五郎の 入り口に戻る
日付:2008/4/1
1800円|1080円|950 円|560円|-1800 円|値段別題 名一覧 | Title Index
まず最初に悪いところをあげよう。主人公(というか主人ペンギン)の「ドツボにはまる言動」がただ観客をいらいらさせるだけに終わって いる。子供ペンギンがその言葉に傷つきいじけるところ、危機に陥った仲間がその心ない言葉で動揺するところ。それらが他の部分と繋がって いない。
しかしそれを差し引いても楽しめる映画だった。いじけて別のペンギンの群れに行ってしまった子供を、主人公は追いかけつれもどす。しか しその間、皇帝ペンギンの群れは「偶然」から生じた大きな危機に直面していた。さあどうしましょう。
人間はちょっと登場するが、決定的な役割を果たさないのがいいところ。元の危機も「地球温暖化」とは直接関係ないしね。結局話は踊る動 物達の中で閉じることになる。メインストーリーは危機に陥った動物達があれこれがんばってそこから脱出する物語。単純と言えば単純なのだ が、大人が観ても面白いと思える要素はちゃんと存在している。
まず「脱出」が一筋縄ではいかないこと。何度か「中間的」な解決策が示される。それらは当初の予想通り不十分な結果に終わる。ペンギン はどうやっても飛べないのだ。もちろん最後はHappyに終わる筈だと知っているのだが。子供ははらはら。大人は「ほう」と思って画面を 見続けることになる。
もう一つ、本筋には全然関係がないオキアミのペア。食物連鎖の底辺にいるのはいやだ、と目覚めた一個体は、様々なチャレンジを繰り返す が。いや、結局最後までオキアミはオキアミなのだけどね。この「二人」の声をあてているのは、ブラピとマット・デイモンらしい。うーむ。 なんという無駄遣い。「らしい」と書くのは吹き替え版で観たからだ。日本語はお笑いコンビが、、どうでもいいや。
全体を通して感心するのは、CG技術の異常な進歩。その細かさを観る時、エンドロールにものすごい数の人名が流れるのが納得できるとい うもの。オキアミの足が全部うにょうにょ動いているのに感動するのはオタだけなのだろうけど。
とかなんとか考えんながら、「1」を観た時よりは大きな満足感につつまれ映画館を後にする。ちなみに小学生と幼稚園児の子供達も大満足 でした。
観ている間何度時計を観た事か。退屈だったためではない
「いつこの状況が終わるのか」
と思ったからだ。誰だソダーバーグにこんな映画撮らせること考えた奴は。
映画は"Day 2"という字幕から始まる。何人かの様子が映し出される。げほげほ、と風邪のような症状。あら、グィネス・パルトロウお久しぶり、と思っていたらいきなり 死んでしまった。それを告げられ
「わかった。妻とはなせるかな?」
と医師に向かって言うマット・デイモン。それほど彼女の死は突然だったのだ。呆然と家に帰る途中今度は彼女の連れ子が同じ運命を辿った 事を知らされる。これはどういうことだ。
同じ頃世界各地で謎の死が相次ぐ。これはただ事ではない。CDC(米国の疫病対策なんちゃら?)の責任者はローレンス・フィッシュバー ン。ホメオパシーを信奉し、デマを流し続けるのはジュード・ロウ。CDCはほぼ完全に真実を話す。ジュードロウは一つを除いてでたらめば かりインターネットで流し続ける。しかしその「一つ」のおかげでジュード・ロウには1200万人のサポーターがつき、フィッシュバーンは 査問にかけられる。
彼の命令で調査に赴くのはケイト・ウィンスレット。てきぱきと見事に職務をこなしているが。。
後から考えれば登場人物の多さ、それにそれぞれが芸達者なことに気がつく。またそれだけ多数の人間が交錯する物語であるにもかかわらず
「あれ、これ誰だっけ」
