日付:2003/2/12
1800円- Part7
父親達の星条旗-Flags of our fathers (2006/10/28)
見終わった後は1080円かと思った。しかし翌日この映画のラストシーンを何度も思い返していることに気がついた。硫黄島の激闘とその後に来た 派手なイベントを取り扱っているが、映画自体のトーンはとても静か。しかしそれは私の心に何かを残したのだろう。
これまた見終わってから考えたのだが、あの硫黄島の擂鉢山頂上に掲げられた星条旗の写真を知っている日本人はどれくらいいるのだろう か。私は何かで 見て知っていたのだが、この映画の原作を読み、あの旗が「単なる掛け替えられた旗」であることを知り驚いた。しかしそんな「事実」とは無関係にあの写真は 一人歩きを始め、旗を立てた男達を英雄にしたてあげた。
この映画は旗を立てた6人、それに戦闘を生き残いた3人にその後訪れた運命を描いた映画。語り手はそのうちの一人の息子である。父親は葬儀屋 を営み家族を 養い、そして死を迎える。ええい、ここでI'm sorry. I could be a better fatherなどと言わせるのは反則ではないか。
映画に描かれる場面はいくつかの時間を行き来する。原作を知らない人には「あれ、どこの話?」となるのかもしれないが、それは適切な方 法であるよう に思うのだ。照明弾ではなく、花火が飛び交うスタジアムの中、ハリボテの山に星条旗を立てたとしても彼らの心は硫黄島の戦闘から離れることはない。その後に訪れた運命とともにそれらはい つでも「現実」の出来事なのだ。
硫黄島の戦闘シーンは「日本兵の姿を見ることなく、地下に潜む敵と戦い続ける」姿を見事に描いている。迫力はプライベートラ イアンの冒頭 シーンには及ばない。しかし本当の戦闘もそうだったのかもしれない。この映画に込めた制作者の言葉は最後のこの言葉に集約されているように思う。(もちろ んうろ覚え)
「彼らをたたえるのであれば、彼らのそのままの姿を記憶しておこう」
エンドクレジットとともに映画で再現された場面、あるいは登場人物の当時の写真が映し出される。それらはこの映画の中でとても忠実に再現されていることが わかる。出演者は皆私にとっては無名の役者だが、この映画にトム・クルーズが入り込む余地などない。彼らの喜び、悲しみ、残虐さ、浅はかさ、それ らをそのままに描こうとしたのだろう。そして見終わって心に残るのは「父親」の一人の人間としての姿と海辺で子供のようにはしゃいでいる海兵隊員達の姿。
これ以上書くことなどないが、原作にあった一つの要素が映画からはほぼ抜け落ちている。それは映画化を考えた場合とても適当な方法であるように思うが、も し「イギー」の身に何が起こったかを知りたい人は原作を読まれたい。あそこをどう映像化するのか、そもそもできるのか、と思っていたがあれは適切な描写方 法だったと思う。
この映画には主人公だの主役だのが存在しない。ただ、起こったこと、起こったであろう事をそのまま観客にぶつける。そしてその映像は圧倒的。
最初はいつも通りの朝の風景。この後に起こることを知らなければ、これは退屈な場面なのだろうか。その問いに対する答えを私は持たないが、しかし直感的にそうではないのかもしれない、と思う。この監督は「きまりきっただけの飛行機出発前の風景」を異様な緊張感を持って描いている。
レーダースクリーン上に写ったAmerican 11が交信に応じなくなったところから何かがおかしいと気がつき始める。管制官、あるいは防空司令部の要員には実際その場に居た人間が何人も演じていると のこと。彼らの「演技」は信じられないような現実に直面した人達の姿をただそのままに映し出す。今でも覚えている。その日、朝のニュースを何か非現実的な物と思いながら眺めていた自分の事を。
乗客が戦おうとするとき、何人かが愛する者へ最後の電話を掛ける。見る前はここで映画的な演出-例えば電話を受けている側の姿を写 すとか-がは いるのではないかと思っていた。しかし視点は機内を離れることがない。誰もそこから逃げ出すことができないのだ。時間もただそのままに過ぎていく。彼らの 「感動的な30秒の対話」を30分に引き延ばして描くなどということもない。終わりはそのまま近づいてくるのだ。この映画は観客に安易な泣きすら許さな い。
カメラはテロリスト達の姿も淡々と映し出す。彼らはアラビア語でアラーの神に祈りを捧げ、乗客は英語で神に祈りを捧げる。彼らが祈りを捧げているのは同じ神だろうに。
最後の場面のあと画面は暗転し音が途絶える。その瞬間形容しがたい静けさが館内を支配する。
映画館を後にするとき一つの事を考えていた。いまわの際に、その事を自覚する余裕があるかどうか私にはわからない。しかし絶対神仏には祈らないぞ、と。
よんどころない事情によりこの映画は1.6回観た。最初は地図から消えたラジエタースプリングスの住人の一人の過去が明らかになったところまで。
そこで退出せざるを得なかったのだが、さてもう一度みようかどうしようか。きっとあの後自己中心的で他人の事をこれっぽっちも考えない主人公が改心し、そ してレースに勝つんだろうなあ。となればここまでで映画評を書いてしまおうか。
そこまでで何に感心したかと言えばストーリーはもとよりCGの進歩である。大事なのはお話でCGなどはどうでもよい、と常日頃考えている私だがこの映画に は驚いた。疾走するシーンで小石が飛んでくる。ダートのコースを走れば砂煙が上がる。それに加えてマットペインティングで描かれた西部砂漠地帯のすばらし さ。私はアリゾナ、ネバダの砂漠を走り回るのが大好きな人なのだが、あの光景は下手な実写よりよっぽどその場の雰囲気を表している。
