映画評
五郎の入り口に戻る
日付:2014/1/4
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X-MEN アカポリプス-X-Men Acapolypse(2016/8/16)
今日の一言:どーでもいいですよー
私にとって名作、駄作いりまじっているX-MENシリーズ。アメリカでの評判が悪いことを知っていたし私が忌み嫌っている3Dだがしかたがない。空いた時間帯にはまる映画がこれしかなかったのだ。
映画が始まると「名作と駄作はどこでわかるのだろう」と考え出す。何げ無いイントロダクションなのだが早くも退屈する。前作から繋がっている設定らしいが、みんな老けたなあ。
古代エジプトにいた最初のX-MENが、ピラミッドの下に閉じ込められました。そいつを誰かが掘り起こしました。でもってそいつがやることがまず「世界中の核兵器を宇宙にほっぽりだすこと」。強力なおじさんが唯一恐れるのが核兵器かなあと思うが、もっと合理的な解釈は「予告編に核ミサイルがばかばか発射される場面をいれたかったのだろう」というもの。だってその後の話に全然つながってないんだもん。例によってX-MENがいいものと悪いものにわかれてあれこれやるのだが、マグニートはなんでこいつの言うことを素直に聞くかね。サラリーマンに向かないタイプと思っていたが。その息子は早く動けるので、建物が爆発するとき皆を助ける。あのねこの世の中には慣性の法則というものがあってね、とは言うまい。しかしこのシーンを長々と続けられると「これ面白いと思ってんのか」という声が頭の中で響く。
というわけで、お話に全く乗ることができない。最終的にはそれまであまり何もしなかった姉ちゃんが覚醒してやっつけてくれるのだが「はあ」と思うだけ。ああ、こんな映画に2200円も払ってしまったかという後悔の念だけが後に残る。いや、前を向こう。プロフェッサーが禿げになった理由がわかったじゃないか、と自分に言い聞かせるものの。ああ、ここでゴジラ見られたらなあ。映画館自体の音響だけはすばらしかったんだよ。
ゴーストバスターズ -GHOSTBUSTERS(2016/8/12)
今日の一言:Rotten Tomatoesを信じるものは災いに見舞われるであろう
というわけでゴーストバスターズのリメイクである。予告編をみると、女性ばかりのチームなのだな。それはいいとして、この「観る気が全く湧かない予告編」はどうしたことか。
どうなることかと思っているうち米国で公開になる。米国のレビューサイトRotten Tomatoesでの評価は73%。これは悪い数字では無い。ひょっとすると予告編はひどいが本編は悪く無いのかもしれない。
そう思った私は馬鹿だった。地下鉄にスプレーで落書きしている男がいる。文句を言われながら例のマークを書き上げるのだが、どうみても一本しかスプレーをもっていないにもかかわらず、できあがったのは2色のマーク。この映画は「そんな細かいこと」は気にしないで作られたのだろう。
ゴーストバスターズだから無茶苦茶な設定がでてくるのはお約束だが、面白くなくては困る。マイティーソーが頭のおかしい助手役ででてくるのだが、「笑わせる」ではなく「単なるキチガイ」。映画の半分くらいで「時間と金を無駄にした」ことを悟り、あとは心静かに瞑想にふけることとなる。
ギャグとイライラする悪ふざけの境界線は、坊ちゃん以来の問いかけだがこの映画は明らかにその一線を超えている。このイライラ感に匹敵するものはチャーリー・モルデカイくらいだと思うが、不幸にして劇場で見ているので早送りボタンは使えないのであった。例によって悪い奴を吹っ飛ばしどっかん一発ハッピーエンドがやってくる。少しベイマックスをなぞったようなエピソードをつけているが、こんなもの誰が感動するのか。「これ面白いと思ってんのか」という問いは頭の中で何度響いたかわからない。
