五郎の 入り口に戻る
日付:2011/12/28
1800円|1080円|950 円|560円|-1800 円|値段別題 名一覧 | Title Index
今日の一言:御見事
というわけでアイアンマンである。一作目はすばらしく、2作目はどうしようもなかった。さて3作目はどうだろう。予告編は妙に陰気であるが。
美貌の植物学者の必要性が今一わからないところとか、副大統領が国を裏切るのがそんな理由でいいのか、とかそもそもケロンパことパルトロウのどこがそんなにいいのだ、とかいろいろ問題はある。しかしそれらを全て差し引いても楽しませてもらった。その腕前には率直に敬服しよう。
アベンジャーズで悪い奴らをやっつけたのはいいが、トニー・スタークはそのトラウマによるパニック障害に悩んでいた。(ちょうどこの映画をみる前にパニック障害に悩む人のブログを読んでいたのは正解だった)ところが悪い奴は容赦なくやってくる。アメリカを標的にしたテロをしかける「マンダリン」とかいう悪い奴がいるのだ。
その男を演じているのが、アカデミー賞男優のベン・キングズレー。サーの称号を持つ男の「駄目人間っぷり」が素晴らしい。劇中の設定ではなく、本当にばりばりのシェークスピア俳優らしいのだが、いいのかこれで(褒め言葉)
アイアンマンは確かに強いのだが、それでは話が面白くない。というわけで今回は適役として「高熱ゾンビ」のような奴がわらわら出てくる。これは駄目か、と思ったところで一発逆転をする時のキーとなるのが...いや楽しい。首のシワは観なかったことにしてあげよう。(以前白人女性が「あたしは年いってるけど、首は20代よ」といっていた理由がようやく理解できた)
スーツを全部脱ぎ捨てたトニー・スタークが
I am Iron Man.
というところは私のような凡人にもぐっと来る。これじゃ話はおしまいじゃないかと思えばちゃんと最後に
Tony Stark wil return.
と字幕がでるから安心しよう。
毎度の事だが、アメコミ原作のヒーロー映画に見られる「工夫」には常々感心させられる。必ずハッピーエンドになるとわかっていながら笑わせたり、すかっとさせてくれる。マーベル作品シリーズは今後も次々リリースされるらしいが、この出来なら期待が持てる。さて、次はソー2か。
今日の一言:男はやっぱり体力
今日の二言目:古典はやっぱり強い
ミュージカルを米国で見た事がある。何をいっているかさっぱりわからないが感動してサウンドトラックを買いました。
それから月日は流れ20年。ようやくどういう話かわかった。というわけで「ああ無情」である。最後のシーンまでは950円だと思っていた。悪くないのだが、画面の切り替えが頻繁、かつ急におこり目がちらちらする。こういうのは背景を抽象化する演劇のほうがいいのかもしれん。異なる3カ所にいるはずの登場人物が舞台の上で並んでいても、演劇なら違和感ないもんね。おなじみの曲が流れてもすぐ場面が変わるのであまり余韻に浸ることもできん。
つまるところ「演劇を映画にするのは難しいなあ」といういつもの感想に終わるのかとも思っていた。特にアン・ハサウェイ演じる母親のシーンが妙にグロく、浮いているような気がするし。これは演技力の問題かそれとも演出か。
しかし映画のクライマックスに向け、登場人物の配置及び時系列が収束していくにつれ、そうした雑音が聞こえなくなる。そしてジャン・バルジャンが息を引き取るところでは少しジーンとする。ここらへん、小説と演劇として磨き上げられてきたストーリーはやはり強い。
強いといえば主人公である。死が目前に迫った年齢でも、若者を担いでパリの下水道を動き回らなくては男とはいえん。やっぱり体力だよなあ、と我と我が身を振り返る。なんたってウルバリンだからなあとかいっている場合ではない。ヒュー・ジャックマン好演である。ラッセル・クロウは悪くないが最後の葛藤がよくわからん。演技のせいか演出のせいか知らぬが。コゼットを演じるのはマンマ・ミーアの人。この映画で一番よかったのが彼女と金持ちぼっちゃんが出会う「一瞬息が止まるようなシーン」だった。決して美人ではないのだが大変チャーミング。役にはまっていたと思う。役にはまっていたといえば
「この役をあなた以外の誰が演じるのだ」
というのが、ヘレナ・ボナム=カーター。いかがわしい飲み屋の奥様をいつもの怪演である。
