当の宮殿が使えるからいい」と言ったし、合コンであった女性二人は「もっと背景を勉強しておけばよかった」と言った。

期待にちょっと胸をふくらませ、女性達の言葉に従って刺客列伝の復習までして映画を見に行った。冒頭、秦の戦闘シーンで戦車にのる無名の戦士が秦王政であった、というのは結構斬新である。戦いにあけくれていた秦の国、その国の王という感じがよくでている。

しかしこの映画で良かったのはそこだけだった。途中で秦王がいきなり今後の自分の業績(自分が天下統一をして皇帝になった後の話だ)をとうとうと述べ出す当たりから話は妙になって行く。「燕の国から送られる刺客は実は秦王が燕を滅ぼすための口実をつくるためだった」という着想はまあいいとしても、歴史に残る下半身を有するロウアイ(すんません。変換できません)がいきなり皇太后と純愛を語ってみたり、最後の暗殺のシーンなどはもう支離滅裂という以外に表現のしようがない。有名な地図のなかから刀が現れるシーンだけは忠実に再現しているが、その前後がでたらめなためにインパクトも何もあったもんじゃない。「あなたを暗殺しに来た」と公言する男がその後で真面目に領地割譲の話などすると思う人間がいるのだろうか?その後いきなりヒロインである趙姫が秦王政の前に出現するところなどは、ほとんど宇宙戦艦ヤマトの世界だ。

それにもまして奇妙に感じるのが、今から考えれば野蛮とも残虐とも言えるあの時代にそのまま現代の「人権尊重」の基準を当てはめているところだ。荊軻は盲目の少女を一人自殺(及び荊軻への復讐だが)に追い込んだだけで、あっさりと刺客の仕事を止める。それまで眉一つ動かさず数人を斬り殺した男がだ。そして最後にはいきなり「子供達をもう殺させたくない」とヒューマニストの刺客に変貌する。「人権尊重」の基準などというものは、時と場所によってどうにも変わるものだ。実際史記にでてくる人命の軽さは想像を絶するほど。天命を全うできた人はどれほどいたのだろう。そういう今から観れば野蛮な時や場所に、高潔な基準を持ち込めばさぞかっこよかろう。しかしそれはご都合主義的なものの考え方だ。ナチの残虐行為に立ち向かった「シンドラーのリスト」のように事実に基づいた話ならとにかく、後知恵でとってつけたような「人権尊重」を述べてみたところでなんと回りから浮いて白々しいことか。もっとも日本は「架空戦記」なる第2次大戦に今の兵器やら知識やら後知恵を持ち込む本が大ヒットするような国だからこういうご都合主義的な考え方は大変うけるのかもしれない。

有名な原作をベースに新しい物語を構築するのはさぞかし難しかろう。実際あまりろくな話を観たことがない。しかしその難しい課題にチャレンジして、素晴らしい結果を出しつつある(少なくとも私から観れば)「蒼天行路」のような作品もあるのだ。"Last Emperor"も史実をベースにしながら見事な出来だった。この映画は本来だったら560円くらいのするのだろうが、期待が大きくまた私が原作を愛している分失望が大きかったので-1800円とした。

 

 

恋愛小説家-As good as it gets(1998/5/9)

アカデミー賞主演男優賞、主演女優賞受賞というので見に行った。

2時間ちょっとの時間がやけに長く感じられた。正直言って何がおもしろいのかさっぱりわからない。

途中でゲイの人を送っていく車のなかで”YMCA”が突然かかるところが笑えるくらい。カニを食べるレストランでの女優の表情の演技にちょと感心した。ジャックニコルソンは相変わらず"Here is Johnny"ののりで演技をしていたが。。。

どうも私はNew Yorkを舞台にした映画をみるといらいらしてしまう。この都市にうようよしている声ばかり大きくてやかましい、わけのわからない変人どもを皆殺しにしたほうが人類のためではないかと思ってしまう。

しかし私が常日頃「変人よばわり」されていることを考えると、この異常な嫌悪感は「非常に何かを嫌悪するのは、自分のどこかに「それ」と同じものがあるからだ」という信条の正しさを示す一例なのかもしれない。

 

Event Horizon:(1997/9/1)

いわゆる「B級ホラー映画」の宇宙版といった趣の作品。ただひたすらグロい。見終わってからしばらく低俗な悪夢にうなされるような映画。ただ米国人の嗜好にはあうのかもしれない。。。と思っていたらなんと日本でも公開された。何かの間違いでこの映画を見に行って「金返せ」と思った人は多いのではないだろうか。。「ラテン語」で地獄から通信がくるあたり、全く米国映画だと思う。

 

Spawn:(1997/8/17) 予告編はおもしろかったのになあ。。。。

予告編が結構おもしろかったので見に行った。米国の漫画をベースにしているらしいが、漫画のほうは見たことがない。ヒーローものというと以前は結構「明るく明朗」な感じを想像したのだが、米国のヒーロー物を見るとどうも彼の国ではそうでもないようだ。

バットマンの第一作を見たときの「この国はどこかおかしいのではないか」という感じはいまでも覚えている。後で聞いてみるとバットマンは日本でやっていたようなTVシリーズの中の「明るいヒーロー」ではなく、暗い感じのヒーローなのだそうだ。

