日付:2000/5/22
夜行列車 | 江田島 | 旧海軍兵学校 | 四国にて | 旅の終わり
旧海軍兵学校私が乗ったバスは快調に坂を上っていく。さっき小用で
「海上自衛隊第一術科学校 1.5km」
という看板を見て一瞬「1.5kmなら歩いてみるか」と思ったのだが歩かなくて正解だった。この長い長い上り坂を登るなど考えただけでぞっとする。その坂を上りきり、下りになったなあと思ったら目的とするバス停に到着である。
一緒に何人かが降りた。さて問題です。目的地はどこでしょう。年輩の夫婦連れが確信をもってある方向に歩いていく(ように見えた)のでその後についていったら、数mもいかないうちに行き止まりになった。また戻る。すると
「海上自衛隊第一術科学校は100m下です」
とちゃんと看板がでている。
坂をだらだら下っていくとまぎれもない海上自衛隊の施設が見えてきた。門のところに衛兵というかお兄さんが立っている。その前にある看板を見ると、見学は10:30から。見学の受付は30分前からとなっている。今はまだ9時40分すぎだ。あと20分足らず何をしろというのか。先ほど見かけた夫婦連れもどうやら行き先は同じらしい。彼らは門番に何事か聞いているが入れないことでは同様だ。私はまた坂を上り始めた。
するとなにやらコインロッカーなどがおいてある家がある。読んでみれば、その昔海軍兵学校の生徒さんたちが外出時に憩いの場所とした民家を修復しあれこれの展示をしている場所とのこと。そして入り口には
「見学の待ち時間の間にどうぞ」
とか書いてあるのだ。やれありがたやありがたや、と言いたいところである。開いてさえいれば。月曜が定休日で今日は火曜日だが、月曜日が休日の場合は翌日に定休日は繰り越しなんだそうな。しょうがないからそこにあるベンチに腰掛ける。
実はこの家の他にもう一見、なにかの飲食店とおぼしき家の前に「見学の待ち時間の方へ」と手書きでかかれた怪しげな看板があることに気がついていた。正確には覚えていないが、原爆だか戦傷をおって医者に余命幾ばくも無いことを宣言されたが、気力でもって生き延びた人(その看板を書いた人だろう)の話を聞いてください、とかなんとかそんな内容だった。理論的には確かに時間があるから、その門を叩いて見ることもできる。しかしはっきりいってなんだか恐い。どんな人がでてくるかわからないし一旦話し始めると果たしていつ終わることやら見当もつかないのではなかろうか。それよりはこのベンチでボンヤリと座っている方がましだ。
さて、ただベンチに座りぼんやりとしているのも何だから本でも読もうと考える。しかしやはり睡眠不足は私から本を読むのに必要な集中力を奪い取っていくのだ。3行と読み進めることができない。しょうがない。本を閉じる。つばめが忙しく飛んでいる。この家の軒下にも顔を出すから巣でもあるのかと思ったがそういうことではないようだ。つばめってSparrowだったかなあ。それともSwallowだったかな。でもSwallowっていうとなんだか飲み込むみたいだななどと妙な事を考えながら時間は適当に過ぎていく。腕時計のデジタル表示が9時58分になったところで私は立ち上がった。この時間であれば一昨日きやがれ、とは言われないだろう。
門の所にいくと「こちらで名前を住所を書いてください」と言われる。書くとバッジをもらえた。これをつけて指定された場所で別名あるまで待機とのことである。自衛隊の駐屯地に入るのは防衛庁相手の仕事をしていたとき以来だから何年ぶりだろう。未だに相手はお客様という意識が抜けずやたらと丁寧に応対をしてしまう。
