題名:映画評

五郎の入り口に戻る

日付:2003/2/12

1800円 | 1080円 | 950円 | 560円 | -1800円 |題名一覧

1800円-Part6

シービスケット-Seabiscuit(2004/2/15)

見終わった時こんな事を考えていた。アメリカは、アメリカに住んでいる人達は強い、と。

オーナー、騎手、調教師そして競走馬たるシービスケットそれぞれが手ひどい挫折を経験し、というか最初から挫折を味わうような高見を夢見ることなく生きていた。そしてその彼らが東部の名馬に勝負を挑み、、しかし話はそこで止まらないのが現実というものだ。

トビー・マグワイアはいつものとらえどころのない表情に加え、10kg減量して顔つきが変わっている。その演技はいつもながらお見事。しかしこの映画で一番私が強い印象を受けたのは名もない多くの人たち。シービスケットのレースを一番安い席で観るために競馬場に集まり、そして歓声を上げるその人たちだ(時代が時代だからほとんど白人ではあるのだけど)。大恐慌で仕事を財産を失った人たちがSecond Chanceにかけた人たちそして競走馬に声援を送る。東部の名馬ウォー・アドミラルとのMatch Raceは全米で4000万の人が聴いたという。

そのレースの場面、スタートを告げるベルの音とともにいきなり画面が白黒の静止画に変わりアナウンスだけがひびく。そこに写されているのは様々な場所でラジオに耳を傾ける米国人達。大恐慌から立ち直ったのは公共事業のおかげではなく、人々の心に希望が宿ったからだ、というナレーションはこの映画を観ていると実に自然に受け取れる。

これはアメリカ人がアメリカ人のために彼らの流儀で作った映画だが、決して安っぽい賛歌ではない。だから日本人である私にも彼らの姿が感動的に映るし、冒頭書いたような感想を抱くことにもなるのだ。知り尽くした題材であり、手慣れているからなのだろうが米国人にこうした映画を作らせれば流石に上手い。

全編を通して馬が疾走する場面が美しい。今まで「走る馬が綺麗だから競馬場に行く」とかいう言葉を聞くと「けっ」と思っていたがそうした見方もあるのかもしれない、と思った。「どどどどど」という腹に響く低音と一緒に聴くとなおさら効果的だから映画館で観るべき作品なのだろう。


ファインディング・ニモ-Finding Nemo(2003/12/14)

今私のひざには最近つかまり立ち一直線の息子がしがみついている。かくのごとき状況であればこの映画には無条件で1800円の値段を付けるわけだ。

Pixarのアニメには常々驚嘆させられることが多い。定番とも思えるストーリーをきっちりと金の取れる映画に仕上げるからだ。この映画もその例に漏れない。人間に捕まえられた(人間の方は「おまえは珊瑚礁で死にかかってたんだぞ」などと言っていい気なものだ)一人だけの息子を捜しに父親が遠く旅に出る。子供のニモは片方のひれのサイズがChallengedだし、父親の道連れは短期記憶に障害があり、見聞きしたことをすぐ忘れてしまう女性。(魚なのだが雌と書く気はしない)きっと今までは誰もきちんとつきあってくれなかったのだろう。一粒だけ残った卵をいとおしげにだいた父親はそれでもいつか子離れしなくてはいけないことを知る。

そんな重くなってもおかしくない要素を織り込みながらきっちりと笑わせ、観客の涙腺を刺激する。そうしたストーリーに見事なCG(水の中では常に何かが動いている-それがグラフィックスで見事に表現されているのだ)が組み合わさればさすがの芸のできあがり。例によってクレジットの最後まで笑わせてくれます。


キル・ビル-Kill Bill(2003/10/26)

「タランティーノが映画を殺す」私は通常こうした日本でつけられる宣伝文句は額面通り受け取らないし、そもそもタランティーノなる人が何者かも知らない。しかし観た後この宣伝文句が何度か頭に浮かぶ。

映画の冒頭「深作に捧げる」なる字幕が出る。私は深作なる人が何者か知らないが、聞くところによるとやくざ映画をたくさん作った人とのこと。Kill Bill Vol1 はその多くが日本を舞台にしている。登場人物はたくさん日本語をしゃべる。刀が振り回され血がとびちる。

