日付:2000/9/19
Part10へ | 2000/9/20 | 2000/9/29 | 2000/10/10 | 2000/10/14 | Part12へ
2000/9/20Olympicもたけなわの夏の終わりである。前のオリンピックの時、千葉某は
「日本の人はメダルキチガイ」
と言って顰蹙を買ったそうだが、その言葉にも一理はある。元柔道少年の私は柔道初日の様子だけちゃんと見ていたが、二人が同日に金メダルを取った瞬間
「男子は3連覇、女子は連覇をめざして次のオリンピックは」
とか
「日本の男女全階級制覇はどうでしょうか」
とかむちゃくちゃなコメントが続出である。私も物心ついてから何度もオリンピックを経験しているから、こうした
「メダルの期待」
などというものがいかに空疎な言葉であるかはよく解っている。たとえばそれまでに最高記録を出しているとか、直近の国際大会で勝ったとか言えば話は別だが、そんな根拠も理屈もない「メダル候補」はやたらと居る気がする。
プロとはいえ、人前でそうした誇大妄想的なコメントを連発できる人たちには敬意を表すが理屈っぽい私としては事実をベースにした冷静なコメントを期待したいところだ。しかし彼らの様子を見る限り
「同じアホなら」
ということなのだろうか。考えてみればスポーツ中継はみなそうか。かえって日本が出場していない、あるいはどう考えてもメダルが関係ない競技の解説は冷静で面白く観れるのだが。
先日株式公開を控えたベンチャー企業株の銘柄に関する掲示板を見ていたら、そのやりとりが、この
「メダルキチガイ」
症候群とそっくりであることに気がついた。話題は初値である。最初に150万という妥当な値が提示される。ところがそこから
「いや。これはいきますよ。200万か」
「米国の実績をみれば、400万か」
とか値段がつりあがっていき、最後には600万とかいう値まで掲示板での
「事前予想」
はつりあがる。全く何の根拠もなしに
「同じアホなら」
的な無責任なあおりと熱狂だけがそこにある。ちなみにその企業の株価は初日こそ150万程度だったが、公開後10日には67万に下落していたのだが。
思えば日本がなんとか「自分は他の国とも対当にやれる」と主張したかった戦前であるとか、戦後の復興期であればメダルは
「国の威信」
とも少なからず結びついていたのかもしれないと思う。であれば、メダルの数が国民の熱狂するネタとなったのは理解できないことはない。しかし今や誰もメダルの数で国の威信を示そう等とは思わないはずだ。となると今メダルの数には何の意味があるかと言えば、
「空騒ぎのネタ」
という気もする。
しかしそれも人間が自らの闘争本能を飼い慣らす手段の一つとして考えれば安い物なのかもしれない。領土の広さなど競うよりも、移動時間の短さや金属の量を競う方がはるかに安心だ。おまけになんだか解らないけど日本中がHappyな気分になれば、個人消費も上向くかもしれないではないか。
さて、その熱狂の影で割をくっているのが親愛なるプロ野球である。
「伝統の一戦」
巨人-阪神最終戦のがらがらぶりには正直驚いた。まるでパリーグの試合である。米国ではFootBallシーズンが始まっているが、別にOlympicのおかげでがらがらと聞いたこともない。我が国では未だに
「Olympicは国の威信をかけて国をあげて」
が残っているせいか、あるいはプロ野球人気の底の浅さのせいか。
さて、海外に目を向けよう。少し前の話題になるが、国連ミレニアムサミットに出席予定だった北朝鮮代表団は、途中で屈辱的な身体検査を受けた、とかいってご帰国されてしまった。彼らの行動には「沈黙の艦隊」にあった次のセリフを向ければ十分だ。
「欠席者はすべての権利を失う」
そのままサミットに出席し、その席上でちくちくやった方が遙かに国際社会の認知を得られただろうに。予定をすっぽかしてみたり、ミサイルをぶっぱなしてみたり。そんなことで国際社会の注目を集められるとしてもそれは
「変な国」