しかし一つだけわかったことがある。なぜ今回のバスターズが全員女性か?映画のできを非難された時「お前は性差別をしているんだ!」と反論するため。バスターズが全員男だろうと女だろうと性転換者だろうと宇宙人だろうと結果は変わらなかったはずだが。
インデペンデンス・デイ:リサージェンス-INDEPENDENCE DAY: RESURGENCE(2016/7/17)
今日の一言:内幕記事希望
米国での評判が最悪なことを知りながら見に行った。だってインディペンデンス・デイだもの。結果として予想を上回るクズっぷりだった。
出だしから快調に今や巨大市場になった中国に媚びまくる。中国語のセリフにも字幕が入っていない。これで中国人だけがニヤリとする、、とか考えた奴がいたんだろうな。その中国美人に惚れる白人はとりあえず大切な作業中によそ見するのはやめようね。全編この調子である。大西洋を覆うほどでかい宇宙船がくるのだが、それ自体に大して意味はない。いや、米国は一撃で大統領継承者が全滅するようなヘマはやらないよ、と言いたくなる頃には観客はすっかり悟りの境地に至っているから問題ない。それまで
「これ面白いとおもってんのか」
と頭のなかで鳴り響いていた疑問もとうに消えている。
いや、インディペンデスデイだからご都合主義は当たり前。数年間昏睡状態にあった人間がいきなり元気に歩き回ったり、エイリアンの宇宙船をバリバリ操縦できるのはお約束だから気にしない。問題はご都合主義ではなく、そもそも面白くないところにある。
元大統領最大の見せ場を、わけのわからない編集で台無しにしてしまうあたり、何か製作過程に深刻な問題があったことをうかがわせる。全く威厳のない新大統領の演説が
「地球のみんな。お祈りしててね」
とパシフィック・リムの演説よりひどいってのはどうなのよ。
ってな調子で脚本は初稿前の落書きのような出来だし、「最後の戦い」のCGはまるでテラフォーマーズ(予告しかみてないけど)を思わせるようなクオリティ。おそらくまともな映画にするためにはあと二年くらい必要だったのではなかろうか。しかし不幸にしてその予算はどこからも得られなかった。ええい大丈夫。みんなインディペンデンスデイ、という題名だけで見に来るさ。
私のような愚か者は確かにその策略にはまってしまったわけだ。エンドロールが流れると観客は足ばやに劇場をあとにする。そうだなあ。こんな光景は1998年のトカゲGodzillaでも見たような記憶が。。
アリス・イン・ワンダーランド/時間の旅-ALICE THROUGH THE LOOKING GLASS(2016/7/3)
今日の一言:少しは人の話を聞け
アヘン戦争後半植民地化した中国でアリスは荒稼ぎ。「不可能は可能と信じるのが大事」という無茶苦茶な論理でディズニーの世界で大出世。しかしかつて振った相手が会社の社長になり、あら困ったわというところでなぜか鏡の国に行くのであった。
ジョニーデップことマッドハッターは家族が生きているに違いないと思い込みうつ病になっている。アリスは彼の元に行くのだが、全く彼の悩みに耳を傾けない。その後白の女王から「時間もどせば大丈夫かも」といわれ、時間の管理人の話を全く聞かず暴れだす。
振り返れば
「このバカ女が少し人の話を聞いていたら問題はもっと早期に円満に解決したのではないか」
という感を禁じ得ぬ。最後には恒例の「危機一髪で世界が救われる」わけだがなぜ世界が崩壊したかというとこのバカ女が人の話を聞いていないから。前作もひどかったが本作はさらにひどい。話がデタラメなだけではなくとにかく退屈。途中で「昼寝したほうがいいかな」と思ったのは久しぶりである。バカが右往左往する様子を2時間見せられてもねえ。