という具合に見所もあるのだが。周りに「見て号泣した」という知り合いが二人いるのだが、私は号泣しなかった。最近はどんな歌声も作り出せるから、ラッセル・クロウが朗々と歌ってもそれほど感動もしない。結局あの学生達の「蜂起」はなんだったのだ。それが映画のラストシーンだったのもどこか唐突だったなあ、少なくともこの映画ではそう感じた。
今日の一言:ノーカントリーの人が怖い。
007である。前の人の時はお約束の固まり、新春隠し芸大会のようだったが、今の人になってから俄然面白くなった。
映画の冒頭、PCのハードディスクが奪われる。最近であればさっさとネット上のストレージに送れよ、とも思うがそれではスパイ映画が成立しない。というわけでトルコを舞台におっかけっこが始まる。
でもって誤射によりボンドは命を落とす、、はずなのだがずいぶん簡単に復活したな。そもそもハードディスクを奪ったのは誰なのか、そして彼の目的は。
というわけで悪の親玉はノーカントリーの人である。怖い。実に怖い。異常性と知性と確固たる意思が一つの役柄に現れている。あれこれやった末軍艦島としか思えない場所であっさり捕まえた、と思ったらやっぱりそれではすまない。
その昔007は女を口説きまくっていたようにも思うが、今の007にそんな要素はない、、とは言わないがほんの付け足しだ。アジア系のお姉さんがでてくるが、それは一つの脚注にすぎない。
親玉はボンドの上司でもあるMに恨みを抱いている。そのMはハードディスクを奪われた責任を追及される。しかし彼女の「弁明」は素晴らしい、とともにこの映画の重要な要素になっている。今や敵は誰なのか、国境はどこにあるのか定かならぬ状態だ。政府が守ってくれる?本当にそうなの?そうした状態で身を守る唯一の方法は自ら戦う事。
そこでこの映画の題名が明らかになる。寒々しいスコットランドの風景をバックに戦いが始まる。それはどこか物悲しい。
新春隠し芸大会だったころの007のガジェットも登場しちゃんと活躍の場を与えられる。過去の遺産に敬意を払いつつも、新しい007像を提示する。いやすばらしい。
とかなんとかいいながら、実は英語だけで見たので細かいところはよくわかっていないのであった。それでも良い物は良い。Wikipediaを読みふむふむいいながら、既に次回作が楽しみになっている。
あらすじ:イランから大使館員を救出します。
カーター大統領のとき、イランから大使館員を救出しようとした軍事作戦が惨めに失敗した。しかしそれは話の全てでは無かった。
この映画を見ると、イランという国が、なぜ現在のような状況にあるのかを調べようと言う気になる。などというのは今の日本で考えること。当時はそれどころではない。革命が起こり、民衆はアメリカ人を見つけては殺そうとしている。連日デモが続きとうとう米国大使館が占拠された。
この時、大多数の大使館員は拘束されたが6人だけ別ルートで逃げ出した。カナダ大使が私邸にかくまってくれたが見つかるのも時間の問題。どうやって救出しよう。英語学校の教師にする、自転車で国境に向かうなどあれこれ考えた末
「カナダの会社がSF映画を撮影するので、そのロケ地視察に訪問する」
ことにした。行くのはベン・アフレック一人。帰るのは7人である。
イラン文化省は、全員つれて町中を案内するという。このシーンで自分の胸がどきどきしていることを知る。カナダのバッチをつけたところで、まわりは米国人を殺したい人で充満しているのだ。映画だから、最後がハッピーエンドになる、とは思う。しかし本当に脱出できるのだろうか。後から考えれば、ただの町中視察なのだが、その緊張感はすごい。
しかしそのあとがが駄目。これでもかと繰り出される「危機一髪」の演出にシラけてしまった。
助けにきたアフレックに、あんたは信用できない、と文句を言う大使館員とかはよかった。作戦にCIAが関わっていたなんて言った日には大騒ぎになるから全ては「カナダの勇気と好意」のためになったのもリアリティがあってよい。元がドラマチックな話だから素直に作ればとっても面白い話になったと思うのに何故あんなに「危機一髪」をつけようとしたかな。ソダーバーグに頼んでリメイクしてもらってはどうだろうかなあ。
エンドロールで実際の人物と役者の顔が並んで映し出される。アフレック以外は怖いくらいに似ている。アフレックの顔を見ていて草刈正雄に似ていると思った。彼は「実在の人物」にしてはハンサムすぎる。当時私は高校生だったはずだが、なーんにも知らなかったことにちょっと唖然とする。