としてのそれでしかない。最近彼らが注目を集めているのは
「変な国が少しまともな事をした」
ということでしかない。彼らは日本に「過去の清算」を叫ぶのが好きで、実際それにはそれなりの根拠がある。しかしその次には彼ら自身に対しての
「過去と現在の精算」
が待っている、という事を書いておこうか。彼らは依然として「ならずもの国家」であり、「屈辱的な身体検査」にもそれなりの根拠がある。最近は聞かないが過去には北朝鮮の外交官が麻薬の密輸で追放を食ったこともあったのだ。今は違うと言ったところで負債は残ったままである。彼らが国際社会で
「普通の国」
として認知される、それまでにはまだまだいくつもハードルがある気がするのだが。
オリンピックを見ていると最近つくづく国のため、というスローガンが減ったななと思う。東ティモールから女子マラソンに出場した選手であればともかく、昨今の日本の事情を考えれば「国のため」というのは意味がよくわからない。冷戦もめでたく終了し、ソ連と米国がメダルの数を競ったのも過去の話しになった。
ちょっと古い話しになるが、1990年の冬期オリンピックのとき、インターネットのニュースグループ(当時webなるものはまだ発明されていなかったのだが)に
「冬季オリンピックのコメントベスト10」
なるものがポストされた。例えばすこすこに負けた試合で、やたらとシュートを食った(当然得点の何倍かシュートを食ったわけだが)アイスホッケーのゴールキーパーの台詞
「ここから出してくれ!」
あるいは金メダルを期待されながら不本意な成績に終わった選手の
「人生にはもっと大切なことだってある」
などは腹を抱えて笑わせてもらったが。
さて、そうしたベスト10に親愛なる日本国のコメントも二つ入選していた。女子フィギュアスケートで、伊藤なにがしというのが期待を集めていたのだが、「不本意な」成績に終った。そのコメント
「ごめんなさい。皆の期待を裏切ってしまったわ」
というのと、それに対する某新聞のコメント
「泣くな、みどり。いつも明日がある」
というのは、確かに周りの8っつからは浮いていて、ちょっと別の意味での笑いのネタになったものだが。しかし今やそうしたコメントをする選手はいない。
さて、かくのごとく「お国のため」という言葉は誰が強制するわけでもなく過去のものとなりつつある。しかし国会議事堂周辺に住む老人たちの頭の中にはまだ健在のようだ。
親愛なる森君は
「IT普及の国民運動」
などまるで「進め一億火の玉だ」的な演説をしてくれて笑わせてくれたと思ったら、今度は堺屋君が
「IT講習券配布」
構想をうちだしてくれる。こうしたメンタリティは誰かがITという便利な言葉を開発する前に、日本の伝統的な大企業(私が知っているのは○○重工だが)にはびこっていた
「OA化推進」
のための方針とまったく同じである。
「作業効率化のために全所をあげてOA化の推進を」
と所長が重々しくも演説する。それにともない
「各部署でのOA推進のためのとりくみ計画書」
を紙に書いて(全部うそだが)をしかるべき事務局に集める。もちろん教育も大切だ。貴重な就業時間をさいて、あたらしく巨額の費用を投じて構築したシステムの講習会が行われる。そしてそれらの結果は
「全所あげてのOA推進運動の成果」
としてうやうやしくとりまとめられる。かくのごとく立派な書類はできあがるが、実際に仕事をしている現場では何一つ変わっていない、というのはそんなに私の職場が特殊であったせいとは思えないのだが。
理由は簡単。制度は立派だったが、実際のシステムは「冗談」としか思えないような使いづらいものだったからだ。一部には
「このシステムを作り上げたのは、弊社の競争力をそぐための某電機会社の陰謀ではないか」
という観測すら流れたほどである。
逆にそんな仰々しいスローガンなどなくても使いやすいシステムがあれば皆進んでそれを使う。講習など開かれなくてもそれが便利だと思えば、自分で他人に聞いて使い方をマスターする。そうして
「会社非公認」
