日付:1998/3/8
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この本を初めて読んだのは高校の時だったか。結構面白いと思いながら読み、いくつかの言葉が記憶に残った。
「私は良心を持っていない。私の持っているのは神経ばかりである」
「軍人は小児に近いものである」
「死にたければいつでも死ねるからね。ではためしにやってみたまえ」
それから20年以上たってまたこの本を手に取ることになった。すると受ける印象が変わっていることに気がつく。
本文に書かれている内容よりも、解説にある
「この否定のための否定の精神からは問題の解決と、解決のための行動の原理とは生まれてこない」
という文により多く共感を覚えるようになったのだ。であるからして機知は感じてもそれ以上のものはなく、「こんな事ばかり書いていては確かに自殺してしまうかもしれぬ」と思ったりもする。あるいは「否定のための否定」が大好きな自分の姿を見せられたような気がしたり。
それでも昔は気にもとめなかった文が心に残るのも事実である。侏儒の祈りの中
「どうか英雄とならぬように-英雄の志をおこさないように力のない私をお守りくださいまし」
この言葉に見える彼の心の内を少し考えてみたり。
私はあまり小説という物を読まないのだが、考えてみれば変な話だ。フィクションである映画は結構観ているのに。この本を読み始めたところでそんなことを考えた。
80になった祖母が遠く離れたアメリカに住む孫娘に向けて(この向けて、というのはちょっと複雑なのだが)書いた手紙、という設定で書かれた言葉が続く。わざとらしい説明を持ち出すことなく、読み手の興味を持続する形で登場人物達の背景をこのように説明できるものか、と感心する。
訳者あとがきには、当時の著者が36歳であったと書かれている。カバーの裏にはこの著者が持っている「人間への深い洞察」を賞賛する言葉が載っている。そこには確かにいくつか印象的な言葉もあるのだが、私にはなぜか
「36歳の人が書いた”80歳の人が書いたという設定”の文章」
としてしか読めなかった。つまり文の後ろに36歳である筆者自身の姿がちらちらと見えてしまうのだ。ではどういう文章が80歳の人が書く文章だと言われれば想像がつかないのだが。
そんなことを考えながら一気に読み終える。今頭に残っている文を一つだけ書いておこう。
「逝った者が胸にのしかかるのは、いなくなったためというより、おたがいに言わなかったことがあるためなのだ」
この年であってもすでに何人か友人を亡くしている。せめて死ぬ前に知らせてくれれば一度飲みにでもいけたのに。死んでしまっては話しようもないではないか。ある友人の葬式でそう考えた。
ハンニバル-HANNIBAL(一部)-(映画評へ)
トマス・ハリス著、高見浩訳 新潮文庫
幼少の頃は違ったが、今の私は滅多にフィクションを読まない。「現実よりも興味深いフィクションは滅多にない」と思っているからだ。
しかしこの本を本屋で見つけたとき、レジに持っていくのに迷いは無かった。Silence of the lambs-羊達の沈黙 は映画とともに私の脳裏に焼き付いている。その作者の長く待たれた(なんと11年である)続編がようやく日本語に訳されて出版されたわけだ。
それから数日私は少しでも時間がある時にこの本を読んだ。夕方のラッシュで身動きがとれない東海道本線においてでもだ。そして読み終えたのは暖かい日曜日の午後。それからしばらく私は何かを考えていた。
この本の「書評」を書くのにはもう少し時間がかかりそうだ。だからとりあえず今の時点で頭に浮かんだとりとめもない言葉を書いておこうと思う。いつの日かこの言葉がまとまるかもしれないし、あるいはこのまま終わるのかもしれない。
・この本を読んでいる間にいくつも異なる考え-感想と言ってもいいのだろうが-が頭に浮かんだ。