言われた通り歩いていくと木造の建物があり、その中には椅子がいくつも並べられビデオが上映されている。海上自衛隊のプロモーションビデオとでもいうべきシロモノで、出演している人たちも製作した人たちも大まじめなのだろうが、セリフは素面では聞くだけで赤面してしまうような言葉の羅列である。であるから頭を半分スリープモードに入れ、ぼんやりと聞き流す。そのうちいくつかの光景が目に浮かぶ。米国でTVを見ていると時々Air ForceやらMarineの宣伝をやっている。結構真面目でかっこいい物もあるが、結構赤面物もある。しかしその赤面の方向性はこれとは少し違うようだ。たとえばチェスの上に人間が乗っている。良い物は白。悪い奴は黒。そして白が動くたびに黒が
「うぎゃー」
とか言って消える。最後に黒のKingをやっつけると、白の騎士はいきなりMarineの制服姿になるとか言う奴だ。
対するにこちらを見ているとどうもそこまでお馬鹿に徹しては居ないようである。ひょっとすれば制作者のうち2%程は真面目にこのセリフを考えたのではと思えてくる。そのセリフの羅列に再び耳を傾けているうち、何かに似ていると思い出した。駅であるとか道ばたで紋切り型の決まり切った言葉を並べてギターに合わせて叫んでいる若者達がいる。彼らの歌詞を真面目に聴いたことはないが、あるいはこのビデオに出てくるセリフとそっくりなのではないか。
「自分を枠にはめるな」
「あきらめずに」
「きっと何かができるはずだ」
さて、ビデオが終わると制服をきた自衛官の登場である。まずは外に出て人数の確認である。彼は
「ここは観光施設ではなく、軍事施設ですから」
と強調する。全部で31人と数え終わるところで4人おばさん達が走ってきた。全部で35人になったところで一行はだらだらと歩き出す。説明の自衛官は
「今日は休暇でみんな出払っておりまして。私は説明やるの初めてです」
と言うこと。後で何度か話題にもでたのだが、ここも7日まで連休になっており皆帰省しているそうだ。確かに広い構内には人の気配が全くない。
いくつかの建物を通り過ぎ、説明がされる。とはいってもおじさんはしかるべきところで立ち止まってあんちょこを読んでいるのである。面白いのはあんちょこに書いてあることよりも、アドリブのところだ。たとえば幹部候補生の学校がある。赤煉瓦で綺麗な建物だがここは大変に厳しいと言う。何が厳しいかと言えば
「私みたいな50近い男でも学生であれば20台の教官にどなられ、叩かれ、蹴られ。まあ恥とかいっていたらやっていけませんわ」
ということらしい。これまた後で何度か言われたのだが、彼は幹部一歩手前の地位まで昇進しており、あの赤煉瓦の中に入らないように苦労しているとのこと。では今何をしているかというと通信関係の教官とのこと。高校生の指導もしているらしくその苦労話も語られる。
「みなさんもご存じと思いますが、昨今の高校生なんてのは言うこと聞きませんわ。まず社会人として恥ずかしくないマナーを教える。その次に専門知識ですから。。まあ言っても解らない奴はなぐったりけったり、あれこれ苦労しますわ」
昨今世間では体罰がどうだとか、両親がどうだとはうるさいがこの高校ではよもや多少の体罰があったからと言って問題になることはあるまい。
そこからなおも見学は続く。この学校は海上自衛隊-昔は旧海軍-のものだから正面玄関は海なのだそうである。そちらを見れば私が密かに見たいと思っていた物がある。戦艦陸奥の連装砲塔だ。かなり前に京都だかどっかで40cm砲の砲身をみて、その巨大さに驚いた。それが連装になって砲塔に収まればどのような大きさであろうかと思っていたのだが、遠距離から見ているせいか今ひとつ感激するようには見えない。近くに行ってみれば話は別かもしれないがとうとう近くには行かずじまいだった。
さて、こうやって一同で歩いていると、だんだんと離れて単独行動に走る人たちがでてくる。ある男は何が気に入らないのか大声で文句らしきことをわめいている。そして自分が写真を撮りたい所に来ると後の人たちには一切かまわずいつまでも写真を撮り続けている。また別の人たちは「あのおっさんかなわんな。大きな声で」と言っているが写真を撮りたい箇所に来ると本能のままに写真を取り出すのは変わりない。