とならないもの見事だ。しかしそれは後から考えて気づく事で、観ている間はただひたすら「早く終わってほしい」と願い続ける。流れるデマ。政府は真実を隠しているという叫び。略奪、暴行の蔓延。それは映画の中の絵空事ではない。この国に住んでいる多くの人はそれを身を もって経験してはずだ。(略奪、暴行はあんまりなかったけどね)DHMOは危険です、という笑うべきTweetに「即刻謝罪するように」 とかみつく人が出、それに何百人も「支持します!」とサポーターがつく。それが現実というものだ。
キャス ト・スタッフとも一流のプロをそろえてこういう映画を作ると、、、余計なシーン・台詞を一切排除し、連続する映像で静かに語りかける。悪夢にでそうだ。
という真面目な感想は別として、この映画におけるパルトロウの扱いはすごい。もともとあまり奇麗なメイクではないのだが、発病後はスッピン以下の顔を連続してさらし、最後は頭蓋骨ぱかっ、頭皮べろんちょ、である。彼女に比べればまだウィンスレットはまだマシか。いやすば らしい。
最後に少しだけ心温まる人間らしいエピソードを入れているのが「映画」たる所以。しかしここを観て心底ほっとしたのも事実。最後に明かされるDay1の様子はこれが絵空事ではなく、明日にも起こりうることを示している。上映後、誰かが咳をしただけで身が縮むような思いをする。
X-MENシリーズの「そもそもの話の始まり」を描くスピンオフ作品との事。同じくスピンオフの「ウルヴァリン:X-MEN ZERO:」には失望したので、大し て期待もせず見に行った。
ポーランドのユダヤ人収容所で、異様な能力を発揮する少年。彼を残酷な方法で見いだしたドイツ人医師。なぜ少年はその力を医師に向けな いのか不思議 に思うが、気にしない事にしよう。
同じ頃の米国。夜中に変な音がする、とキッチンを覗いた少年は、変身する青い少女と出会う。それから月日は流れ幾星霜。少年は遺伝子の 突然変異に関 する専門家となり教授になろうとしていた。一方米軍に関係する不審な動きを監視しているCIAエージェント。どうも米ソの関係が怪しいと 思ったら黒幕は実 は例のドイツ人医師でした。CIAと教授率いるミュータントはそれに立ち向かおうとする。などと複雑な設定がテンポよく収束している様を みているうち 「ひょっとしてこれは意外な傑作か」と思う。
しかし残念なことに途中「ミュータント訓練学校」ができるとこで少し中だるみがでてしまったようだ。とはいえこの映画に描かれている キューバ危機は それなりに面白いし、
「なるほど。これで何故プロフェッサーが車いすなのかわかった」
という3部作への辻褄合わせも、にやりとする程度に自然にやってくれる。
見終わって調べればキックアスの監督だったか。不幸にして最後少しだれるところまで似なくてもいいのに、と思うのは贅沢な望みか。続編 を作るに十分 な数のミュータントは用意しているから、まだスピンオフは続くのかもしれん。しかしなんだね。青い裸のネーチャンことミスティークってマグニートと同年代。と いうことはおばあ ちゃんじゃないか。
予告編を見る。ブロンドの美少女が、へそだしセーラー服 で日本刀を振り回している。オタの妄想もここに極まれりか。というわけで「オタの妄想 陳列映画」を予想して見に行った。
母が亡くなり、遺産を独り占めしようとする養父に妹を殺される。主人公はその罪を着せられたあげく、精神病院に放り込まれる。「記憶を 消す」ための ロボトミー手術まであと5日。そこでは劇を演じる事 による精神病の治療が行われていた。
ここでいきなり舞台が転換する。少女の妄想の世界に入り込むのだ。少女達はキャバレーの踊り子。客に「踊り」を見せることを要求され る。新入り踊っ て見なさい。
主人公が踊り出すとき舞台は再度転換する。この世界ではありとあらゆる「闘い」が行われる。背中に背負った日本刀で鎧姿の巨人と闘い、 第一次世 界大戦の塹壕戦でゾンビのドイツ軍を倒し、中世の攻城戦にB-25から降下し、ドラゴンと戦う。
その「オタの妄想」を見ているうち考える。例えば、日本人オタの妄想陳列映画、キャシャーンとの差異はなんなの だ。一つはその妄想 の突き抜け方。自分が好きなものだけをぎっちり詰め込んだ世界を作り上げた上に、中学生的な大義名分をつけるようなことはしない。しかし それだけではない ようだ。同じ米国産のオタ陳列映画ースカイ キャプテン-ワール ド・ オブ・トゥモローーとは何かが違う。