最初の「ワシントンD.C.」を読んだ時、まるでSaving Private Ryanのノルマジー上陸作戦の場面を観たときのような気がした。
法律を執行することが大変な仕事であることは、文字面の上では知っていたような気がしたし、あるいは時々日本のTVでも特集番組をやっている。しかしこの最初の章に書かれた「逮捕劇」は私がわかったような気になっていたことをふっとばした。ここに書いてあるのは私が「逮捕劇」などという言葉から想像するものではなく、「生き残るための戦い」だ。多くの日本人が無条件にあこがれているかの国では犯罪者もこの国とは桁が違う。
それから場面はフィレンツェに移る。ここでは一体どのようにしたらこのような文章が書けるのだろうと考えさせられる。
「私はリサーチをしました」
などと思わせもせず、膨大な内容を物語を組み立てる要素として織り込むことができる、ということに驚かされる。
そして話が進むにつれ題名の「ハンニバル」から私が連想した「食人」という意味は単にレクター博士だけの事を指しているのではないことに気がつく。たとえば「羊たちの沈黙」では異常な登場人物はレクター博士と犯人だけだった。しかしこのHANNIBALを読み進む間に「正常とは、異常とは」と何度か考えるような気分になる。
「クロフォードとクラリスは、言ってみれば、神学にほとんど絶望している医療伝導団のようなものだった。神が何の助けもさしのべてくれないことは承知で、それを決して口に出さずに二人はただ目前の一人の赤子の命を救うことに専念する。」
彼らが働けば働くほど立場が悪くなる。さらに殺人鬼のレクターを残酷な方法で殺そうとしている人間達はそれを
「法の遵守を誓った男達の暗黙の了解を得て実行する」
のだ。
こうした状況は確かに世の中に存在して居るのだと思う。この「完全に正常で合理的な狂気」に対処するのに一番賢明な方法は愚鈍であり、視野を狭くし、願望を現実と観ることだ。しかしクラリスはそれができるには賢明すぎる。
彼女が
(自分の手の届く限り、そんな世の中にさせるものか)
と考えた瞬間、彼女は河を渡ったのだ。
それから物語は人によっては意外とも思うだろう展開を見せる。そしてそれぞれの章の終わりの文が何を意味しているか?と考え出すようになると読むのがとまらなくなる。
最後のページを読み終えたとき、考えていたのは20001年宇宙の旅の一節、とそして何故それが頭に浮かぶのか、という自問だった。頭の中に思い浮かんだのは次の節である。
「そして銀河系中で、精神以上に貴重なものをどこにも見いだすことが出来なかった彼らは、いたるところでそのあけぼのを促進する事業を始めた」
そして「彼ら」-人によっては神と呼ぶかもしれないが-も
「時にはなんの哀れみもなく除草しなければならないこともあった」
・この作品が米国で発売されたとき、Amazon.comの「読者の評」を読んでそれが必ずしも好評ばかりでないことに気がついていた。そして今日本語版を読んでみてその理由がわかったような気がする。「羊たちの沈黙」が犯人とそれを追いつめていく側の心理面での戦いを描いて好評を博したとすれば、この作品は全く別の視点から二人を描いている。そして前作と同じトーンの作品を期待していた人にとっては確かに最後の「長いスプーン」は「何だこれは?」と思えるだろう。
・私は特に最近
「幸せになる近道は、周囲のできごと、及び周囲の人間の感情について無神経であること。願望を現実として観ること。記憶を都合よくすりかえることができること」
と考えている。さて、そう考えたときレクターは上のいずれの特性を持った人間でもない。「記憶の宮殿」にしまい込まれた記憶はいつでも色あせることなくよみがえるのだ。そして周囲の人間が何を考えているかは手に取るようにわかる。