しかしこの監督にとって「捧げる」とは単にゆかりのある要素を容れるとか演出方法を真似る、ということではない。日本のやくざ映画、アニメそれらが含んでいる「嘘」を完全に面に出し、ばらばらにした上でちりばめ、自分の映画を作り上げたのだ。それが一番わかりやすくでているのは音楽だろう。今時日本映画でも聞けないような大時代的音楽が何度か流れる。それは勘違いの模倣でなく、パロディでなく、映画にはまっていくところが驚きだ。また映画のきめ場面で使われる稚拙な日本語。英語を母国語としている女性同士の会話も日本語なのだ。あの日本語が何か、誰に向けられた物かと考えれば、これはやくざ映画の要素をその「嘘」をさらけだした形で再利用した、としか考えられない。結果として「やくざ映画」の要素を使いながらも、この映画からは「燃えたぎる復讐心」とか「復讐を遂げた後の感情」とか「仁義」などは少しも伝わってこない。しかし最後まで食い入るように画面をみてしまうのも確かである。

かくして私は何度か考えた末、この映画に1800円の値段を付けることにした。自分の結婚式で出席者を皆殺しにされ、リンチにあったすえ頭に銃弾を撃ち込まれた×××(名前にはピーがかぶさる)が復讐をする。詳細なストーリーはVol1ではこれ以上明らかにならないし、Vol2まで観てもおそらく明らかにならぬのではないかという気がする。しかし私はVol2も観ることだろう。それにきっとVol2では日本語でてこないだろうし。いや、私個人としては日本語に何の問題も感じないのだが、日本語がでたり女子高生がでると脊髄反射的笑い声をあげる観客にずっと悩まされていたのだよ。


パイレーツ・オブ・カリビアン :呪われた海賊達-Pirates of the Caribbean: The curse of the black pearl.(2003/8/15)

説明文の冒頭に監督の名前でも俳優の名前でもなくプロデューサーの名前が出て来るという不思議な映画。「「アルマゲドン」、「パールハーバー」のジェリー・ブラッカイマー製作による」と形容されれば「中身からっぽのデタラメドンパチ映画」と私などは思ってしまう。

では見終わってどう思ったか。「中身からっぽのドンパチ映画」ではあったかもしれないが「デタラメ」ではない。そしてこれが妙に面白かったのである。もちろんあり得ない設定ではあるのだが、その中でストーリーはちゃんと組み立てられており「都合のいいように時空を越えて移動」なんてことも起きない。中だるみもなく(ヒロインのお父さんだけは余分だと思うが)最後に至るまで工夫が凝らされており緊張感が持続する。2時間23分の長い映画なのだがそれを全く感じなかった。

キャラクターもそれぞれちゃんと描かれている。Lord of the ringsのエルフ君ことオーランド・ブルームはハンサムで一途、それだけだがそれに徹している。エリザベス・スワンことキーラ・ナイトレイはヒステリックにきーきー叫んだりせず、その強気な行動は見ていて感じがよい。Castで最初に名前が出てくるジョニー・デップ演じるジャック・スパロウは確かにこの映画の主人公だ。彼は自分なりの流儀でただ自由を追い求める。誰の敵でも味方でもなく、自分の道理は通しながら。

であるからして最後にCaptain Jack Sparrowが一気に空に向かって飛び上がるところ。それにエルフ君とエリザベスがキスするところが妙に爽快に感じた。これは全く意外なことだった。とういわけで良い方に期待が裏切られた驚きも含めて1800円にしてしまうわけだ。

かくして筋のあら探しが大好きな私としては、一つの疑問だけが頭の中に残り続ける。冒頭Jack Sparrowが手錠を縄にかけついーっと滑っていくシーンがある。あの男はその後縄からどうやって手を外したのだろう。(この件に関しては「ちゃんと外してるぜ」とメールをいただいた。今度DVDででも確認しておきます)


ターミネーター3-Terminator 3(2003/8/2)

いつも楽しみに読んでいるm@stervisionのこの映画のレビューにこんな一節があった。

「悲愴感あふれるラスト は、紛れもなくこれが 9.11 を経た「2003年の映画」であることを示している 」

あの日の朝、寝ぼけた目をこすりながらWTCにつっこんでいく飛行機の映像を見た。それはこの世の出来事というよりは映画の一シーンのようにも見え「きっと最後の瞬間にヒーローが救ってくれるに違いない」などとぼんやり考えていた。映画には

一カ所爆破で全てどっかんハッピーエンド

なるお約束のパターンがあるが、現実はそんなものではない。そんなことはあり得ないのだ。飛行機はそのまま突っ込みWTCは何千人もの命と共に崩壊してしまった。それでも立ち上がろうとする人たち-その方法は様々だが-がいる。