最初はトゥモローランドのような「駄目ディズニー」かと思ったがこれに比べればまだ向こうは眠気を催さなかった。途中アリスは精神病院に放り込まれ、そこにモリアーティが登場する。がんばれモリアーティ。アリスをそこに閉じ込めるんだ。しかし私の心の叫びはディズニーロジックの壁に跳ね返される。この世界では女性の思い込みは全て正当化されるのだ。
せめてアリスをもうちょっと見目麗しい人にしてくれたら観客の苦痛の少しは軽減されたかもしれぬ。結局アリスは母親とベンチャー企業を立ち上げ、さらに中国市場での荒稼ぎを企むのであった。ああ、このシリーズで中国人民が救われる日はくるのだろうか。まあこんなことでも考えないと退屈でやってられないわけだが。
今日の一言:ずっと中華アニメだと思ってました
これを見たのは全くの偶然。別の映画を見るつもりで座っていたらどうやら表にある看板とは別の映画を上映していたらしい。長い予告編だなあと思っていたら90分経ってしまった。
上映開始時のロゴが中華風のものだったので、「これはきっと中国産のアニメにちがいない。しかし中国のヒーローってのはアメリカと違うなあ」と思いながら見ていた。観終わってゲームのキャラクターを使って造られた映画ということを知った。多分人海戦術でCGを作ったのだろう。
Rotten tomatoesに載っていた批評の言葉を適当に引用すれば
「日曜の朝にやっているアニメを4本分集めたようなもの」
であり、それ以外述べることはない。エンドロールをみると声優陣が無駄に豪華なのだが、吹き替えやっている人間もつまらなかったろうなと思う。
レヴェナント:蘇えりし者 -THE REVENANT(2016/4/23)
今日の一言:ディカプリオ君、オスカー受賞おめでとー(棒読み)
息子を殺された父の復讐物かとおもいきや、8割は「レオ様のサバイバル講座」。その内容だったらディスカバリーチャンネルのほうがずっと面白いんですけど。というわけでこの映画で「わけがわからん?」と思うところには、すべて「アカデミー賞の投票権を持っている人たちへの目配せ」があると思いましょう。
・親子の愛を描いてますよ!(チラッチラッチラッ)
・Native Americanのセリフをたくさんしゃべりますよ!(チラッチラッチラッ)
・あのレオ様が魚を生でかじりましたよ!(チラッチラッチラッ)
・あのレオ様が生肉(に見えるなにか)をかじりましたよ!(チラッチラッチラッ)
・あのレオ様がクマと格闘しましたよ!(チラッチラッチラッ)
・あのレオ様がこんなスタントをやってますよ(チラッチラッチラッ)
・レオ様はひどい目にあっているNative Americanの女性を助けましたよ!(チラッチラッチラッ)
きりがないのでここらへんで。
まあディカプリオは自分で好きな映画を作ればいいんですけど、最低限の辻褄くらいはあわせてもらえませんでしょうかねえ。具体的には最後の捜索になんで二人しか行かないの?「仲間がいるかもしれない!」というだけで十人くらいぞろぞろ行くのに。物語の芯となる父子の愛も、セリフで語っているだけだから見ている方のハートに全く響かない、といかどう考えてもフィッツジェラルドの行動の方が筋が通ってるんじゃないか、とか言い出すときりがない。
見ているうちにバードマンが思い出される。後で調べれば監督が同じなのだな。途中「幻想的」な奥さんの空中浮遊とか、空を駆けていく隕石?とかツリー・オブ・ライフを思わせる場面も出てくる。まーなんというかこういう意味不明な映画に「深み」を見出す人がオスカーの投票権を持っている、ということなんだろう。その人たちの「ツボ」をこの上なく知り尽くしているアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは
