映画評

五郎の 入り口に戻る
日付:2013/6/27
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アントマン-ANT-MAN(2015/9/22)

今日の一言:手慣れた見事な技

マーベルコミック原作の蟻男。予告編を見るととても楽しい。体が小さいというのは便利だ。大抵の「侵入防護装置」は役に立たなくなる。しかもお話だから「小さくなってもパンチの力は元のまま」という都合のよいメリットもある。いや、原子の間の距離を縮めても重さは変わらないとおもうんですけど。

とか細かいことは言わない。いわば義賊として犯罪をおかし刑務所行きになった主人公。電気工学の修士号を持っていても元犯罪者には仕事がない。嫁には逃げられ愛する娘の顔をみることもできない。こういうシチュエーションを見るのはお父さんには辛い。子細は省くが彼はアントマンスーツを着ることになる。

例によってあれこれあった挙句敵の親玉との極小対決になる。しかし極小対決なのでどこかユーモラスである。敵へのすごい一撃はピンポンラケットだったり、機関車を掴んで投げ飛ばすすごいシーンがあるが、カメラをひくと、それは単に「トーマスのおもちゃが投げられた」だけの話。かと思うとそのトーマスがいきなり巨大化。

嘘は嘘として、辻褄が合わないところはそれとしてちゃんと観客を楽しませる芸は、さすがに手慣れており見事。このあとアベンジャーズに合流するらしいのだが、本家ででてきたなんだか体が赤い男に比べればこの蟻男のほうがずっと好ましい。この前のアベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロンは残念なできだったが、これはこの後もマーベルシリーズには(ちょっとだけ)期待が持てそうだ。


キングスマン-Kingsman: The Secret Service(2015/6/13)

今日の一言:怪作

映画の冒頭何者かが何者かにさらわれている。それを誰かが助けにくるのだが、女性の義足にしこまれた何かで「一刀両断」にされる。

そこから話かわって主人公の身にあれこれおこる。しかしスーツをばりっときこなしたコリン・ファースがやたら強い。なにやらキングスメンと呼ばれる「独立組織」が影であれこれ活躍していたらしい。でもって欠員ができたので採用試験が行われる。超秘密組織のわりにこんなに志望者がいるのか、などと問わないことにしよう。途中で「子犬を選べ」とか言われるのできっと最後にロクでもないことがあると思うが、その通りになる。(あまり心配する必要はないよ)

ここらへんまでは(冒頭の一刀両断を除いては)まあ普通のアクション映画かな、と思っていた。ところがここから監督は暴走を始める。仔細は省くが教会の中で突然皆が殺し合いを始める。そこに紛れ込んだコリンファースは一人だけ強いものだから殺しまくる。米国だから彼以外に拳銃持ってる奴が何人もいるのだが、とにかくばっさばっさ。そこからいろいろあって悪の本拠地に乗り込み「全人類殺人鬼化計画」を阻止せんとがんばるのだが。

普通の映画なら「恐ろしい計画は発動直前に阻止され人類は何事もなかったように暮らしました」となるはずだがこの映画ではそうはならない。それに秘密基地で打ち上がる「花火大会」を目の当たりにしてこちらは唖然とする。バックに流れるのは「威風堂々」。一体これを作ったのは誰なのか、と調べればキックアスの人であった。何かの理由でキック・アス2では「真面目」にやらせてもらえなかったうっぷを晴らすかのような壊れっぷり。

ラストの付け方も悪くない。というわけでシリーズ化するのだったらまた見たいと思う。


インサイド・ヘッド-Inside out(2015/8/23)

今日の一言:Pixar 復活!  なのか?

最初に映画の構想を聞いた時

「これは難しいだろう。最近のピクサーなら途中で空中分解しキャンセルされるにちがいない」

と思った。しかし私の予想は外れ公開後の評判はきわめて良い(アメリカでのだが)これは見に行かなければ、ということで娘と一緒に見に行った。

まず映画監督があれこれかたりかける。次にドリカムのよくわからない歌がある。それが終わってようやく「短編映画」だ。いや、短編の代わりにドリカムかと思ったのだけど。

などと考えているうち本編が始まる。主人公の赤ちゃん時代。喜びがあふれた笑顔。まずこの笑顔に感心した。生まれたての赤ちゃんははっきりとは笑わない。そんなことを思いだす。

大きくなってあれこれやっていると頭のなかにいろいろな感情が登場する。主役はヨロコビにカナシミ。ヨロコビがいればこの世はハッピーなのになぜカナシミがいるんでしょうね。

というわけで一家がミネソタからSan Fransiscoにやってくる。どうやらお父さんが起業したらしい。荷物がテキサスに行ってしまうのもアメリカならでは(アメリカにいたとき、日本の宅急便は神のサービスのように思えた)家賃は高くなるから家は狭いし、新しい学校にいってもすぐ馴染めるわけではなく、ミネソタの友達は変化し続ける。you can not go home again.

