題名:Java Diary-73章

五郎の 入り口に戻る

日付:2006/3/31

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Goromi-TV Part8 & Gards part3

Gards-この名前の由来はGoromiよりいいかげんだ。元々は
「このソフトってなんだかCardを配るようだなあ」
というところ+私が作るものは必ず頭文字がGである、という妙なこだわりよりGCardsとしていた。ところが何度かその名前を書いているうちに
「GとCは形が似ているではないか」
ということに気がつく。であればまとめてしまってGardsでいいではないか。と命名してはみたものの何と発音するのか自分でもわからん。書いたことは あっても発音したことはないのだ。

とにかく今回の論文は去年出したものとは趣が違っていた。この業界並びに世の中では少し前から
「ユーザの嗜好を学習して情報を推薦するシステム」
というのがはやっていた。私も一時興味を持ち調べたがそのうち何事にも当てはまる定理だが
「90%はくずである」
がこの分野にもあてはまる、という結論に達した。ものすごく単純に言えば、こうしたシステムというのは、ユーザープロファイル-そのユーザがどんな人だと か、あるいは過去にどのよう な選択を行ったか-を元にして、
「これを出せば喜ぶだんろ」
というものを推測して提案してくる。これはある程度もっともな話に聞こえる。いつも和食を食べている人には和食を、一度もクラシックを聞いたことがない (とシステムが判断した場合には)モーツァルトは聞かせない、というわけだ。
しかしながらこうしたシステムを容易に語る人間は、人間というものの複雑さ、多様さ、それに理不尽さを舐めているのではないかと思う。例えばあるところで 「楽曲推薦シス テム」のデモプログラムを使わせてもらった。想定するユーザは50代の男性である、と。するとこのシステムは
「あなたは50代男性ですから、演歌を推薦します」
と平気で出力してくる。私はまだ50代ではないが、あと数年後にこんな応答を返されたら液晶画面に正拳を叩き込みその会社の製品は2度と使わないだろう。 説明している人間にそういったところ
「だってアンケートとったら50代男性では演歌が好き な人の割合が一番高かったんですよ」
と言って平然としている。

世の中にあるものはこれよりましなのかもしれない。しかし90%のくずが採用している
「とにかく大量のデータを学習アルゴリズムに入力すれ ば、人間の意図が予測できる」
なんてのは昨今アニメでも使わないようなネタだ。その昔コンピューターが「電子計算機」と呼ばれていたころにはそういうネタがいくつか使われていた。初代 ルパン3世で「ルパンの行動を逐一電子頭脳が予測する」というエピソードがあったし、サザエさんでも「自信作とそのほかを電子計算機に 突っ込むと”適正な一コマあたりの原稿料”を電子計算機が予測してくれる」とうものがあった。しかし昨今は漫画 でもそんな話は聞かない。

だいたい人間というのはとんでもなく気まぐれなのではないだろうか、とグループ内の会議で発言する。するとある男が話をしてくれた

「友達に突然”TVでやっていた 店に行きたくなった。一緒に行こう”と誘われた。遠路はるばるその店にたどり着き、行列までして入店してさあ注文、となったところで その友達はTVでやっていたのとは別のものを注文した」

「真面目に」情報推薦システムを研究している人はあるいはこういう行動を「例外」とみるのかもしれない。しかし私は何の根拠もなくこれを「本質的なもの だ」と考えた。人間は合理的に行動(自分が目的とする店に行って目的とするものを注文する)するのではなく、その場その場で行き当たりばったりに判断して 行動している(違うものを注文する)のではないかと思っているからだ。
つまりユーザーの性別や、年代、それに過去の履歴を考慮して「これならば当たる確率が高い」と考えること自体は大変合理的ではあるが、肝心な対象たる人間 が合理的に行動してくれなくてはなんともならない。しかし現実世界における人間の行動は「無茶苦茶」なのではないだろうか。でもってどこで読んだの だが忘れたが
「計画というのは、人間があとから自分の行動を説明す るためのものである」
という一文などが心に響く。筋の通った理屈付けなどは所詮後付であって、将来の予測には使えないのではないかと思うのだ。

さて、本来エンジニアというか科学的方法論を信奉するものとしては、こういう「異端」の説を主張する際には、それを構成する仮説を一つ一つ検証していくべ きなのだろう。しかし私 は「立派なエンジニア」ではなく「チンピラエンジニア」である。うははは、裏プロジェクトを思い込みだけで作ってどこが悪い。

というわけで論文の前半は情報推薦システムへの悪口に満ちることになる。理由は大きく二つ。上記の過激な説を一旦百歩ばかり後退させ、人間の行動が過去の 履歴に左右されるとしよう。しかしその「履歴」を情報システムが取得可能な形で利用できるか否か、というのは別問題である。
例えば今回作っている「お昼に食べるもの推薦システム」で考えてみる。その人の年齢、性別、体重等のデータは簡単に(本当はそうでもないが)入力させるこ とができる。し かしお昼に何を食べるか、という判断に一番大きく影響するのはそうした「簡単に手に入るデータ」ではなく、
「そのときの腹具合」
であり
「昨日の昼、晩に何を食べたか」
だと思う。ところがそんな情報をいちいちユーザに入力させるとしたら誰がそんなものを使おうと考えるだろう。