「アカデミー賞とりたくてしょうがない人御用達監督」
の名をはせているのではなかろうか。というわけで
「僕にアカデミー賞ください!」
と訴えるディカプリオのアップで映画は唐突に幕を降ろす。
見ながら考える。この程度の「演技」ができる役者は全米に山ほどいるだろう。しかし「レオ様が演じる!」となるとオスカー受賞。まあ世の中そういうものだわな。それでディカプリオもオスカーとったから満足でしょう。願わくばもうこんなゴミ映画をつくることがないように。
ターミネーター:新起動/ジェニシス -Terminator:Genesys(2015/7/11)
今日の一言:劣化版アダム・サンドラー or アメリカ版剛力
主役は未来からサラ・コナーを助けに来るカイルのはずだ。なのになぜこうも「馬鹿な脇役」顔の俳優を選んだのか。ひょっとして彼はアメリカ版剛力とかそういうあれなのだろうか。
彼ががんばって未来から来てみれば、もう別のターミネーター(老シュワちゃん)が昔からサラ・コナーを守ってました。さてそれを送ったのは誰でしょう、と聞きたいところだがそれは続編でのお楽しみか。あー続編が楽しみだ(棒読み)
なんのために作ったのか全くわからなかった4作目よりもさらにわからない。しかし繰り替えし頭を巡るのは冒頭の疑問。なんでこんな顔が主役なんだ。サラ・コナーはかわいいから許すとして。
あれこれ見てると、液体金属でできたターミネーターというアイディアは秀逸かつ最終解だったことがわかる。それから新しくでてくる奴みんなもっと弱いんだもん。今回のはマシンが細胞レベルでどうとからしいが、暴れる前にいきなりMRIにへばりついて動けなくなる。どうも半分コメディタッチを目指した気配もあるのだが、いずれにせよつまらないことには変わりがない。
ターミネーター3では「スカイネットはネットワークだからどっかん一発では破壊できない」というまともな解釈がうまれたが、これは「どっかん一発で大丈夫」に戻ってしまった。とはいえ続編つくらなければならんから、最後に復活するのはいいとして、もうちょっと理屈つけるとかさ。「やっぱり生きてました」以上は考えつかないか。この映画だからねえ。
というわけで次回作が作られたところで、よっぽど評判が良くなければ見ないと思う。
アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン-AVENGERS: AGE OF ULTRON(2015/7/4)
今日の一言:クズ脚本+たくさんのCG=ゴミ映画
日本版が「愛を知る全人類に捧ぐ」とかわけのわからない副題つけているところから「何かがおかしい」と感じ取るべきだったのだろう。
私は「ゴミ映画に共通な特徴」と判断するポイントをいくつか確立しており、そのうちの一つが「意味のないスローモーション」。なんだか様子がへんだなあと思っていたがアフリカの警官がスローモーションで車から駆け下りるシーンで確信した。これは「クズ脚本にたくさんのCGをつぎ込んだ」映画だ。
そもそもの発端がアイアンマンの中の人が「ウルトロンを作れば世界平和だ」と言い出すことにある。スタークらしくないし、そもそもウルトロンって何?とは観客に教えてもらえない。彼が作った人工知能が暴走し、どっからかロボットの体を手に入れたらしいのだが、それがいきなり教会の真ん中に座っていてもこちらは戸惑うばかり。私が寝ていたのでなければ描写が飛んでいる。
あとは筋を追う気もしない。韓国の美人コンテンスト顔の博士が出たり引っ込んだり。こういう形でソウルの街並みがハリウッド映画で取り上げられるのは珍しい気がする。恒例の「世界各所で大げんか」をやるのだが、その選定の趣味が変わっている。アフリカに韓国に東欧。これも予算の関係かな?