その間女の子の頭の中ではいろいろな大騒動が巻き起こる。その頭の中の奮闘と女の子の気持ちが実にうまく作れらている。頭の中とは裏腹に、現実世界で起こることは(映画としては)小さなありふれた出来事。しかし頭の中の活劇を見た後ではその「ありふれた光景」が愛おしく、意味深く思えてくる。

この映画の構成に示される想像力にまず感服する。人の性格は貴重な思い出によって作られるが、それは常に新しく作り直されているものでもある。その事実を見事に映像化する。

あとおもしろかったのが最後に駆け足で示される「いろいろな人や動物の頭の中」あれですかね。米国の女性にとって旅行で会った「中南米の情熱的なハンサム」ってのは心に残るものなんですかね。犬と猫の対比には大笑いさせてもらった。

これこそ常に新しいことにチャレンジしてきたピクサーの作品。欲をいえば、ヨロコビ、カナシミ以外のキャラクターが今ひとつ立ってなかったか(イカリはわかりやすいけどね)Computer Graphicsの異常な進歩も作品世界を作り上げるのに役立っている。ヨロコビたちのふわふわした肌とか、頭の中に存在するいろいろな「島」とか。

さて、この作品をもってピクサーは一時の低迷から脱したと思っていいのだろうか?それはまだわからない。いや、今は面白い映画を見ることができたことを喜ぼう。


ゴーン・ガール-Gone Girl(2014/12/20)

今日の一言:That is marriage

「さえない男」を絵に描いたようなベン・アフレックがバーでくだを巻いている。今日は5回目の結婚記念日。まあ帰るしかないね、ということで家に帰るとガラスの机がひっくり返され妻がいない。これはどうしたことか。メディアも動員しての捜索が始まる。しかしあれこれの状況からアフレックが怪しまれる。妻の友達を誰も知らず、妻が昼間何をしているか知らず、唯一支えてくれる双子の妹にも内緒で教え子と浮気をしている。

アフレックは映画のシチュエーションに合わせ「こいつなら何かしてもおかしくない男」と、「ダメ人間だが、反省し誠実さを見せる男」を演じ分ける。その奥さんは、アウトローで弁護士だかを演じた人。完璧な美人ではないが、印象に残る。映画の中ではハーバード出の才媛であり、両親が彼女を誇張した本を執筆し有名になった人でもある。彼女が失踪した時の両親の手回しのよさには驚かされる。無料通話の専用電話から独自ドメインのWebサイト立ち上げまであっというまだ。ひょっとして米国にはこういうことを請け負う会社があるのではなかろうか。

娘は母に似るのかもしれん。そう考えれば彼女の母の異常さは形を変え娘に受け継がれているような。女性は確かに弱い存在だ。物理的には男性に叶いっこない。しかし彼女は「女性の武器」を存分に使う。こいつは使えそうだ、こいつは使い物にならない。寄ってくる男達をじっと観察し、そして自らの安全を確保するため時に応じて男を思うがままにあやつる。なんでそんなことをする。相手をコントロールしようとし、愛してもいない、と問われれば「冒頭の一言」を投げつけるわけだ。フィンチャー君、特にコメントはしないがね。

そうした主人公たちから少し目を離せば穴だらけの妻の供述がワイドショー的「世論」に流され通ってしまうという「現実」も見て取れる。「奥さん」が最後のインタビューで纏う「完璧な貞淑妻」の衣装はいわば戦闘服なのだろう。お見事。

生まれてくる子供が女の子だとまた母親の「性格」を受け継いでしまうのだろうか、とかそんな想像をさせる映画であった。うむ、これは続編が楽しみだ(ありません)


鑑定士と顔のない依頼人-Best offer(2014/6/27)(1000円)

