日付:2007/7/4
1800 円- Part8
グラン トリノ-Gran Torino (2009/5/9)
グラントリノとは、フォードが70年代に作った車。今や経営危機にあるフォードだが、かつてはビッグスリーと呼ばれ(今でも呼ばれてはいるが)この世の春を謳歌し、アメリカの男があこがれる車を生産していたのだ。
主 人公たるクリント・イーストウッドはフォードで車を50年作り今は引退。かつては自動車会社の社員が住んでいた輝かしいエリアもすっかり荒れ果て、住んで いるのはアジア人やら黒人やらヒスパニックやら。アジア人の若者が白昼道路を歩いているとヒスパニックのギャングに絡まれる。それを助けに同族のギャングが近寄ってくる。 ヒスパニックが拳銃を出すと、アジア系のギャングはサブマシンガンを出す。これが今のDetroit(治安の悪いエリア)の現実だ。
イーストウッドは朝鮮戦争での体験に苦しみ続けている。それゆえ家族とも良好な関係を築くことができない。彼の息子たち及び家族はミリオンダラー・ベイビーにでてくるようなゴミではない。普通の家族なのだが、イーストウッドはGRRRRと唸り声をあげるにはいられない。
彼 の隣にはいつしかアジア人-モン族が住み始める。そこにギャングがちょっかいを出してくる。イーストウッドは愛用のM-1ガーランドを取り出しギャングを追い払う。 それは隣の家族を助けようとしたためではなく、あくまでも自分の家の芝生から出て行け、と言いたかったがため。しかしその行動故彼は近隣モン族からヒー ロー扱いされるようになる。
隣の家に住んでいるは父親のいない家族。子供は二人。姉は美人でもセクシーでもないがとてつもなくチャーミングだ。差別用語全開で悪態を つくイーストウッドにずけずけと近寄っていき、自分の家でのパーティーに招待する。弟は頭が切れるが道を見失っており、学校にもいかずギャング 団に入りそうになる。そこに父親の姿としてイーストウッドが登場する。気のしれた仲間同士で悪態をつきあい、汗をかいて働き、愛用の車を磨きビールを飲む。それは失われつつある、とだれもが思うような古き良き男の姿だ。
イーストウッドはさすがに老けた。この映画では一種エイリアンのような顔を見せる。落ちくぼんだくぼみの下に、黒い眼が光っている。しかしその表情が一瞬だけ緩む場面がある。地下室から冷蔵庫をひっぱりあげようとするが自分一人ではできず、隣に助けを求めに行く場面。
そ のようなイベントを通じモン族とイーストウッドの交流が始まる。それは、”今どきの成功するアメリカ人”からはみ出してはいるが、それぞれに自分たちのアイデ ンティティを大切に保っている者同士の語らいとも見える。しかしギャングはしつこくちょっかいを出し続ける。隣の姉弟がチャーミングなだけ に彼女と彼を襲う運命には痛みを感じる。
そこでイーストウッドがとった行動は。マカロニウェスタンで、あるいはダーティーハリーとして拳銃を撃ちまくっていた男がとった行動とは。この映画でイーストウッドは何度か拳銃、ライフルをかまえる。しかし一発も撃たないのだ。
エンドクレジットが流れたとき、自分が泣いていることにびっくりした。映画館をでて歩きながら”イーストウッドかっこいいな”と思う。映画のいくつかのシーンが頭をよぎり、そしてまた涙ぐみそうになる。
ウォッチメン-Watchmen (2009/3/29)
少し甘めだが、なんとなくそういう気分なので1800円。
か つてMinute menというヒーロー集団がいた。アメコミのヒーローだから、基本的にはマスクをかぶった人間である。その次の世代がWatch men。しかし彼らの活躍は条例によって禁止され、今は引退状態。最初の音楽が終わる間にそうしたことが断片的なショットで示される。最初
”これはアメリカ人にとっては常識の物語かもしれないが、私にはそうした予備知識がない”
という恐怖に襲われる。しかしそれらの”わからないこと”は物語のなかでちゃんと説明されるので安心しよう。
