日付:2000/6/27
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2000/6/28めでたく選挙もお開きである。私は葉書をみつけられなかった(どうしたのだろう?)ので投票には行かなかった。あの連中に一発文句を言ってやれる機会であったのに。
結果はと見ればなんともすっきりしない形である。大勝利でも大敗でもない。渋い顔をしていた森君も翌日には「国民の御信任をいただいた」と開き直っている。どうやら彼は続投するようだ。そういう彼の姿をみていると
「もうちょっとましな奴はいないのか」
と思ってしまうのだが。
さて、例によって勝った党、負けた党の「原因分析」は面白い。
勝てば官軍。「我が党の主張が認められたからだ」
負ければ「かつてないほどの反共謀略が行われたからだ」「中間段階で予測が流れたアナウンス効果のせいだ」
自分たちの政策が受け入れられなかったと何故素直に言えない。
特に今回共産党は見苦しかった。ビラまでもちだし、ムキになって自分たちがいかに卑劣な攻撃をうけたか大熱弁。何を叫ぼうがそれは彼らの自由なのだがそれがどんな印象を与えるかまで気が回らないほど動転している、ということなのか。
スポーツ紙はとみれば、船田なにがしの落選に報道が集中した感がある。うちの母曰く
「畑恵ってのは本当のアホなのよ」
という嫁さんと不倫の末結婚するのは個人の自由というやつであり他人がとやかく言うべきことではない。それに対し選挙民がどのような反応を示し、行動を取るか、というのはこれまた選挙民の自由だ。今回の結果を見るとき、日本に厳然として存在している倫理観というものがかいま見える気がするのだが。
そうこうしている間にTVでやたらと「地震速報」が多いなとおもっていれば噴火の危険性があるとのこと。野次馬がなんと言おうと噴火せずにおさまればそれほどありがたい話はない。ニュースで昭和58年の噴火の光景をみてびっくりした。当時私は大学3年生であったはずなのだが、噴火の映像はおろか、噴火したこと自体全く覚えていない。当時自分が何をしていたかはぼんやりと覚えている。勉強、それ以外の点でひどいフラストレーションに悩まされていた時期だ。しかしあのような派手な噴火にも感心をはらえないほど余裕がなかったのだろうか。
昨今の雪印に関する報道を見ていると長嘆息することが多い。何も彼らの行動を弁護しているわけではない。
たとえばこうだ。記者会見で、あれこれまずい対応をする。たとえばある取締役などは「牛乳を飲んでどれくらい下痢するかは人種にもよる」と答えた。この発言はその場の状況を考えれば馬鹿げているし、それ自体弁護の余地はない。
ただ、ふと今自分が働いている会社を見てみるとき
「うちの会社の取締役で、ああいう場にでてまともに答弁できる人間が何人いるだろう」
と思ってみたりもするのだ。自慢ではないがうちの会社の上役は、ありもしないことを頭の中ででっちあげたり(そして自分自身それを信じ込んだり)官僚的なうやむや答弁には非常に長けている。しかしああした場ではそうしたことをやれば火に油をそそぐようなものだ。では本来あるべき
「現実を見据えた誠実な答弁」
ができる人間がいるだろうか、と考えるとどうもいないような気がするのだが。さらにはちゃんと質問にかみあった答えができるかどうかすら、かなり怪しい物だ。
また次々とずさんな管理が明らかになることについて、それが非難されるのは当然だ。しかし会社という組織の中で、いかに事実の隠蔽が行われるか。現実と願望のすり替えが行われるかを長年見てきた身としては
「これは私の会社でも起こりうることかもしれない」
とため息がでるのだが。
そして朝のニュースなどでは、
「彼または彼女の耳からペンライトをつっこめば、目が輝くのではないか」
と思えるような人たちに
「食品メーカーであるという自覚がない。責任というものをどう考えているのか」
ときゃらきゃら非難される。私が雪印の社員だったら
「おまえらだけには言われたくないわい」
と言いたいのをぐっとこらえるところだと思う。「公的な報道機関としての責任を常に強く自覚している」人たちにそう言われれば、私であれば血涙を絞るところだ。
かくの通りストレスだらけの環境に置かれた彼らはかなり疲れているのだと思う(それと同情とは全く関係ないが)厚生省の調査で一応「OK」がでたあとに工場を停止し
「こちらも暇ではない状況で検査を行ったのに、一言の相談もなく操業停止するとはけしからん」