そうした人間がどのような苦悩をかかえるか。「羊たちの沈黙」ではそうした彼の心の中はあまり描かれていない。彼の頭の中には膨大な記憶の蓄積があり、外世界をシャットアウトして、自分だけの世界に暮らすことができる、と書いてあるだけだ。不愉快なこの現実世界のできごとから身を隠し、自分のこころの中の宮殿に閉じこもることができれば、確かに心の平穏を得るのに役立つかもしれない。
しかし「ハンニバル」では彼が
「中世の地下牢の床のごとく、われらが心の部屋の床にも穴があいている」
の「穴」が突然あき、そして悲鳴をあげるところが描かれている。やはり彼にも簡単な心の平穏というのは訪れないのだ。
・この簡単に心の平穏を得るには賢明すぎる二人-「羊たちの沈黙」で非常に特異な人間として描かれていた、またハンニバルではその心の中が描かれるレクター博士。そしてそのレクターに「きみがいたほうが世の中は興味深い」と書かせたクラリス-彼女の心の中は「羊たちの沈黙」で少し描かれていたがそれはすべてではない。
この二人がお互いをどのように観るのか。
最後の場面、私はこの二人はお互いが「相手がいたほうが世の中が興味深くなる」と思っているように思える。はためには仲がよいカップルに見えるかもしれないが、それは本質的に不安定なものだ。仮に何かの拍子に-それは何かのイベントかもしれないし、あるいは歳をとったためかもしれない-どちらかが相手にとって興味深い存在でなくなった瞬間、二人の関係は終わり、どちらかが死ぬだろう。それまでにどれだけの年月を重ねていようが、どれだけの記憶を共有していようが関係ないように思える。
彼らにとって世の中で一番貴重なものは「精神」に違いない。そしてそれを乱そうとするものがあれば
「知るのを控えてこそ長生きもできるのだ」
ということになるのだろう。それがお互いであってもだ。
・この作品も映画化が決まっている。レクターはアンソニー・ホプキンス、クラリスはJodie Fosterが辞退したため、別の女優が演じるそうだ。しかしどうしたらこの物語を2時間から3時間にまとめることができるのだろう。全編とても映像にできないようなシーンが連続するこの作品をどうやったら映像化できるのだろう。映画化のために払われた金額はけた外れだったそうだが、その映画化の大変さもけた外れの気がする。
・前頭葉を失ったクレンドラーがしゃべることがさほど変化を見せないのは面白い。実際レクターに会わなくても前頭葉を失っている人間はたくさんいるようにも思えるのだが。
この本を読んで以来というもの、私は大きな声で衝動的にしゃべる人(なぜか私の周りでは女性が多いのだが)を見ると
「この人もきっと前頭葉を食われてしまったにちがいない」
と思うようにしている。
ガリヴァー旅行記: (参考文献のページに戻る)
スィフト著、平井正穂訳。岩波文庫。この物語が風刺に満ちたものだ、というのは結構前に知っていたが、読んだのはつい最近である。子供のころは、絵本に載っている小人の国でガリヴァーが食べている食物がとてもおいしそうに見えたものだが。
読んでいていくつかの点が気になった。この物語には日本がでてくるのであるが、それがいかにもつけたし的で、(どうも踏み絵に関して何か言いたかったとしか思えないのだが)かつ記述が唐突なこと。なぜ作者が日本をこの物語に挿入したのかよくわからない。ほかにこういう中途半端な形で記述されている実在の国は無いのである。
もう一点は、最後のフウイヌム国にいたって、風刺というよりは、直接的な悪口雑言の羅列になっているように思えること。まるで作者が工夫をこらした風刺を記述するのに疲れて、人間世界への憎悪を叫びだしたような感じだ。最後には人間社会に適応できなくなるガリヴァー氏は作者の姿そのままだったのかもしれない。-実際作者は最後には精神の異常を来たすのだ。