さて映画の冒頭、誰かがその引退したヒーローの一人を捜し出し、殺害する。これはどういうことか。Watch menの元仲間に戦慄が走る。誰かがヒーロー狩りをしているのではないか。
そこからのストーリはよく考えられている。上演時間は2時間43分だがそれより長く感じられた。退屈したという意味ではない。いろ いろな筋立てがぎっちり詰まっているのだ。途中で話がどう決着するのか全く見えなくなる。
映画の中のアメリカでは、ニクソンが3選されている。なぜか。ベトナムで完璧に勝利したからだ。これは(私が知っている)アメリカ のヒーローが避け てきた話題でもある。アメリカンウェイを守るヒーローならば、当然ベトナム、イラクにいかなければならないのだ。そりゃそう
でしょう。アメリカの若者が死んでいるんだもん。救わなくちゃ。”敵”を殺さなくちゃ。と いうわけで”ヴェトナムでの勝利”をもたらしたのは、不幸な事故に巻き込まれた結果、神に近い力を手に入れた男。この男はほとんど神がかっているのだが、 か といって無敵でないのがもう一つよく考えられていると思うところ。ひとり不幸な生い立ちのヒーローがいるのだが、この男は不気味でありかつチャーミング だ。
ソ 連はまだ健在であり、そして米ソ両大国は核兵器を手に余るほど持ちながらにらみ合っている。ニクソンが決断を迫られるSituation Room はDr. Strange Loveのパロディであるか。そんな状況だが、筋の通った元ヒーロー達の行動(あえて活躍とはかかない)の結果、世界は”平和”を手に入れたかのように思 える。しか し最後にちゃんと(見方によっては)凶悪な落ちがついている。平和は偽りの姿で、人は殺し合いいがみ合うのが真実の姿であるということか。いや、すばらし い。
R- 15となっているが確かにエログロシーンは強烈である。しかしダークかつシリアスな全体のトーンとちゃんと釣り合っている。ヒーロー物のお約束にちゃんと 向き合った上で一つの映画としてまとめたのは見事だと思う。それゆえ強烈に感動した訳ではないが1800円をつけようと思うのだ。
一つ文句をつけたいのは、ヒロインの女の子があまりかわいくない、というか私好みでないこと。妙に顔が四角い。あとクライマックス のシーンで流れるモーツァルトのレクイエムは少し浮いていたかな。
アカデミー賞に多数ノミネートされている作品だから見に行きたい。しかし監督がなあ。きっと”ずどーん”とくる映画に違いない。は てどうしたものか。
映 画の冒頭A True Storyと字幕が出る。Based on とかInspired byとかではないのだな、と考えていると1920年代のLos Angelsの風景が映し出される。住宅街まで路面電車が通っていることにまず驚く。今の高速道路まるけ(これは名古屋弁)のLos Angelsとは大違いだ。主人公たるアンジェリーナ・ジョリーはローラースケートをはいて電話交換手の間を走り回っている。
いきなり休日 出勤を命ぜられたジョリーは一人息子を家に残し職場に向かう。夕方帰ってきたら子供の姿が消えている。そこからの演技は鬼気迫るもの。私の趣味ではない が彼女は美人だと思う。しかしいくつかの場面においてはその片鱗も見せない。疲れ果て、やつれたしわだらけの顔。しかし彼女の目には力が-時として異様な ほどに-宿り続ける。
そ れはまた、そうした演技を見せるに足る苦難が彼女を襲い続けるということでもある。警察は子供がイリノイ州で発見されましたという。しかしその子供は明ら かに人違いだった。行方不明の間どんな苦難にあったか知らないが、背が7センチ短くなるなどあり得ない。しかし警察は全くとりあってくれず、育児を放棄し たいのだろう、と難癖を付ける。これくらいの理不尽な扱いは大企業の子会社では普通にあることだが、相手が警察となるとそうはいかない。警察の見解を押し 付けようとする医師を送り込んでくる。それでも文句を言い続けると有無を言わさず精神病院に放り込む。精神病院では悪夢としかいいようのない日常が繰り返 される。