35人いる一行の中で髪の毛が黒いのは10人にも満たないのでは無いかと思えるほど年輩の方が多い。30台男性が一人でふらふらしているのは私ともう一人だけだ。若いカップルが一組居るが、彼らの髪の毛は茶色である。会話からさっするに男の方がこの学校の関係者で彼女を見学に連れてきた、というところではなかろうか。私より確実に若いと思えるのは両親と一緒にきていた娘とおぼしき女性一人だけである。髪の毛が白い人たちのうち2割程度はまあ引率者と会話などしてお行儀よくふるまっているのだが残りの8割はあっちにいったりこっちにいったり好き勝手に振る舞っている。
そのうち記念館とかいう所に来た。説明によれば国の金を一銭も使わず(戦前の建造であるから)海軍関係者の寄付だけで建てられたのとのこと。この中だけは撮影禁止、及び脱帽である。引率者の自衛官は一礼して入るとのこと。中には値段がつけようもないものがいくつかあると言う。どんな物だろうと思って中に入る。
中には陳列ケースにはいって様々なものが展示されている。健軍からの有名な提督達の写真、それに略歴その他が並んでいる。最近その時代の本をよく読んでいるのだが
「おお。このおっさんこういう顔だったか」
などと思いながら歩いていく。見学者と引率の自衛官がしゃべっている。彼が言うには
「古い人に言わせますと、この頃の人は目が違うといいますね。最近の若い者はまあ男前にはなりましたけどね」
という。そんなに目つきが違うのだろうかと思い写真をつらつらと見るのだがその違いは私には解らない。
元来がこういう展示を見るときはどんどんとばして興味の或物だけ見る質だから印象に残った物だけを書いていく。山口という提督がいる。彼は退艦を拒み空母飛龍と沈んだのだが最後に帽子だけを渡したという。その帽子が陳列ケースの中に存在している。これには驚いた。また明治天皇直筆の署名がある賞状だかなんだかがある。その紙が何であったかは全く覚えていないのだが明治天皇の直筆には初めてお目にかかった。
私は大変字が下手である。社会に出るのとワープロが普及するのがほぼ時をおなじくしていたのは神のはからいと言うべきで、鉛筆で文字をごりごり書く会社生活であれば、私が書いた物など誰も読まなかったであろう。母には
「あんたみたいな字で書いてあったら誰も読む気がしない。だいたい失礼にあたる」
といつも言われている。前半はまあしょうがないとして、失礼とは言い過ぎでは無いかと思ったが、先日私並に字が汚い人の自筆の経歴書を受け取り、齢38にして初めて母の言った意味が分かった気がした。
何故こんなところで字の話を始めたかと言えば、不敬罪に問われようと私はこのような感想を抱いたことをここに記したいからである。すなわち
「明治天皇は字が下手だ」
あるいはそれは私に見る目が無いだけで、見る人が見れば涙を流すような達筆なのかもしれない。しかしなんだかぼてっとしたその線を見ているとなんだか親近感を覚えてしまう。
さて、偉い提督達の写真が一段落すると今度は特攻隊で死んだ人たちの写真と遺書がずらっと並んでいる。今度はどれも大変な達筆である。いや、本当の事を言えば達筆なんだか悪筆なんだか私にはわからないのだが、普段毛書など読みもしない私にも結構すらすらと読めてしまうことは事実だ。これには驚いた。何かの間違いで日本が戦争に巻き込まれ、何かの間違いで特攻隊が編成されたとしよう。私はここで何かの間違いと書いたが、日本が万が一戦争に巻き込まれた場合、何かの形で体当たりをやらかす連中がでてくるのことを私は半ば確信している。皆が輪になって同じ踊りを踊る盆踊りの伝統は、現代にパラパラとなってよみがえった。そこで競われるのは踊りの独創性、美しさではなく、いかに決められた形式に忠実に従うかなのだ。かくのごとく国民に根付いた感情というのは時代が生活が変わってもどこか受け継がれていくものである。
