五郎の 入り口に戻る
日付:2008/4/1
1800円|1080円|950 円|560円|-1800 円|値段別題
名一覧 | Title Index
いや、俺このシリーズ好きだわ。絶対アカデミー賞とかとらないだろうけど。
というわけで、最初に悪いところを書いておく。一行が工場から脱出するところ。スローモーションで描かれるドンパチはすごいが、巨大な
大砲の使い方に芸がない。逆に言えばそんな些細な事が気になるくらい、この映画には芸がつまっていた、ということでもある。
冒頭、前作でも出てきた「峰不二子」ちゃんがあっさり消える。をを、これはどうしたことか。というわけでホームズの宿敵、モリアーティ教
授の出現である。こちらの世界では彼は本物の教授。
ホームズはいくつもの独立した(ように見える)事件の裏に、モリーアティの姿を見る。モリアーティはコンビを解消したばかり(の筈)のワ
トソ ン夫妻に矛先を向ける。であれば全力での対決となる。
ほとんどの場合、種は一旦観客に提示されている。それを「解った」後にだらだらせず、ざざざざと説明する。私の隣には映画館を自分んちの
居間と勘違いしている家族がわーわー「あれは何だ」とかしゃべっていたがまあそんな感じ。私の頭の回転にはちょうど良い。張られた伏線は
きちんと回収されるので、安心して画面に集中しよう。
ホームズとワトソンの関係は、ちょっとホモっぽいとも言えるが、才能はあるが憎みきれない駄々っ子のようなホームズと、文句をいいつつそ
れに振り回されるのを楽しんでいるワトソンといったほうがしっくりくる。ダウニーJr.はまり役である。話はどんどん進むのだが「はて、
これでどうやって決着をつけるのか」と不安になったころ、ようやく収束の兆しを見せる。
そして終わってみれば「相手がモリアーティなのだからこれ以外ないではないか」という決着のつき方。でもあやしげな東洋の武術はでてこな
いよ。
それが明かされた時の「ベタなギャグ」には思わず笑ってしまった。あと気に入ったのは「元英軍屈指のスナイパー」と相対するワトソンの反
撃。スナイパーの”That's not
fair!”という叫びが笑える。「これまた奇人」のホームズの兄とか。ドン・ジョバンニとシンクロしたシーンとか。いや、楽しい。これだけ楽しさをぎっ
ちりつめる芸には脱帽だ。このシリーズまだ 続けてくださいよ。絶対観に行くから。
大人なら、社会人として生きている人間なら何をおいてもまずこの映画を観ろ、さあ今すぐ観ろ。
Oakland A'sはプレーオフで惜しくも破れる。「惜しくも」といったところで負けは負け。おまけに、その結果評価が上がったスター選手達は次々とフリーエージェン トで去ってしまう。しかし予算は今年通り。君の仕事はこの予算 で勝てるチームを作る事。ではよろしく。
というわけで、スカウト会議。「この業界」で何十年も生きているスカウト達があれこれ議論。あいつの穴はどうやって埋める。こいつは顔 がいい。奥さんも美人だ。そうやって「長年培われた勘と理論」で議論をする。ブラピは完全に飽きている。
「金持ちのチームが居る。貧乏チームがいる。クソが15mあってその下にうちがいる。お前らそれで勝てると思ってるのか」
GMの交渉力を生かしてトレードに活路を見出そうにも、完全に足下を見られている。しかしそんな中相手チームのGMに助言を求められた デブに気づく。あいつは何者だ?