戦闘が終わると、一段上の妄想に舞台が戻る。少女達がここから出るためには5つのアイテムを集める必要がある。主人公が「踊る」ことに よって男達の 気をそらし、 その隙にアイテムを盗むのだ。ちょっとまて、この「戦闘妄想シーン」も悪くないがあと4回繰り返すのか。ちょっとうんざりするが、居眠り しないだけの変化 はつけてあるので安心しよう。途中まではうまく行っていた計画だが、事が露見し、仲間は次々と倒れて行く。いや、オタの妄想映画だから最 後はなんとかなる のだろう。
少女の妄想が終わり、現実世界に戻るのはロボトミー手術が行われたその瞬間。手術後の彼女がつれられていく途中、妄想の中で少女達が 行った「アイテム集め」が現実の物だった事を知る。ではキャバレーで主人公が見せていた「踊り」とはなんだったのか。それによって気をそらしていたの だから、大暴れす るとかそういうことなのかな。見ている間はそう考えていたが、その後このレビューを読みおそらくそうなのだろうと思うに至った。
夢想の【煉獄】で男たちを魅了するために行われるダンスが、もうひとつの 夢想の【地 獄】で"戦い"であること。それは、現実世界【現世】で、主人公の少女 が、あるいは仲間の少女たちが、男たちを魅了し、虜にする行為――端的に言うなら、"自らの性を男たちに捧げていた"ことに他ならな いのではないか
そうでなければ、「悪医師」が主人公と最後に二人で対峙したときのシーンの説明がつかない。
全くのバッドエンドではないが、能天気なHappy Endでもない。終わりにナレーションが流れる。
自分を束縛しているのも、そこから解き放つ鍵を持っているのもあなた。さあ戦いなさい。
それは平凡なメッセージとも言えるが、この映画の制作者は「オタク趣味の陳列会」を正当化するためにその台詞を借りてきただけ、ではな さそうだ。少なくとも私にはそう思える。
一体全体この映画を日本語吹き替えメインで公開しようと決めたのはどこの馬鹿だ?お気に入りの声優を使いたかったとか、、まさかそんな 情けないオタの理由じゃ ないよね。
イーストウッドも老境にはいり「くだらん説明」をする気がなくなった、ということなのかもしれない。
Paris,London,San Fransiscoにいる3人。バケーション中にTsunamiに襲われ臨死体験をしたキャスター。一卵性双生児の兄を交通事故で失った 少年。それに、死 んだ人間と会話する事が「できてしまう」マット・デイモン。
キャスターは危うく生還したはいいが、仕事を「一時休業」し、本の執筆に取りかかる。最初の構想はミッテラン大統領について。しかし臨死 体験が脳裏から離 れない彼女はそれについて書き始める。一卵性双生児の母親は麻薬中毒。頼り切っていた快活な兄に先立たれどうすればいいのか。そしてデ イモンはかつては「イタコ」を職業にしていたものの、もうその仕事はこりごりだと思っている。
映画を見ている方は考える。この3人をどうやって結びつけるのだ。途中でデイモンが「ディケンズの大ファンだ」と言っていた事がキーにな る。
この3人の出会いはほとんど「すれちがい」とでも言うべきものだ。しかしその一瞬のすれ違いは彼らの人生を変える。しかし何故変わった か、どう変え たか をくだくだしく描写はしない。ちょっと偏屈な老人がキーワードだけ口にし、後は何を聞いても教えてくれない光景が頭に浮かぶ。だから人に よっては最後を
「投げっぱなし」
と取る人もいるだろう。
この映画のサイトにイーストウッドがこの映画に込めた思いが書かれている。
「死後の世界があるかどうか、真実は誰にもわからない。ただ、人は誰も与えられた人生を精一杯生きるべきだと、僕は常に信じている」
私がこの映画をみて感じた事もまさにその通りだ。死後の世界はあるかもしれないし、ないかもしれない。実は