また岩波文庫版の解説にもあるが、作者の糞尿に関する嗜好には確かにちょっと異常な物を感じざるを得ない。最初の小人国、大人国では、ガリヴァー氏が用をたすのに苦労したところを-なぜそういうことを書かなくてはならないのか、という長々とした自己弁護とともに-描いているが、最後のフウイヌム国では、それらの自己弁護も消え失せ、ひたすらもっと直接的な記述があちこちに登場する。
これらの点を考えたとき、最初にこの物語を(大幅にアレンジするとはいえ)少年少女向けの本に載せようと考えついた人はあるいは天才的な着想の持ち主だったかもしれない。あるいは人が言いたいことは全然聞かず、相手の言葉の言葉尻だけをとらえて返答するようないやなやつだったのかもしれない。
レッドストームライジング- Red Storm Rising(1989)(参考文献に戻る)
トムクランシー著、井坂清訳、文春文庫。ソ連と、NATO軍のヨーロッパにおける戦いを扱った小説。かつて私が働いていた防衛庁相手に「ソ連がせめてくるぞー」と言うことを生業としていた部署では、一時この本は必読書であった。彼は一介のの保険業者かなにかであったが、あまりにもリアルに戦いを描いていることから「公開資料でもこれくらいの事はかける」という題でCIAで講演した、という話もあった。
それから数年、ソ連はもうなくなってしまった。そしてありがたいことにこの小説は純粋なフィクションとなった。また今となっては冷戦下において、如何にソ連の軍事力が過大評価されていたかをしめす資料ともなっている。ソ連崩壊にともなって、彼らの原子力潜水艦が放射能障害製造器であることも明白になってしまったし、湾岸戦争で彼らの戦車が西側の戦車の敵ではないことも白日の下にさらされてしまった。この小説の中ではソ連の旧型戦車でさえ、米軍のM-1戦車とそれなりにわたりあったりするのだが。
さてトムクランシーはこの作品や、この作品の前の作品「レッドオクトーバーを追え」、それにこの作品に続くいくつかのヒット作で大金持ちとなる。そして何故かNFLのチームのオーナーになるくらいお金をためてしまった。最近は米軍の広報担当となっている感もある。
ネタがなくなったのか、調子にのったのか彼は「日米開戦」なる本まで書いてしまった。そして自分自身の底の浅さを露呈してしまった。この本に出てくる日本はデタラメである。しかしこの「レッドストームライジング」を書いていた頃はまだそういった彼の底の浅さはよくわからなかった。何にせよ当時ソ連はまだ謎の国だったから何を書いても本当の様に聞こえたのである。
ボートの3人男(参考文献の項に戻る)
中央公論社、ジェローム・K・ジェローム著、丸谷才一訳。すばらしいユーモア小説。テムズ川を3人の男が気分転換のためにボートで下る、といわばそれだけのストーリーだが、いまだこれに匹敵するようなユーモア小説を読んだことがない。「少年少女文学全集」で読んだのが最初だが、「文学全集」にこの小説を入れてくれた人に感謝の念を捧げたい。愉快なエピソードのなかにも、人の世に対する鋭い観察、諦念、明らめ(あきらめ、と読んでください。諦めるではなく、いいことも悪いこともそのままに世の中の道理を見つめることです)が語られていて、何度読んでも飽きることがない。
いつの日かこういう文章が書けるようになりたい、と思ってしまう。その目標が達成できる見込みは今のところないが。
ジャッカルの日(参考文献の項に戻る)
フレデリック・フォーサイス著、篠原慎訳。角川文庫。映画評の"Jackal"を書こうと思って、ひさしぶりに本箱からひっぱりだしてきて読んでいたら、、、気がついたら夜中まで読んでいた。
フランス大統領ドゴールを暗殺するべく雇われたプロの殺し屋とそれを防ぐべく苦闘するフランス側との戦い。。。と書くとありふれているようだが、内容はありふれていない。結末は誰もわかっているのだが(結局ドゴールはベッドの上で大往生するのだ)引き込まれるように読んでしまう。
今回読んでいて妙なことに気がついた。やたらジャッカルの「食事」に関する記述が多いことだ。この作者はかなりのグルメなのかもしれない。
