映画評
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今日の一言:現在・過去・未来
映画の冒頭かわいい赤ちゃんがでてくる。しかしその映像にどこか危うさを感じる。自分が親になってからというもの、こういう子供を見ると心配で仕方がない。そしてその悪い予感は「現実」のものとなる。こういうの苦手なんだけどな。女の子がI hate youという。思春期にはありがちだよね。親としてはつらいけど。
話はいきなり飛ぶ。大学で言語学の講義をしている女性はなぜ学生が授業に少ししか来ないのか不思議に思う。すると生徒たちの携帯電話が一斉に鳴り出す。一体どういうことか。TVをつけると、巨大な柿の種が世界12箇所に現れたことを知る。
この映画には無駄なセリフや描写が一切ない。登場人物はそれぞれの立場、主張を持ちながらとても賢く、最小限の会話で話が進んで行く。
全く言葉の通じない相手と、どうやって意思疎通をすればいいのか。そもそも相手には「意思」があるのか。物理学者と言語学者が召喚され、任務に当たる。なぜ柿の種は世界12箇所に現れたのか。シーナイーストンの曲がはやったことと何か関係があるのか。
言語学者の努力により、少しずつコミュニケーションが可能になる。その結果が現れるにつれ人間はパニックに陥る。アメリカは何かきっかけさえあれば暴動が起きるなあ、とため息をつく。最初は協力していた各国はそれぞれの殻に閉じこもり始める。混乱の様相が高まる。
その時
主人公が発したある言葉をきっかけに、それまで映画に散りばめられていた要素が全く違う結びつきを始める。どうして母娘だけなのか。 物理の用語だったらパパに聞きなさいとはどういうことか。言語は思考を規定する。映画の冒頭のモノローグ、彼らの言葉には時制がない、そしてI hate you.それらが予想もしなかった形で結びつき、現れた構造に唖然とする。
その展開の見事さもさることながら、それを踏まえた上での主演女優の演技が素晴らしい。彼女は物理学者とハグする。なぜここでキスしないか。監督は女優の表情を映そうとしたのだと思う。喜び、悲しみ、諦め、そして前に進む決意。後で調べて見たら魔法にかけられての人なのだな。あの時は「歳食ったディズニーヒロインだなあ」としか思わなかったが。しかしこの人鼻の穴が縦に長い。
最近よく思うのだ。
この先私が畳の上で安らかな死を迎えるかどうかは誰にもわからない。仮にそれが不幸な終わり方であった場合、今までに感じた幸せは全て無意味ということになるんだろうか?結局終わり方次第なんだから今やっていることは無意味なのか?それとも過去はあやふやで変えようがなく、未来はなんとでも変えられる、存在するのは現在だけと考えるべきなんだろうか?
よくわからないので、「全部一緒に起こっていることにしよう」と最近考え始めた。そこにこの映画である。なぜ昨年のアカデミー賞にやたら柿の種がでているのか理解できた。というか一つも受賞しないのおかしくないか?
今日の一言:歌って踊ってちょっとしんみり。そして前を向く
エマ・ストーンは変な顔である。目がやたらと大きく、まわりにシワが寄っている。理由はわからないが彼女の目を見ているとキャプテン・ウルトラにでてきたバンデル星人を思い出す。今記憶を辿れば別にバンデル星人は目が大きくないのだが。
冒頭フリーウェー上でのいきなりのダンスシーン。最初に歌い始めた女性はどんな人なのだろう。これは彼女にとってキャリアの頂点となる役なのだろうか。ほんの数秒歌って踊るだけだが、彼女の陰には何人オーディションで落ちた人がいるのだろう。映画を観終わってそんなことを考える。
エマ・ストーンは女優の卵。ストーンがオーディションに行く場面は、実生活で何度も何度もやったのだろうと思わせる。廊下にずらっと並んだ同じ格好をした女性たち。勇んで臨んでもセリフ一行読んだだけでThanks for comingと言われてしまう。この場面の演技は「やりすぎ」が見事と思うが、バンデル星人なのも確かだ。
でもってそのバンデル星人がライアン・ゴズリングと歌って踊る。彼は絶滅しかかっているジャズクラブを開くのが夢。二人は偶然何度もでくわし、喧嘩しながらも付き合い始める。ここは正直少し退屈だった。最初のデートシーンはいいと思ったけどね。