さてSpawnもその系統である。。。おまけに全編「アメリカ流のグロさ」が充満している。Spawnの顔とか皮膚からして重傷のやけどのなれのはてなのだが、悪役がピザの上に生きているゴキブリをのせてボリボリ食べるシーンにいたっては、「やはりこの国はどこかおかしいのではないか」と思わざるをえない。

それでもおもしろければいいのだが、クライマックスの戦闘シーンは「CGを使えばおもしろい映画ができるとは限らない」というたぶん世界のどこかで頻繁に使われている標語の説明用の(例1)として使用されるようなつまらなさ。ストーリー全般も以下同文である。

日本公開時にはSpawnの顔をあしらったポスターの絵柄が暗すぎると誰かが考えたのか、赤いマントの襟のようなものを付け加えてみたり、「愛する人に一目会いたい」などという恋愛物を思わせるようなコピーをつけてみたり、、と大変な苦労の跡が伺える。そのかいあってか、知り合いで一人「見に行きたい」と言っているやつがいた。その人は私の友達だったので「馬鹿なことはよせ」と即座にとめた。もっともああいう低俗なグロさが好きな人だって世の中にはいるかもしれない。しかし1800円払うことを考えると賭率が割にあうとはとても思えない。

 

マウスハント:(1998/3/10)

アメリカにいたときに予告編だけは観ていた。「予告編はおもしろかったのになあ

古い屋敷にとりついたネズミと、彼を駆除しようとする二人の男のとても古典的なドタバタコメディ。ドタバタコメディという言葉はあるが、ここまでその言葉に忠実に「どたばた」している映画はひさしぶりにみた。

最初の20分であらすじはわかってしまう。あとはどう落ちがつくのか、だけ考えて観ていたが、最後はなんだかごまかされたような感じ。アメリカではクリスマス映画だったので、ハッピーエンドで終わらないわけがないが。

不必要なドタバタだけが目に付く映画。どう猛な猫、プロフェッショナルなねずみ駆除業者などもでてくるが、単に「出てきた」というだけの存在。今頃こんな手足をふりまわし、顔をしかめて笑いをとろうとする映画を作る人間もいるのだなあ。。と感慨にふけってしまった。大昔のチャップリンで似たようなドタバタを観た気がするが。。。CGを使ってネズミの視点を加えたのが新機軸か。

ちなみに私はこういったおおげさな「どたばた」が大嫌いである。しかしここで考えてみよう。「非常に何かを嫌悪するのは、自分のどこかに「それ」と同じものがあるからだ」という私が勝手に作り上げた「定理」を適応すれば、得られる結論は「私に”見苦しいドタバタ”と同じものがある」ということになる。。。

振り返ってみれば実生活で見苦しくドタバタすることは(心ならずも)頻繁にあり、びびっておおげさに顔をしかめることなどしょっちゅうである。私がクラシックなドタバタを嫌悪するのは自分の実生活がそのままだからではないか。

 

フラバー"Flubber":(1998/4/19)

CGを使えばおもしろい映画ができるとは限らないという言葉と「駄作に有名俳優をつぎこんだからと言っておもしろくなるわけでもない」という言葉以外に何を言えばいいのかよくわからない。

科学者が新しい物質や薬を発明して、それで一騒動起きるという古典的な題材をとりあげ、そこから一歩も出ていない。

途中に往年のハリウッド映画のダンスシーンをCGでフラバー(ゴムのようなもんだ)を踊らせて再現するシーンが唐突に脈絡もなくでてくる。お金はかかっているかもしれない。また、昔の映画を知っている人がちょっとほほえむのかもしれない。しかし全編だいたいそういう調子の、「何だこれは」という感じで進んでいく。

博士の娘のようなロボットが死ぬ(壊れる)場面には突如そのロボットへの思い入れが長々と描かれる。それもよくよく考えれば、結構筋がつながっている気もするのだが、ぱっと見とても唐突な感じだ。

ちなみにMacintoshがやたらあちこちにでてくる。こうした使用方法がappleの何かの宣伝費用を伴うものなのかどうか私の知るところではない。

 

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注釈

史記:(参考文献一覧)この映画を観てから読み直し、また勉強になった。本文に戻る

 

蒼天行路:(参考文献一覧)私はこの漫画が長い間読みつがれることを願っている。本文に戻る

 

アカデミー賞主演男優賞、主演女優賞受賞:最初この映画を「アカデミー賞2部門受賞に免じて」というわかったようなわからないような理由で「560円」のカテゴリーにいれていた。しかしそのうちだんだん腹が立ってきた。どこかの知らない人達がこの映画の二人の演技がすばらしいと言ったからといって、私からみた費用対効果に何の意味があると言うんだ?というわけであっさりと「自分の心の叫び」に素直に従うことにしたのである。本文に戻る

 

Here is Johnny:有名な怖い映画Shiningで、同じくジャックニコルソンが吐くセリフ。大本は有名なコメディアンのショー”ジョニー・カーソン・ショー”のOpeningのセリフである。(と少なくとも私はそう思っている。嘘だったら誰か教えてください)本文に戻る

 

私が常日頃「変人よばわり」されている:トピック一覧)何故かだいたいこういう評価をうける。ただし「どこが?」と聞くと、誰も答えてくれない。本文に戻る