「外にはロボットがうじゃうじゃおり、俺は弓矢で戦っている。馬鹿げているだろう?」
というおじさんのセリフだけが印象に残る。おそらく俳優の出演料高騰に耐えかねたか、最後に「主要人物入れ替え」がアナウンスされる。まだ作る気らしいが、この映画の製作には何が大きく間違ったところがある。それを直さない限りなんともならんのではないだろうか。
チャーリー・モルデカイ 華麗なる名画の秘密-Mortdecai(2015/6/7)
今日の一言:聞きたいことはただ一つ「これ面白いと思ってんのか?」
ジョニーデップがわざとらしい髭をしている。その形は「不愉快」としか言いようがない。予告編みただけでイライラする。というわけで金を払ってはみなかった。無料で見る機会に恵まれてみれば、その判断は正解だった。
ジョニーデップは破産しかかっている美術関係の何か。それにどうでもいい人間があれこれからむ。奥さんたるケロンパ・パルトロウは旦那の髭を剃りたいと思っているし、観客もみんなそう思っている。誰かの幻の名画がどうだとか、観て2時間たっていないのにもう筋が頭から消えている。とにかく髭が鬱陶しい。
仰々しい「英語」のアクセントでLos Angelsをからかえば誰か面白いと言ってくれるとでも思ったか。あるいはLondon, Moscow, Los Angelsを又にかける大活劇とでも売り出そうと思ったか。などとぶつぶつ言ってはみるが頭を使いたくない状況ではあったのでかなり長い間早送りをせずにがんばった。しかし時間が経つにつれ
「人生にはもっと大切なことがあるんじゃないか」
という心の中の声が大きくなる。もういいや、とラストシーンまで飛ばす。(途中細切れに映像がうつったがどうでもよい)でラストシーンは期待を裏切らないつまらなさだった。口ひげ嫌だからキスするとケロンパがウップ。つられてモルデカイもウップって見た人間が喜ぶと思ってんのか?一回は我慢するがなぜ何度も繰り返す?というわけで冒頭の疑問に戻るわけだ。こういう映画って仕事はいえやっているほうもいやにならないのかね。そんなことを言っていては役者は務まらん、ということなのだろうか。
今日の一言:シャマラン二世参上!
場所は某社の試写室。役員向けの上映が始まろうとしている。
「いや、なんたって第9地区の監督と彼が選んだ主役ですから。おまけに脇役にヒュージャックマン、シガニーウィーバーという豪華布陣。なんですって?いや、たしかにエリジウムは失敗でした。しかし監督も”予算をもらえて舞い上がり欲張りすぎた”と反省しています。今度は彼のホームグラウンド、南アフリカが舞台ですからこれはもう間違いありません。ではごゆっくりご鑑賞ください」
....
試写室が明るくなる。「どうでしたか!素晴らしかったでしょう?... 感想はいかがですか?.......あの...」
その場の凍りついた雰囲気が想像できる。
というわけで第9地区の人である。南アフリカでは警官の代わりにロボットを使っていた。それに対抗心を燃やすヒュージャックマンは、人間が操縦する巨大ロボットを作ろうとしている。でもって主人公が趣味で作った人工知能を壊すはずのロボットにいれたとこころ。。
映画だから数々のデタラメは問わない。しかしさあ、プログラムやっている人が、メイン画面を離れた壁上のTVだけに映し出すってなんだよそれ。何故目の前のPCに出さない。監督としてはそちらのほうが絵柄がいいと思った?この映画はそうした「浅はかなご都合主義」だけでできている。
監督は「クズどもがロボットのチャッピーと触れ合うことにより人間らしい心を取り戻し」とか考えてるんだろうな。でもって映画はメディアだからさ、2時間ちょっとの間に観客にそれを納得させなくちゃいけない。チャッピーはあっというまに高度に抽象的な概念まで理解し、コンピュータを(どんな人間もできない方法で)使いこなす。麻薬の売人どもはあっというまに母性と正義に目覚め立派になる。一番ワリをくったのがヒュージャックマンで徹頭徹尾気が狂った馬鹿にしか見えない。そんな類の幼稚なご都合主義の塊で「納得しろ」と言われてもねえ。
正確に言えば「シャマラン2世」というのはシャマランに対して失礼。少なくともシックスセンスは面白かったし、そのあとの壊れっぷりもはるかにシャマランが上。しかし多分「をを、これはすごい才能が現れた、ぜひ我が社と複数作品の独占契約を!」とかいう図式は変わらないんじゃないかと思う。そうでないとこんな監督が作品を作り続けられる理由がわかんない。
途中で脱落し、無表情で画面を眺め続ける。しかし「人間の脳波測定に使うのと同じ装置で”ロボットの脳波”を測定する」ところはさすがに堪えた。
バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) -BIRDMAN OR (THE UNEXPECTED VIRTUE OF IGNORANCE) 2(2015/4/19)
今日の一言:この映画よりクールなものがあるけどわかるかな?この映画の素晴らしさが理解できるこの僕さ!