この映画が公開された時期にルート66の歴史を辿る番組が放映されていた。インターステートの高速道路が整備されるにつれ、ルート66は廃っていったと。 そういえばネバダで復活したゴーストタウンに行ったこともあったなあ。あるいは点在している小さな町とか。あそこに住んでいる人達はどんな人達だったのだ ろうか、などと考えたり。
と、ここまでの評価は1080円。さて続きを観た物かどうか。
でもって他に観る映画もないので結局2度目を観た。CGにはやはり驚愕する。とくにネオン輝く夜の町を車がゆっくり走るところなど。車体に見事にネオンが 写りこむ。こんなことに感動するのは間違っているのかも知れないけど。
さて、お話と言えばおおむね予想したような経過を辿る。それでも最後には「よかったなあ」と思えるのはさすがにピクサー作品といったところか。結果と勝利 を絶対視するのがアメリカのプロスポーツというものだが、この映画の最後ではそこを見事にひっくり返ししかも「ちょっといいな」と思わせてくれる。例に よって最後のエンドクレジットのところまで笑わせてくれるが、今回はちょっと言語限定のギャグだったかもしれぬ。というか2回目は字幕で観ようと思ったら ほとんどの場所で吹き替えのみ上映ではないか。それどころか映像の方までちゃんと日本語化されているシーンがちらほらと。予告編で聞いたなまった英語とか で観たかった気もするのだが、それはまあ贅沢な望みということで。
「最近の若者は○○」という主張が大嫌いである。そもそも「最近の若者」などと一般化することが適当とも思えぬし、最近の若者と 言っても数人しかしらないし、比較の対象たる自分たちと同じ年頃の人間が若かった頃何をしていたかについ ても極めて偏った知識しかもっていない。その狭く浅い知識の3乗で何を主張するのか、と。
等と考えながらも最近の若者(20代前半の若者だが)と話す機会が平均すれば年に2度ほどある。その度「最近の若者は、、」と言い たくなるのだが、いやまて。3乗、3乗と言い聞かせてきた。しかしこの映画の主人公を、原田知世演ずるところの「時をかける少女」の少女と比べるときその違いについて何かを感じてもいいのではないかと思うのだ。
か つての知世ちゃんは、知らず知らずのうち自分に身に付いたタイムリープの力にとまどい、
「どうしてわたしが?もう、、わからない」
とかいって深町君にすがっていた。21世紀の少女はそんなことはしない。時間をぴょんぴょん飛び回り、妹にとられたプリンを取り返し、カラオケを個人的に延長し10時間歌いまくってご機嫌だ。ううむ。本当に最近の若者は明るくて屈託がないなあ、と若者と話すたび思う事を再確認する。
男二人、女一人の仲良し組。最初はテンポがまだるっこしく、「主人公のドジぶり紹介」がわざとらしく思われ帰ろうかと思う。(後でそれが全てつながってくると分かるのだが)しかし見終わってみればそこで退出しなかったの は幸いだった。「時をかける少女」のプロットを踏まえながら全く新しい感覚を持つ映画に出会うことができたからだ。
最初に実験室の準備室で謎の陰と出会うところ、ゴルトベルグ変奏曲のアリアと第一変奏がうまく-かどうか微妙なところだが-使われ ている。第一変奏のメロディにのってのタイムリープはどこか陽気だ。最初はご機嫌だが、やがてタイムリープする度微妙に願望とずれてしまう現実と格闘する主人公を観て思うのだ。人間が仮に時間を巻き戻せるとしたら、誰も前に進めないのではないかと。 この世は複雑系であり、一つの事象だけを都合良く変更することはできない。「満足」が得られるまで何度もぐるぐる。ではどこで思い切って前に進むことがで きるのか。確かにやり直したい致命的な間違いもあるだろう。しかし それであっても後戻りができない故に人は前に進むことができるのではないかと。
そしてラスト。21世紀の少女は運命 の出会いの影を抱いて静かにその後の人生を歩んだりしない。叫んで力一杯前に飛び出すのだ。あの男って結構悪いやつだよなあ、とか細かい突っ込みはいくつ かあるがそれは問わないことにしよう。
というわけでご機嫌のうちに映画館を後にする。この映画は県内で一カ所でしか上映していない。というわけで館内は県中のオタク大集合の図である。何故そんな ことに拘るかと言えば私もその一人だから。「時をかける少女」と言えば知世ちゃんより「ケン・ソゴル」だの「タイムトラベラー」だのいう単語が頭に来る世 代の私だが、その物語が新しい命を得た事は素直にうれしく思える。まったく、最近の若者は。。。
プロデューサーズ-The Producers(2006/4/9)
あれこれ考えたが「映画としては云々」とか小難しいことは言わない。面白かったから1800円
映画の宣伝文句によれば「シカゴ、オペラ座の怪人を超えた」(原作となった舞台は)ということらしい。そしてそれを映画化するにあ たっ て、制作者は賢明にも
「下手な”映画化”をするくらいなら舞台そのままを持ってくる」
方法を選択したわけだ。
というわけで、冒頭から台詞兼歌が炸裂する。観る前は「ミュージカル映画ってぇと”オペラ座の怪人”とか ”ムー ラン・ルージュ”とかあんまりいいのがなかったなあ(シカゴ)はよかったけど」と嫌な予感に怯えていた のだが、これは面白い。映画がどうの、舞台がどうのと余計な事を考えさせないくらい面白い。エンドクレジットが流れ始めた時には思わず拍手をしようかと 思った。(二つとなりに座っていたおばさんは実際に拍手しかかっていたが)