しかし最悪の状況においても彼女の目からは力が失われない。間もなく-このタイミングは映画的すぎると思うが-彼女には救いの手が 差し伸べられる。そして息子を誘拐したであろう犯人もつかまり、その裁判と警察の公聴会が平行して行われる。(ちなみにここでイーストウッドは映画化に際 して犯人の残虐性を少し和らげる改変を行っている。それは父親達の星条旗で惨殺された死体を映さなかったことにも通ずる良識と言うものかもしれな いし、そのようなノイズは必要ないと思ったのかもしれない)
ここで大団円にしないのがイーストウッドの恐ろしいところだ。彼女の一番の願い は我が子と再会する事。しかしそれがかなわぬ夢なのか、あるいは可能性があるのかはどこまでいっても明確にならない。フィルムは回り続ける。人生と いうのもこうしたものか、と考える。”二人は幸せに暮らしました”でまとめられるような人生などある筈がないのだ。
ラストシーン、ジョリーは 希望に満ちた美しい笑顔を見せる。しかしそれは単純なハッピーエンドではない。家に帰ると彼女のその後について調べる。亡くなったのがいつかもよくわから ない事を知る。映画に触発されて誰かが本を書こうとしても、もう本人のインタビューを行う事もできまい。この映画がなければこの事件は誰にも知られないま まだったか もしれぬ。
し かし彼女が生きている間に見せた力や輝きはあるいはこの映画に書かれていたとおり、あるいはもっと激しかったかのではないか。そんなことを考えさせられ た。悲惨な事件も真正面から描き、安易なハッピーエンドをつけたりはしないが観客の心を揺さぶる。イーストウッド+アンジェリーナ・ジョリーの力量には感 嘆させられた。
ベンジャミン・バトン 数奇な人生- THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON(2009/2/14)
80歳で生まれ、0歳で死ぬブラッドピットの物語、かと思えば最後の時が近い母親と娘の会話が始まり少々めんくらう。
母親が、娘に” 日記を読んで”と頼む。そこからベンジャミン・バトンの物語が語られていく。生まれたときの異様な姿故、父親に捨てられた彼は、老人ホームのよ うな場所で育てられることになる。”成長”してからは船乗りになり、第二次大戦を経験し、、、と話は続く。
人は誰でもおむつをつけた赤ん坊からはじまり、おむつをつけた老人として終わる。年をとるに従い体は若返っていくベンジャミンもそ の例外ではない。その一生はあくまでも穏やか(Uボートと打ち合いをすることを穏やかというのなら)であり、
”人類の未来につながる秘密を持った人間”
として各国諜報部が争奪戦を繰り広げるなんてことはない。
人 はおむつをつけて始まり、おむつをつけて死ぬ。その短い間に人と出会ったり、恋愛をしたり、馬鹿な事をして相手を傷つけたり、家庭を作ったり、旅をした り、働いたり。そして年をとればみんな忘れてしまうのだが、それでいいのよ、とケイト・ブランシェットは語りかける。ピグミー族の男は”肌が何色だろう と、みんな孤独なんだよ”と言う。
なんでも演じられるケイト・ブランシェットは相変わらず見事だが、個人的にはブラッド・ピットの姿に感心 した。中身はいたずらっぽい青年である老人、とか中身は老人の10代の少年とか。CG+メイクの威力か、彼の演技力故かはわからないのだが、そうし たアンバランスさがうまく表現されていたように思うのだ。いかにも”英国美人でございます”といった外交官の妻がほれてしまうのも無理はない。
見ているうちにSteve Jobsが行った演説の一節が思い出される。
"君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きて ならない理由など、何一つない。"