しかしこのまま終わるわけがない。二人でいるときは楽しそうだが、それぞれの夢に向かっては少しも前進できていない。そこに意外な電話が飛び込む。そのオーディションの場面は、私が何度も経験した面接を思い出させる。結局ダメな時は全く何をやってもダメなのだ。うまく行くときは部屋に入った時からそれが伝わる。
ここでいきなり時間が5年飛ぶ。そこからについては書かないでおこう。観終わった時、楽しさと少しの寂しさと、そして誰もが前を向いて歩くしかない。そんなことを考える。
途中までは「悪くないけど、オスカーでたくさんノミネート?また投票権持つ人たちが”目立たないけど、こんないい作品発掘したよ”と言いたいのかあな」と思っていた。しかし最後までみればそれは間違いだったとわかる。エンドロールの後、隣で拍手したおじさんがいた(アメリカで観たのだ)オスカーをとっても取らなくてもいい作品だと思う。子供と一緒に(日本語字幕付きで)もう一度見ようかな。
映画館を出れば、地下鉄の構内で座り込むホームレスから裕福そうな学生、社会人までいろいろな人がそれぞれの生き方をしている。日本よりそれらのコントラストがはっきりしているアメリカで観たのは幸運だったか。
日本に帰ってから、改めて予告編を見る。音楽が流れ出した瞬間、少し泣きそうになったのには驚いた。
今日の一言:ある日常
予告編を見たこともなかったが、ネット上でこの作品が話題になっていることを知る。誰に頼まれたわけでもないのに、映画の良さを伝える漫画を描いている人もいる。これは見に行かなければ。しかし不幸にして上映館が少ない。職場演説会までの隙間時間に見る事ができたのは幸運だった。
戦前の広島に生まれた主人公。少女からいつか大人になり、呉の海軍法務関係についている男のところに嫁に行く。新しい家庭で新しい暮らしが始まる。その時日本は戦争に向かって行った。
とはいっても年表式に「盧溝橋事件」とか「真珠湾攻撃」とかは一言もでてこない。そんなことは今歴史として学ぶ我々が考えることで、その時生きていた人には遠くのニュースでしかなかっただろう。
この作品に死があるとすれば、それは死が日常の一部だったから。
死は無差別に訪れる。
スーパーヒーローはでてこない。助けてくれない。
人格が入れ替わるなんてことはない。
時間は巻き戻らない。
敵の親玉を倒すと街が一瞬で元どおりになることはない。
それでも人は日々生きて行く。喧嘩したり、仲直りしたり。
そんなことを考えた。映画を観終わってから何度もそんなことを考えた。
能年こと”のん”の演技力は素晴らしい。その起用によって某TV局ではこの映画のことが絶対に取り上げられないと聞くが、それを覚悟しても起用した関係者に敬意を表したい。これは「供給者側の論理で、ゴミを売りつけてくる」大日本娯楽提供公社とは全く違う論理で作られた映画。
この時代をリアルタイムで知っている父に見せたらどう思うのだろう、と勧めて見た。父は言った「変な主義や思想がなく、淡々と日常を描いているだけとても重い」
今日の一言:たった96分の堪え難い時間
離陸直後にエンジンが全て停止。残された手段はハドソン川への着水だが、旅客機の着水は一つ間違えば大惨事になる。しかし奇跡的に一人の死者も出ず、ハドソン川の奇跡と称される。
そこまでが私がニュースで知っていた内容。しかしその後、国家安全運輸委員会による長々とした追求が続いたことは知らなかった。理性で考えればその通りなのだが。
シミュレーションでは無事に空港に着陸できたと告げられる。またエンジンが動いていた可能性があるとも。それを妻に告げると「なぜ着水を選んだの!」と詰問される。この映画に描かれる奥さんは主人公の助けになっていないところがリアル。映画の途中で起こったことが忠実に描かれる。状況を考えれば飛び込んだのが二人だけだったのは奇跡的なのだが、彼と彼女も無事救出される。機長は最後まで機内に残り、そして全員が助かったと知るまで緊張を解かない。その態度は見事だが、プレッシャーのかかる場面の間に挟まれると思うのだ。いっそここで首をくくってしまえばよかったのではないか、と。それくらい機長の苦悩が観客に伝わってくる。
最後の委員会で、機内の音声テープが再生される。その緊迫したやりとりは後付けの「ああすればよかった」という理屈を吹っ飛ばすだけの力がある。なるほど、リアリティを犠牲にしてもこの音声を最後に持ってきたわけがわかった。
後から「本当はこうだった」を読んだ。確かに委員会は「映画に必要な悪役」として作られているだろう。それが「ぎゃふん」となり大団円かと思えば、映画の最後は見事なアメリカンジョーク。こういう締め方はアメリカにしかできない。