1990年代にバードマンというヒーローものであてた元映画スターが舞台で復活しようとあれこれする。超能力みたいのを発揮するがあまり意味はない。場面を長回しのような連続したカットで流し、最初は「ほお」と思ったがそのうちどうでもよくなる。New Yorkが舞台なので例によって
「ここでクラスター爆弾が爆発してこいつらを皆殺しにしてはくれまいか」
と観客たる私は願い続ける。ダメ主人公をとりまくダメな人たち。かといって
「ダメ人間だけどそれでも人生は悪くない」
といった要素は皆無。その中で唯一まともなのが、ハングオーバーシリーズのダメ男。あとから知ったのだがエドワードノートンとか、ヘルプの女の子とかいろいろな人がでていた。役者さん自体は印象的だったが、いかんせんセリフがぺらぺらなので何も心にのこらない。
もちろん何もメリットがなかったわけではない。アカデミー賞授賞式でなぜ司会者がパンツ一枚になったかようやく理解できた。しかしあれだね。今のマイケル・キートンが裸で歩いてるのをみて「ああ、昔のバットマンの人だ」って分かる人本当にいるんだろうか。すいません。私には無理です。トム・クルーズならともかく。
空を無意味にかけていく隕石とか演劇の評論家に対するあてこすりとか。とにかく「アカデミー賞投票の権利を持っている人たち」向けの要素がてんこ盛りである(本当のところは知らん)見ているうちにこれはエヴァンゲリオンと同じだと思い始めた。
「この映画の持つちょっとした細部とか深い意味がわかる自分が大好き!」
という人たちに向けて作ったのだろう。ほらラストシーンの解釈はさ、とか元気に自説を主張してください。というわけで見事に狙い通りアカデミー賞受賞。おめでとうございます(棒読み)私にとってはアーティスト以来の「理解できないオスカー受賞」。終わりがだらだら長い映画は駄作という自家製論理の実例がまた増えたことくらいが収穫か。
キック・アス/ジャスティス・フォーエバー -KICK-ASS 2(2014/8/9)
今日の一言:無理に作らなくてもいいんだよ
とは誰も言えんのだろうな。そりゃ売れた映画なら続編を作れ、という話になる。とはいえ続編は「何を考えてこんなのを作ったのか」というものになるのが標準であり、この映画もその類である。
前作で父をバズーカでふっとばされたレッド・ミストはどたばたと主人公に復讐を誓う。しばらくおとなしくしていた主人公は、またキック・アスになろうとするが
「仲間が欲しいんだ」
とかいって変な人たちと一緒に行動しだす。なんでこの主人公をみていてイライラするのかと思っていたが途中で気がついた。こいつはのび太だ。
「僕はこれがしたいんだよう」
「困ったよう。Hit Girlなんとかしてよう」
と不満と泣きつきの連続。その中の一人といきなり仲良くなるのも訳がわからない。
クロエちゃんことHit Girlは前作ほどの異常さも可愛さもない。あーあ、と時計をみればまだ40分と気がついたときの絶望感。前作にあれほどあふれていた「異常な突き抜け感」が全くない。
敵は警官を皆殺しにしても捕まる様子もない。主人公の父が彼をかばって捕まるところだけはちょっとよかったが、父の葬儀で警官が警備しているところに堂々と自動火器をもって攻めてくる。ふーん、それありなわけね、と思っていると「最終決戦」は一切飛び道具なしで平和に殴り合いなんかしている。ここらへんどう見ても真面目に作っているとは思えない。