坊ちゃん(参考文献の項に戻る)
夏目漱石著。幼少の頃「少年少女世界文学全集」で読んでいらい、何度読み返したかわからない。何が名作かを定義できるほど私はかしこくない。しかしこの作品には時々ふとしたきっかけで再会することになり、そのたびに全部読み返してしまう。
大学時代に家庭教師をやっていた。教える相手は中学生である。その教科書に「坊ちゃん」が載っていた。彼にいろいろと偉そうなことを言いながら、「おお。これはおもしろい」と思ってさっそく本屋に行って単行本を買ってしまった。そのときは「清」になんとなく心惹かれた覚えがある。
さてそれからおよそ15年の月日を経て、またこの作品と再会することになった。きっかけは、このサイトを読んでくれた奇特な人からの「坊ちゃん文学賞を募集してましたよ。いかがかな」というメールである。それから「ふーん」と思いながらインターネットをあさり、文学賞の要項など(実はインターネット上の情報は第5回でとまっていて、更新されていない)を見ているうちに、ネット上で電子本を扱っている会社のサイトに行き着いた。
中を見てみると昔から好きだった作品が目白押しである。高校の頃に読んでとても不気味な感じを持った芥川龍之介の「歯車」「ある阿呆の一生」などと並んで「坊ちゃん」があるのを見つけた。
喜んでさっそくダウンロード。ちらちらと眺めていたら、今度は違う読み方をしている自分に気が付いた。おそらくこうした名作を何度も読み返した経験のある人には共通する思いだと思うのだが、その時の自分の経験、考えたことによって、印象を受ける内容が異なるのである。
今回印象を新しくしたのは「坊ちゃん」があっさりと職を辞して東京に帰るところである。彼は一ヶ月。私は10年以上つとめたが、その土地を離れる時の気持ちは似たようなものだ。考えてみれば会社に出す辞表は「私儀都合有之辞職の上日本へ帰り申候につき左様御承知被下度候以上」としてやろうかと考えたものだったなあ、、
ある単行本の解説には「所詮相手を殴ってその土地から出ていってしまった坊ちゃんは負けたのだ」と書いてあった。そういう風に取る人もいるだろう。しかしその人の人生で何が価値があって何が価値がないかは所詮その人が決めることである。不浄な土地で意に染まぬ生活をしていた「坊ちゃん」が「船が岸を去れば去る程いい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、漸く娑婆へ出た様な気がした。」というのは全くその通りであったのだろう。あるいはとっとと辞表を投げ出して日本へ帰っていった私の姿は人によってはこの「坊ちゃん」のように見えたやもしれぬ。
他人が自分の行動をどうとるかは、所詮その「他人様」が決めることであり、そのことに対して目をつぶるつもりもないが、あまり気にしても憂鬱がたまり心持ちがすわらなくなるだけである。
日本語に訳されて:HANNIBALが米国で出版されていたのは知っていたが、この本を英語で読もうと思うほど私は自分の英語力に自信があるわけではない。本文に戻る
Saving Private Ryan:(参考文献一覧)この場面を観て、私が何を考えたかは映画評をご覧ください。本文に戻る
賢明すぎる:私は彼女ほど賢明ではないが、こうした「正常な狂気」に悩まされることが多々ある。そのとき自分に言い聞かせるのは
「別に誰が死ぬわけでも、傷つくわけでもなし」
であるが、クラリスにとってみれば、これは「誰が死ぬ」話なのだ。本文に戻る
湾岸戦争:ちなみに湾岸戦争当時、ソ連が輸出した兵器が多国籍軍にコテンパンにやられたことに対するソ連の公式見解は「兵器が悪いんじゃなくて使っている人間が悪い」であった。しかしStanfordで教鞭を執っていた元米国政府高官が、ソ連の軍事関係の友達に聞いたところでは"They were stunned"「連中は唖然とした」だったそうである。本文に戻る