最近のバズワードで言えば「ビッグデータの解析」。今までとは違った観点でデータを分析し、勝利に繋がる指標を設定する。打率ではなく 出塁率。その理論を最初に提案した男は今は警備員で食いつないでいる。しかし貧乏球団が金持ち球団の縮小版をやったところで勝ち目 は無い。
他のチームが見向きもしない選手を集めシーズンに臨む。しかしなかなか結果はでない。選手集めはGMの仕事だが、その選手達をどう使う かは監督の裁量権。ここの線引きの潔癖さは、いかにもアメリカ。見終わったあと気がついたがこの監督を演じていたのはフィリップ・シーモ ア。煮ても焼いても食えない監督ぶりは御見事。しかしブラピも負けていない。このシーズンが惨憺たる結果に終わり、首になればブラピはた だの高卒中年。しかも唯一実績 のある野球界では誰も雇ってくれないだろう。ヘッドスカウトは「スポーツ用品店でも巡るんだな」と捨て台詞を残して去って行った。しかし一旦決めた方向で あればそれに賭けるしか無い。
映画はそうした人々の姿を静かに描き続ける。フィクションならば
「チームは立ち直り、躍進し、ワールドシリーズ制覇!」
ということになるだろうが。
観ている間、無駄と思ったのは「選手ブラピの苦難」描写。最初にデブに電話した時の「お前なら俺をドラフト何位で指名する?」という会 話だけで彼が選手としてどのような結果をたどったのかわかる。それだけでいいではないかと思ったのだが、高校生ブラピがスカウトになんと 言われたか。それが彼の決断にも関係しているのだな、と見終わった後に気がついた。
他の人が書いた感想を読むと「いや、あの理論は信じられない。野球はやはりチームプレーで、人と人のつながりが、、」とかいうものが目 立つ。彼が実践しようとした理論などどうでもいいではないか。この映画は、困難な状況下でなんとかそれを乗り越える(あるいはくぐり抜け る)道を選んだ人間の苦闘の物語だ。レッドソックスのオーナーが言う。
「最初に壁から抜け出た人間は血まみれになる」
最後に登場する野球のプレーはまさしく「珍プレー」だ。それは「みの某」のナレーション付きで大笑いすべきもの。しかし私はそれを観な がら涙を流した。まだこれができていない。そうした未達成感から人は努力を続けるものだが、いやもう十分なんだよ、そうした言葉のように 聞こえたのだ。
ブラピが車を運転する静かなシーンで映画は幕切れを迎える。エンドロールが終わるまで席に座っている人の数はとても多かった。私はもっ と座っていたかったが。
調べてみれば、監督はかのデビッド・ボウイの息子なのだそうな。
主人公は列車の中で目覚める。ここはどこ?私は誰?昨日までアフガニスタンで任務についていた筈なのだが。目の前にはチャーミングな女 性が。あなたは誰?
とかやっているうちに列車がどかん、と爆発する。ふと我に返るとなにやら狭いカプセルの中。目の前には見知らぬ軍服姿の女性の顔が。あ なたは誰?
といったところから主人公は二つの謎に挑み続ける。列車を爆破したのは誰か。そもそもここはどこで自分は何をやらされているのか。
列車が爆発するまでの8分間だけの情報で主人公は犯人を捜さなくてはならない。おまえか、お前が犯人なのか?とか言っている間に列車が どかん。しかし何度も列車に戻る。朝の通勤電車だから雰囲気はあまりよくない。列車が10分遅れるとはどういう ことだ、と文句を言い続けるビジネスマン。売れないコメディアンはそこら中に苛立ちをぶつけまくる。もちろん一番いらだっているのは主人 公。犯人はどいつだ。事情を知らない人からみれば主人公は狂人そのものである。