「苦労して生きているのが馬鹿馬鹿しい」
ほど素晴らしい場所かもしれない。しかし一つだけ確かな事は、人間はその事について何も知らないということだ。であれば、今ある命を生 きるしかない ではないか。
この3人が同時に顔を合わせるシーンはなかったと記憶している。なのになぜ少年はデイモンに元キャスターを引き合わせようとしたのか。 (実際デイモ ンも「なんなんだ」とつぶやく)デイモンとキャスターが最後に握手するところだけ、
「手をふれると自動的にイタコ状態」
の音がならない。それは何故か、とか頭の中でぶつぶつ考えるのは楽しい。説明のない断片的なシーンから観客が何かを考える。それでいい ではないかと 思えるのだ。所詮人間は自分が考えたことしか頭に入りはしない。そう考えるとイーストウッドはだんだん宮崎某のようになりつつあるのかも しれん。
Wiiには似顔絵を作る機能がある。息子が作ってくれた”私”はよくできていた。顔のシミと無精髭を忠実に再現しているところを除け ば。
先日娘が”改訂版”を作ってくれた。彼女の冷徹な観察眼によって作られた顔はよりリアルである。目は小さくなり、顔全体はふやけたよう になり、白髪 だ。彼女が作った”じいちゃん、ばあちゃん”と同世代に見える。
”前のは間違ってる。お父さんの髪の毛は黒じゃなくて白”
とのこと。つまり主観的にどうであれ、客観的にみればもう初老と呼ばれる年なわけだ。
あまり直視したくない事実だが、この映画を観た後では
”そうだよ。それが何か?”
と言いたくなる。
”REDとは”引退したけどとっても危険”の略。つまるところ困ったじっちゃんばっちゃんである。映画の冒頭ブルースウィリスが電話で 年金係の女性 としゃべっている。用事は30秒ですむがお互いそれだけでは終わらせたくない。最近どう、から始まってぎこちなく楽しい会話が進む。電話 を切った後
”なんであんな馬鹿な事を言ったんだ”
とつぶやいたりもする。60すぎてもこういう場面ではティーンエージャーと変わるところはない。このシーケンスだけでも十分”裏切られ た”思いがす る。いや、だって設定と出演者をみればいつもの能天気空っぽ映画だと思うでしょ。
一日の出来事といえばそれくらい。年金生活者の静かな一人暮らし。そこに正体不明の男達がものすごい火器をもって侵入し、さらにはウィ リスがあっさり彼らを撃退するところから話は動き出す。そもそも彼らを狙っているのは誰なのか。調べればNew Yorkで記者が謎の死を遂げたとか。その件と関係あるのか。
マンデラ大統領から悪の親玉@いいかげんなアクション映画までなんでもこなすモーガンフリーマンはこの映画でもご機嫌だ。偏執狂のジョン・マルコ ビッチもいいし、おばあちゃんv.s.シークレットサービスの場面でも笑いが起こってたな。
その一向に巻き込まれた(というか自分から飛び乗った)のが年金係のお姉さん。年をとってはいるし、絵に描いたような美人ではないがな かなかチャー ミング。あとCIAのおにいちゃんも気に入った。顔かたちはどことなくフレンズのジョーイ・トリビアーニに似ているのだが、険しい顔つき の中にも可愛らし さが伺える。
すったもんだのあげく話は収まるところに収まるのだが、最後近くまで全体の筋書きは見えないし、人は(少なくとも顔がある人は)無駄に死なないし、 観ているうちに楽しくなる。
次のミッションへのフリがあるから、”おっと早くも続編決定か”と思ったがエンドロールの前にあっさりその場面が登場する。いや、もっ と真面目に続 編作ってください。まだ2−3本とれる時間はあるでしょ。必ず見に行きますから。
この映画はアメコミが原作のようだ。アメコミに関しては”能天気な勧善懲悪”、というものすごいステレオタイプのイメージをもっていた が、こうした アメコミ原作の映画を見る限りそうではないのかもしれぬ。一度読んでみるか。
もちろん我が国が誇る漫画文化の中にもこれらと同じように面白く、そして考えさせる作品はあるのだろうけど、それを元にした映画は、、 比較する気に もならない。