のまま私がいたオフィスに増殖したMacintoshは一時期本当に書類作成の変革をもたらし、作業効率を向上させたのだ。
今や日本はIT化で遅れをとっている、というのは日本人のお気に入りの脅迫観念になっている。しかしそこら中で携帯の画面をみつめる若者たちが使っているiモードが世界中からどのような驚嘆の目で見られているかに気がついている人はあまり多くないようだ。うちの会社を訪問してくるアメリカのベンチャー企業が言う言葉は皆同じである。
「ドコモに会わせろ」
さて、この
「世界初の無線接続Mobileインターネット」
はいかにして普及したのだろうか?首相の掛け声があったからだろうか?それとも
「iモード使用講習会」
が行われ、それの講習券が配布されたからだろうか?全然違う。ただそれが使いやすいものであり、便利だとみなが思い、適当な価格が設定されていれば、そんなものがなくても皆進んで使おうとする。それを「国民運動だ」「講習券だ」というのは、どうも頭が東京オリンピックで止まっているとしか思えない。いまやそのオリンピックでも選手は自分自身で目標を立てそれに向かって努力しているというのに。
国民運動をもりあげて、IT化率(これがなにを意味するかは考えないようにして)で、他の国に抜かれたら
「森はもうITができません」
といって自殺でもするのだろうか。東京オリンピックのマラソンでスタジアム内でぬかれ、自殺した円谷のように。
さて、親愛なるClintonの後がまを決める大統領選挙は史上まれにみる接戦とのことである。両候補に主張の違いはちゃんと存在しているのだろうが、私のようなミーハーに解るのはぱっと見の印象だけである。
今から8年前に仕事で米国にいって、米国人と話をしていた。夕食のおりだから、肩のこらないいいかげんなものだ。当時争っていたClintonとBushの比較について、相手(どうやらガチガチの共和党支持者だったらしい)は
「今あるあまたの問題の原因を知っているか?Bushが提出した法案を、全部民主党が多数を占めている議会が否決するからだ」
と力説する。当時私は留学を終えて帰ったばかりで、とりあえず英語の会話は可能になっていた。私はこういった。
「うちの母が言うことなんだが、Clintonはハンサムだから、結構浮気とかしてそうで、人格に信頼がおけない。Bushはさえないオヤジだから、浮気なんか無理だろう。だから人格的にはBushの方が好感が持てる」
相手はあまりに低レベルの反応に言葉を失っていたが。しかし今から考えればClintonはその後の8年間でこの期待に背かないだけの事をやってくれたわけだが。
さて、先日初めての候補者同士のディベートが行われた。結果はとみれば、両者とも決定打はなかったものの、ゴアの方が良かったという意見が多いようである。
さて、私は大統領選に投票する権利もないし、政策争点の理解に関しては前述の通りだ。すべてのトランスクリプトに目を通したわけでもないが、断片的に見たディベートの場面からの印象を書いてみる。
これはそれほど愚かなことではないと思う。未だに語りぐさになるディベートのいくつかのうち一つはケネディとニクソンのものだ。ラジオでこのディベートを聞いていた人間はニクソンの勝ちだと思った。ところがTVを見た人間の反応は反対だったのである。視覚に強烈に訴えることに成功したケネディはその選挙に勝ち、少なくとも多くの面で記憶に残る大統領となった。
さて、先日のディベートに戻ろう。一般的な評判を聞くとゴアは
「ディベート上手」
で名が通っているとのこと。もちろんディベートというのはルールを決めた論争であるから、そのルールの中で色々なテクニックもあるのだろう。
しかし私にはその
「テクニック」
は人間としての軽さとしか映らなかった。Bushの発言の最中に、わざと聞こえるような大きなため息をつく。いかにも
「ああ。あきれた」
と言わんばかりに。候補者同士は直接議論しない、というルールを無視して言葉を直接投げつける。