しかし苦闘を通じて徐々に二つの謎が解き明かされて行く。それと共に自分が直面した運命も。それを知った上で彼はあくまでも自分の意 思で道を選ぶ。最後に主人公が列車に戻る時、その表情はとても美しい。人生はもっと美しく、楽しい物である筈だ。「悟り」を得たとも言え る彼の表情、行動、そして彼が観る人々の姿は映画を観ている側にも感銘を与えずはいられない。いつもどおり列車はシカゴに向かって走り続 ける。 その退屈な日常の風景こそが輝く生の瞬間なのだ。
そこで終わっても良かったのだろうが、この映画の制作者は更に2段の落ちを用意した。シュレジンガーの猫はプログラムが仮想的に作 り上げたものではない。この映画は主人公にとって話の終わりであり、終わりでない。この二つの状態は本当に重なっているのだ。などと考え ていたらクライマックスでにじんだ涙は乾いてしまったが、穏やかな満足感が残った。
主人公のジェイク・グレンホールは私の好きな役者さんだが、この映画での演技は素晴らしい。相手の女性はMi:IIIでトムの奥様役を やった人だそうだが、この映画での演技のほうがはるかに印象に残る。「現実世界」で主人公の相手をする軍服姿のヴェラ・ファーミガ。彼女 を「君は甘すぎる」とせっつく上司。列車に乗り合わせた名もしらぬ役者さん達。そして彼らとともに映画を作り上げた監督。
この映画の背後にある「モデル」については監督自身がインタビューで語っている。「解釈は観客に委ねる」といった投げ出し方はしていな い。この監督はどのような人生をたどってこの映画を作るようになったのだろう、ふとそんなことを考える。
ハリーポッターシリーズである。いつものごとく細かい設定は忘却の彼方である。前 作ではひたすら逃げ回っていた事だけ覚えている。
前半のクライックスは
「ハーマイオニーが自分に化けた振りを熱演するヘレナ・ボナム・カーター」
である。映画を見ている間は本当にエマ・ワトソンが演じているのかと思った。それほど声(こちらは正真正銘エマワトソンだ)と違和感が なく、びくび くしながら悪い魔法使いの振りをする演技を見せてくれる。
後半ではアラン・リックマン校長が仕切るホグワーツに、ハリー達が乗り込み反撃を試みる。名前は忘れたが猫ちゃんに化ける年配の女先生 が大活躍。こ の「最終決戦」はどこかロード・オブ・ザ・リングを思い出させる。容赦のない闘いの末、双方に大きな犠牲がでる。名前は知らないが顔を見 たことがある人が 何人も倒れて行く。
そうしたシーンを通じて流れているのは、人と人との愛情。子供を持つ身となった私としては親子の愛情を特に強く感じる。それまでかなり 強力なキャラ クターだったヘレナ・ボナム・カーターは娘を守ろうとするロンのお母さんに吹き飛ばされる。情けなさ爆発のマルフォイの両親も立場は違え ど我が子の事を一 番に思う気持ちは変わらない。そしてハリーの両親、ハリーの母親に報われぬ愛を注ぎ続けるスネイプ先生。
物語の決着を付けたのは「あなた今ま出でてましたっけ?」という「名乗っただけでその間抜けな響きに皆が大爆笑」の男だった。それは意 外でもあり、 この映画にふさわしくもある。この映画は主役3人のものではなく、多くの登場人物達のものだ。それぞれ宿命を背負いながらそれと対峙し、 そして自分の力で 歩み続ける。それは魔法があろうがファンタジーであろうが普遍的な人間の物語でもある。
そして子供達はいつしか大人となり、次の世代がホグワーツに入学し全8作、10年に及ぶ映画は静かに幕を閉じる。3部作でさえちゃんとした物語にならなかったものがいくつあっただろうか。3、4作目で危 うさを感じたシリー ズだったが、ここまでまとまったのは御見事。しかしなんだな。あの3人がここまで「成長した」ということは、こちらもそれと同じくらい老 けたということで あるな。
第一次大戦後の英国。英国王の次男、デューク・オブ・ヨークは吃音に悩まされる。王族の一員として国民に対して呼びかけなくてはならな いのに。