見終わったあとに、この映画はたった96分だったことを知り仰天する。イーストウッドの熟練の技が見事な素材と組み合わさった時の破壊力は凄まじい。
シン・ゴジラ- Godzilla Resurgence(2016/8/11,20)
今日の一言:劇場で2度以上見た作品は二つ目
シン・ゴジラという作品が作られることは知っていた。進撃の巨人の監督が関わっているということも。予告編からはどんな物語か知ることができない。公開が近づくが試写会などの情報が全くでてこない。
庵野という人の作品は二つしか見たことがない。一つがヱヴァンゲリヲン新劇場版:序であり最後の綾波某の笑顔を除けば「オタク向け記号の陳列棚」としか思えず、監督が「エヴァは衒学的」と自ら告白している言葉を読み「さもありなん」と思う。もう一つがキューティーハニーであり、一番印象に残っているのは東京タワーが落っこちてきたときの「ありえねー」という観客の声。であれば何を期待するというのか。これは進撃の巨人クラスになるかもしれない。
そんな野次馬的根性で、公開直後のレビューを眺める。すると最初に目に入ったのは「これはエヴァンゲリオンだ」というもの。ヤシマ作戦の音楽を用い、ゴジラを倒す作戦自体もヤシマ作戦そっくりだとか。そういうことなのだろうか。しばらく目に入るレビューには「エヴァンゲリオンオタクが喜んでいる」というものが多かったように思う。ならばエヴァンゲリオンを面白いと思えなかった私が見るべき映画とは思えない。
しばらくそう考えていたのだが、目に入ってくるのがそうした評価ばかりではないことに気がつく。TwitterやFacebookで私がフォローしている人(とても少ない数だ)でも絶賛する声が聞こえて来る。となると見るべきではないか。大人となった今となっては1954年のゴジラ第1作以外日本のゴジラもアメリカの1998,2014ゴジラにも感心できなかったが。
恒例の「映画泥棒」が流れる。これが終われば映画本編のはずだもう一つ予告編があり驚く。キラキラひかる東宝のロゴが二つの後に、題字が表示される。
漂流しているボートに乗り組む海上保安庁?の職員。画面上部にはRECという赤い文字が表示されている。これはドキュメンタリータッチの作品か。そう考えていると東京湾で起こった事件に関する政府の会議が次々に行われる。
映画の前半は会議ばかりと聞いていた。そしてその通りなのだがまだるっこさはない。どうしようもない会議では「中略」の文字が出る。大きな会議を丸く収めようとする閣僚達。主人公が異説を唱えるのもリアリティを壊さない範囲。会議室にコピー機と椅子が並べられる。律儀に会議室の設置シーンを写した映画がいくつあったのだろう。そうした細かい描写が観客に「これは現実ではないか」という錯覚を与えていく。
おそらく変人扱いされている環境省の尾頭が遠慮無く「お言葉ですが」と言う。大臣が「うちのが失礼なことを言いましたが」と言い訳をする。そうした建前が通るのは平和な印。生物学の重鎮の役に立たなさも見事。そのうち地位や立場を超え「使えるやつをつれてこい」ということになる。
そもそもどうやって対処するのか。自衛隊を出動させるにせよ「敵国」はどこなのか。そんなことを延々と議論している姿をみて、南北戦争の初期の話を思い出した。通常の警察力では抑えられない暴徒の鎮圧という名目で募兵する。南部連合の港湾封鎖の名目はどうしよう。税金を納めないための差し押さえではどうか、などと悠長な議論をしていられるのは最初だけ。
目的も無くただ進んでくる奇妙な生物にアパートが押しつぶされる。考えてみれば小さな子供が出てきたのはここだけだったな。自衛隊のヘリが出動する。怪獣映画の伝統に従いここでの攻撃に効果はない、と頭でわかってはいる。しかしヘリの搭乗員が引き金に指をかけるところで「どうか当たりますように。ヘリが落ちませんように」と願っている自分に気がつく。
一旦日常が戻ったかに思える。片桐はいりはほんの一瞬の出演だが忘れられない印象を残す。この国はまだまだやれる。この言葉は多くの観客の心に届くだろう。ここらへんからゴジラの仕組み、対策についてものすごいスピードで情報が語られる。到底理解できないし、活字になったものを読んでも意味が通じているとは思わない。しかしその「意味のわからなさ」をすっとばし「なんだかわからんけどそういうことらしい」と思わせる技には驚く。この監督が同じく作ったエヴァンゲリオンにも同じような「言葉の洪水」が存在した。しかしエヴァンゲリオンではそれは単なる「ヲタクを喜ばせるための記号」としか思えなかったのだが。