鬱病になったメル・ギブソン。とうとう家から追い出される。もう駄目。鬱だ氏のう。
ところがその瞬間、左手にはめたビーバーのぬいぐるみがしゃべりだす。というかぬいぐるみを通じてメル・ギブソンがしゃべっているの だ。ここらへん、役者冥利に尽きるというやつであろうか。
かくしてビーバーとともに自分の家に戻る。奥さんはジョディ・フォスター。最近「あまりアップをみたくないなあ」と思ったが途中までは 綺麗だった。 息子は二人。多分小学生1年くらいの子と大学進学を控えた高校生。ビーバーとお父さんが帰ってきて小学1年生は大喜びだが、高校生は「完全にいかれたのか」と拒絶する。しかし長男以外はなんだか幸せそう。
そのまま「奇妙な家族」ができあがるのか、と思えば。ジョディ・フォスターは「私が願う”あなた”になれ」と強要しだす。それこそが正しい姿だと。そういわれた時のメル・ギブソンの反応は見事。同じ頃平行して長男は学校一の秀才兼チアリーダーとデート中だった。彼女の
「卒業生挨拶」
を代筆してと頼まれたのだ。
そこから男二人の道筋は暗転していく。しかしそれは避けられなかったもの。一番大事なものから目をそらしてはいけないよ、と制作者は言 いたいのだろうか。それは長男(およびチアリーダー)には当てはまるにしても、ジョディ・フォスターといることは本当にメルにとって、良いことなのだろうか?気に入らなければまた放り出すだけだし。こっからジョディ・フォスターは最近の「とんがった顔の女」に見えてくる。
と、こうして文字に起こしてみると、結構複雑なストーリーだったことに気がつく。それを91分におさめ、かつ観客に無理なく解らせる手腕は見事。というかこのcreditは誰に行くべきかよくわからん。
最後のシーンが、長男とメルの抱擁であり、フォスターはそれを離れたところから見ているのは、妥当とも言える。映画の中では「ビーバー」は恐ろしい結末を迎えるわけだが、映画館には「パペット・セラピー」のパンフレットが置いてある。これは、、いかがなものだろう か、と少し考え込む。
最後に一つ余計なことを。
途中ビーバー付きメルとジョディの夫婦シーンがあるのだが、考えてみれば、これヘテロの人がホモシーンやっているようなもんだよな。それくらいで平気でなくては女優は勤まらないのだろうが。
メリル・ストリープの演技がすごい。これで主演女優賞を取らなければ誰が取るのだ、というくらい。しかし定義によってこういう映画にな らざるを得ないのだが。。
映画の宣伝は基本的に静止画で観ていた。「まあがんばっちゃいるがメリル・ストリープだよなあ」と思う。しかし映画は動画。スクリーン上 で声を発しているのはサッチャー以外の何者でもない。
かつては英国首相。しかし今や認知症と戦っているサッチャー。冒頭彼女が一人で牛乳を買いに行く。そのシーンだけで現在の彼女を見事に 演じてみせる。話し相手は夫の幻影。そうした「現在の彼女」とともにサッチャーの生涯が回想として語られる。親の店の手伝いをしながらひ たすら勉強。Oxfordに入学し、政治の道を目指す。そこは完璧な男性社会。その中で彼女は戦い続ける。
サッチャーが党首選挙に立候補したころの英国は、まるで今の日本をみるかのようだ。国家財政は破綻しかかっており、失業率はとんでもな く高い。テロリストが爆弾爆発させていないだけ今の日本のほうがマシか。
その中にあって、「選挙参謀」は彼女がマイノリティであることが強みになると主張する。そこから首相を目指す彼女の戦いが始まる。
話はフォークランド紛争に。戦死者の家族に自ら手紙を書くサッチャー。確かに「母親」が軍のトップにいる事は歴史的に観てもまれかもし れない。説得に来た米国国務長官を子供扱いするやりとはおそらく事実に基づいているのだろう。そして閣僚を些細なことでイビリ抜く姿も。 危機に当たっては暴君が必要とされることがある。そして危機が去れば暴君は追われる。
場面は時々「現在」に戻る。やはり痛々しい。痛々しいが現実だ。彼女が「今」話すことができる相手は「夫」。彼女は「自分が正常だ」と 主張しようとすれば、夫の幻影を排除しなくてはならない。そして映画はさびしく終わる。
この演技が主演女優賞を取らなければ誰が取るのだ、というのようなメリルストリープ一世一代の見事な演技。私がサッチャーという人、彼 女を産んだ時代について調べようと思ったのも収穫。しかし満点をつける気になれないのはなぜだろう。