その妻はヘレナ・ボナム・カーター。この人が普通の格好で映画に出ているのは初めて見た。狸顔でちょっと老けたがチャーミング。彼女は 夫の吃音を直 してくれる人を捜し続けている。
カーターはある言語療法士を訪れる。依頼主がデューク・オブ・ヨークであっても自分の所にこい、と言い切る。かくしてコリン・ファース は彼の元を訪 れるのであった。
そうしている間に、父キング・ジョージ5世は最後の時を迎える。ロビ ン・フッドで もあったが、王様が亡くなるとき、というのは新王が生まれる瞬間でもある。泣いている暇などない。新しい王を祝福せねば。後を継いだのは プリンス・オブ・ ウェールズ。しかしマレー沖で日本軍に撃沈されてしまう、じゃなくて離婚歴のある怪しげな人妻と結婚するため退位してしまう。というか人 妻に惚れるのって 英国王室の伝統芸なのか。(調べてみればついこの間まで、欧州の王室で不倫だのなんだのは当たり前だったようだが)となると吃音のデュー ク・オブ・ヨーク が後を継ぐしかない。やろう。シャルン・ホルストを撃破するのだ(しつこい)
言語療法士と、英国王の間のやりとりを「予想通りの展開」という人もいるだろう。王室の人達であってもやっていること、感情は人間のそ れなのだが、 途中ヒトラーの演説シーンが挿入されたところではっと気がつく。なるほど、この人達はヒトラーとは違う種類の人間なのだ、と。
正直このあたりまでは「おまけして1000円かな」と思っていた。なのに(ちょっとおまけして)この値段を付けるのは、ジョージ6世が 行う最初の戦 時演説に感動したからだ。演説直前で緊張しまくったジョージ6世と言語療法士のやりとりが絶妙。
「結果がどうであれ君には感謝している」
とある意味パターン通りの謝意を示す王に対して、返した言葉は
"It's my pleasure"
のような決まりきったものではない。国民に根付いたジョークの伝統というのはこうしたものなのだな。
「イギリスのネズミ男」ことティモシー・スポールがノリノリでチャーチルを演じているのも楽しいし、幼いエリザベス女王は短いシーンの 中に聡明さを 見せる。私の中では今年の作品賞はソーシャルネットワークで あるが、 この作品が受賞し ても文句はない。以下細かいことをいくつか。
・一番盛り上がる演説シーンで背後に流れるのがベートーベン交響曲7番の第2楽章なのは。。気にしない?ドイツの音楽だけどそんなこと は細かなこ と?いや、英国にもいい音楽はいくつもあのだが、悲しくそして最後に少し平穏を覚える曲がないのかな。
・言語療法士がオーストリア人であることが何度か語られるのだが、彼の英語のオーストラリアアクセントは全然わかりませんでした。この 映画にでてく る英語は私にはとても聞き取りやすい。エリックを探してに でてき たそれとは大違い だ。
・映画の冒頭「駐日英国大使館協賛」とかなんとかの文字がでるので、安心して見ましょう。しかし日本語の題字のセンスのなさはなんとか
ならぬもの か。
二つの意味でこの映画に脱帽する。
第一に米国の一面を赤裸々に描いている事。エリート大学生の鼻持ちならなさ。中でも特に特権的、排他的なクラブ。そのクラブにむらがる美 しい女達。それら を頂点とする階級社会(ちなみにユダヤ人男性+アジア人女性はかなり下層にいるようだが、そのさらに下にアジア人男性がいると思う)ネッ トに接続して仕事 を始めると何も反応しなくなるNerd。大学時代からなんとか起業しようとする学生。シリコンバレーにいる奇妙でダイナミックな人達。企 業が大きくなり、 それにともない創業メンバーが無用になるという事実。弁護士を雇っての訴訟。陪審員への印象がすべてを決める裁判制度。麻薬もありの乱痴 気パーティー、そ して日本人の感覚からは想像でき ない厳しい警察の取り締まり。