「あー、もうやんなった。ほらちょいちょい。えーっと(前作を早送りで見返す)ちょっとグロシーンと、主人公は女性と⚫︎⚫︎、それにHit Girlのかわいい顔をいれれば続編って言えるよね。あとは適当に定番青春映画でもって、、、もうやめていいっすか?え?やっぱり書かなくちゃだめ?」
という脚本家の愚痴が聞こえてくるようだ。
かくして映画はどうでもいいエンディングを迎える。まあ仕事だから作らなくちゃならん映画もあるだろう。
GODZILLA ゴジラ-GODZILLA(2014/4/24)
今日の一言:怪獣がきたらとりあえず逃げましょう
皆さん。今日は良い知らせと悪い知らせがあります。ではまず良い知らせ。
良い点:前作(ハリウッド版)よりまし、と思える点がいくつかあります。"Top Secret"とかかれたビデオテープがそこらへんにころがっている、なんてことはありません。
では悪い知らせ
悪い点:駄目映画、という点では大同小異。
最初は「日本の小学生は、地震がくれば反射的に机にもぐる」とか「そのゴキブリは日本のゴキブリじゃない」とか「放射能って白いの?」とか突っ込んでいたが、途中からどうでもよくなった。EMPを発する怪獣はいいけどさ、核爆弾の起爆装置がEMP対策してないとでも思ってんの?いや、ここで突っ込んだら負けだ。
思うにこれは昭和ゴジラの駄目なところをきっちり模倣したのではなかろうか。わけのわからない行動をするだけの「野球帽をかぶったちびっ子」とか。映画の冒頭からして、不思議なくらい昭和ゴジラ(復活前のやつね)の雰囲気が漂っている。
この映画の中では、怪獣がちょっと体を動かすと大勢の人間が「ぎゃー」と言って飛ばされる。つまり必ず怪獣の近くに人間がいるのだ。お前らとりあえず逃げろよ。口半開きにして立ち止まっていないでさ。ここらへんは前作Godzillaと全く同じだ。特にひどいのが渡辺謙で、ほとんどの場合目を細め、口を半開きにしてぼんやりしている。この人頭の切れる科学者ではなくて痴呆老人なのではなかろうか。主人公の嫁は怪獣が建物を壊すとかならずその近くにいて「きゃー」と叫ぶし、サンフランシスコに怪獣が3匹現れ喧嘩しているのに、オフィスで普通に働いている人がいるってのはどうなのか。窓の外に怪獣が見えてようやく慌てて立ち上がるのだ。
いや、これは「怪獣映画」なのだから演技とか筋は問うまい。しかし肝心の「怪獣の戦い」が全くかっこ良くないのはどうしたものか。チラ見しかさせないのはいいと思うよ。前作みたいにトカゲが走り回る姿なんて誰も観たくない。でも結局どう戦っているのかわからない。それで最後にKing of Monstersとか言われてもねえ。
もうあれだ。ギレルモ・デル・トロに作ってもらうしか無い。日本人はゴジラは作れないし、無名の監督も駄目。面白い映画をつくるのはこうも難しい。その事実を再確認させられた経験だった。
ウルフ・オブ・ウォールストリート-THE WOLF OF WALL STREET(2014/2/16)
今日の一言:マーティン、それにレオナルド。誰にも言わないから教えろよ。この映画は「ドッキリカメラ」なんだろう?