年とった親父が、酒飲みながら馬を競り落とす。畑を耕すための農耕馬買いにきた筈なのに、サラブレットに大金をはたいてしまう。
それから一家は苦境に陥る。金返せなきゃ出てけ、と言われる。畑増やすから秋まで待て、となんとか問題を先送りする。しかしサラブレッ トは畑をたがやすための器具を首にはめようとしない。親父は怒って馬を撃ち殺そうとする。無茶苦茶である。
しかしそこで映画を見放さなかったのは、「俺も似たようなもんだな」と思うからだ。俺も駄目親父。さて、息子は馬を一生懸命育てる。そ のうち悪徳地主もそれなりに良い奴だと言う事が解る。(手加減はしないけどね)そう。この映画は「良い人」に満ちている。意地悪な人、厳 格な人はいるが、根っからの悪人はでてこない。なのに起こるのは戦争。
「戦争は大事な物を全てうばっていく」
そう語るドイツの将校は、どれだけ大切なものを奪われたのだろう。
戦争にいく軍人に馬を売り飛ばすことで、親父は苦境を乗り切る。それからこの馬は何人かの乗り手を経る事になる。イギリス人、フランス 人、ドイツ人。
私にとって一番印象に残ったのは「中間地帯で協力して馬を助ける二人の青年」だ。英語を流暢にしゃべり、ワイヤーカッターを手渡すドイ ツの青年。彼は何故自分が英語を上手にしゃべるか語りはしない。馬を自由にしたあと、どちらが馬を連れて行くかで議論になる。ボクシング で決めよう。いや、そんなことすると戦争になってしまう。コインを投げよう。
この二人の会話は、戦争がいかに無意味で無駄なものかを雄弁に物語っている。協力して一つの命を救った二人は、それぞれ の塹壕に戻り殺しあわなければならないのだ。スピルバーグは例によってくどくど説明はしない。泣いたり叫んだり、というありがちは表現で はない。「戦争を始めた悪い奴」を出したりはしな い。
最後のシーンで登場人物達は何も言葉を発しない。しかし感情は観ている側にちゃんと伝わってくる。押さえた表現でそれでも観客にメッ セージを伝える技はさすがというべきか。
予告編を観る。ハードにアレンジされた「移民の歌」が印象的。おもしろそうだけど、なんだか痛そう。どうしようかな。
見終わってみればスェーデン版「犬神家の一族」であった。確かにとても痛い場面もあるのだが、不意打ちは無い。そして3時間弱のものす ごく長い物語なのだが、最後まで食い入るように画面に見入ってしまった。
名誉毀損の裁判で負けたジャーナリストことダニエル・クレイグに奇妙な依頼が来る。スェーデンの同族企業の総帥とも言うべき男が表向きは自分の伝記を、本当の依頼は数十年前殺されたと思しき親戚の女性の謎を解いてほしいという。いや、そんな昔の事をいまさら調べろと言わ れても。
それと平行して顔にたくさんピアスをつけた女がジャーナリストの事を調査して報告する。彼女は後見人をつけさせられる立場。精神的に問 題があると思われているのだ。そしてそういう世界は決して奇麗事ではすまない。いや、細かく書かないのだがこの部分は痛いし怖い。あんた そんなことをさせちゃ。
さて、自伝+何十年前の謎をとこうとするクレイグである。原作がある話だけに犬神家のややこしい家系が説明される。しかしそれを全然理 解できなくてもあまり困らない。どわーっと情報をぶつけられるが、退屈させられることはない。しかし大分時間が立っているのに話は拡散し ていくばかりで大丈夫かしら。
そう不安になったところで、クレイグが入れ墨女を雇う事になる。(後で知ったのだが、この入れ墨女は、ソーシャルネットワークのエリカ 様とのこと。プロだなあ)そこでようやく二つのストーリーが交錯する。
この入れ墨女は誰もが一緒に働きたいと思うような相手だ。冷静で優秀。無駄口を叩かず、ガツガツと仕事を進める。それとともに眉毛無し、顔中ピアスだらけ、やせ細った彼女がどこか可愛く見えてくるのは監督と女優の技というものか。
話は犬神家の業の深さを思い知らせ一応の解決を見る。しかしそこからも話は続く。「半分真犯人」が言った通り「後片付け」が重要なの だ。少し寂しい、しかしそうならざるを得ない奇麗な後片付けが終わったところでエンドロールが流れ始める。
聞くところによれば原作がある物語で、一度は映画化もされたとか。ということはこれがあたれば続編も作られるわけだな。今から楽しみ。 主人公が老けても困るから早めに作りましょう。こっちも早く観たいし。
追記:さらに後で知ったのだが、あの「依頼人」はサウンド・オブ・ミュージックの大佐だった!