それらを観ていて感じるのは、冷徹なルールの元でのむき出しの”欲望”。
彼らと彼女達の描き方は、おそらくは多くの観客にとって、痛快とも映るだろう。この映画は超エリートかつリア充の鼻を、さえない Nerdが吹っ飛ば す物語でもある。学長が言う。
”アイディアを盗まれたというのなら、別の新しいアイディアをもって起業しなさい”
それはごもっとも。それ故最後まで一人だけは訴訟を起こす事を躊躇する。しかしこの映画ができてしまったからには、あの198cm双生 児は末代まで 語られるだろう。自分たちのアイディアを自らの手でビジネスにできず、たった 65億円(×0.8)で和解した男達として。
しかし金とコンピュータに取り付かれた人間ばかりがでてくるわけではない。主人公の元ガールフレンド(エリカ様)が主人公に向かってこ う言い放つ。
”最近はみんな暗い部屋に閉じこもって、画面に向かっている”
これも一つの真実なのだ。彼女が座っているテーブルには様々な人種が座っている。その世界はハーバードのクラブとも、主人公がいる Nerdの世界と も異質 なものだ。
第二に驚くのは、そうした人々の赤裸々な姿をこれだけ興味深い映画に仕立て上げる米国映画界の力量。わかりやすいヒーロー、悪人もスー パーパワーも 出てきはしない。しか し観ている間中画面に釘付けになる。あるいは世界の至る所でこうした人々の欲望のぶつかり合いは行われているのかもしれない。しかしそれ をこのような映画 にできるのは米国だけだろう。
想像してみてほしいのだ。この映画を日本で作る事ができるだろうか?例えば
"ホリエモン一代記"
という映画はどうだろう。まず題材そのものがこの映画に出てく る人達の足下にも及ばない。さらにそれをどう紋切り型の映画にするかは想像がつくというものだ。
映画の冒頭主人公がエリカ様と会話している。このシーンだけで主人公がとても頭がいい事、それと同時にAssholeであることが余す ところなく観 客に伝わる。また私が考える名画の常として脇役も印象に残る。ストーリーの説明役を2年目の新人弁護士に任せたのはいいアイディア。主人 公と彼女の静かな 会話で映画は幕を閉じる。多様な見方をすることができ、観た物に何かを考えさせずにはいられない。必見。
世が世ならこの”トイ・ストーリー3”はもっと早く、もっとくだらない作品として世の中にでていたかもしれない。しかし今はこの作品を この形で見る ことができることを喜ぼう。
続編を作るのは難しいという。3作目を作るのはもっと難しかろう。しかし座席を立つとき私は
”お見事”
とつぶやいた。
かの米国においては、子供を大学にやる、ということは自分の元から手放す、と同義語だ。さて、かつてウッディ達と遊んだ少年-今や青年 だ-は大学に 行くため家を引き払う。彼はオモチャをどうするのか。
子供の頃一番の友達だったオモチャも、いつか振り向かなくなり捨ててしまうのがこの世の常。ではその運命に直面するオモチャ達はどうす ればいいの か。保育園に行けば毎年新しい子供たちが入ってくる。つまりオモチャにとっては持ち主が年を取らないのと同じ。そこはユートピアなのか。 いや、世の中そん な簡単な”幸せ話” は存在しない。
決して奇をてらったところはないが、脚本が見事に考えられている。後半、おもちゃたちが
”危険な状況を危機一髪で切り抜ける”
ハリウッド映画おなじみの場面がでてくる。しかしそうした”ありきたりなパターン”でさえもこの映画のテーマに沿った形で演出してくれ る。笑える場 面としては、バズが
”スペイン語モード”
になった途端、ラテンののりで女性をくどきまくるところか。あと隣に座った子供達は”トトロ!”と叫んでいたな。
なんだかんだとあった物語は、最後に美しく、少し寂しいが前向きなエンディングを迎える。しかしこの映画にでてくる青年は見事だ。うう