多くの人が感じる事だと思うが、どこか”フォレスト・ガンプ”に似た空気を感じる。少し”数奇な”立場にある人間を主人公にしては いるが、描いてい るのはあくまでも”普通”の人生。そして悲喜こもごものイベントを取り入れながらその底には徹底して人生を、そして死を肯定する立場があるからではなかろ うか。いまこうして書いてみれば、それはSteve Jobsのスピーチにも相通じることなのかもしれない。
今年のアカデミー賞に多数ノミネートされているそうだが、観れば納得である。隣で観ていた中学生は途中で携帯を見ていたけどね。映 画の中の台詞に言う”折り返し地点をすぎた”年でないとこの映画の良さはわからないかもしれない。
ダークナイト - The Dark Knight(2008/8/30)
バットマン ビギンスと 主演はともかく監督が同じだ、というのが信じがたい。
グロイシーンは意図的にカットされているように思う。しかし何が起こっているかはちゃんと伝えられているし、そもそもこの映 画が目指 した「恐ろしさ」とはそんな次元のものではない。(シャマランはこの映画を100万遍見直して、反省するように)観ているうちに気がつく。 悪も善も人間の一部であり、どちらかだけがなくなることはあり得ない事を。そして自分がなんとなく寄りかかって日常を過ごしている「善というものの安心 感」が足下か ら崩れるような気がしてくるのだ。
ジョーカーという悪役をやっつければ、ゴッサムシティに平和が訪れました、という単純な話ではもちろんない。「狂犬」ジョーカーは 周囲の人間から狂気を引き出していく。私はここで「狂気」と書いたが、それはもちろん善男善女たちの一側面でもある。ジョー カーはただの触媒であり、結局人間とは恐ろしいものではないか。そんなことを考えだす。ミ ストを観たとき感じた恐怖に似ている。舞台となるゴッサムシティがこれまでのバットマンシリーズと異なり、普通の町に見える事も、 「絵空事ではない恐怖」を感じさせる一因だ。
いったんジョーカーが逮捕され平和に話が終わるやに思う。ああ、よかった。それにしてもなぜこの映画がそんなに評判なのか、 と思ったあたりから ジョーカーが巻き起こす狂気は加速していく。話の終わりが見えなくなり、加速していく狂気がどこでとどまるのか、誰をどう信じればよいの かわからなくなる。ジョーカーがしかけた壮大な「囚人のジレンマ」の決着の仕方はいかにもアメリカ映画(軽い意味ではないよ)とも思えるが、そ こでちょっとほっとしたのも確かだ。
前作に引き続きマイケル・ケインが執事を好演。ちょっと皮肉を利かせた演技がすばらしい。主役は前作と同一人物とは思えな い影のある演技。「光の騎士」たるべきアーロン・エッカートがこのメンバーの中ではちょっと薄く感じられる。この役柄がもっと迫力を持っていれば、、と思 わ ないでもない。今は亡きヒース・レジャーの演技はジャック・ニコルソンが演じたものとは次元の違うジョーカーを作り出した。薄っぺらで空っぽで純粋な狂 気。ジョーカーは金を儲けたいわけでもバットマンを目の敵にしている訳でもない。犯罪そのものが彼の目的なのだ。こんな見事な演技をして しまうと、、やはり寿命が縮んだか。
後から考えれば、機能していなかった役もいくつかある。(香港のマフィアとかね)エンディングも台詞で説明 はいかがなものか、と理屈では考えられるのだが、ジョーカーがかもしだす狂気の前にはそんなことは些細なことのように思える。
とかなんとかいいながら、最後に映し出される英語の題名を観るまで
Dark Night(暗い夜)
という題名だと思っていたのは内緒だ。いや、だって夜のシーン多いし、演説の中でも「夜明け前が一番暗い」とかそんな台詞あった し。
「暗い夜」ではなく「暗闇の騎士」は、自らを暗闇に置き、民を導くための幻想を維持することを選択する。非理法権天の世の中にあって、「正義は勝つ」とい う幻想を説き続けるのは社会を維持するための知恵なのかもしれん、とかそんなことを考える。バンテージ・ポイント - Vantage Point (2008/3/8)