今日の一言:Love is blind

初老の鑑定士に奇妙な依頼が舞い込む。両親が亡くなったので美術品とか家具とかを処分したい。鑑定をしてもらえないか、というのだ。ところがその相手はなぜか顔を見せない。あれこれやっているうちに27歳女性であることがわかる。しかも「母親の絵」に描かれているのは結構な美人。であれば男性としては興味を惹かれずにはいられない。こっそり隠れて彼女の顔をみてみましょう。ををこれは本当に美人だ。彼女は広所恐怖症と対人恐怖症らしく、人に会うことができない。これはいけない。僕が助けなければ、というわけで彼女は鑑定士の努力により二歩前進一歩後退。よし、これは行けるかも。女の人とつきあったことさえないけれど。彼女となら一緒になってもいいのかな。。

そうした主人公の姿を観ていて何かを思い出す男性と、そうでない男性がいるのかもしれない。あるいはほとんどの男性に思い当たる節があるのかもしれない。私にはわからない。見事にひっくり返された後、大の字になり空を眺めながら考え直してみる。

なぜこうも簡単な手にひっかかる。ここでいう恋愛とはどちらかといえば、自分に酔った状態。そう考えれば彼らの計画が「女性とつきあった経験のない男性」の妄想/願望をかき立てるべく実に巧妙にしくまれていたことに気がつく。なんというんだろうね。この「僕が救ってやらなければ」という思い込みは。それは柔道で「はらってください」と言わんばかりの足を「もらった」と払いにいくようなものだ。そして見事に燕返しを食う。(燕返しが何かわかんない人は、Google先生に聞いてみてください)

途中でちょっと早送りにしてしまったのは事実だ。とはいって観ていていろいろなことを考えたのでこの値段にしておく。彼にとってこの出来事はどうだったんだろうね。あの部屋で絵画の女性と閉じこもって一生を終えるのがよかったのだろうか。どんな結果であれ彼が「一歩前にでた」ことには違いない。そして失敗することのほうが多いから「チャレンジ」というのだ。


ダラス・バイヤーズ・クラブ-Dallas buyers club(2014/6/24)

今日の一言:役者魂

あらすじを読んで「ふーん、麻薬を売る人の話かー」と思っていたがそれは間違いであった。1980年代AIDSが米国に蔓延しだす。主人公は余命30日と言われる。私は他人事と思っているから「そりゃ悪い暮らしをしていたんだろう」と思うが、彼の姿を見ていると、Steve JobsのStanfordでのスピーチを思い出す。

「誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人でさえ死にたくはない」

あれ、これじゃ単にエイズの人が死ぬだけの話じゃないか、と思う。もちろんそれは早とちりである。

FDAはAIDSの治療薬(正確には延命薬だが)の試験は始めているが認可には慎重。というかどうも製薬会社とくんで効果がない薬を試験している気配もある。主人公はその事実に気がつくだけの知性がある。単なるチンピラではなく、自分で図書館に行き本を調べ新聞を読み世界中の治療薬を調べ上げる。

というわけで、策を編み出す。世界中にはエイズ治療薬が何種類も存在している。それを海外(例えばメキシコ)で購入し、「自分で使う分だ」と言いはり米国に持ち込む。個人で持ち込んだ医薬品を売るのは違法だが、「月$400でどんな薬でもあげるよ」というクラブを作り、会員を集める。これが「バイヤーズクラブ」というわけ。

主人公はやせっぷりがすごい。役者魂が炸裂である。彼とひょんないきさつから「ビジネスパートナー」になるのが、オカマの男性。彼(彼女?)の主人公に対する思いは台詞で明示はされないものの画面から伝わってくる。彼女との握手を拒否した友達に主人公がとった行動。その主人公を観る彼女の視線。この演技は主人公を上回りさらに凄まじい。その二人を病院で担当している女医さんと主人公のなんともいえぬ間柄。かように形容しがたい人間関係ばかりなのだが、それぞれのつながりはしっかりと感じられる。監督はそうした人々の姿を静かに真面目に映像化する。観ているうちに「これはソダーバーグか?」と思ったが、、

余命30日を宣告されてからDay2とかDay7とかいう数字が映し出され、いつ主人公が死ぬのかと観客は身構える。その数字がどこまでいくのかはここで書かないでおこう。それがどんな形であれば、「人間の姿」を真面目に描いた映画は心に残る。


X-MEN:フューチャー&パスト-X-MEN: DAYS OF FUTURE PAST(2014/6/1)