む。うちの子 供もこんな風に育ってほしいぞ。子どもが喜び大人が思わず笑い、泣く作品。
この映画での”指揮の演技”は、とても見られたものではない。いや、なにも出演を重ねごとに成長する玉木宏に匹敵する出来を求めている わけではな い。しかし竹中直人にも劣るというのはいかがなものか。
同じくバイオリンソロも、三木清良にはるかに及ばない。仁王立ちで弦だけ動かしてんじゃねえよ、というわけで両名は即刻特訓の上、該当 部分を再撮影 の上公開すること。というか、お願いします。そうしてください。
あと出だしの”演出”はいくらなんでもやり過ぎの気が。あんなに音ずれてたら、なんともならんでしょう。とはいっても言いたかったこと を誰にもわか るように表現しようとしたらああするしかないか。。
さて、もう悪口はありませんね。
音楽とは単なる空気の振動ではなく、それが奏でられた背景と密接に結びついている社会的な存在である。これは私が某ソフトウェアのデモ をする時に使 う枕詞である。もしこれが正しければ、この映画を観た人は、”チャイコフスキーのバイオリン協奏曲”を以前と同じように聞くことはないだ ろう。
セリフの半分以上はロシア語。ブレジネフ時代、ユダヤ人をオーケストラから排斥することに反対した指揮者は、今や清掃員として日々の暮 らしを立てて いる。支配人の机を掃除していると、パリから出演依頼のFaxが。それを勝手に奪い取った元指揮者は、オーケストラのメンバーをかき集 め、出演すべく奮闘 を始める。
という筋書きから私のような人間が想像することはもれなく発生する。メンバーを、金を集める苦労。なんとかパリにたどり着けば、ユダヤ 人のメンバは あっというまに現地に同化し、商売を始める。リハーサルはどうしてくれるのだ。
しかし最大の困難は全く思いもよらなかったところから訪れる。指揮者が指名したソリストは、イングロリアス・バスターズで有名となったメラニー・ロラ ン。彼女は自分の両親 を知らない。彼女はなぜ指名されたのか。
そこからの展開は私のような単純頭の予想を簡単に裏切ってくれる。その謎解き、そしてだらだらしがちな
”その後の彼らと彼女たち”
を演奏に重ねたのは名アイディアだ。美しい旋律と共に流れるそれらの光景は観客の心を揺さぶらずにはいられない。バイオリン演奏の演技 はお世辞にも 上手いとは言えないメラニー・ロランだが演奏中の目、そして演奏が終わった後の演技は見事だ。美人なだけではないということか。
その”美しいメロディ”の通奏低音として流れるのは、今なお混乱状態にあるロシアでたくましく生きていく市井の人々の姿。指揮者の奥さ んは”サ クラ”を集めることで生計を立てているし、元KGBのマネージャーはマフィアが銃をぶっ放すパーティー会場で匍匐前進しながらスポンサー を口説く。彼の夢 は一つ。共産主義の復活。バスに金を持ち逃げされれば空港まで歩き、60人分のパスポートをその場でさっさと用意する。その姿は滑稽でた くましい。
かくして私は予想以上の満足感とともに映画館を後にする。家に帰るとさっそくバイオリン協奏曲を聴く。
見ながら考えていたのは
”もしジョージ・ルーカスに正気が少しでも残っていれば、この映画を見たあとでStar Warsを作ろうとは思わないだろう”
常日頃”映像表現が云々などはまともな話あってのこと”と主張している私だが、この映画には素直に驚いた。
予告編を見ればストーリーはほぼ把握出来る。ある惑星に鉱物資源が豊富に存在する。海兵隊+営利企業はその上に住む異星人を立ち退かせ ようとする。かくしてドンパチが始まるのであった。
”異星人”はNative Americanとも、無数に繰り返されてきた”土地を侵略された土人ども”とも受け取れる。したがってこうしたストーリーも何度となく 映画化されたわけ だが、この映像はどうだろう。