久しぶりに「プロが作った面白い映画」を観た気がする。スクリーンから「CGM?(ユーザが作った作品)ちょっとプロの技を見せてやろうか?」という声が 聞こえてくるかのようだ。テ ロ対策の国際会議がスペインで主催される。そこで演説をしようとした米国大統領が何者かに狙撃される。そのシーンが5回巻き戻され、5つの異なる視点から 描き出される。少しずつ謎と物語を解き明かしながら。最初の目撃者は以前身を挺して大統領を救った事のあるシークレットサービス。2番目がスペインの警 官。ああ、こいつが馬鹿だったのだ。これだからラテン民族は、とか思っているうちに話は少しずつのびながら複雑さを増して行く。
一人の登場人物も無駄ではなく、そしてちらばったかに見えたストーリーは最後見事に一点に再集約する。そこにいたるまでの間「これ は本当にバッドエンドの映画ではないか」と思えるほどの巧妙な策略があり、そして手に汗握るカーチェイスがある。
私 は映画の中の「カーチェイス」というものにほとんど価値を見いださない人間だ。車を何台スクラップにしたからといってそれがどうだというのだ。しかしこの 映画のそれでは鼓動が早くなり文字通り手に汗握る。それは疾走する車の迫力故だけではない。「この先話はどうなるのだ」と先を見たいという気持ち、期待の 高まり故である。
そして最後ちゃんと話がまとまるとき、笑顔だったのは元々銃を持っていなかった人たち(+1)だったというのも話として ちゃんとできている。というか途中に普通の人間のエピソードを盛り込み、それをちゃんと話の中で昇華させている。お見事としかいいようがない。90分 の引き締まった時間の間観客は常に考え、手に汗握り続ける。
映画を見終わった後予告編を観れば「誰かが嘘をついている」とか言っている が、、まあこの映画の面白さを短い予告編に詰め込むためにはそういう「予告編用の嘘」も止む終えないかな。しかしこの映画は「さて、嘘つきはだれだったで しょう」というありきたりな謎解きでは決してない。安堵の吐息をつけるのは映画が終わった瞬間だけだ。参りました。
エロもグロも必要最小限。というわけで万人に勧めたい映画ではあるが、「えー?どうなったのー?わかんなーい」と連発しそうな相手 とはいかない方がよいと思 う。
ルイスと未来泥棒-Meet the Robinsons(2008/1/12)
本来ならこの映画は1080円だがこの値段を付けるには理由がある。
実は予告編を観たとき
「ああ、またディズニーが駄目アニメを作った」
と思っていた。チキン・リトルで 懲りていたから観るつもりは無かったのだ。
しかしあるところで、ジョン・ラセターが来てから6割近く作り直した、という話を読む。考えてみれば今やピクサーはディズニーなの だ。であれば少しは期待が持てるか、ということで見に行った。
キャラクターの設定自体は確かに駄目ディズニーのそれだった。しかし話が進むにつれ、まぎれも無くピクサーの作品である事に気がつ く。発明に夢中でいつまでも養子の話がまとまらない主人公。そこに謎の少年と山高帽の悪役がやってくる。
この「山高帽の悪役」が実に情けない。これほど情けなく弱い悪役というのは久しぶりに観たような気がする。でもって少年と未来に 行ってすったもんだやったあげく、さてどうなるのでしょう。
映 画の後半、「何故山高帽はそんなに情けないのか」を含め、それまでまきちらかされた伏線が奇麗に拾われて行く。それよりもなによりもエクセントリックな登 場人物たち-Robinson家の面々-が皆生き生きと血の通った人間に見えるところがさすがだ。とはいえ作り直したのは6割だから今イチな点も残ってい る。映画の中盤ややだれたかな、と思ったのは事実だ。
では何故1800円をつけるか。私の頭がこの映画をみてグラグラ揺れたからだ。しかしそれは感動でも喜びでもない。変な発明をし続 ける主人公は理想的な環境を与えられ
「君には素晴らしい未来が待っている」
といわれ、そして実際に未来を変えて行く。Damn it.それは私がArmageddonに 1800円をつけたのと同じ理由かもしれない。