ヘロインの過剰摂取で死亡した母親の隣で、息子はぼんやりTVを観ている。こいつはアホか。
一人になった彼が頼ったのは、疎遠になっていた祖母。彼女には3人の息子が居る。それぞれ犯罪家業で身を立てている男達だ。
犯罪一家には警察のマークがついている。さあ、息子君。警察に彼らを引き渡すんだ、とは思わない。警察は思うがままに銃をぶっ放し「目 を付けた男」を殺害する。「どっちもどっち」だ。
そうした環境に放り込まれた息子君はどうすればいいのか。彼はこうつぶやく。
「他の子供と同じ。ただ適応するだけ」
アホとも見えた息子君はきちんと適応する。確か彼の台詞で
「犯罪者はいずれは自滅する」
と言っていたように思う。そう悟っていても彼には犯罪者達と一緒に生きて行くしかない。家族の一員としてみれば彼らは親切でさえある。 トイレのあとはちゃんと石けんを使って手を洗え。
そのうち家族と警察の間で殺し合いが始まる。観ているうちなぜ犯罪者の組織が強力なポリシーを導入しようとするのかについてぼんやり考 える。「解決方法」として法律や道徳を捨て犯罪を選択した時点から、組織には頼るべき「別の何か」が必要になる。そうしないと組織内の 「問題解決」にも犯罪が使われてしまう。
どんな組織もそうであるように、警察にもひどいのから真面目に職務に取り組んでいるものまでいろいろいる。しかしそれに頼ることもでき ない、と息子君は悟る。(映画の中で彼が知らないことだが、警察を動かしたのは実は「身内」の祖母だったのだ)しかしその「悟り」を披露 したりはしない。ただ黙って「アホ男」のまま。しかしひとりっきりになった時、表情のない彼が一度だけ涙を見せる。そして彼はただ泣くだ けで黙ってしまいはしなかった。
最強の「偽装」はアホと見せることだ。そんなことをぼんやり考える。彼は彼としての行動をとった。途中までは「ああ、犯罪者は結局捕まる話なわけね。こんな長々とやらなくても」と思っていたがそんな映画ではなかった。ではどんな映画なのか。思い返すたびに評価が上がって いく。御見事。
ちなみに英語がさっぱりわからない。スクリーンでわからない英語を聞くのは初めてではないがこれは初めて聞くパターンだ。オーストラリア英語の一種なのだろうか。
トム。今後もこのシリーズを続けるつもりなら、監督を固定しなさい。ブラッド・バードで決まりだ。
意外に面白かった一 作目、最低、最悪の2−3作目。というわけで期待値0で見に行ったのだが、予想を裏切られた。 面白かったのだ。
とはいえ、大満足まではいかない。冒頭導火線がぐるぐると燃えて行くのにあわせダイジェストが流れる。面白い趣向だが、ちょっと間延び している。あとエンドクレジットのあの変な音楽はなんなのだ。
などとぶつくさいいながら、特にドバイのシーンが良かった。トム・クルーズがビルを超高層ビルをぴょんぴょんするところでは思わず股間 を押さえ(男性にしかわからんか)「二つの部屋のトリック」ではいつ見破られるか、うまくいくのか、とどきどきする。このシリーズ伝統の 「ちょっと正当的ではない美女」が二人でてくるが、彼女達のどつき合いシーンのボーナスまである。
難しいシーンには、事前に台詞で説明が入る。言葉だけ聞いてわからなくても、問題はない。画面を見れば何をしようとしているかはちゃん と解る。面白いのは
「敵の反応を読んでいたのか?」という質問に対して
「まさか。とっさに考えただけ」というやりとり。確かに弾丸は絶対あたらないのだけど、それなりに失敗もする。それでもとにかく最後ま であきらめずミッションを達成しようとする。こういう現実っぽさ(あくまでも「ぽさ」だが)は悪くない。
そうした姿勢は最後の「愛情の表現」にも現れている。やたら口で愛を唱えたり、銃をぶっぱなすだけが愛ではない。イーサン・ハントの妻 は絶えず敵から狙われることになる。であれば、夫婦生活とはどうあるべきか。その静かな表現だけで二人の愛は十分観客に伝わってくる。い や、御見事。
是非”5”はバード氏に作って欲しい。ぎこちない箇所があったように記憶しているが、次回はモアベターなのでは、と期待してしまう。