もう一つはこうした情報推薦システムは、対象者が複数になった途端
「仮に対象となる人間の好みデータを持っていたとしても、複数の好みをどう合わせればいいのか」
という問題に直面することだ。例えば、 CEATECという展示会で某社がロボット型のTV推薦システムを展示していた。そこにいた説明員に
「TVの前に二人座っていたらどうするんだ」
と聞いた ところ
「二人の嗜好モデルを足し合わせるか、平均をとるか。 今後の検討課題です」
と言った。嗜好の「和」とか「平均」ってなんのことだ。
世の中にはあるいはもっと巧妙にこうした問題を回避する手法があるのかもしれないが、私は知らない。一人で使うのが前提の携帯音楽機器とかだったら いいけど、TVとかお昼推薦とかどうするのだ。と聞くと
「いや、それも学習すればいいんですよ」
と真顔で言い放つ人間が私の席から数十m以内に数人いる、、ということはこの際関係ない。

ではどうするのか、といわれれば
「どうせわかんないんだから、その場の選択に応じてと にかくわらわら提示する」
というのがGardsで私が取った方法である。そしてユーザ試験の結果それは見事に当たっていた(と私は思った)最初に使った男は和定食ばかりいくつか選 び、さあ決まるかと思ったところ最後に「そば」を選んだのだ。ああ、人間ってやっぱりいいかげんでランダムよね、というわけで私はその結果も論文に盛り込 んだ。あるいはものすごく高度なアルゴリズムを使えば人間の行動は予測できるのかもしれない。しかしそんなことは無理、と決めつけてしまう。プレゼンに使 うつもりで挿絵まで考 えたが使わなかった喩えにこういうのが有る。

大きな木から枯葉が一枚落ちる。
上から下に落ちることは間違いない。
しかし基本的にひらひらと舞っている。
少しでも風が吹けばそちに流されるだろう。

この木の葉を弾丸で射抜くのにどういう方法を採るか。

漫画というかフィクションの世界であればゴルゴ13が登場し風や木の葉の動きを「読みきって」見事一発でしとめるところだ。
しかしそんなことは現実的に不可能だろう。(本当にはどうか知らん)あるいは近くに尻尾に団扇をくくりつけたシュレジンガーの猫が居たとしたら、一発で射 抜くとは原理的に不可能になる。

ではどうするか。Gardsの解決策に対応するのは

「とりあえず木の葉が見えた方向に向けて散弾銃を打ち まくる」

ものである。どちらにいくかは知らんけど、今見えた方の近くにばこばこ打っていればそのうちあたるだろう。そして現実の問題ではこの比喩よりも有利な点が ある。人間は木の葉と違 い、「外れ弾に自分からあたってくれる」ことがありえるのだ。つまり見当はずれであってもたまたたま表示されたものが気に入ることだってありうる。

とまあこんなことを考えながら論文を書いたわけだ。端的に言えば最近はやりの情報推薦システムに対して
「君たちのやっていることは間違っている、というか 少なくとも別の解決策もあるぞ」
という内容である。つまりまともに読めば波紋をなげかけない内容だ、、と書いている間は思っていた。

というわけで最初は手こずったLaTexにも慣れごりごりと書いて期限前に提出した。やれ一安心と思っていると
「Wordで書いて、かつ期限から2日ほど遅れて提出 された 論文も受理された」
ということを知り、あの苦労はなんだったのだ、と思う。まあおかげでLaTexというものにもさわれたし、そこそこ気に入っているからいいか。

というわけでしばらくは平和な日が続く。しかし採否通知がある9月30日の一週間前くらいから心はだんだん穏やかでなくなっていく。去年は初めての論文 だったからまあ通れば儲けもの、 くらいに考えていた。ところが今年はそれなりに目的を持って書いたものである。しかし通らんかもしれん。通らなかったらインタラクションに論文として出す ことになるのだろうがその気力がわくだろうか。いや、結果がわからないうちからあれこれ言ってもしょうがない。

というわけで非常に不安に満ちた日々がやってきた。去年はいつ通知があるかも忘れていたが今年は意識しすぎである。おまけにおろかなことに
「WISS行きますか?」
「論文通ったら行きますよ。ははは」
という愚かな受け答えを少なくとも3箇所でやっていた。そうだよなあ。論文落ちてしょぼしょぼとWISS行くのもいやだよなあ。とはいってもその3人の人 がもし私が言ったことを覚えていれば

「ああ、大坪はいない。。そういえば論文出したとか いっていたけど落ちたんだな」

と思うに違いない。

などと想像だけでしみじみしていてもしょうがない。そのうちある人のブログに某プログラム委員会があって「良いプログラムができた」という言葉が掲載され る。そうか。きっと査読結果も出てプログラムまで決まったのだなあ、と勝手に思い込む。

というわけで
「採否は決定されているが、観察者(私のことだ)はそ れを知らない」
状態になったわけだ。まるでシュレジンガーの猫である。採録が決まり喜ん でいる私と落とされてしくしくしている私の二つの状態が存在しており、それが採否通知のメールを開いたときどちらかの状態に収束する。そんな馬鹿なこ とばかり考える。9月30日私は出張だった。というわけで会社のアカウントにメールは届いているかもしれないが、依然として悲喜二つの状態が波動関数とし て重なりあっている状態である。

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注釈