映画を見る前には前述の一節が何を言っているかさっぱりわからなかったのだが、ラストシーンを見ながらこんなことを考え続ける。ターミネーターに1800円をつけ、ターミネーター2は今だに全編通して見たことがない(後半は必ず早送りにしてしまうのだ)私はこの3作目に1800円を払うのに迷いはない。

出だしはなかなか快調だ。特に重機であるクレーン車が電柱をなぎ倒し車をふっとばしながら走りまくるカーチェイスシーンは汗一つかかないMatrix reloadedのそれとはちがって思わず身をのりだしたりのけぞらしたり。それに笑えるシーンもいくつかある。お約束としてターミネータは登場時すっぱだかなのだが、今回は服を手に入れるのもずいぶんと平和的だし。

しかしT2と同じく中盤から少しだれ気味になる。予告編を見たとき、ジョン・コナー役の間抜けな顔つきに愕然とした。映画の冒頭、ドラッグほしさに動物病院に忍び込むところがあるが、そのシーンにこの顔はぴったり。後半危機に陥るところでかならず口を半開きにして立ち止まる顔を見ると「さっさと逃げろよ」と思う。相手役の女性はきーきー言ってかなりうるさい。(途中からたくましくなるが)女ターミネーターのお姉さんはちょっとかわいすぎるかもしれない。首を傾げるところなどは虫類的な気味悪さをねらったのかもしれないが、、、

しかしそんな思いも最後のシーンでふっとぶ。この映画の製作者は「ヒーローの活躍で危機は回避され、平和な日常が戻った。人間努力すれば運命も変えられるのさ」に逃げ込んだりはしなかった。彼と彼女(そして観客)には地上で何が起こっているかは気味が悪いくらい知らされない。そして流れる音声。コンピューターネットワークを全て押さえられてしまった人間はまたアナログなコミュニケーションに戻る。最後にジョン・コナーがいきなり立派になりすぎないのもよろしい。そう思えばあの猿顔役者の起用は計算づくであったか。

ちなみにシュワちゃんの他にも3作皆勤賞の人がいます。ターミネーターにあの役で出演したときはまさか21世紀になっても同じ役が回ってくるとは夢にも思わなかっただろうなあ。


シカゴ-CHICAGO(2003/4/26)

素人、幼稚、内輪受け」を芸能の基調とするこの国では何の芸も持たぬ「芸能人」やら、専門以外の素人芸を披露し、金をもらって平然としている人間があふれている。

そういう連中はこの映画を観て恥じて死ぬべきだ。観ているうちにそんな考えが頭の中をぐるぐると回る。

1920年代のシカゴを舞台とした、今から考えればはちゃめちゃなストーリー(最後のシーンで「50年後は違うかも」と言ってPolitically correctnessもちゃんと確保)だがそんなことは全くどうでもいいことだ。これは掛け値なしのエンターテイメントであり、見事な芸を観客にぶつける。

最後に

XXX 's singing and daincing performed by XXX(XXXは主役3人の名前)

ということで主役3人が吹き替え無しで歌い踊っていたことが示される。演技と踊りが自然につながるとこんなに印象が違うものか。中でもキャサリン・ゼタ=ジョーンズ の歌と踊りはすばらしい。これだけでも喜んで1800円払おうと思うほど。これに比べると「ムーラン・ルージュ」のニコールキッドマンなどは「踊る熊」のようなものだ。

他の登場人物も端役にいたるまできちんと芸を見せる。特に女性囚人達が歌い踊るシーンは圧倒的。リチャードギアがタップダンスを踊りながら反論し、無罪を勝ち取る場面では思わず笑ってしまったし、レニー・ゼルウィガーも知能指数0の女性を熱演する。(ただし歌は金の取れる芸ではないかもしれない-映画の中でそう扱われている通り)これがブリジット・ジョーンズを演じたとの同一人物とは信じられぬ。プロの役者はすごいなあ。

かくして見終わった後に、冒頭書いたようなことを考え続けるわけだ。この映画に匹敵する「エンターテイメント」が日本で作られるなどとは期待しないが、せめてよく目にする「体当たりの演技」という腐った形容詞はなんとかならぬかなあ。体当たりだろうが自爆テロだろうが金を取ろうと思えばそれに値する芸を見せてほしいものだが。

などと書きながらふと観ればTVでシカゴの宣伝番組をやっている。何の芸を持つともしれぬ「芸能人」が馬鹿なコメントを振りまき続ける。嗚呼。


キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン - Catch me if you can(2003/4/19)