海底に潜んでいたゴジラは鎌倉に上陸する。ゴジラが通るルートは私の通勤路。この映画をみてから武蔵小杉のタワーマンション群を見るたびここをゴジラが通ったのだと思う。
多摩川防衛戦は私が朝晩通っているところで行われる。MLRSの発射で身の毛がよだつ。あれが着弾したらひどいことになるぞ。後で考えればクラスター弾が用いられるはずもなかったのだが。
米国大使館防衛とういう名目でB-2が爆撃を敢行する。初めてゴジラにダメージを与えたのだが、ゴジラはそれに反応する。予告編に使われていた美しく哀調に満ちた音楽が流れる。炎の海になった場所にはどれだけの人がいたのだろう、と思わず考えてしまう。閣僚を一機のヘリに乗せてしまうのも日本の甘さか(ダメなインデペンデンス・デイではアメリカも同じくらいアホだったが)
日本映画というかアジア映画に「お約束」の主人公が叫び心情を吐露するシーンが一度だけ出てくる。しかしそれはあっさりと収束する。そこから核兵器を使ってゴジラを確実に駆除したいアメリカ-国連とそれを回避しようとする日本の競争が始まる。エヴェンゲリオン-序にでてきたヤシマ作戦と類似の作戦が展開される。いや、道具立や画面は極めて似ているのだが、受ける印象が全く違うのはどうしたことか。ヤシマ作戦はただの記号にしか見えなかったがこの映画での作戦はまるで全国の科学プラントで働いている人たちの息遣いが感じられるようだ。作戦決行前の「演説」もエヴァンゲリオンと形の上で似ているのだが、それを聞いている私の顔が細く振動していることに気がつく。作戦が決行される。
エンドロールにあわせ、私のような長年のゴジラファン馴染みの音楽が流れる。これまた馴染みの「終」の文字のあと場内が明るくなる。エンドロールで立った人はいなかったように思う。退場しながら辺りを見回せば、子供から私より年配の人たちまでとても幅広い観客がいたことに気がつく。1998のトカゲゴジラの時は、エンドロールが始まった瞬間ほとんどの人が立っていたな。
アマデウスのメイキングで監督が言っていた。
「脇役は個性的な顔立ちの役者を選んだ。あれ?この人誰だっけって混乱するのはいやだろう?」
それくらいこの映画の「脇役たち」は個性的であり、ほんの一瞬の出番で強烈な印象を残す。防衛大臣、自衛隊の面々、巨災対の面々、特に尾頭。外務大臣代理がいかにも
「他に人がいないから昇格しました。イマイチだとは自分でもわかってます」
といった容貌で笑える。そして日本式に頭をさげる臨時総理。私も一度やったことがあるが、本当に心情を表そうとするとき、相手が同じ文化を共有しないとわかっていても日本式儀礼に頼るしかないと思えることがある。
映画館を後にしながら私は希望と絶望が入り混じった気持ちになっていた。こんな映画を見ることができるとは思わなかった。これは最近のディズニーと対極にある映画。ディズニーは大勢で時間をかけ脚本を練り上げ、完璧にストーリーの筋を通す。それに対しこの映画の
「何を言っているか誰も理解できないのに現実を感じさせる力」
はなんなのだ。これこそ宮崎駿が危ういバランスの元で達成し、その老いとともに失われた技術だった。それはここに形を変えちゃんと存在している。
避難所生活のシーンをみて思い出す。1954ゴジラのそれは東京が空襲で焼け野原になってから九年後につくられたものだった。もう日本はあのように真面目に災厄を描くことはできないのだろうか、と思っていた私はバカだった。つい最近あったばかりではないか。911後に作られた宇宙戦争にあった行方不明者を捜すボードのように洋の東西を問わず直近で起こった大災害は映画に大きな影響を与える。
最後の対ゴジラ戦闘のCGはダメなインデペンデンス・デイのクライマックスと同じようなクオリティだった。しかしそんなことはこの映画の価値を少しも損なうものでは無い。
それと同時に考え続けていた。
石原某をキャスティングした人間を無期懲役にしろ、と。
英語力については問うまい。いざとなれば吹き変えればいいだけの話だ。問題はもっと根本的なところにある。他の出演者がプロの役者だった中で、石原某だけが「アイドル女優」だった。いや、普通の日本映画ならそれで何の問題もないのだが、これは普通の日本映画では無い。