舞台をやれば必ず大外れのプロデューサーの元にきた会計士。ふと「舞台が外れたほうが(少し会計操作をすれば)もうかるじゃない か」と いう事に気が 付く。かくして「打ち切り間違いなし」の作品を作るべく努力が始まる。その舞台の題名はSpring Time for Hitler.ヒトラーがこの世の春を謳歌する内容であり「舞台とはいえこんなのやって大丈夫か」と観ているこちらが不安になる。
しかしこの映画、というか舞台全般に言えることだが、脚本がよく練られている。構成する要素のたった一つを入れ替えただけでヒ トラーをたた える顰蹙演劇は大笑いのコメディになるのだ。(ちなみに顰蹙部分も結構なできばえで、本当にこの舞台がかかっていたら見にいきたい、とまで思った)そして 法律違反(悪事とはあまり呼べない)を働いた者はちゃんとそれなりの「報い」を受ける。その前に主人公二人がお互いの友情を朗々と歌い上げる場面などだる くなりそうなものだが、きっちりとギャグを挟むところなど流石。
出演者は舞台俳優と映画俳優の混成部隊。この背の高いスェーデン娘って美人だかどうだかよくわからん顔だなあ、、と思っていたら Kill Billのユマ・サーマンだった。ナチオタクの脚本家にニコール・キッドマンの 旦那役@奥様は魔女ことウィル・フェ レル。おっと会計士はニコールキッドマンの旦那役@ス テップフォード・ワイフだったか。 この三人を除いた主要登場人物は舞台俳優とのこと。なるほど、顔つきといい演技といいものすごくわかりやすい。それらは普通の 「映画」には過剰だろうがこれにはぴったりとくる。
というわけで、観る前は全く期待していなかった私はご機嫌になって映画館を出たわけだ。唯一の心残りはエンドクレジットの楽しい歌を半分以上見逃したこ と。だってトイレに行きたかったし、大きな荷物抱えてたから混む前に出たかった、というのが理由なのだが。
コー プス・ブライド - Tim Burton's Corpse Bride(2005/11/12)
没落貴族の娘と成金魚屋の息子が双方両親の思惑から、本人同士会ったこともないのに結婚することになりました。ところがこの息子が なかなか式の段取りを覚えられない。一人森の中練習しても失敗ばかり。とうとうちゃんと言えた、と思ったら骸骨の指に指輪をはめてしまったのでした。でて きたのは結婚すること能わずこの世を去った女性(=死んでます)さてどうしましょう。
ってな次第でどたばたと騒いだあげく、話は最後にはまとまるところにまとまる。想定内といえばその通り。しかしこのストップモー ション(当初”3DCG”と書いていたが間違い。ご指摘ありがとうです)にはちゃんと人間の表情と演技がある。 Dream Worksの悪ふざけしかない3DCGとは全く違う。
特に私が気に入ったのはヴィクトリア-生きている方の花嫁。親は「美しくない」とか言っているが十分可愛いではないか。特に主人公 の男に初めて会ったとき、とまどいながらも一目惚れするところ。それと対照的なのが意に染まぬ結婚を準備するときの絶望と悲しみ溢れた静かな顔。
音楽と踊りもすばらしい。特に花嫁が死んでしまったいきさつを説明するところ、それに死んでしまった花嫁と主人公がピアノの連弾で 会話をするところ。話の展開は素直でストーリーにひねりはない。しかしこうした細かな要素が積み重なったためかクライマックスのシーンでは思わずぐっとき てしまった。
というわけで多少甘い気もするが1080円よりは上ということで1800円の値段を付けてしまうわけだ。自分で映画評を読み返して みればこのティムバートンという人の映画に対する私の評価は1800円かー1800円か。これだけ当たりはずれがあると次の映画もきっと観てしまうのだろ うな。
チャー リーとチョコレート工場-Charie and Chocolate Factory(2005/9/18)
ジョニーデップが変わった格好をして写っているポスターと、題名以外何も知らない状態で見にいった。映画の冒頭チョコレートが量産 されるシーンがCGで映し出される。それはどこか漫画のようで、「ほお、こういう映画か」などと考える。
そのうちここで描かれる世界は何よりも「夢」のようなものであることに気が付く。私はここで「夢」という言葉を使ったが、誤解を避 けようとすれば「悪夢」と書くべきだろう-実際私が見る夢のほとんどはロクでもない事が延々と続く物ばかりだ。(例えば今日見た「夢」はフランス語の期末 試験で、先生が日本語で言った文をすぐフランス語に訳して答えなくてはならない、というものだった)
大きなチョコレート工場の持ち主ウィリーがアナウンスをする。(ちなみにここでポスターが貼られる町の風景は、バットマンのゴッサ ムシティを思い出させる)五つのチョコレートの中に金色の招待券が入っている。それを受け取った子供をチョコレート工場に招待すると。この映画の主人公は 貧しい家に暮らすチャーリー。希望を込めて買ったチョコレートは外れだった。しかしそれを家族(両親及び両親の両親計4名含む)に分けてあげるのであっ た。ううむ。うちの子供もこういう風に育って欲しいぞ。
ここで話を省略するがとにかくチャーリーは癖の固まりのような4人の子供とともにチョコレート工場に向かう。そこでウィリーが
「このエレベーターは上下だけではなく、横にも斜めにも行きたいところに行けるんだよ」
