日付:2000/3/11
1800円-Part4 | Part5へビューティフル・マインド-a beautiful mind(2002/4/14)
アカデミー賞受賞。どんな話だろう、と観た人に感想を聞けばただ一言
「重い映画だ」
と答えが返ってくる。
天才的な才能をもつ数学者の学生時代が描かれる。人が嫌い、とのことだがこのルームメートはなかなかいい奴ではないか。そんな事を考えていると話が急に安っぽくなる。いくらなんでも黒ずくめの秘密なんたら員ってのはあんまりだ。それにどうしてMITの中に秘密の建物がある?絵に描いたようなカーチェースに銃撃戦を経験した主人公はロシアのスパイを極端に恐れるようになる。国家に利用され精神に異常を来した哀れな数学者の物語か?これのどこがアカデミー賞受賞なんだ。
(ここから先は観ていない人は読まない事をおすすめします)
精神分裂症-最近は統合失調症というらしいが-に主人公がかかっていることが明かされ、それまでの安っぽい映画-私が想像するような-は文字通り想像の産物であったことを知る。その病と闘うのは主人公だけではない。彼への義務感と、逃げ出したい気持ちの中で子供の存在によりかろうじて気持ちをつなぎとめる妻。かつての同僚が尋ねて来たところで主人公が示す「研究中」のスクラッチパッドは観る者をも重い気分にさせる。そして間一髪のところで防がれた悲劇的な事故。
ここで妻は決意する。extraordinaryを起こすと。ここは字幕では「人間の力の及ばないこと」をなっていた。いくらなんでもそれは意訳にすぎまいか、と思っている間にも映画は進んでいく。妄想は簡単に消え去ることなくいつまでも彼につきまとう。学生時代の親友。彼が引き取ったかわいい少女、トラブルには巻き込むが彼の才能を最大限に評価する上司。それは彼にとってある意味いごこちのいい世界でもあるが主人公は彼らに決別をする。元の環境に触れればと大学に顔を出すことを頼みに言った主人公は自分の中の妄想と言い争いを始めてしまう。それでも彼が大学の図書館に座り続けることを許した元学科のライバル。数十年の長きにわたって彼をささえ続けた妻。原題のbeautiful mindにはaという冠詞がついているから単数形なのだろうが、この映画で描かれるそれは一つではない。
才気を示す数学者、恐怖にさらされる姿、統合失調症にかかった姿、そして老いて教壇に立つ姿。それらをラッセル・クロウは見事に演じる。こうした作品に巡り会えるのは役者としても幸運なことだろう。
かくして映画が終わった後extraordinaryの訳は根拠のない大げさな物ではなかったと思うようになる。重い映画、確かにその通りだ。容易な明るさを作ってもいないがそれでも最後は少し力強い気持ちになれる。唯一問題があるとすれば今自分がいるこの世界に妄想がないか、という強迫観念におそわれることだが。
もう一つどうでもよい話があった。MITでの彼の同僚を演じる役者は、Friendsという米国のTVドラマで
「ちょっと頭のおかしいルームメート」
を演じていた。そちらも名演だったのでどうにもその姿が重なってしまったのだが。
ミッション・インポッシブル-Mission Impossible(2002/1/24)
公開当時に一度観たのだが、先日TVで放映されてるのに気づいた。何の気なしに見出すとやはりおもしろい。
冒頭からテンポ良く話が進んでいく。主人公のチームと思っていた人間達があっさり死んでいく。ああ、目が大きく「美人」と「ちょっと変」の境目にいるような女の人も死んじゃった。もっと観ていたかったのに、、と思ったら生きていた。
こんな調子で最後まで化かし合いが続く。主人公が悪役の正体を見破るところのロジックが観たときは解らなかったし、今でもどうにも納得しかねる。またあちこちで使われ有名になったトムクルーズが宙づりになる「侵入」のシーンでも
「画像認識を使った侵入者検知システムがあれば簡単にばれてしまうではないか」
などとオタクっぽいつっこみを入れたり。しかしそんな理屈は抜きにしてすがすがしい馬鹿馬鹿しさがなかなか好ましい。
「うそだろー」
といいながら笑って観ていられるような。
かくしてちょっと現代風にアレンジされた懐かしの音楽を背に劇場をでることになった。それからしばらく
「ちゃらりーちゃらりー」
とその音楽ばかり適当に歌っていたのを思い出す。