映画を見ている最中、できるだけの努力はした。しかしどう目を細めて見ても、
「上院議員の娘にして、40代で大統領職を狙っている才能と野心満々のアジア系アメリカ人」
には見えず
「OLしばらくやったけど、自分へのご褒美として退職して語学留学に来た日本人女性。英語はECCと六本木で鍛えたからバッチシよ」
にしか見えない。それはまるでオペラの舞台でAKBが生歌を歌っているかのよう。
後から思い返せば圧倒的な現実感を持つと思っていた舞台の虚構性に気がつく。311当時(ちなみにその前も)の総理はどんなフィクション作家も描けないような漫画的な人物だったことを思い返そう。しかし製作者は余分な要素を一切切り捨て「リアルを感じさせる虚構」を描いて見せたのだ。
例えば会議室のビニール袋に残されたカップ麺のカップとかアニメであれば「ヲタ向けの記号」としか思えなかったものがこの映画ではリアリティを増す道具になっている。石原某だけは逆に「アニメならば笑って済ませられるが実写だと壊滅的」。
私と同じ年の女性が「ゴジラ?ああ、石原某がでてるんだってね」と言った。それを聞き、なるほどこういう人間を出演させる意味はあるのだなと思う。しかし石原某にあの役を与えたのが、この映画を売るためのマーケティングとの数少ない妥協だったとしても、責任は監督にある。石原某には前田某以上の役柄を与えるべきではなかった。
別の映画を作っているときのエピソードからしても、この監督は完成度に非常にこだわることがわかる。確かに石原某を除けばそれはうなずける。ではなぜAKBに生歌を歌わせたのか。 そう思えば、米国人がでてくるシーンはいずれも奇妙だったことに気がつく。多摩川防衛戦を司令部で監督していた軍人たちといい、米国大使館で並んで窓に向かっているシーンといい。
結果をみて判断すれば、この監督は自分の領域から一歩出た所では全く無力でしかもそれを自覚すらできていない、という結論に至らざるをえない。彼は石原某が脚本の上で演じていた人間、そして米国人がどんな人間なのかが全く想像できなかったのではないか。それは日光東照宮にある想像だけで描かれた象のよう。これが日本の個人の限界というものか。
そんなことを考えながら、ここ数十年やったことがなかった行動をとる。劇場に再度足を運んだのだ。今度は家族で。子供たちにこの映画を見せなければならないと感じたから。ちなみに劇場で2度見た作品は1954ゴジラだけである。幼い頃父に連れられてみたそれを映画館で再度見たのはいつのことだったかな。
この映画に希望と絶望を見るべきか、絶望と希望を見るべきか。ここは石原某の破壊力にも背骨を折られなかった事実を認め希望をみることにしよう。しかしこの映画を海外で公開するときは再編集するべき。1954ゴジラも登場人物を差し替え全く別物として海外で公開されたと聞く。であれば石原某だけすべてカットし、必要な字幕をいれればよい。モーツァルトのレクイエムにもジュスマイヤーが作った部分をカットしたバージョンがあるように、この映画にもそうしたバージョンがあるべきだ。
シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ- CAPTAIN AMERICA: CIVIL WAR(2016/5/7)
要約:この作品を生み出したシステム
というわけでマーベル社のヒーロー大集結である。彼らと彼女たちが二手に分かれて喧嘩をする。なぜか。この間DCコミックのスーパーマンとバットマンも揉めていた
「スーパーヒーローは法律を無視してもいいのか。悪いやつをやっつけるためには市民の犠牲がでてもいいのか」
という点がマーベルでも問題になるから。アイアンマンは「国連の管理下」に置かれることを承諾する。キャプテンアメリカは
「できる限り多くの命を救うことにコミットするが、すべての命を救うことはできない」
という立場をとる。しかしあれだよな。国連の管理下なんて言った日には何もできなくなるのは火を見るより明らか、といいつつも今までの映画で「背景」としか描かれたなかった人の死にちゃんと焦点が当たる。
というところから無理なくドイツの空港での「2派に分かれての大げんか」につなげていく。アントマンはいつも笑わせてくれる。スパイダーマンの登場から新キャラクターの導入まで。あと殴り合いの最中に
"We are still friends. Right ?"