という。それを聞き私はぞっとする。何故思い出せるのか解らないが、私は確かに縦にも横にも動くエレベータに乗ったことがあるの だ。夢の中で。そして「悪夢」の世界は段々加速していく、が決して観客を振り落とし制作者のエゴに逃げ込んだりはしない。奇妙で調子の良い歌と踊り、それ を淡々と眺める人間達はやはりどこか夢の中のようだ。
最後にはクリストファー・リーがあの低音でお話をきっちりと締め、見終わってみればこの映画には一貫したテーマがあったことに気が 付く。なんとも形容のし難い話をきっちりとまとめた事にまず感嘆した。ティム・バートンという人は猿 の惑星のリメイクの監督としか認識していなかったので「なんで有名なんだろう」と思っていた。しかしこの映画を観る限りやはり有名で あるだけの理由はあるようだ。ジョニーデップという人はあちこちで目にするが何故そんなに有名なのか今ひとつ解らなかった。しかしこのウィリーはすばらし い。エキセントリックな姿と時々見せるフラッシュバック。最後のシーンに至るまで顔を白く塗りつぶし奇妙な衣装を身にまとって見事な演技を見せる。
かくして文句なしに1800円を付けようという気になるわけだ。あるいは見る人を多少選ぶのかとも思うが、米国ではずいぶん長い間 ヒットしていたとのことだからそうでもないのだろう。今年のアカデミー賞が楽しみだ。衣装とか特殊効果以外で何か受賞して欲しい物だが。
ミ リオンダラー・ベイビー Million Dollar Baby(2005/6/19)
見終わった直後は1080円かと思っていた。その後しばらく「何を観たのだろう」と考えていた。そして1800円にすることにし た。
赤字経営のボクシングジム。ようやくチャンピョンに手が届きそうな男は金になるタイトルマッチ直前に去っていってしまった。そんな とき「トレーナーになってくれ」と女性が押しかけてくる。彼女は31才。「女のコーチはしない」と何度言われても半年分の料金を払いジムに居座ってしまう のだった。結局イーストウッドは彼女のトレーナーになり、二人は無敗の快進撃を続ける。しかしチャンピョンの座をかけた試合で悲劇が起こる。そしてそこが 映画の「折り返し地点」。
そこから先を見ているうちに、この映画は「ボクシングのサクセスストーリー」ではなかった事に気がつくのだ。ここに描かれているの は登場人物達の「生き様」。片目を失い引退したモーガン・フリーマン、トレーナーたるイーストウッド。彼が23年間毎日かかさずミサに来ていたのは何故 だったのかは最後まで明らかにされない。そしてヒラリー・スワンク。しばらく考えた末彼女は自分の力で賢明に「生きよう」としていたのだ、ということに気 がつく。さびれた街のトレーラーハウスから一人出てきてウェイトレスで喰っている、というか喰えないから客の食べ残しを「犬にやるの」といってもらってく る。家族とふれあおうとするが、ひどい結果となる。それでも再度母親を待ち続ける彼女の姿はとても悲しい。彼女が泣き叫んだり大声でわめくシーンは一度も なかったように思うがその強烈な意志は静かな言葉を通して観ている側に伝わってくる。他の二人もそう。この映画はただ彼らと彼女の姿を映し出していたの だ。
主演の3人(助演という言葉は似つかわしくない)がすばらしい。ヒラリースワンクがジムに最初入ってきたときの「まるでなってな い」打ち方と最後の見事なボクシングシーンの差が見事。役者とはすごいものだ。(映画のボクシングというのは本物より綺麗にパンチが決まりすぎるけど、ま あそれはいいとして)そして彼女の最後の表情は一瞬だが、そこに込められたいくつもの感情が溢れている。イーストウッドとモーガン・フリーマンの会話は 荒っぽいようでありながら何とも言えぬ「絆」を感じさせる。
脇役ではヒラリー・スワンクの家族がすばらしい。彼らを形容するに
Asshole
以外の言葉が思い浮かばない。あと何故かジムにいついてしまっている少年。彼も彼の道を歩いているのだ。
アカデミー賞主要部門受賞も宜なるかな、というかこういう映画が作られること自体がうれしいことだ。決して観る人間を簡単に Happyにする映画ではないだけに。
最後に二つ気に入った表現を。イーストウッドが娘とうまくいっていない事を語る時、スワンクが言う「娘さんの体重は何キロ?うちの 家では体重でトラブルを量るの」と。確かに米国では貧乏な人間ほど病的に太っている。
もう一つはフリーマンの台詞。「人は皿を洗ったり(もう一つ忘れた)しながら死んでいく。I never had a shotと思いながら。しかしShe had a shot」
have a shotだかtake a shotだかよく覚えていないが、これは日本語にはない表現だと思う。どうやって訳せば良いのか(字幕を観るのを忘れていた)自分の力を世の中に問うこと か。私が愛するCheersで主人公のSam が言った I had my day under the sunとも関連する意味だろう。take a shotのチャンスは多くない。ぼーっとしている場合ではないよ。私。
映画のオープニングでとにかく「消防」とつくいろいろな団体やら省庁から推薦やらなにやらを受けている事を知る。はたしてこれは期 待を高めるものだろうか否かと首をひねる。
これは一人の消防士の「生」を静かに真面目に描いた映画。映画が始まるとすぐ巨大な倉庫が火事になっているところが映し出される。 その「今」の風景と主人公が消防士として歩んできた「これまで」の姿が交互に映し出される。