と厚生省の役人の怒りを買う始末だ。霞ヶ関の住人は自分が中央官僚であるという事実だけで民間企業の人間よりも偉い、と思っている(これはNTTも同様だが)従って彼らは自分の「努力」が民間企業の判断で無になることを何よりも嫌う。
「私たちのごときやんごとなき身分の物が、貴様ら下賎の民の為に特別の慈悲をもって検査をしてやったのにそれを無にするとは不届き千万」
というわけだ。長年厚生省とつきあっていればそうした彼らのメンタリティを知らないはずはないと思うのだが、それでもそうした行動をとってしまうのは本当にうろたえているのだろう。
などと考えれば考えるほど
「うちの会社が牛乳をつくってなくてよかった」
と思うのは私の無責任な感想だが。雪印の社員にとっては、なすべきことを黙って耐えながらしていくしかない。夏は暑く、道は遠いがそれしかできることはない。
1945年の本日二つ目の核兵器が使用された。その昔Stanfordの国際関係の講義で教授が
「何故核兵器を使用しなければならなかったか」
に関していくつも理由をあげた。しかし彼は次の質問に対して沈黙した。
「落とさなければならなかった理由はわかった。では何故二つ落としたんだ?」
思うに彼は答えを知っていたし、教室にいた人間の5割以上も知っていたのではないか。広島に落とされたものと長崎に落とされたものは全くタイプの違う爆弾だった。そして兵器の価値はReal Targetに使わない限りわからない。当時日本人は控えめに言ってもYellow Monkeyだった。そこに爆弾を落として何が問題なんだ?貴重な実験の機会じゃないか。早くしないと戦争が終わってしまう。
そして時が移ればJAPもJPNになる。55年前、Kill Japsは当然のように言えても今それは口に出すわけにはいかない。少なくとも講義の場ではそうだ。
さて、今日に戻ろう。親愛なる森君は最近失言を避けるためかとにかく
「原稿棒読み」
に徹しているようだ。彼も総理などにならず、幹事長をしている時には結構立派な人に見えたものだが。そしてそのままであれば
「歴史上最低品位の総理」
などと言われることもなかったのに。人の運命とはままならないものだ。
ふと気がつけばオリンピックも近づく88夜である。千葉すずとかいう水泳の選手は裁定を申し出たことで
「行動力がある」
と一部の人たちに評価されているとのこと。4年前のオリンピックでは傍若無人な発言、行動が大きくとりあげられた。それが一転して同情を集めたり、行動力があると評価されたり、と人の評価ほどあほらしいものはない。千葉すずをサポートするサイト、というのがあり、ちらっと観てみたが
「日本は実力本意で選手をえらばないから、世界に通用しない」
という意見と
「がんばったのに選ばれなくてかわいそう」
という意見に大別されるようだ。書き込んだ人たちがお互いが書いていることが矛盾していることに気がついているかどうか知らないが。
裁定を依頼したときの記者会見では、提訴以来とみに千葉をもちあげるようになったほとんどの新聞が
「もうちょっと理論武装してから会見に臨むべき」
とそのあいかわらずの態度を書かざるをえなかったほどだが。裁定後の会見はうってかわって優等生的な態度だった。誰かの強力な指導があったのかあるいはこの騒ぎ全体が彼女の
「就職活動」
だったのか、と思えるのだが。考えてみればスポーツ選手としての寿命は生物としての寿命より遙かに短い。長い人生生き抜く為にはあれこれの努力が必要だ。
先日の南北朝鮮首脳会談のあと、隣の国では時ならぬ金正日ブームが巻き起こったとのこと。誰がどうみても趣味の悪いパーマとサングラスがはやったそうだ。こうした大衆の軽率な態度は万国共通に存在することでそれ自体はどうということはない。いつかアルシンドなるハゲのサッカープレーヤーが人気となったときにはまだ言葉もしゃべれない我が子の頭をバリカンで剃って禿にした母親もいたのだ。
さて、その金正日だが、韓国マスコミの首脳と会談してあれこれと本音をしゃべってくれた。プーチンが
「衛星打ち上げを請け負ってくれれば、ミサイル開発は停止しても良い」
と言ったと伝えられ、そんなはずがあるかと思っていたがやはり「冗談」だったそうである。ミサイルの輸出先に売上高まで具体的にあげて「やめる訳にはいかない」と断言。また日朝国交正常化というならば、
「まず金を払え。」
とのことである。その時のTVに写った金正日の姿は一国の主席として観れば大変印象的である。私から観れば
「甘やかされて育った非常識のとっちゃん坊や」
以外の何者でもない。これでもまだかの国では金正日ブームが巻き起こっているのだろうか。