さて、そのような状況において私が遺書をしたためたとしよう。するとそれから50年くらい立った後にそれはこうして陳列ケースの中に収められるかもしれない。しかしそれを見た人は果たして感銘を受けてくれるだろうか
「なんて下手な字」
と思ってそのままではなかろうか。あるいは、他の大多数の搭乗員は出撃間際に一心不乱に携帯の画面に向かい親指を驚異的な速さで動かし遺書をメールで送ることになるのか。そして(;;)とかいう顔文字やらがちりばめられたメールがいつの日か陳列されることになるのか。
そんな不遜な妄想は別として、一番印象深かったのは佐久間という沈没した潜水艦の艦長が残した遺書だった。彼はきわめて初期の段階にあった潜水艦で潜行中にガソリン機関を使用する試験を行い、事故に遭遇した。海底に鎮座した潜水艦の中で、彼がしたためた遺書はエンジニアである(少なくとも本人はそう思っている)私には特攻隊員の遺書よりも身にしみて感じる。戦争というキーワードがからむとHeroicな行為というのはとたんにわかりにくくなる。しかしこの艇長の残した遺書はおそらくそんなキーワードを超えて語り継がれるべきと思うのだが。
最後に太平洋戦争で沈没した日本の艦艇一覧を示す地図を観ると展示は終わりになる。集合時間までは15分ほどあるから、屋外の展示を観る。真珠湾攻撃に使われた特殊潜行艇と大戦末期に開発された海竜が展示されている。いずれも写真ではおなじみだが、やはり実物を見なくてはわからないことはたくさんある。特に海竜は二人のり、ということなのだが、その中はとても狭い。この中に一体どうやったら二人乗れるのだろう。その外形はとても小さく、確かに潜水艦というよりは魚雷に近い。隣には大和の46cm砲弾が展示されている。以前から写真では何度も観ており、そもそも何でこんなものがあるのかと思っていたが裏にあるプレートを観れば、廃棄を依頼された業者が寄贈したとかそんなことなのだそうな。
集合時間が近づくと人が三々五々集まってくる。とはいってもお年寄りの方々は相変わらず意図の赴くままあちこちで写真を撮っている。引率の自衛官は
「自衛隊だと5分前集合というのを心がけ、上官を待つわけですが、娑婆の人は遅れてきますね。まあもう少し待ちましょう」
と言っている。裏には小高い山があり、なんでも訓練でその頂上まで何度も駆け登る、というのをやるのだそうだ。女の子もすごい形相で4つんばいになって登るのだそうである。そんな聞いただけで腰痛になりそうな訓練も元高校球児の引率者にとっては
「自衛隊はこんなもんかと思った」
のだそうであるが。
さて、だいたい人がそろうと先ほど説明のあったこの学校の正面玄関、つまり波止場だか埠頭だか船着き場だかの見学である。そこから見えるところには国産初の自衛艦あさかぜがリタイアして係留されている。その姿は確かに大戦中の軍艦を彷彿とさせる。最近の軍艦は大砲もないし、ミサイルは甲板の下に隠れているし一見するとのっぺらぼうだ。
そこからしばらく歩きリクレーションセンターというところの前で解散となった。ここでご飯をたべるも、おみやげを買うも、急ぎの方は帰るもご自由にということである。ちょうど昼時だから何人かが食堂に向かう。