見終わった後に思う。これは男達の映画だと。父、息子、仕事に打ち込む姿。女性ももちろん出演しているのだが、主役は徹頭徹尾3人の男である。

両親が離婚すると聞かされ家出をした高校生(ディカプリオ)は(試行錯誤の末)パイロットになりすます。次には医者になり弁護士になり、、、それを追う男、トム・ハンクスと父親、クリストファーウォーケンとの物語が大仰でなく、しかししっかりと描かれる。

3人が3人ともにすばらしいが(この映画を観た後だとディカプリオは結構いいなあと思ったり)特にすばらしいと思ったのが父親役のクリストファー・ウォーケン。映画の冒頭、クラブの終身会員として拍手をうけるところ。母親とダンスを踊ってみせるところ。IRS(日本の国税庁に相当する米国内国歳入庁)に追いつめられ生活が困窮していくところ、その中でいわば「官」の鼻をあかし続ける息子にかける言葉。父として社会人として強気だったり涙を浮かべてみたり。その表情は言葉にしづらい何かを語っている。

最後にディカプリオが「帰ってくる」ところでもその描き方はとてもさりげない。トム・ハンクスとの会話がはじまり、そして周りにいた人たちがそっと立ち去る。しかしそのさりげなさの中に映画を作った人たちが込めた言葉はしっかりと込められている。派手さは全くないが静かなすばらしい映画だと思う。

余談だが米国でも60年代はスチュワーデス(=空中飯盛人)があこがれの職業だったのだなあ、と感心してみていた。今だったら研修生募集に講堂をうめつくす学生が集まるなんてことはなかろう。(就職難だからあり得るのかな?)日本でも最近はそんなにあこがれの職業でもなくなったのかな。


ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔 -THE LORD OF THE RINGS: THE TWO TOWERS(2003/3/21)

どこかで読んだ映画評のパクリだが「ガンダルフは水戸黄門」である。前作では悪役のサルマンことクリストファーリー(あら、こちらでも悪の手先)が活躍してくれたが本作では黄門様が大活躍。

何のかんのの後に谷に作られた城に籠城する騎士と一行。戦いが始まる前、洞窟に逃げ込み抱き合う母と幼子。そこで赤ん坊の泣き声がする。一瞬本当に映画館で赤ん坊が泣き出したかと思った。戦えると判断された子供は母と別れよろいを着、剣を持つ。よろいをつけながら

「何故このようなことに」

とつぶやく王。それらのシーンは実際に戦争が行われている今だからかどうかしらないが強い印象を残す。

戦闘が始まる前に「五日目の朝に帰ってくるからね」と黄門様が言ってでかけたらからどんなに窮地に追い込まれても最後は、、とは解っているのだけど、観ている間何度か身を乗り出しあるいはのけぞるほど圧倒的な映像を見せてくれる。剣と槍と城の戦いというところは同じなのだから、日本映画もNHK大河ドラマ的映像ばかり作っていないでこういうものを見せてもらえぬ物だろうか。

その緊張感の後に光を背負ってガンダルフが登場。黄門様と一緒に現れた救援ってそんなにたくさんいたのかなあ、などと考えてはいけない。葵の御紋がきらきらと輝いている限り敵は退散するのだ。サルマン君は今回はうろうろ歩き回るだけの役回り。

「指輪物語」という名前は前から知っていたが今回何故それがそんなに有名なのか少し解ったような気になった。美しい風景、CG、大道具、それにミニチュアまでを総動員して作られたであろうその画面はしっかりしたストーリーと相まって長い時間をあっというまに感じさせてくれる。この想像上の物語を実際の映画として作り上げる力には感嘆した。これは3作目も絶対観なくては。そういえばStar Warsももう一つ作るんでしたねえ。。


アマデウス-Amadeus(2003/3/2)

エンドロールが流れ始めた後しばらく頭を垂れ、そして気がつく。サリエリが最後に神父だか牧師にかけた「君も凡庸な人間だ。私は凡庸な人間のチャンピョン」という言葉。その後廊下に座り込む患者達に車いすにのりながら彼がかける言葉-凡庸な者達に赦しをだったか-あれは観客に向けられたものだったのだ。あの男は私の肩をたたき言葉をかけていったのだ。

精神病院とおぼしき場所で老人と向き合った神父だか牧師は懺悔を勧める。老人は口を開き始める。呼びかけに応じたのだ、というのは錯覚だと気がつくのは少したってから。彼は対話しているのではない。