スーパーヒーローにあこがれる人は多いが、なぜ誰もスーパーヒーローになろうとしないのか。バットマンなんてコスプレした只のおじさん だけど、スー パーヒーローになってるじゃないか。
そう思い立った”普通の”高校生(ただしイケメン)コスチュームを買い込み悪を退治しようと活動を始める。そこで同じくコスチュームを まとった父と娘に出会い、、
観ているうちに”これはタランティーノ作か?”と思い出す。ふっとんだ面白さ、音楽の使い方がどこか似ている。最近いい人の役が多いニ コラスケイジ も楽しそうに
”復讐に燃える頭のネジがゆるんだオヤジ”
を演じる。
オチとなる”30万ドルの兵器”がいまいち弱かったり、ヒロインよりもその友達のほうが可愛いではないか(少なくとも日本人好みではあると思う)、 なぜその可愛い女の子がナード友達とくっつくのか、とか細かいところはいろいろあるのだが、”楽しんで”観ることができた。
とはいえその”楽しさ”に一点の曇りを感じたのも確か。最後に主人公が悪の親玉(最近あちこちでお会いしますな)をバズーカで吹っ飛ば す。あれ、殺しちゃうの?とひっかかった。やはり、タランティーノほど突き抜けていないからなのか。
登場人物は皆印象的だが、中でも映画の中では11歳、実年齢12歳のヒットガールが実にキュート。彼女は今後どんな風に成長していくの かな。
ちなみに
Native speaker of Englishとおぼしき二人連れが”俺は彼女が大人になるまで童貞を守る”という日本語字幕のところで馬鹿笑いをしていた。あちらの方 にしかわからないギャグがったのだろうか。
毎度のことだが、このシリーズを観る時は
”そもそもどんな話だっけ”
と記憶を呼び覚ます必要がある。あれ、校長先生って死んだんだっけ。スネイプ先生、きっちり悪い人になってるけど 背景どうだったっけ。英国映画でおなじみのビル・ナイがでてきたと思ったらあっというまに死んじゃった。(らしい)
とかなんとかやっているうち、固有名詞とかばんばんでてくるが覚えちゃいない。細かいところを抜かせば本作は
”この世を支配しつつあるヴォルデモートからひたすら逃げる3人組の逃亡劇”
かと思う。
というわけでおそらくは英国の美しい辺境風景オンパレードである。そのなかでひたすら頭をひねったり逃げまわる3人の姿は悪くない。暗 いトーンのス トーリーだが、適度なギャグが見ている側を救ってくれる。いままでのエピソードでは明らかに膨大な原作を短く詰め込んでいたが、今回はそ うした無理をあま り感じない。
しかしそれで1080円をつけるほどよいのか?と問われればこう答える。エマ・ワトソンが良い。あのちょっと個性的な顔つきの女の子 が、エキゾチッ クな美人になったなあ。場面によってはブスに見えるのだが、他の場面ではありきたりではない美人に見える。ハリー、ロンも役にあった成長 をしたと思うが、 一番笑えるのがマルフォイ。美形悪役の少年時代の面影はどこへ。実に情けない容貌になったのだが、役にはぴったりと合っている。そういえ ば、何作か前で私 のお気に入りだったエキセントリックな女の子もでてきたが。。。
大人になった元少年少女達にもそれぞれの道があるのだろうな、とかそんな余計なことを考えているうちお話は唐突に終わる。PART1で ここまで一方 的にや られたのだから、PART2ではさぞかし反撃の連続になるのであろう。今から楽しみだが、できればもうち少し早く公開してくれまいか。ま た”そもそもなん だっけ”から始めるのは ゴメンである。
この映画のテーマは、最後の方にセリフででてくる。曰く
"息抜きが必要なんだよ”
結婚前に男だけで騒ごう、と仲良し3人+嫁の弟がラスベガスに行く。皆で乾杯した次のシーンはホテルのスイートルーム。いろんなものが 散らばり、ト イ レにはトラがいる。歯科医の歯は一本抜けているし、赤ちゃんの鳴き声がする。そして肝心の花婿(候補)の姿が見えない。ちょっと待て、昨 日何をやったん だ?