主役はホアキン・フェニックス君。あちこちで顔を見るけどなんだか鬱陶しそうな顔だしなあ、と思っていたがこれは彼にとって生涯最 大のはまり役(私にとっては)この映画にはスーパーヒーローもいないし、取って付けたようなハプニングもない。だから
「消防署内に潜む姿の見えぬ敵。署長が黒幕かとおもいきや、実は情けない新入りが真の黒幕だった」
なんてことは起こらない。(唯一ホアキン君が奥様と知り合うところだけが調子よすぎると思うが)そうした映画に彼のどこかさえない 容貌、スマートとかたくましいとかではなくずんぐりむっくりとした体型はぴったりだ。彼の上司たるトラボルタも見事。特に気に入ったのは主人公の親友が殉 職した後署に戻り部下達を怒鳴りつけるところ。
最初はホアキン君の「これまで」が平穏すぎるような気がした。確かに消防士としての苦悩もあるのだが、余分な問題(例えばいやな上 司が来るとか)は存在しない。しかしそれは炎に包まれたビルの中一人取り残された「今」と最後に結びつき主人公の生き様をあざやかに描き出す。その役割を 果たすのがトラボルタのスピーチ。欧米の映画でよみ観る「葬式でのスピーチ」には感心させられることが多いがこれもその一つになるだろう。
そして見終わってみれば冒頭に映し出されたあまたの「推薦」を素直に受け取ることができるのだ。いわゆる「ハリウッド映画」とは全 く異なる真面目さ、その真面目さが観ている私に正面から伝わってくる。調べてみたら脚本が「遠 い空の向こうに」の人であったか。
これを書いている時に次世代ゲーム機が各社から発表された。合わせて新しいゲームも発表されるわけだがそれを観ているとやたら蹴っ たり切ったり撃ったりばかりでげんなりする。そんなに戦いが好きならば誰かを救うための戦いでいいではないか、命をかけて誰かを殺すより誰かを救うことの ほうが貴いではないかなどと真面目に考えたりするわけだ。唯一邦題が大げさすぎるのが気に入らないがしょうがない。「第46梯子隊」では何のことかわから んし。
Mr. インクレディブル-The Incredibles(2004/12/5)
観ているうち、過去数ヶ月に観たいくつかの映画の事が頭に浮かんだ。この映画の登場人物は漫画風にアレンジされている。しかしそこ から感じる感情はどうだろう。彼と彼女たちは皆生き生きと演技しているではないか。人間の顔をキャプチャし、不気味すぎる登場人物を作ったポーラー・エクスプレスの制作者達に見せてやりた い。あるいはオタク好みの記号を羅列するばかりで人間を描くことのない制作者達とか。
かつてのスーパー・ヒーロー達は訴訟の山を起こされ(米国だもんね)その力を封じられていた。その男の職業として保険会社の社員以 上に「ふさわしい」ものがあるだろうか。別に保険業界に恨みが有るわけではないが契約前はできるだけ多くの保証を語り、いざ不幸が起こった場合には支払う 金を一円でも惜しむのが保険会社というものだ。そこで働くMr. Incredibleの丸まった肩。身の危険を顧みず人々を救おうとした日々は過去の物となり、今や全ては「被害者の為」ではなく「会社の為、株主の 為」。彼の姿とフラストレーションには思わず共感する人も多かろう。
しかし謎の依頼者から本来の力を発揮できる「秘密の任務」を与えられ、それをこなすと彼の姿は急に生き生きとする。再び与えられた 任務に勇躍向かうが実は罠でした。というわけで家族総出で父を助けに、というのがストーリー。前述の通り登場人物はそれぞれにすばらしいが、特に Charmingだったのはインクレディブル夫人。この映画の主役は彼女ではないかと思える。
また直接見比べている訳ではないが、映像も一作ごとに進化し居てる様が見て取れる。濡れた髪以外は見事な3DCGーというかそうし たことを感じさせることもないほど見事な画面。(End Rollを見る限り、Hair and Clothingで一つのチームがあたっているようだが、、まだ髪は難しいんだなあ)
ドリームワークスの作品がどれも米国限定ギャグを多く含んでいるのに対し、Pixarの作品にはそれらが比較的少ない(のかもしれ ない)「えっ。今の何?」というフラストレーションを感じることもなく、ひとときも退屈せず最後まで手に汗握りけらけら笑いながら観ることができた。見事 な芸でした。この会社はストーリーをきちんとつくる人間、映像をオタク的に造り上げる人間をきちんと分けて一つの映画を作らせているのだなあと思う。当た り前の事かもしれないが幼稚なオタクに大金握らせただけの映画が多いのも現実である。どうしたらそうしたマネージメントができるのか、、などと妙なことを 考えながら映画館を後にする。
この映画を観たのは何度目かわからないほど。物心がつくかつかないかの幼少のころ映画館でみた思い出はあるのだが。それからTVで 観、映画館で観て。最後に観たのはいつだったか。
たまたまNHK-BSをつけたらやっていた。見始めると最後まで見続けてしまった。
私が映画をたくさん観るようになったのは割と最近である。であるから以前見たときは気にもならなかった点にいくつか気がつく。いく らなんでもそういう演技はないだろう、とか話が飛んでますとか。