それまでは何人か作業服を着た人たちだけがいた食堂は一気に活気づく。ここでも年輩の方々の活躍は続く。大きな声で不満を述べ立てていた男性は奥さんとおぼしき女性に向かって大声で演説をしている。最近の若い者はけしからん。こういう所にもきっと来ないのだろう。まったくけしからん。女性の方はそうした演説を聞いて居るとも聞いていないともここからではわからない。なにやら言葉を返しているようだが、男性は会話をしているのではなく演説をしているのだからそんなものは気にかけない。隣のテーブルでは祖父祖母、両親と来ているとおぼしき茶パツの若者があれこれ苦労をしている。地ビールが3種類あるのか、それはいい。是非頼め。じゃ3本?いや2本だ。お父さん。じゃどれにするか決めてよ、と茶パツの若者は欲求の赴くままに発言を続ける年輩の方々の意見をまとめるべく苦闘を続ける。はてには写真を撮れという要望に
「恥ずかしいなあ」
といいながらも応じる。ああ。最近の若者はなんと素晴らしいことか。最近の年輩の方々は全くなっていない、と今日の様子だけを見れば結論づけることも可能だ。本当のところは
「ちょっと観察しただけで一般論をふくんじゃねえ」
ということなのだろうが。
さて、今日の日替わり定食を頼んででてきたのは豚カツの上にスパゲッティにかかっているような何か(なんと呼ぶのか知らない)がかかっているまか不思議な食べ物である。味はまあまあ。問題は付け合わせになっているキャベツだ。普通キャベツというのは付け合わせとして千切りででてくる。ところがここででてきたキャベツは2cm×4cmの短冊状に切られているのである。短冊状の生キャベツは初めてみた。はむはむと食べてみるがやはりおいしくない。千切りというのにはやはりちゃんと理由があるのだと学んだことになるのだが。
さて、後はひたすら帰り道である。坂を上ってバス停に行くと幸いなことにあと10分くらいでバスが来そうである。ぼんやりと待っているといきなり隣にいるおじさんに話しかけられた。ジャケットのエリの穴には錨のマークがついたバッジを付けている。彼は昨日と今日二日とも来たとのこと。昨日の引率者は自由に見学させてくれたが、今日の人はうるさかったと文句を言っている。次に
「あんた先生かね」
と聞かれた。あまりの事にぼける暇もなく「いえいえ」としか返す余裕がない。この前は行きつけの中華料理屋の前で
「おまえ中国人だろう」
と連呼された。先生になったり中国人になったり最近は忙しいことだ。どっから来たのかね。ここからどこ行くのかね。俺は九州に行こうと思ってるんだけどね。博多どんたくってやってるはずなんだけど。私は四国に行くと言った。しかし見学が終わった今となっては目覚めてくれないMacintoshが気になりだしてはいたのだ。バスで船着き場に戻る。船が着くまでの間再びぼーっと時間を過ごす。ほどなく呉からの高速船がついた。
船に乗るとまずコンセントのある場所を探す。よし、あそこに座ろう。コンセントにプラグを差し込むと電源キーを押す。しかし何の反応も返ってこない。
若干血が凍りそうになりながら、私は自分に言い聞かせる。いや。誰が使うともしれない船内のコンセントだからきっと給電されていないに違いない。そうに違いない。ではどこならば確実に給電されていると言えるのかという疑問が頭の中にわく。となれば「今晩泊まるであろうホテルのコンセント」という答えしか返ってこないのだが。
さて、呉に船が着いた。ここから松山行きの船に乗り換えである。降りるとき別の船が着くのが見える。まさかあれが松山行きという落ちではなかろうなと思ったがその通りであった。船着き場にあるビルの中を券売所を探して走り回る。松山行き2階とかいう表示があるのでエスカレーターにのって2階に上る。その瞬間1階に券売所があるのが見える。なんということだ。2直角に反転すると下りエスカレーターで1階に降りる。カウンターのお姉さんに
「松山一枚」
と言うと、彼女はやおらトランシーバーをつかみ「松山行き一人いらっしゃいます」と船を止めてくれる。チケットを買うと走る走る。数人がこちらを観ているので
「いやー、どうもすんませんねえー」
とかなんとか言いながら船に乗る。私は紛れもなく最後の乗客であった。とりあえず席に着くと船は動き出す。まずは座って一息である。