いや、この映画はArmageddonよりはるかに良い映画であることには違いない。Keep Moving Forward. Keep Moving Forward. その言葉を残したディズニーが、既得権益保護のため著作権の期間延長に努めているのは皮肉なことだ。いや、そればかりではない。自分たちでは新しいアニ メーションを作れないと率直に認め、外部の才能ある集団を取り込んだのは、過去にとらわれず未来に進み続ける一つの方法、と言えるかもしれない。
最初に書いておくが、この映画にこの値段を付けることを他の人に納得してもらおうと思ってはいない。しかし私が値段をつけるのであ れば、1800円以外はあり得ないのだ。
なぜなら
トラボルタが歌って踊っているからだ。若いものにはわかるまい。トラボルタと言えばちょっとだけでてくる海 兵隊のお偉いさんでもなければテ ロリストと戦うテロリストでもなければ、消 防署のお偉いさんでもなければ、ましてやあやしげな異星人でもない。70年代全開ファッションで 腰をふりまくり、土曜日の夜にはディスコというものに当時の若者を向かわせ、あるいは古き良き時代のAmerican High School Studentとして歌って踊りまくり、世界中の人に 「アメリカってなんだかかっこいいなあ」と思わせた男なのだ。
その男が歌って踊っているのですよ、もうあなた。私のような年代の人間にはそれだけで冷静な判断を失わせるというものでございま す。
とひとしきりわめいたところで少し冷静になろう。
有 名なミュージカルの映画化との事。というわけで冒頭から主人公-垂直方向に寸足らずで、水平方向に寸余り-が歌いまくる。50年代終わりのバルチモア。そ こでは人種差別が厳然として存在していた。そんな中「ローカルTVのショーにでたい」と思い込んだ女子高生があれやこれやと奮闘をするのだった。
こ こでただの「楽しい高校生生活」としないところが米国らしい。白人は私の目から見れば「昔風」の踊り方をし、黒人達は「かっこいい」踊り方をする。その頃 両者は同じフロアでしきりなしにおどることすら許されなかったのだ。たまにある黒人向けの日はニグロデーなのだ。(字幕では「ブラックデー」になっていた が)
と いう背景はあるが、「観ていて楽しい映画」を決して外してはいない。主人公のキャラクターも見事だと思うが、私からすると「ベテランの脇役陣」が大笑いさ せてくれる。主人公の「母親」はトラボルタだが、父親はクリストファー・ウォーケン。映画を見た後に知ったのだが、この人元々歌とダンスの方面の出身との こと。というわけで老骨にむち打って歌って踊ってくれる。トラボルタとの「歌って踊るラブシーン」は爆笑せずにはいられない代物だ。二人で見事にダンスし た後にキス するかと思えば。
こうした青春物に欠かせない「いやな奴」の母親が、元ミス・バルティモア&キャットウーマンことミッシェルファイファー。それな りに老けたがなかなかきれいである。彼女がウォーケンを陥れようと迫るシーンがあるのだが、そこでのウォーケンのボケ方がすばらしい。考えてみればこの二 人のシーンって「バットマン・リータンズ」でもあったではないか、などと思い出すと腹筋がさらにいたくなる。
と いうわけでトラボルタ抜きでもよい 映画だと思うのだが、惜しい点がいくつかある。肝心要の最後のシーンがちょっと間延びしてしまった。おまけに話の都合ということはわかるが、最後に大活躍 する黒人の女の 子の登場が唐突に過ぎる上に、あまりチャーミングに見えない。その直前、ハイヒールをはいたトラボルタの歌と踊りで溢れ出た涙が乾いてしまった、というの も本当のところだ。あと主人公の親友たる「ツインテールをほどいたら、あなた美人だったのね」の女の子もあまり機能していない。
というわけなので本来だったら1080円かもしれないが、なんたってお客さん。そりゃ1800円でしょう。その昔ビージーズの甲高 い声に、ビートに触れた人間であれば感涙せずにはいられない、、かな?