相手の言うことはきちんと聞いて、それから意見を述べるというのは私がいつも心がけていることである(もちろんそれができていないから心がけるのだが)そんなことは無視してディベートに勝つためなら何でもやります。そう言わんばかりのゴアの態度は私には米国文化の悪しき面の発露としか思えないのだが。
しかし所詮文化というのは合理的な物でないし、自分が育った文化との差異を善悪に簡単に結びつけるのも間違いだ。一部には批判もあるが、結局視聴者はゴアのほうに軍配をあげたのである。
さて、これから一月たらず。結果はどちらの勝利とでるのか。米国の大統領というのは世界で一番顔がよく映される人間の一人であろう。日本でそれを目にするであろう人間としては、この前のディベートで映し出されたゴアの軽薄な表情や「テクニック」はあまり目にしたくないのだが。
さて、その次に行われた副大統領候補のディベートはずいぶんと大人の雰囲気だったのこと。副大統領といっても侮ることはできない。ケネディが暗殺された後に大統領になったジョンソンは何をしたか覚えている人は多かろう。Bushが入院したときには
「ちょっとまて。もしBushに何かあったら大統領はあのクエールだ」
と誰もが恐れたと思うのだが。
さて、ビデオは観ていないし、スクリプトを全部読んだわけではないが冒頭こんなやりとりがあった。
Lieberman 「今朝母に言われたんだ。相手があんたの事をなんて言おうと、私はあなたを愛しているからね、って。」
Lieberman :「今日は個人攻撃はしない、と約束する」
(どっかの番組でLieberman がMy Wayを歌ったらしいことに言及して)
Cheney;「私も今日は、あなたが歌ったことは持ち出さないと約束しよう」
Lieberman:「私も今日は歌わない、と約束しよう」
こういう余裕と笑いのあるやりとりは、私が考えるところの欧米流文化の良い面だと思う。こんな調子で大統領のほうもできないものだろうか。副大統領候補という一歩引いた立場だから余裕を持って議論できるということなのだろうか。
2度目の大統領候補同士のディベートが行われた。CNN.comのサマリーによれば、まず穏やかな雰囲気のうちに外交問題が取り上げられ、その後Gun Controlなどの国内問題にトピックスが移ったところで議論が激しくなったとのこと。
さて、日本国民であるところの私は、合衆国大統領の外交政策のほうに影響を受ける立場にある。逆に米国で中絶がどういう扱いになろうと、あまり関係はない。というわけでこの「穏やかな外交問題」のほうについて感じたところを書いてみよう。
まず
「世界でもっとも強力な国家のリーダーとして選出された場合、その力を使うガイドラインのようなものは考えているか?」
と司会が聞く。
と尋ねられたBushは基本的にそれが米国にとってどのような利益と関係するかが問題という。米国の利益に関係する場合であれば、それらに関与していく、というのだ。次にリーダーシップの発揮には個人としてではなくチームであたるべきだと続けCheneyの名前を出している。ディベート前の予想では、どうやったって外交問題の実績で見劣りするBushはCheneyを引き合いに出すだろうと言われていたがその通りの行動をとったわけだ。
次はゴアが答える番だ。彼はこうういう。
"It is a great tribute to our founders that 224 years later this nation is now looked to by the peoples on every other continent and the peoples from every part of this Earth as a kind of model for what their future could be.
(中略)
And that means, for example, standing up for human rights."