というセリフがでるのもアメリカならではか。大統領選のディベートのようなものだよね。終われば家族同伴で仲良く握手。こうやって書くとものすごくたくさんの要素があるのに、それがきちんと一本の映画としてまとまっている。重いテーマに真面目に取り組んでいるが、その上で観客を笑わせる。キャプテンアメリカが女の子とキスするのを見ている二人とか。
映画が終わった時ぱらぱらと拍手が起こった。私も拍手した。先ほどの「正解のない答え」にちゃんと納得出来る結末をつけたから。正解はない。しかしそれを認識した上でそれぞれが信じる道を進むという。これが大人の決断でなくてなんであろう。
あるいは日本の漫画にもこういうものがあるのかもしれない。しかし徹頭徹尾「大人の鑑賞に耐えうるヒーロー物」として作れらた物語であることに気がつき、日本の「ヒーロー物」との差に愕然とする。なぜこのように「真面目なエンターテイメント」として作ることができるのだ。
要約:この作品を生み出したシステム
観ている間、何度もこの文章を思い出した。
「フィルムのどこか途中から観始めても、力のある映画は、瞬時に何かが伝わって来る。数ショットの映像の連続だけで、作り手の思想、才能、覚悟、品格が、すべて伝わって来るのである。要するに、どこを切ってもたちまち当りかはずれか判ってしまう。まるで金太郎アメだ。B級C級は、どこを切ってもB級C級の顔しか出て来ない。」 (東宝レーザーディスク「生きる」解説より)
主人公が初めて電車にのりズートピアに向かうシーン。その数十秒の間にどれだけの才能と時間が注ぎ込まれたのだろう。私のような素人でもそこに「A級作品」を感じ取れるのだから、本職の人が見たら卒倒するかもしれない。画面の一瞬一瞬を見逃すまいとし、それが凡百の作品とどう違うのか素人なりに考え続ける。
映画が終わり、近くで見ていた三歳児(推定)が「おもしろかったー」と言う。53歳、3歳に等しく「面白い」と思わせる作品がどれだけあるのだろう。
あるいは大人がみれば「元肉食獣と元草食獣」の間に生まれる溝は米国における人種間の溝を、深く考えぬいた上でなぞっていることにも気がつく。電車で隣の席に大きな元肉食獣が座っている。子供をそっと自分の方に引き寄せる母親の姿は今の人間世界にも存在するものだろう。あるいはそれは人間社会に普遍的に存在する「差別」と「偏見」なのかもしれない。そのように大人にも子供にも理解できる内容をちりばめながら、映画のほとんどの要素がきちんと繋がっている。一例を挙げよう。
主人公のうさちゃんが、記者会見で思わず「問題発言」をしてしまう。しかしそれは「全くもっともなこと」を言っただけであり、本人も問題発言とは思っていない。しかしその「当然の発言」は市長が法を破ってまでも隠しておこうとした事実だった。その時後ろに映し出されていた画像が「なぜこんな画像が?誰が用意したんだ?」という疑問はちゃんと最後に解けるようになっている。
このように一見細切れに見える要素の裏に考えられたストーリーがあり、意外な展開があり、最後にほっこりとする。なぜこんな「あたりまえのこと」をここまで見事に行える。これはディズニー的な映画の作り方をとことんまで極めた結果か。
観ている間これと正反対の作り方をされた宮崎駿の名作が思い出される。ほとんど一人の頭から生み出され、わけがわからないのだが面白い。この映画の正反対の位置にある傑作が今後生み出されることはないだろう。
ディズニーはこのレベルの名作をほぼ年に一本「量産」している。これは驚くべき事だ。「予算が違うから」というのが日本の映画関係者の定番の言い訳らしい。じゃあ金があればこれが作れるのか?私が金を持っている立場ならそういう言い訳をしている人間に賭けようとは思わない。ベイマックスを見た時、日本人には決して作れない見事なサンフランソトーキョーの街並みに悔し涙を流した。今回はそこまでの残念感を持たなかったのが唯一の救い。「正面から圧倒的な力で攻める」力に唖然とはしたが。
注釈