レミーのおいしいレストラン-RATATOUILLE (2007/7/29)
見終わった時つぶやく。「お見事」
Pixar の新作が作られるという。どんな話、と予告編を見れば(いつもの事ながら)今ひとつよくわからない。公開が近づくと予告編が長くなっていく。どうやら「天 才シェフのネズミ がなんとか料理 を作ろうとする」話らしい。登場人物はネズミと協力して料理を作る情けない男、そして意地悪そうな料理評論家等か。ってなわけで頭の中 でストーリーが組み立てられる。
さて、映画が始まる。すると(これもいつものことだが)ピクサーは作画、撮り方の面でも決して立ち止 まっていな かったことを知る。私は3D CGの技術などには全く興味のない人間だがその映像には圧倒される。特にレストランの厨房/ホールで主人公が逃げ回るところは圧巻。
意地悪なシェフの「探索」をなんとかかいくぐり素晴らしい料理を作り続けるネズミ/情けない男のペア。途中成功があったり、 お約束の挫折 があったり。いや、それが単なる「お約束の挫折」でないところがこの映画の素晴らしいところだ。ちょっとした誤解や行き違いから仲がこじれることは現実世 界でいつも起こっていることではないか。ついていけないような反則やら自己満足のダンスシーンが入る余地など全 くない。いわば一筆たりとも力を抜いて描かれていない名画を観ているかのようだ。ネズミの敵たる人間と協力して料理を作る、という息子にネズミの家族は問 う。
Where are you going ?
主人公は答える
With Luck. Forward.
夢 が必ず叶うなどとは考えてはいけない。しかし前に進むしかないのだ。伝説のシェフは「誰でもシェフになれる」という言葉を残す。しかしそうではないのだ。 「シェフはどこからでも出てくる可能性がある」が正しい。どこにいてもそれを言い訳にすることなく前に進むしか夢を実現する方法はないのだ。仮に「前に進 んだからと言って夢が実現できる保証などどこにもない」ことを知っていたとしても。この映画が描いているのは、夢のようなサクセスストーリーではない。サ クセスストーリーでも現実の世 界にいる人間-もちろん大人にも子供にも-の心に響くそれだ。
映画の後半。予想したとおりとはいいながら、意地悪なレストラン評論家に料理が出される。ここで評論家が感心すること ぐらい、予告編を観た人間なら誰でも知っている。しかしその描き方にはノックアウトされた。それは観ている私の脳裏にも昔の自分の姿をフラッシュバッ クさせる。その後、評論家が書くレビューには「本物」に出会った人間が余計な事を一切交えず、正面からその「本物」と向き合った言葉が並んでいる。評論と はあら探しではなく、本来こうしたものではなかったか、と小林秀雄の文を思い出しながら書いてみる。
かくして久しぶりにエンドロールの最後まで見終わってから席を立つ。後から考えれば「もう少し伏線が張ってあれば」と思う ところがないわけではない。しかしそれはあら探しにすぎない。この映画をみて「レストランにネズミがいていいのか」などという人間はいつまでも重箱の隅を 発掘していればよい。この映画は「名人、名刀をふるう」と形容すべき見事な作品だ と思う。
ダ イハード4.0 -Live free or die hard(2007/7/1)
世の中なんでも 2.0なので、第4作にも「.0」がつく。(何年かしてこれを読み返したとき自分でもわからなくなっているだろうが気にしない)。というわけで3部作では なく、久しぶりの新作である。思うにダイハードシリーズは水戸黄門のようなものではないかと思うのだ。