かくのとおりご機嫌になった私は大きな期待をもってMission Impossible-2を観ることになるのだが、その感想は別項にて。
夏休み映画として公開された作品なのだが今はもう10月。評判を聞いたり読んだりすると、そのほとんどが好意的。しかしどんな話かは今ひとつわからない。
映画が始まる。そして最後の歌が終わるまで映画館にいた全員と同じく、ただじっと座ってスクリーンに見入っていた。日本には神さまがたくさんいる。川や池や竈にさえも。その神さま達は喧嘩をしたり、やきもちやいたり、すねてみたり、いたずらをしてみたり。
この映画を観ているとそんな日本の神さま達の事を考える。GODが一人でがんばりすぎている一神教に辟易することが多いこの頃であれば、「日本は神の国」でいいではないかと思ったりもする。あるいは現実の世界というのもこの映画に描かれた以上に不可解で不条理でおかしな連中がうろちょろしているところかもしれない、とか10歳の女の子が力一杯自分の道を切り開こうとする姿に声援を送るとともに現実の自分の姿を少し恥じてみたり。
しかしそれ以上に感じるのは、この映画が説明もなしに、多くの空想的、幻想的な要素をただちりばめながら最後まできちんと観客を引きつけるという事実への驚きだ。あれって何なの、この後どうなったの、結局監督のメッセージってなんなの。そんな疑問は最後まで残ったままなのだが、見終わった後のこの感じはなんなのか。ある文書にはこう書いてある。
「文学作品を読んで受ける感銘というのは得てして「解ったような解らぬような、それでいて何となく素晴らしい」というものであることが多く、娯楽小説を読んで受ける感銘というのは「ジグソーパズルが完成するように、最後に全ての物事がきちんと収束してゆくところ」であることが多い」後者の例として揚げられているのが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」であり、前者の例が「惑星ソラリス」なのだが、この映画も前者にはいるのではないかと思う。ある人が見終わった後最後に流れる歌を歌っているのに気がついたと言っていたが、私も気づいたら同じ歌を口ずさんでいた。歌詞など知らないのだが何故かこの映画に似つかわしく思え。
人間がどのようなものを想像できるか。その興味深い例をまた一つ観た気がする。
映画が終わった後、私は少しの感慨と共に席を立った。ふーん。なるほどね、そんなところだったかもしれない。しかしその後一つ一つの場面、その意味、それらが発する問い、それらに対し自分が何を考えているか、それらが頭の中にわき続ける。あるいは子を持つ親がこの映画を観るとまた別の感慨があるのかもしれない。しかし私のような独り者にもこの映画は色々な事を考えさせる。
子供をもてない親に対する完全な回答。すなわちインプリントされた親に永遠の愛を捧げる子供のロボット。この構想が打ち出されるとき、一つの問いがなされる。すなわち人間に対し愛を注ぐロボットは、人間から愛を注がれる権利を持っているのではなかろうか。一方通行の愛というものが許されるのだろうか。この問いは形を変え場面を変え映画の最後まで存在し続ける。
映画の出だしからして未来の設定なのだが、その時代が一旦閉じられ、遙かな時を超え、そして人間以外の物が現れてもその問いは続いていく。そして映画が終わって残るのはなんとも
「やりきれない」
気持ちだ。あるいは別の感情であっても、何故そう思うのか、自分に問うて観ることは意味のあることだと思う。できれば同じ映画をみた誰かと話をしてみるのも良いかもしれない。会話がうまく進めばこの映画には多くの要素がそれと気づかせずに含まれている事に気がつくだろう。
あるいはこの映画の場面転換の多さに気がつき、その多くの場面を飽きさせたり、呆れさせたりすることなく観客に提示し続けるところ、あるいは未来の設定でありながらそれを観客に忘れさせるところにスピルバーグという監督の才気を観ることもできよう。様々な設定にキューブリックの影を見たり、あるいは主人公に石を投げろという男にイエスという名に重ねられた物語をみることもできよう。しかしそれはあくまでも副次的なものだ。