まず最初に鑑賞料金と3時間を費やして得られたことを書いておく。
いきなりペンを取り出され、「このペンを俺に売りつけろ」と言われたとする。正解は
「あなたのサインをもらえますか?」だ。そういわれれば相手はペンを探さざるをえない。つまりニーズを作り出すのだ。これは正しい。いくら「このペンはあなたにぴったり」とか実はこれは凄いペンで、とか言っても無駄だよ。
さてディカプリオである。スコセッシである。私から観ればゴミコンビだがアカデミー賞にノミネートされているからまあ観ておくか。その結果は予想をはるかに上回っていた。
ウォールストリートで金を稼ぐことだけを考えるブローカー。デビュー初日に会社がつぶれる。しかしペニーストック(そんなのがあるんだね。つまりゴミ株)を売りつける商売で大成功。自分の会社を作り、ドラッグの売人を集め、、まあDeNAとかグリーとか堀江某を映画化するとこんな感じになるのではなかろうか。つまりカスがカスから金をむしり取る話なのだが、それ自体は別に悪い事ではない。恋するリベラーチェだって登場人物はいかがなものか、という人ばかりだがそれでも見終わった後には静かな余韻を残す。
しかしこれほど「画面の中の出来事に心を動かされない」映画も珍しい。思うに主人公が書いた物語をそのまま無批判に映画化したんじゃなかろうか。そもそも彼らの「犯罪事実」がほとんど描かれないのだ。代わりに社員を前にしての演説を長々と映し出す。まるでクズが自慢と自己弁護に満ちた安っぽい「過去の告白」をしているのを延々と聞かされる気分になる。
時計をみたのはまだ一時間もたっていない時。まだ2時間以上もこの話につきあわなくてはならないのか。よかったのは「心底どうでもいい」ので、その間にいろいろ仕事のアイディアを練る事ができた点。あと最後の地下鉄とセールスセミナーのシーンは少しよかった。しかしこの内容で3時間観客を座らせるのは冗談であってほしい。観ている間何度も「作っている人間は、一体これのどこが面白いと思っていたのか?」という問いが頭をよぎる。
その問いに対して私になし得る唯一合理的な回答は「ドッキリカメラ」だ。スコセッシとディカプリオがアカデミー賞の授賞式にでてきて。
「じゃーん。ドッキリでしたー!ほら俺たちの名前があれば、どんな映画でもノミネートしちゃうよね?」
とか言うつもりなのではないだろうか。
要約:アメリカ人の趣味はわからん
まず二つ前提を置く。
その1)物理法則完全無視は問わない:とはいっても「ロープを離さないと君まで流される」ってなんだよ。宇宙にはエーテルが流れてると思ってんのか?おまけにそれが重要な部分じゃないか。あと中国の宇宙ステーションの高度が下がってるって、、いや突っ込んだら負けだ。
その2)宇宙飛行士はみんな馬鹿:無駄に宇宙を走り回ったり、ぴょんぴょんはしゃいでみたり、無駄なことをやり状況を悪くするのがお仕事です。
というわけでRotten Tomatoesではとても評価がよい。サンドラ婆の映画は評判がよくない限り観ないと誓った私もこれは観なくてはなるまい。予告編を観る限り全く期待できないががんばって観よう。
結果はといえば、予想の通りであった。今すぐ作業を中止し、船内に戻れと指令が来る。そしてサンドラ婆はそんな命令等どこふく風で何かやっている。後で「あたしがあの時」とか言ったところで無駄なこと。登場人物が馬鹿な事をやって状況を悪くする映画とは相性が悪い。残り7分で破片が襲ってくるのに悠長に宇宙服着て外にでるとか、地上に降りてから後先考えずハッチを開けるとか(せめて服脱いでから外にでろよ)いかん。宇宙飛行士が馬鹿なのは前提であった。
でもって想像できるのは、「宇宙に一人残された飛行士の絶望と復活」を描こうとでもしたのかなあ、というところ。でもさあ、絶望も馬鹿ならば、そこからの復活も「幻影に導かれた」ってなんだよ。佐久間艇長の手記とか知らないの?というかヒーローを描くんじゃなくて、この映画は
「普通のおばさんが危機に瀕してがんばる姿」
を描こうとしたのだな、きっと。だったら別に自動車事故とか船舶事故でもよかったわけだ。映画として当たったわけだから、それを宇宙に持ってきた企画の巧みさは認めなくてはならんが、私のような理屈っぽい人間にとっては無茶苦茶で退屈としか言いようが無い。
注釈