天才としか表現しようのない人物というのはごく稀に存在する。そうした人達は完成形を頭の中にありありと浮かべることができるのではないかと思う。我々がいくら努力しようと作り上げられない見事に完成した姿を。

そして歳をとった今であれば、その天才と同じ時、同じ分野に居合わせてしまった人間のことについて考えたりもするのだ。サリエリはまさしくその役を担わされた男。今やその名前は音楽史の中に「有名作曲家達に影響を与えた人間」として残っているに過ぎない。彼が書いた40ものオペラが上演されることはない。

老人-サリエリ-がその天才に触れた時の感動と衝撃を語る。モーツァルトの妻が持ち込んだ楽譜を見る。書き直しの一切ないその楽譜から輝く才能があふれだし、思わず楽譜を落とす。それを拾い集めながら

「これはだめですか?」

と無邪気に笑顔を向ける妻。評価する才だけを与え自ら作る才を与えられなかった男-この二つは全く異なる物だ-の苦しみが伝わってくる。何の才も持たなければ平和に暮らせるものを。

そのことを思い知らされたサリエリは神に向かいWe are enemiesと言い、ついにはモーツァルトを殺す意図についてあたかも当然のように話す。神父だか牧師だかは言葉を失いただその顔を見つめるしかない。そして観客である私も。

レクイエムを書き目を開いたままモーツァルトは息絶える。棺桶は馬車に載せられ、それを見送る人の中にサリエリによって送り込まれた家政婦がいる(She is beautiful)その涙はいろいろな事を考えさせる。あの家にはいたくない、と逃げ出してきた彼女が流したその涙は。

そして映画が終わった瞬間、観客たる私は神父だか牧師と同じように頭をたれただ考えることになる。何故こんな映画をつくったのだ。この映画が公開されたのは1984年。学生だった頃に見ていればこんな事は考えずにすんだのか。映像、音楽、演技それに脚本がすばらしい映画としてだけ観ることができたのか。


レッド・ドラゴン-Red Dragon(2003/2/11)

レクターシリーズの映画第3作にして小説では一作目。

冒頭エドワード・ノートン演じるグレアム捜査官と相打ちの形でレクターは捕らえられる。その緊張感もすごいがそれからも決して息は抜けず、最後まで(正確には最後の少し前まで)それはとぎれることがない.

レクターは地下室におり常に監視下にあってさえ人々に恐怖をもたらす。彼はグレアムに向かって言う。自分たちはどこか似通っているのだ。想像力を持っているがそれは常に恐怖を伴う。-想像力を持たぬ人間は恐怖を感じることが少ない。だから彼らは平穏に暮らせるのだ。これは余談だが。

一番歳をとってから一番若い役を演じているAnthony Hopkins演じるレクター。他の映画での演技を思い合わせるとき役者としての力に驚嘆する。しかし今回すばらしいのは彼ばかりではない。Mr.Dを演じるレイフ・ファインズ、Very Shy boyにしてRed Dragonにとりつかれた男を見事に演じている。盲目の女性を演じるエミリー・ワトソンの大きく開いた見えない目が印象的。地下室を管理しているバーニーにチルトンも健在だ。(そう。一作目だからまだチルトンは生きている)タブロイド紙タトラー(日本のマスメディアのような下品な内容専門の新聞と思えばよい)の記者も実に憎々しく演じられている。

それだけにジャック・クロフォードが今ひとつ平凡なのが残念だ。(羊達の沈黙でクロフォードを演じていたスコット・グレンはどこに行ったのだ?)彼に

「平和な隠居生活を送っていたグレアムを事件解決のために現場に引きずり出す」

というプロに徹した憎まれ役という味を付けられればこの映画はもっと良くなったのではないかと思う。

もう一つ残念なのは映画の終わり方。救いようのない結末-そしてそれは読者により多くを考えさせることになるのだが-を迎える小説とは異なり、なんとなくHappy Endになってしまった。そのためか最後の対決は今ひとつ緊張感にかけ、最後から二つ目には全くの蛇足と思えるシーンが挿入される。全体を覆う緊張感に観客が耐えられないと誰かが思ったとすればそれは無用な事。そして最後のシーンはチルトンの声で

「FBIから女性捜査官が意見を求めに来ている」

と言うだけで良いではないか、などと余計な文句をつけたくなるのは全体のできがすばらしくそこだけが目立ったからだろうか。

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注釈