しかしそんな些細な点を吹き飛ばして有り余るほどの「真剣さ」「重さ」がこの映画からは感じられる。父親が帰ってくると娘が膝をつ いて鞄をうけとる時代の物語、というだけではなく。登場人物一人一人のこの真剣な表情。ヒロインは科学者との約束を破る。それは破壊された町、犠牲者達を 観ていたたまれなくなったからだ。米 国のGodzilla でもヒロインは科学者を裏切る。自分がスクープを物にしたいがために。時代がどうだとかいう話は関係なくその重みにはとてつもない違いがある。
ゴジラが町を破壊するシーンにはその後のゴジラ映画(特に平成になってからの)には観られない特徴がある。町が大火災になっている のだ。炎をバックに浮かび上がるゴジラの姿。そしてその翌朝臨時病院と思しき場所に運び込まれた人々。泣く子供。焼け跡と化した町。これは終戦後29年で しか作ることができなかった映像なのだろう。空襲の記憶が生々しい当時でしか。
子供の頃は何も感じなかったそうした映像も、家庭を持ち子供を持つようになった今では心に迫る物がある。この後ゴジラ映画は子供向 けの「怪獣プロレス」の方向に向かっていく。それはそれで好きだったのだが今はこう思う。ゴジラの一作目はそれらと異なり傑出した作品だったのだと。
最後に余計な点を一つ。ガメラとゴジラの一番の違いは音楽ではないかと。ゴジラの音楽はなぜこうも頭の底の方に染みついているの か。
ある男を乗せたタクシー運転手は、数カ所回れば$600もらえると聞き一晩つきあうことに同意する。しかしその男は殺し屋だった。
最初のつかみは個人的理由により完璧。タクシーにのった女性検事が言う
「最悪なのは初公判の前日。ロジックが貧弱で陪審員に笑われるのでは、と不安になり泣くの」
OK.私だけというわけではなかったのだね。(いや、私は別に裁判に出た ことはないけども)この女性と運転手の会話はとても良い。そして一旦離れるかに思えた話は最後にはこの二人に戻ってくるのだ。
次に乗せた男が殺し屋ことトム・クルーズ。今まで彼の演技に関心したことなどなかったし、この映画の演技がどうのこうのと言うこと はできないが、少なくともはまり役だと思う。彼がよく見せる「口を半開きにした間抜け顔」も白髪まじりの冷徹な殺し屋にかぶせると「何かとんでもなく冷酷 な事を考えている」ように見える。無表情で「仕事」の達成めざし迷いもなにもなくただ最短経路を突き進む姿はどこかターミネーターのよう。
その事実を知った運転手だが逃げるわけにも行かない。トム・クルーズが「仕事をこなす」間、会話が続く。そこで少しテンポが落ちた ように思え「これは1080円かな」と思う。
しかしその考えは最後の「直接対決シーン」の緊迫感の前に吹き飛ぶ。途中警察だのFBIだのが介入してくるが、結局運転手は殺し屋 と正面から直接対決することになる。最後に画面が暗くなり、クレジットが流れ始めたと解った時、周りからため息が聞こえた。それほど緊迫した対決シーン だったのだ。
そして見終わった後思い返せば、運転手が直接対決するのは「映画だから」という単純な物の他にも理由があったことに気がつくのだ。 この運転手は
「今の仕事は一時的なもの。完璧なリムジンサービスをやりたいんだ。目的地についても降りたくなくなるほどの」
と夢を語る。そしてその夢を達成することがいかに難しいかを数え上げ、南の島の写真を見ることを心の慰めにしている。しかし殺し屋 にこう言われる。
What's the f○ck. You are still driving a cab.
いつまでも夢あるいは不満を語っているだけで足を一歩も動かさない人はこの言葉を聞けばよい。そして運転手はこの言葉を聞き確かに 変わった。
かくして途中自分が何を言っていたかはすっかり忘れ、この映画を観て良かったと思う。ハリウッド映画、という言葉が何を意味するか はさておき確かにこれはハリウッド映画。しかしその前に「よくできた」がつくことは間違いない。
女性によっては、男性に求めることは自分と家庭を守り尽くしてくれることであり、その男が誇り高いとかそんなことはどうでもいいこ とかもしれんなあ。と見終わった後考えていた。
ブラッド・ピット出演、絢爛豪華な予告編を見てはてこれはどう期待したものやら、と考えていた。とんでもなく薄っぺらな映画になる 可能性が高いような気もするが。。。
見終わってみれば約3時間の長い映画なのに、そのことを全く意識しなかった。しっかりと考えられた脚本が第一に賞賛されるべきなの だろう。トロイとスパルタの和平が成立したその席上でトロイの次男王子がスパルタ王の嫁さんと駆け落ちしたのがきっかけで大戦争。となれば私のような気の 短い男は
「死ね。今すぐ死ね。二人でエーゲ海でもアドリア海でもとにかく沈んでしまえ」
とののしるところだがそんな気は全く起きなかった。現実とはそうしたものだ。きっかけはあくまでもきっかけにすぎない。どこかの男 がどこかの皇太子を暗殺しなくても第一次世界大戦は始まっていたに違いないのだ。この映画では、そうしたどうしようもない現実、その中で生きる人間達が ちゃんと描かれているように思う。
ブラッド・ピット演じるアキレスは不死の体などではないが、異常に強いという設定。中身は普通の人間だからそれ故の感情も思考も ちゃんとある。感心したのはのど元に刃物を突きつけられながらその相手(女性)にのしかかっていくシーン。うーむ。お兄さん。脚本通りとはいえかっこいい ぞ。
そうした印象に残るシーンはいくつもあるが、飛び抜けてすばらしかったのはトロイ王のピーター・オトゥール。彼がアキレスと対峙す るシーンでは思わず画面に見入る。次男王子ことオーランドブルームは情けない役柄だがそれでも最後まで情けないなりに一本の筋を通した人間として描かれて いる。(冒頭の感想はこの男と駆け落ちした嫁さんの間柄をみて考えたことだが)とはいえ弓矢を持たせるといきなり強くなるのはやっぱり狙っているのでしょ うか。