ナウシカの影をいくつか挙げることもできるだろう。しかしこの25年の間、日本人が作ったの映像は牛歩の進み-しかも進んでいるのは宮 崎ひとり-だったのに対し、ハリウッドはここまで到達してしまった。
2 時間27分の間に、実写を少しでも用いた部分はどれだけあるのだろう。しかしいくつかのシーンを除いてそんなことを感じさせもしない。実 写か否かに 関わらず思わず息を飲むようなシーンをいくつも展開してみせる。空を飛ぶ島、惑星に生きる異星人、動物たち、燃え落ちる巨大な樹。
主人公は下半身不随となった男。しかし自分の”アヴァター”とリンクしている間は惑星パンドラの大自然の中を自由に飛び回る。映画の途 中で
”どちらが現実かわからなくなってきた”
と主人公がつぶやく。見ている観客も多くはそう考えたのではなかろうか。
陳腐なストーリーにものすごいCGといえば、最近ではStar Wars 1-3.しかしそれがいかにも”つけたしました”というCGだったのに対し、この映画のそれは見たこともないレベル。サマー・ウォーズなど見て”映像表現が素晴らしい”など と言っている輩は豆 腐の角に頭を打ち付けた上で冬の伊勢湾にダイブすればよいのではなかろうか。
この映画はこの後”新たなスタンダード”となるのだろうか。”面白い映画とは”ただそれだけをつきつめた結果がこの作品なのだと思う。
冒頭、フランスの農家にドイツの軍人が訪れる。にこやかで丁寧なJew Hunter.彼と農夫の会話はあくまでも静か。しかし柔かな言葉の裏にあるいやらしさ、恐ろしさ、緊張感に思わず前のめりになる。
おそらく多くの人の印象に残るのがこのランダ大佐だ。フランス語、ドイツ語、イタリア語、英語を自由に操り、粘着質の笑顔ですいすいと 泳ぎ続 ける。嫌悪感を通り越し強烈な存在を意識させられる。
さ て、ブラピはアメリカ軍の中尉。ナチを残虐な方法で殺す事だけを任務にしたユダヤ人部隊を率いる。1944年、彼らにある任務が課せられ る。ドイツの英雄を描いた映画のプレミア上映会。そこにナチの高官が集まる。彼らを映画館ごとの爆殺せよ、と。しかし彼らを殺そうとして いるのはブラピ達 だ けではなかった。
ゲーリング、ゲッベルス、ボアマン、ヒトラーが一つの映画館に集まっている。戦争が終わるのは翌年だから暗殺計画は、、と私のような人 間は暗 黙裏にストーリを型にはめて考える。しかしタランティーノにはそんなことはどうでもいいことなのだ。そこからの展開に唖然とする私を尻目 にブラピのテ ネシーなまり?の英語(米語か)が響き続ける。
現首相の”友愛”思想を賞賛するお子様はこの映画を見るべきではない。不愉快になるだけだと思うよ。2012でもみてな。
しかし
どんな分野に従事している人でも良い。”面白い”とはどういうことかを少しでもまじめに考えたことがある人はこの映画を見るべきだ。
この映画の登場人物達は”型通り”なんてことは勿論”一筋縄では行かない”をも通り越している。映画のお約束、あるいはお約束に対する 反抗、コメディ、史実への批判、主張、そんなものは”面白い”じゃない。タランティーノの”面白い”への追求はそんなところでは止まらな い。キル・ビルの時も思ったが映画の”嘘”をさら け出し、使える物は何でも使いバラバラにしたあげく再構成。ヒトラーですらもこの映画では”一つの駒”でしかない。
しかし最後にはすべて脱ぎ去った
”面白い”
という感情だけが残る。凄い。
最後に関係ない話を一つ。今度ドイツ人にあったら
”3って指でどうやるの”
と聞いてみよう。
3部作でさえ: マトリックスとか、パイレーツ・オブ・なんちゃらとか。3部作にはなったが、6部作にはなりえなかったスターなんちゃらとか。:本文に戻る