その後離散家族の再会が行われれば、金日成逝去の時にも有名になった
「大号泣」
である。一見するとびっくりするが、文化の違いだからそれ自体はどうということもない。北朝鮮からソウルに来たのは模範国民ばかりとのこと。長い目でみて今回の離散家族再会にどれほどの意味があるのかは、解らない。下手に国民同士の交流を活発にしてしまうと、もっともおそろしい
「一気に崩壊」
も起こりかねない。長い道のりをふみはずさず少しずつ進んでいくしか解はないと思うのだが。
さて、サミットの前であるが、プーチンが北朝鮮を訪問して共同発表した宣言には本当に笑わせてもらった。
「ミサイル開発は平和の脅威になるものではない。NMD、TMD(戦域防衛構想)は平和を脅かすものであり容認しがたい」
銃を開発することは平和の脅威ではないが、防弾チョッキを開発することは平和の脅威と言っているようなものだ。こうしたセリフを真顔でしゃべれなくては政治家という職業はできないのだろう。
金正日が自分が宣言した内容を理解しているかどうかは疑問だが。逆にプーチンはこの内容を理解した上で堂々としゃべれるほど奸智に長けた政治家という気がする。ただミーハーな一国民としてはサミットの時訪問した柔道教室で
「アドリブで少年を一本背負いで投げ飛ばし、自分も投げ飛ばされた」
というエピソードに元柔道少年として好感を持ったりするのだが。ただあの男は個人的な魅力は別として、自分の役割が要求すればそれがどのようなことであれ、ためらうことなく実行する、という気がする。前任者とは偉い違いだ。
さて、国内をみれば、また10代の凶行でマスコミは大喜びである。二十歳前に犯罪を起こせば、何故かはしらねど社会の罪にしてもらえる、というのはどうも変な気がする。少し前に起こった宝石店の強盗殺人事件は、その思慮の足りなさといい、残虐さといい恐ろしいものであったが、犯人がりっぱなおじさんであったから誰も
「社会のせいだ」
とは言わない。いい年をした大人がそんな幼稚で残虐な犯罪を起こすというのはそれこそ
「社会の罪」
と言えないだろうか。言えないとすれば何故だろうか。
ロシアの原潜事故は、途中で米国が発表したとおり、おそらく事故直後の段階から生存者はいない、という結果に終わった。あるTVではこれは原潜事故史上2番目の規模と言っていたが、誰がそんな言葉を信じるだろう。
私が知っている限り、ソ連-ロシアの原子力潜水艦というのはやたらと沈没するシロモノである。日本近海にも何隻か沈んでいると私は何の根拠もなく考えている。ただそれがソ連ではなくロシアに起こったがために大きく報道された、ということだ。
しかし正直言って今回の報道ぶりは異常だったとしかいいようがない。この異常さには二つの面があり、一つの面は理解ができる。もう一つの面は理解ができない。
理解できるほうから書いてみよう。仮に米国の原潜が沈没したとして、ここまでなんでもかんでも報道されただろうか?ということである。ロシアが
「機密保持」
を理由に救助を拒んだ事が大きく取り上げられるが、実際原潜というのは機密の固まりである。私はかけてもいいが、仮に米国の潜水艦が同様の事故で沈没した場合、情報ははるかに公開されないだろうと考える。あるいはこういうべきか。彼らはマスコミなれしているから、少なくとも情報の出入りをうまくコントロールし、肝心な情報は決して漏らさないだろうと。
これは私の想像ばかりとはいえない。「敵対水域」にも本の執筆にあたって、米国側の情報を得ることが、ロシア側の情報を得るより遙かに難しかった、旨の記述がある。つまりロシア軍は依然としてかなり混乱した状況にあるのではないかと思える。統制がしっかりいきとどかず、自らの威信、自信を失ってしまった状態では、餓鬼の群にやりたい放題に食い荒らされてしまう。ロシアが統制を取り戻し、上手に餓鬼の群とつきあえるようになるまでにはまだまだ時間がかかるのだろう。
もう一つは「理解できない」方の異常さである。ときどき漫画のネタにもなるが、日本の報道機関は
「日本人乗客がいない限り、どんな悲惨な事故にも無関心」
という原則を持っている。たとえばここ数年の間に起こった未だに原因が解明されていない航空事故というのはいくつもあり、その事故では数百人が死んでいる。しかしそんなことは大抵の日本人は覚えていないし、今や全く報道されることもない。なぜならそれらの事故では一人の日本人も死んでいないからだ。しかし事故を起こしたのと同じ機体がたくさんの日本人を乗せて今も飛んでいる事を考えれば、同じ事故がおきないとも限らない。そう思うときこうした無関心さというのは不可解でもある。