「この国が建国から224年を経て、すべての大陸、すべての地球上の人たちから”将来はあんな風に”というモデルとして観られていることは、国を築いた人たちにとって最高の賛辞となるだろう。
(中略)
たとえば人権を擁護するとかだ。」
この文を字面から読むと私の頭のどこかで「キン」と音が鳴る。次に司会者は
「世界はアメリカをどのようにみるべきだろうか」
と問いをなげかける。それに対するBushの答えはこうだ。
「もし我々が傲慢な国であれば、世界は我々を嫌うだろう。もし我々が謙虚にして強力な国であれば、世界は我々を歓迎すると思う」
この後Goreは
"I agree with that. I agree with that"と続けるのだが、その後の言葉を見る限り、どうやらGoreとBushには大きくはないが違いが確かに存在しているようにも思える。朝日新聞から引用するとゴアは
「すべての紛争にかかわれないからといって、どこにも行かない理由にはならない。第2次世界大戦後、米国はマーシャルプランをつくり、北大西洋条約機構(NATO)の発足にも深くかかわった」
と言ったとのこと。
私はゴアは自分であげた「深くかかわった」例に
「ベトナム」
を付け加えるべきだと思う。
米国がベトナム戦争に巻き込まれる過程を扱った"The Best and the brightest"を読んでいると、「どうすればよかったか。何が悪かったか」という問いに対する答えが見つからない事に対してしばし嘆息する。しかしその中でも(まだ本を読み終わっていないが)「何が悪かったか」という問いに対していくつか確からしいことがある。
「他の国家が自国の価値基準を見習い、その中で生きるべきだ」
という傲慢な思い上がりがそれである。米国の指導者は、何がベトナムに住む人たちに対して必要な事であり、何がベトナムの人にとって良いことか、という視点で物を考えず、「米国が関与することはいいことだ。米国ではこうあるべき」とう基準だけで物を考えて行動した。その結果はごらんの通り。
これでも足りなければ、このゴアの言葉は、大東亜共栄圏などという身分不相応な言葉をぶちあげたあげく自らと他の国に恐ろしい結果をもたらした国が好きだった概念と通じるものがある、と言うこともできるだろう。こうした事を日本語では
「独善主義」
という。この言葉は旧軍人の懺悔の言葉の中で何度か見つけることができる。
この男は単純に自国を愛しているのかもしれない。あるいは単に選挙民に向けたリップサービスかもしれない。この前私も書いた
「ため息攻撃」
は米国の一部でも不評だったとのこと。ため息の代わりがこれなのかもしれない。
どちらでも同じことだ。彼らが少しは自分が言ったことに拘束されることを考えればこの言葉だけで私にとっての
「投票する大統領候補」
は決定だ。
さて、お隣の国では金大中大統領がノーベル平和賞を受賞したとのこと。韓国初のノーベル賞受賞者となれば、国は大変な興奮であろう。そして日本で最初にノーベル賞を受賞した時にはどのような騒ぎだったのであろうかなどと考えたりする。おそらく
「日本の誇り」
という言葉が何度も使われたのだろう。
しかし今や時代は変わった。何事も「初」というのは強烈な印象を与えるが、アポロも17号あたりになれば
「あれ、行ってきたの?何しにいったの?」
という扱いだ。さらに日本では同じ賞を佐藤栄作が受賞している事を思い出してしまうのが難だが。
時を同じくして、中東ではかつてノーベル平和賞を受賞した二つの国家-組織が争いを始めている。仕事の合間に紛争の背景について調べることがある。いったい
「聖地」
とはなんのことだ。数千年前に何かが起こったのだろう。しかしそれは今生きている人間の命を犠牲にするに足りることなのか。
「宗教は麻薬だ」
という言葉を聞いたことがある。ふと彼らは麻薬による幻覚をみて殴り合いをしているのではないかと思ったりする。麻薬を吸わなくても人間は生きていけるということすら気がつかないのか。
沈黙の艦隊:(参考文献)各国の首脳が一同に会したところで、日本の竹上首相が「私は退席する」と言ったときに他の国の首脳に言われた言葉。本文に戻る
どこにも行かない:まさかClintonが意のままに巡航ミサイルを吹っ飛ばした政策を念頭に置いているわけではあるまいな。確かにミサイルはどこでも気軽に「行く」ことができるのだが。本文に戻る