そこから”探求の旅”が始める。手がかりをたぐってたぐってようやく前進したかと思えば、中国人のマフィアが襲ってくる。こいつらと何 があったの か。
馬鹿なことを真面目にやらせると米国人の右にでるものはいない、と常日頃思っているが、この映画はそうした私の信条と見事に合致する。 コメディと分 類される映画であり、上映中も笑い声が響くのだが、そういう馬鹿映画ほど真面目に作らなくてはならない。脚本はよく考えられており、最後 まで結末は見えな い。
しかし最後の”まとめ”は実に綺麗にはまる。そこであらためて気がつく。登場人物はみな”ちゃんとした人たち”で、この映画はその人た ちが、” ちょっと息抜きにハメを外した”騒ぎだったのだ。個人的には二枚目の小学校教師が、眠ってしまった子供をだっこしながら友達と会話する シーンが気に入っ た。
登場人物はみな好演しているが、ストリッパー役のヘザー・グラハムがキュートかつSexy。しかし彼女のヌードにキャーキャー言うよう なお子様は すっこんでろ、の大人が観るべき映画である。日本では”出演者が無 名だからヒットが見込めない”と かいうとんでもない理由で公開が流れそうになった、とのことだが、日本に映画を持ってくる人 間は一度死んだほうが いいのではないか。米国でものすごく悪評のエアベンダーの宣伝なんかやってる場合じゃないだろう。
予告編を見る。ラグビーワールドカップまで一年というのに、南アフリカは国際試合で惨敗する。しかし話からして一年後には彼らが優勝す るに決まって いるのだ。
と いうわけで映画のお約束としてこんな話になるのだろう。まず人種対立があるが、それを乗り越える。鬼コーチが来てチームを鍛え直す。ワー ルドカップでは” 予想外”の快進撃を続ける。さあ、明日は決勝だ、というところで思わぬ問題が持ち上がる。案の定決勝は苦しい戦いとなる。しかし後半にな り、チームの心が ひとつの奇跡を呼ぶ。そしてあのダメチームは奇跡の優勝を成し遂げるのであった。。
この映画にはそうした要素がひとつもない。秘訣もなければ必殺技もない。代わりに存在しているのは、ネルソン・マンデラである。おそら くこの映画の 製作者は、その姿を真面目に、丁寧に描けば私が妄想したような映画のお約束事は不要だと考えたのだろう。
27 年自分を投獄した白人”ども”ではあるが、彼らは祖国を運営していくのに必要不可欠。マンデラは南アフリカの大統領として、私怨を超えた ところ で天下と対峙している。そしてアパルトヘイトの象徴と思われていたラグビーチームの名前、カラーをそのままに、新しい南アフリカの象徴と してワールドカッ プ制覇を期待する。
モーガン・フリーマンの演技がすばらしい。みているうち
”これに引換え我が国の政治屋は”
と何度も思うことになる。
"I am the master of my fate:
I am the captain of my soul."
などと字面で見れば”ケッ”と思うが、27年投獄されそれでもくじけなかった人間の口からでればデイモンならずとも何かを考えるわけ だ。(ちなみに この詩はオクラホマシティ連邦ビル爆破事件で死刑になった犯人も遺書の中で引用したらしいが。)
かくして映画は実在の人物とシーンを映しながら静かに終わる。(映画らしいことは)何も起こらなかったのに何かを観客の心に残しなが ら。さすがは イーストウッドというべきか。
とほめながら、スタジアム上空を飛ぶ飛行機のシーンは、演出、映像ともに稚拙だった。あれはいったいなんだったのだろう。(元となる事 実はあるらし いが)
私はアニメーションの作画だのなんだのには関心をよせない人間だが、この映画の映像表現には素直に驚いた。やたらと空をとぶのだ が、下を見下ろしたとき、思わず◯◯が縮んだ。人間の顔も、デフォルメされているにもかかわらずとてもリアルだ。人間の顔をキャプチャす ることに命をかけ ている某監督はこの映画を100回みて出直 すとよい。
すべての登場人物がとても生き生きとしている。特に印象深かったのは犬だ。しかられてしょんぼりと立ち去る後ろ姿。喜んで飛びついてく るところ。こう文字で書いてもなんのことかわからないだろうが