見終わって唯一気になったのは、戦いのシーンでカメラが動きすぎるのではないか、ということ。特に最初の「トロイ海岸上陸作戦」の ところ。あるいは戦闘を美しく描きすぎないようにしたのかな、と思ったりもするのだが。
いや、そんなのは些細なことだ。アカデミー賞の選考基準は私の理解を超えたところにあるが、グラ ディエーターがアカデミーを受賞するならこの映画がその倍は受賞しないとフェアではないと思う。
あと余計な突っ込みを一つ。トロイの王様。神様のお告げは従うものではなく、利用する物だ。墨子も言っている。巫女には 指示した内容を告げさせろと。ちなみに神様は一切この映画にでてきません。トロイといえば神様よね、と思っている人には向かないと思います。
ロ スト・イン・トランスレーション-Lost in translation(2004/5/15)
CM撮影で往年のスターが日本にやってきました。写真家の旦那にくっついて結婚2年目の女性が日本にやってきました。彼と彼女は同 じホテルにとまっており、何度か会話をし、食事をしたり夜遊びしました。やがて彼は帰っていきました。
起こることはこれだけである。映画はとても静かに、静かに進む。最初のうちは米国映画の中で映し出される日本の姿が実にこそばゆく 感じる。いや、多少選んではあるが、「こんなの観たことねえよ」と誇張された姿でなく「ああ、そういえばあるなあ」というシーンだけにもっとむずむずす る。選挙カーからうぐいす嬢が身を乗り出し意味のないメッセージを連呼する。それに平行して候補者とおぼしき男がたすきをかけて走っていく。深夜民放で やっている白痴番組。「もっとテンション上げてよ」と連呼するCMの人。嗚呼。先日New York Yankeesが日本で巨人相手にオープン戦をやった。そのとき私が嫌悪して已まない「鐘や太鼓での応援」がやたら恥ずかしく思えたがあれにつながる感情 だろうか。
しかしそこで描かれている「日本」というのは、主人公二人が直面している閉塞感、はっきしりない違和感、そして孤独。そうしたもの を描写するためのものだとわかるのは知能指数0の米国人女優がでたところから。このシーンでテーブルには米国人だけが座っている。米国人女優がしゃべり続 ける。
「あたしは拒食症だって言われてるけど、基礎代謝が高いだけなの。でも実は父が拒食症なの。そういえばこの前腸内洗浄した の。」
隣に座った米国人とおぼしき男はHip Hopの話をする。インテリとおぼしき彼女にはどちらも楽しい会話とは言い難い。自分の旦那はそうした人たちと楽しそうにしゃべっている。彼と彼女は日本 にいるから孤独な訳ではない。
この二人がベッドの上に寝ころんで(物理的接触は殆ど無しだ)いる。彼女がI am stackedと言う。何をしたいのか、何になりたいのかわからない。ビル・マーレイは子供に愛情を感じるものの、妻は自分を必要としていないと感じてい る。日本にまでカーペットの見本を送って「あなたの意見は?」と尋ねる妻に何を感じればいいのだろう。
そうした二人の間にある感情は何なのだろうか。映画は余分に語らず印象的な映像をもって観客に想像させ、そして映画は始まったとき と同じく静かに終わる。これはまさしく大人の為に作られた映画だ。ゴールデングローブ賞受賞のスピーチで
「みんなこう思っているだろう。この映画はすばらしい。Lucky son of a bitch.あの映画だったら誰が演技しても受賞するに決まっている、と」
とビル・マーレイは言ったが、彼とその相手役スカーレット・ヨハンソンの演技なしではこの映画が成り立つはずもない。
映画を見終わって見慣れた筈の町をあるく。すると少しビル・マーレイの視線がのりうつり、それがとても珍妙な物に見える。
ス クール・オブ・ロック-School of Rock(2004/5/12)
映画が始まる前、場内に"Sunshine of your love"が流れたところで空ドラム(音楽に合わせて手を振り回すやつだ)をやったのが私の他に二人いた(私の視界内だけで)
そして映画を観た帰り道、家路を急ぐ人たちの中でこんなことを考えていた。
「ボケェ、あの男(主人公を間借りさせている男)綺麗な頭してロックは捨てだの、この女は最初で最後の彼女かもしれないなんて 言ってんじゃねえよ。Once a rockn roller, always a rockn rollerだ。女もへったくれもあるか。ロックの魂が 声をあげるならそれに従え」(映画の中で「あの男」はその通りの事をしてくれたのだけど)
そしてそのバック(頭の中の)ではエンドロールで演奏されていたフレーズが繰り返し流れている。
売れないバンドから首を言い渡された男が金を稼ぎたい一心で教師になりすます。そして小学生を集めてバンドをくみ、コンテストで賞 金獲得を目指すのだった。。という筋書きから想像されることが全て起こる。驚く生徒達。楽しい上達過程、本番直前になって訪れる危機、それに大団円。しか し観ている間私はただ心の底から笑い声を上げ、そして理由はわからないが何度か涙ぐむ思いをした。こんな映画の見方をしたのは久しぶりだ。(その前がいつ だか思い出せないが)