一方今回の原潜事故は連日トップの扱いだ。一人の
「日本人乗客」
もいないのに。これがまだ宗谷海峡かどこかで沈んだものであるとか、あるいは放射能漏れの恐れがあり、それが日本に及ぶ可能性がある、というのであればわかる。しかしどう考えても今回の事故は遠い世界の出来事でしかない。ここには彼らなりのなんらかの動機が働いているのだと思うが、それが何か私にはわからない。ひとつだけ考えられるのは、どうやらどの報道機関でも一人や二人は雇っているらしい
「軍事オタク」
が騒ぎ出してとまらなくなった、というものだが、いくらなんでもこれでは理由として弱いと思う。
そうしている間に、今度はヨーロッパ一の高さを誇るTV塔が火災を起こしてくれる。高さは立派だが誰も火を消すことができない。それを伝えた後に日本の餓鬼どもは
「プーチンの危機管理能力が問われている」
などと見当違いのコメントを力説し、得意顔。原潜事故でも
「これでプーチン政権は国民の厳しい批判にさらされる」
の大合唱。事故後発表されたプーチンの支持率は確かに低下していた。70%から65%に。これが
「厳しい批判」
にさらされた結果であるならば、どっかの国の総理などはとっくの昔に退陣どころか暗殺されていてもおかしくないと思うのだが。
思うに何か事故がおこれば、それは彼らの頭のなかでは自動的に
「政権の対応の遅れへの批判」
に結びつければ給料分の働きをしていることになるのだろうか。彼らはきっと旧ソ連のクレムリンでもその硬直化した頭で出世しただろう。
気の毒なのはプーチンだ。ろくな工業力も基礎技術もないのに上辺だけとりつくろうとすれば、どうしたって安全性は犠牲になる。それをしたのは彼ではなく、今は死んでしまった別の国の老人達だ。その負の遺産をすべて背負わされた上、事故になんの関係もない「隣国」のマスコミにまで好き放題言われるとは。
もし耳があり、そこから伝わる振動を理解できる脳細胞が残っているなら聞いてみろ。頭の石化した餓鬼ども。自分の困難な任務-国家の体をなしていない祖国の再建-に正面から向き合っているこの大統領の言葉を。
「プーチン大統領は28日朝、閣僚会議で「今回の緊急事態は、重要な施設、そしてわが国全体がどのような状態にあるかを物語るものだ。この事故の背景にある大きな問題を見落としてはならない」と語り、再発防止のための対策を呼びかけた。」
さて、視線を国内に向けて観よう。日本のマスコミ(そして一部の総理大臣)は
「IT革命」だの
「ニューエコノミー」
などというキーワードが大好きなようである。今やゲームのルールは変わったんだ、時代に乗り遅れるなと大騒ぎ。
私はこの
「時代に(あるいは「バスに」)乗り遅れるな」
という言葉を聞くたびにある国の事を思い出す。それが何を意味するかもろくに考えず、数年後に自らの破滅を招くことになった軍事同盟に参加した島国のことだ。そしてあのときも
「バスに乗り遅れるな」
だの
「東亜の新秩序」(今風の言葉でいえば、New Order in Asiaだろうか)
だの
「国体護持」(これは今でも総理大臣が使っているが)
だのそれが何を意味しているか解らない言葉が声高に叫ばれたようである。
ちなみに私は個人的に以下の信条を持っている。
「自分が何を言っているか知らない、さらにはそのことを気にしない人間の言葉には重きを置く必要はない。」
ただ、そうした無意味なさえずりも人の世の様相を示す物であることは確かで、その意味において興味深くはあるのだが。
最後に隣の国の事を少し。先日金正日の発言、態度を取り上げ
「これでもまだかの国では金正日ブームが巻き起こっているのだろうか。」
と書いた私だが、この物の見方は完全に間違っていた。
インターネットのおかげで、韓国の新聞-もちろん日本語版だが-も読むことができる。そこには、「北朝鮮高官の対日批判」という題の一こま漫画が載っていた。街頭に張られている新聞(おそらくそこには北朝鮮高官の「拉致事件など知らない。とにかく謝罪と保証」が載っている、という設定なのだろう)らしきものを観て、人々はこう言う。
「すっきりするなあ!」
私が持っている数多い信条の中にこういうのがある。
「人々は共通の敵がいると、多少の差異には目をつぶり団結する」
となれば、日本が2国の統一になしうる最大の貢献は彼らの共通の
「憎まれ役」
になることかもしれない。
敵対水域:(参考文献参照)この本の内容については参考文献参照のこと。本文に戻る
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