結婚式の時のセリフではないが「愛」とは美しく尊い物であり、あるいは人を動かすのかもしれない。しかしそれは同時に身勝手であったり自分本位であったり、憎しみや暴力にも繋がりうる。そうした問い頭の中で回り続ける。Aritificial Intelligenceの略であるAIという題名がLoveの日本語での発音と同じであること等はうがった物の見方というところだろうが。あるいはこうした問いを発することもできる。自分とは何か。他の人間とどこか違うと思うから自分があるという見方もあるだろう。しかしその前提が崩れた時自分に何が残るのか。それに耐えることはできるだろうか、と。
ハムナプトラ2が大ヒットをとる国ではこの映画が圧倒的な興行収入を上げることはないのかもしれない。しかしそんなことがこの映画の価値を損ねるものではない。この映画は観客に問いを発しているのだと思う。どのような問いを受け取るかは人によって様々かもしれないが。
たとえば映画は煩わしい現実をしばしの間(上映時間だが)忘れさせてくれる、という人がいる。それは現実離れした感動だったり夢だったりするわけだがこの映画は何を見せてくれるのだろう。
三つの独立したストーリーが語られる。それらはお互いに関連したり離れたり。そしてそれらは何を語るのか。私は麻薬に関する事柄について何も知らない。しかし言えることはそれらが語っているのは現実なのではないかということだ。
映画を見終わった後カップルが「だってあの女の人が悪の親玉だろう、だから。。」とかしゃべっているのが聞こえる。悪の親玉とはなんだ。それがどっかんと死ねば世の中は平和に戻るのか。安易な勧善懲悪、麻薬撲滅スローガンそれらに陥ることなくただ描かれる現実、その前では「なんともしがたい」という形容詞すら浮ついて響く。
ラストで一つの家族が(たぶん)救われ、そしてある男が望んだ物は現実となる。それだけだ。夫が麻薬密売組織のボスとして突然逮捕される。彼が善良なビジネスマンと信じて生きてきた妊娠六ヶ月の女性は途方に暮れる。誰も彼女に手を差しだそうとしない。やがて彼女は自分自身で現実と戦い出す。それは非合法な方向だが彼女に何ができたというのか。そして
「おまえらは何ともならないとを知りながらこれをやっているんだ」
と売人にののしられる男は、同僚を失い、証人を失い、自由の身となったボスの机に盗聴器を仕掛け跳ねながら走っていく。その姿に何を見ればよいのか。
あからさまなご都合主義に陥ることなく、現実を正面から描いた三つのストーリーを一本の観る価値がある映画にしあげることができるか?驚くべき事だがこの映画はその答えがYesであることを示している。監督賞、脚色賞、編集賞そして助演男優賞(彼は助演なのだろうか?では誰が主演か?)を受賞するのも宜なるかな。ただ去年たくさんのオスカーを受賞したAmerican Beautyと同じく言葉で私が感じたことを表すのは無理なようだ。あるいはこう書こうか。どのような映画を作り上げることができるか、その想像力を試されていると。
余計な言葉を並べる前に、素直に書こう。
この映画はすばらしい。
4月7日公開だから、一月近くもみなかったことになる。前作-Silence of the lambsは私の最も好きな映画のうちの一つであり、原作のHANNIBALは私にいろいろな事を考えさせた。そしてこの映画には「2作目」、「小説の映画化」という概して人を失望させるキーワードが二つもついている。どの程度期待して良いのか。どれだけ失望に備えればいいのか。そんなことを考えているうちに日がたってしまった。しかしもう5月も10日過ぎ。うだうだ考えていて見逃すような愚を犯すわけにはいかない。
昨日の疲れを少しひきずり椅子にぐでっとなっていた私は始まりが近づくにつれきちんと座り直した。映画が始まる直前これほど緊張した事はなかったのではないか。そしてGoldberg Variationが鳴り出す画面にひきつけられ、途中は身を乗り出し、そして最後の
Tata, H
まで椅子に座り込んでただ画面を見つめていた。
話題作であるから、誰かと見に行くことも可能だったかもしれない。しかしそれをしなかったのは賢明だった。映画が終わった後私は一人でベンチに座り海を眺めていた。何かを考えていた訳ではない。映画のクレジットロールとともに流れていた音楽だけが頭の中で鳴り響く。物事を文章の形で考え出したのはそれからしばらくたってからである。たとえそれが仲の良い友達であっても、あるいは100年の恋であっても、こんな様子を観ればふっとぶというものである。
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公開直後から色々な映画評が出始めた。一番多いのは