この映画では余分な要素は全て省かれている。ロック魂を持ちつつも私立の小学校校長との立場から固く殻を被った女性がでてくる。主 人公に「あんたはhotだ」と言われて一瞬なごむのだが、そこで主人公と物理的になんとかするわけではない。結局この映画に色恋沙汰は全くでてこない。 ディズニー映画だと言われても驚かないほどどころかそれ以上かもしれない。
しかしそんな要素はこの映画には必要ないのだ。主人公を同居させている男(私が「ボケェ」と言った男だ)は主人公がコンテストに出 ると聞き、ぎゃーぎゃーわめく女性を尻目にばたん、とドアを閉め出て行く。主人公が偽教師であることがばれ、生徒の両親達からつるし上げを食う校長は One secondと言い廊下で一人壁に向かう。そして最後の演奏シーン。「太ってるしみんなが笑うと思うから歌いたくない」と言った少女は見事な歌声を披露す る。そしてそれを観てうれしそうな笑顔を浮かべる少女の両親。(私だって太りすぎのVocalistだ。なんでrockの人にはやせた人が多いのか)涙ぐ んだのはこのシーンだったか。それらはいずれも簡潔でありながら心にしっかりと残っている。
ミュージシャン兼俳優である主人公のロックに対する愛が魂が映画から余分な要素をすっとばしストレートに伝わってきたのかもしれな い。登場する小学生達は一人を除き殆ど演技の経験がないと言う。彼らと彼女たちの稚拙かもしれないが与えられた機会に一生懸命取り組む心もどこかにあった のかもしれない。
しかし見終わった私はただOnce a Rockn roller, Always a Rockn Rollerという冒頭に書いたフレーズ-最近読んだ海兵隊の本に書いてあったOnce a Marine, Always a Marineという標語のもじりだが-を何度も繰り返していた。
Kill Bill Vol1に 続く作品。
さっぱり訳がわからないまま私をKnock Outした一作目と違い、二作目はそれなりに何がどうしてこうなった、という説明をしてくれる。とはいっても相変わらず日本刀を振り回す人間ばかりの不思 議な世界の物語なのだが、そんなことは全く気にしなくなっている自分に驚く。例によって全く先が読めない展開だし、昔の映画ベタベタの白黒ドライブシーン (後ろに背景を映写機で写し、その前で演技しているというやつ:予告編専用の映像かと思ったら本編でしっかり使われていた)などもでてくるのだが、途中ま では
「Vol1ではその力量に驚かされたけど、もう驚かないもんね。1800円はつかないなあ」
などと考えていた。
その気持ちが変わったのはユマ・サーマンがビルに会ったところから。なるほど、こう持って行ったのか。再び「やられた」という気持 ちになる。そして再び余計なことを考えず最後までスクリーンに釘付けになりました。
もともと一つの物語を作ろうとしたら長くなり過ぎ2部に分けた、とかなんとか聞いたことがある。Vol1, Vol2をたとえば途中に休憩などはさみ一気に観たらどのような印象を持ったのだろう。などと考えているとエンドロールのバックに「恨み節」とかいう日本 語の歌が流れる。なんでこの映画にはこうも演歌調の歌が似合うのかなあ。
ラ ブ・アクチュアリー-Love Actually(2004/3/7)
映画の冒頭、ヒースロー空港の到着口の様子が映し出される。飛行機で到着したばかりの人を出迎える風景。家族だったり、友達だった り恋人だったり。この場面を観ただけで「やられた」という気分になる。確かにここには愛がいくつもある。
基本的に独立な「愛」の物語がいくつも語られる。そしてそれらは男女の愛ばかりとは限らない。英国、そして米国でのクリスマスシー ズン向けに作られた映画だろうから基本的にはHappyな物語。しかし「ハチミツをかけた砂糖菓子」のようにはなっていない。映画の最後にそれぞれの物語 が一つの区切りを迎えるのだが、その前に終わってしまった物語が一つある。誰が悪いというわけでもない。それでもどうしようもないことが世の中にはある。 夢物語のような映画の中で一瞬そんなことを思い出させられる。(ちゃんと愛は描かれているのだが)
それと対になっている、というか反対側の徹底的な馬鹿馬鹿しいサイドに存在するのが「英国ではもてないけど米国にいけば○○まくり だ!」と思いこみ本当にアメリカに行ってしまう男のエピソード。冬のWisconsinで何をするかと観ていると何故かもてまくり。「いつ夢オチになる か」と思っていたのだが、最後までそれで通してしまった。あれはなんだったのだろう。
そのエピソードを除いてはどれもがしっかりした物語だ。予告編を観るとヒュー・グラントが主役のようだが、見終わってみると誰が主 役だったのやら。かえってヒュー・グラント演じる英国首相のエピソードが一番記憶に残らなかったりする。でてくる女性は一人(キーラ・ナイトレイ)を除い て典型的な美人ではない。それでも観客に強い印象を与えることだろう。
映画の冒頭結婚式と葬式が映し出される。そこで流れる二つの曲、これほど楽しいビートルズとこれほど悲しいベイ・シティ・ローラー ズは聞いたことがない。そして最後に流れるAll I want for Christmas is you.映画の中では会場総立ちだが観ている私だって思わず歌いそうになる。映画が終わった後まっすぐCD屋に向かいサウンドトラックを買った。音楽、ス トーリーそして演技とそろった見事な技。唯一の日本限定の問題点は公開時期だ。クリスマスも年末も通り過ぎたこの時期に公開してどうする。
私 だけ;学会などで発表するときいつも私はこういう状態になる。JavaDiary参 照の事。本文に戻る