あと子供だけでなく大人も最後まで笑い声をあげていたのにも驚いた。子どもが笑うツボというのは確かに存在し、私などが寝かかっている 映画でも、そ のツボが登場すれば子供は笑う。しかしこの映画では大人も思わず吹き出すようなシーンがいくつかあった。というように構成要素には大いに 驚かされたのだ が。
冒 険家にあこがれる少年が、廃屋で少女と出会う。そこから二人が結婚し、、、今や老人となった少年がひとりで家に座っているところまでが一 切セリフなしで映 し出される。このシーケンスは見事(大人がちゃんと意味を読み取ると、結構つらいのだけど)立ち退きを命ぜられた老人は家ごと”伝説の 滝”を目指 す。
2/3くらいまでは”これはどうなってしまうのか”とずっとわくわくさせる素晴らしいストーリーだった。しかし”悪役”がはっき りしてしまってからはは普通のハリウッド映画のようでがっかりした。いや、つまらないというわけではなないのだよ。それまでがあんまりわ くわくだったもの だか ら”普通の悪役退治”に失望しただけで。
というわけで満点から少し割り引いてこの値段にするわけだが。
ここで話は少しそれる
今年のアカデミー賞でこの映画とぶつかるであろうポ ニョと の比較は興味深い。かたや3Dでかたやクラシックな手描きの絵で映像表現を極めようとしている。かたやハリウッド流の正統なストーリーを 磨き極めようと し、かたやロジックだの思惑だのふっとばして監督個人の妄想全開ストーリーを作る。方向性の異なる二つのアプローチがそれぞれ花開かせる のを見 ることができるのは幸せなことだ。
最近邦画に絶望している私がなぜこの映画をみたかと言えば、時間にあうのがこれだけだったからだ。しかしこの映画、いろんな場所でいつ までも上映しているな。
ペンギン、アザラシはもとより細菌すら生息できない南極のドームふじ基地。一年以上にわたって8人の隊員がそこに駐在する。ひょんなこ とからそこで調理を担当する事になった男が主人公。
後から振り返れば冒頭のシーンだけが飛び道具だったように思う(あるいは実際にあったことかもしれないが)しかしそれが脱力した結果に 終わるところからしてわかる通り、この映画にはとりたて筋が無い。強いてでっちあげるとすれば
”任務半ばにして緊急事態が隊員を襲う。南極料理人はこの危機を乗り切れるのか!”
ということになるが、その緊急事態とは
”夜中にラーメン食べる人が多いから、ラーメンがなくなりました”
というものだ。
か ように映画らしいイベントはないのだが、映画が終わる頃には、登場人物と同じように顔をしかめ、笑っている自分に気がつく。派手さは少し も無いが8人(+ 他の役者さん達)のむさくるしい男達は見事な演技をしていたのだろう。日本に役者はいないのか、など と言っていた自分の不明を恥じる。後でサイトを見れば、ほとんどが演劇出身の役者さんのようだ。日本映画に必ずでてくる(とこの映画をみ るまでは思ってい た)誰かが泣き叫び、つまらない台詞をしゃべるシーンはこの映画に入りようが無い。いや、素晴らしい。
観ていて痛かったのは”遠距離恋愛”をしている男が電話でつれない応答をされるところ。記憶の奥底から”ああ、この受け答えは”という 声が聞こえる。そして頭の別の隅からは
”いいなあ”
という声が聞こえる。メールもなく、細かくあれこれ言われることもなく。ただ日々の暮らしと、仕事に直面する毎日。Mid Winter祭りには”こんなもの持っていっていたのか”と思うようなスーツ姿で神妙にディナーを食べる。映画の中でも環境になじめる男 と、そうでない男 がでてくる。私は断然前者だ。独身のころだったら2年でも3年でもここ にいたいと思うがな。
そ んな日々もいつしか終わり、日常の風景が戻ってくる。コンビニで立ち読みをする生活が少しの違和感と、圧倒的な慣れをもってやって来、そ れとともに映画も 終わる。何がおもしろかったのかうまく書き表せないが、時間と金を費やしてみた価値は十分にあった、という満足感とともに。
しかしなんだね: とはいえ、元ミサイル技術者としては、「米ソ連合軍の攻撃」 につっこまず にはいられない。艦隊からありとあらゆる兵器が飛んでくるのだが、砲弾はいいとして、当時影も形もなかったハープーンやらトマホークが混 じっているのはい かがな物か。 本文に戻る