「いい映画だ。前作と比べさえしなければ」
というものであったか。ラストが小説と変わっているということも聞いていた。それが続編を暗示させるものだとも。Anthony Hopkinsの演技は素晴らしいが、Julianne MooreはやはりどうしてもJodie Fosterと比べられてしまうとか。
同じ物であっても人の受け取り方というものは本当にそれぞれだ。私は私の心に浮かんだ所を書いてみよう。
小説と映画とは違う媒体である。熱いメディア、冷たいメディアなどという最近読みかじった言葉を使うまでもない。小説は長くあることができ、また読み手は自分のペースで内省しながら読むことができる。映画は長くても3時間以内で、映画のペースに合わせて受け取る事を要求される。しばらく立ち止まり考え込むことは許されない。
ハニバル・レクター、それにクラリス・スターリングという同じ素材を使いながら、小説、それに映画は全く異なった描き方を見せてくれた。映画が小説と異なるのはラストだけではない。それが描こうとしている内容自体が異なっていると思える。そしてそれはそれぞれのメディアに見事に合致している。小説は「善とは、悪とは」などと考えながら時には前に戻ったりして読んだ。レクターの内部をかいま見、彼が何者なのかと考えながら。
映画ではそうした贅沢は許されない。特にレクターの内面に関する叙述はほとんどカットされている。そうした映画というメディアにあったこの脚本であれば、小説のようなラストになるわけがないのだ。この新しいストーリー、それに映画ならではの要素-映像、演技、そして音楽-は一体となって私にしばらくの間言葉を失わせた。光と陰を自由に駆使した映像、クラシックの要素を取り入れた見事な音楽、などという言葉に思い当たるのはしばらくたってからのことである。見終わった直後の私にできたことは、とにかくサントラのCDを買いに走ることだけだった。
Anthony Hopkinsは評判通り素晴らしい演技を見せている。俺は大筋を知って居るんだと思っていても彼が登場するシーンには緊張感が走る。何をするのだろうと心のどこかで考えている。パッツイの肩にそっと手を置く。それだけでそれから起こる事への予感で私の心は震え上がる。この映画のクラリス・スターリングは、言葉で多くを語ったりはしない。セリフは意図的に押さえられているように思える。役人達との怒りを含んだ会話。レクターとの会話。それにレクターと自分の会話を録音したテープ-大きく宙返りをする鳩-を一人で何度も聞き返している姿。そう、彼女はこの映画の中ではいつも一人だ。こうしたシーンから彼女の心の動きはどう読みとれるだろう?小説のクラリスは川を渡った。この映画では最後に両手を揚げながら
「クラリス・スターリング FBI」
と叫ぶ。そしてそれぞれのクラリスはその文脈に見事に合致しており、受取手に強い印象を与える。
しかしながらSilence of the lambsであれほど強烈な演技をしたJodie Fosterとの比較が頭に浮かぶのは避けられないところ。どちらがよかったか?私には解らない。最初のシーンでは愛するJodieの事が頭に浮かぶのは確かである。しかし特に後半、Julianne Mooreの抑えめの演技は印象的なのだが。
もう一人見事な演技をしているのがポール・クレンドラーだ。下品で狡猾で愚鈍な小悪人という役柄にぴったり。まさしくプロの技であり、トム・クルーズには逆立ちしてもこの演技はできまい。また唯一笑えるシーンが、クラリスがイタリアの警察と会話をしている最中、お互いが書いている落書き。そこを除いては私の頭に
「映画評にどう書こう」
などという雑念を浮かべる隙を与えず進行していく。正直言えばいくつか意味がとれない部分がある。しかしそれが大して気にならないのは何故だろう。前作の小説と映画、そしてHANNIBALという題名を持つ映画と小説。それぞれが見事な芸に仕上がっているのは受取手として実にありがたいことなのだが。
ある文書:「それはだけは聞かんとってくれ」の「説明」を参照本文に戻る
いくつか意味がとれない部分:クレンドラーの家に忍び込んだレクターが手にしていた封筒はなんだったのか。彼はどうやってあの場所にクレンドラーをおびきよせたのか。ワインを持ってきたということは、女がいると思っていたのだろうが。クラリスを装ったとすれば、どうやったのか。本文に戻る