題 名のとおりブルース・ウィリスは絶対に死なない。猛スピードで疾走する車から飛び降りてもちょっとけがするだけですむ。悪役に自動小銃でばりばり撃たれて も弾は全部急所を外れる。そして最後に悪い奴らはやられる。それをこちらも知っているからこそ安心してはらはらどきどきできるわけだ。今回の敵は米国にサ イバー攻撃をかけてくる。映画の冒頭でリモートから何かソフトウェアをしかけてPCを使っているハッカー達を次々と爆死させていくシーンが映し出される。 意図したことがどうか知らないが、制作者はここで「この映画は虚構の産物だよーん」とウィンクして知らせているのではないかと思う。(ハードを破壊する ウィルスとというのは未だ見果てぬ夢の産物な のだ)というわけでこちらもリラックスして観ればよいわけだ。
でもって例によってウィリス君は運の悪い役回りから 「唯一生き残ったハッカー」を守りあっちに行ったりこっちにいったいする。途中「マイ」とかいう髪の毛の薄い アジア人がでてくる。日本人かと思えばアメリカ人とベトナム人のハーフなのだそうな。この「マイちゃん」とウィリスの格闘を観ているといらいらする。
「貴様らとどめを指す、という言葉を知らんのか」
と 思う。ここらへんがこの映画で一番だらけたところ。思 うにこのマイちゃんを全部削除し、あと30分短くしたら名画になったのではなかろうか。
しかしそこからまた話は面 白くなる。舞台はサイバーの世界(例によって映画特有の「コンピューターは 全部制御出来ます」だが)から現実の世界に移る。そこでFBIの副局長が自ら防弾チョッキをきてヘリにのる。この副局長、地味だが結構いい味を出し ていると思う。カーチェイスのあとには「ブルース・ウィリス対F-35(米軍の戦闘機)」の夢の対決。大笑いである。水戸黄門なのでなんでもありである。 そう思えば娘にもっと「見得を切る」ような 白々しいセリフを言わせてもよかったのでは、と思ったりする。悪役が「待っても父親は来ないよ」と言ったところで
"You don't konw my daddy"
とか。
か くの通り平和な映画なのだが、一瞬背筋が寒くなった。犯罪者達が全米を停電させるところをみてふと思う。これはエンロンがやったことではないか。あの事件 の原因がエンロンの人 為的操作とわかるまで長い時間がかかった。しかし映画ならそんな難しいことはおこらない。悪役は誰かわかっているし、時間がくればちゃんと結末がつく。そ んな映画であるから見方によっては「中身のないアクション映画」ともいえ、1080円にしようかとも思ったのだが、この値段にするには理由がある。
そ の1:なんといっても "Mac"(米国でMacintoshの宣伝に出ている人)が「良きハッカー」を演じているのだ。彼が窮地に陥るたび「がんばれMac」と心の中で声援を 送る。18年間Mac Userであるためにはこれくらいの理不尽な思い入れが必要なのだ。
その2:映画を観て いる時、見終わったとき、主人公に自分を重ねるような爽快な、冷静になって思い返すと少し恥ずかしい感覚がある。例えば(み たことないけど)高倉健のヤクザ映画とか、ブルースリーの映画とかをみた後とか。思わず「アチョー」と言ってみたくなる、そんな感覚を少しだけ思い出させ てくれた。こんな気分になったのは久しぶりだ。
というわけでちょっと甘めでも 1800円つけてみよう、という気になるわけだ