今日の一言:平和が本当ですな。

映画の冒頭、例によって特殊能力をもった人達がいるのだが降下してきたロボットのようなものにコテンパンにやられる。X-MENは人間相手には無敵の筈なのだが。

さて場面は変わる。今や人間が作ったロボットによってX-MENとそれを支援する人間達は絶滅させられようとしている。というわけで、それが作られるきっかけになった頃にタイムスリップしましょう。なぜ偉い人がいかないかと言えば、タイムスリップすると精神が崩壊してしまう。でもってウルヴァリンだったら崩壊しても戻せるから大丈夫、ということらしい。

というわけで過去に戻ったウルヴァリンはロボットが作られた元を無くそうとあれこれ努力する。しかしちょっと歴史を変える度に事態はさらに悪くなって行く。これはどうしたことか。

過去のX-MENシリーズでずっと敵対していたマグニートはなぜかプロフェッサーと仲良しになっている。それは共通の強大な敵を前にしてのこと。過去の世界では二人の関係は愛憎いりまじったもの。それは二人の大きな力をもった人がそれぞれの主張をしているから。ミュータントは人間を支配するのか、それとも共存するのか。しかし未来ではマグニートがこう言う。私たちはお互いに争い、多くの仲間を失った。しかしそうする必要はなかったと。

孫子に言う。

滅んでしまった国は二度と再興出来ず、死んだ兵士は生き返らすことは出来ない。

引用:孫子 火攻篇

現実の世界では死んだものは帰ってこない。しかしせめて映画の世界では「避けられた筈の戦争が無かった世の中」が描かれてもいいではないか。過去のX-MENシリーズで倒れた筈のミュータントが何食わぬ顔してでてくる平和で退屈な日常こそが本当の姿なのだ。

というわけで「この人誰だっけ」と思いながらも考えたり楽しんだりできた。ハルベリーことストームは髪の毛が長い方が可愛かったと思うけど。


キャプテン・アメリカ ウィンターソルジャー-Winter Soldier(2014/4/21)

今日の一言:「自由」を守る。

前作では第3帝国ならぬ、ハイドラとかいう悪の組織を散々やっつけ氷付けになって現代にきました。そのあと他のヒーローと協力してNew Yorkを守ったりしてましたがキャプテン・アメリカはまだ元気です。

New Yorkの戦いで生身の人間なのに無茶苦茶活躍していたスカーレット・ヨハンソンもでてくるのだが何か様子がおかしい。SHIELDのエレベータにのっていると周りの人達がわらわら襲ってくる。これは任務だとかなんとか言いながら。何が起こっているのか。

味方たるべきSHIELDはあてにならないどころか完全に敵対している。こうなるとたよりになるのはヨハンセンだけ。彼女がしきりに「あの娘をさそったら」を言い続けるのは古典的に考えればキャップに気があるのだがはてどうだか。みているうち

「キャプテン・アメリカはだてに”アメリカ”と名乗っていない」

と思いだす。現実のアメリカが如何にそこから離れていようと、単純で、馬鹿正直なキャプテンアメリカはアメリカ人が心の底で信じている"Freedom"の象徴なのだな。であるから敵味方定か成らぬ混乱に陥った時、人々はキャップの声に従う。

しかし現実には"Freedom"を守る為にそこから離れなくてはならない事もある。潜在的問題人物を自動的に抹殺する飛行空母は、無人ドローンの究極型だし、堕ちたSHIELDはNSAの劇画化版。しかし無人ドローンやNSAの任務はアメリカの防衛であるはず。ではどこまでの行為が許されるのか。アメリカは常にこうして理想と現実の間を行き来しているのだろう。

最後に悪の企みを暴く時手段が「情報を全部インターネットに流しちゃう」のが21世紀風。お前はスノーデンか。こういう物語を語ってくれるのでアメコミの映画版は侮れない。あれっ。題名にもなっているウィンターソルジャーに全然触れてないな。というかあんまり印象ないし。あとロバートレッドフォードはさすがに老けたなあ。


ローン・サバイバー-LONE SURVIVOR(2014/3/31)

今日の一言:痛い

米国には特殊部隊があれこれあり、それぞれ性格が違うのだそうな。その中でもっとも「派手」なのがNavy SEALS。映画の冒頭からその選抜試験の様子が映し出される。

場面はアフガニスタンに変わる。タリバンの幹部を殺害できるチャンス。というわけで複雑な作戦が立案され、まず偵察隊4名が送り込まれる。

偵察隊の任務はとにかく見つからない事。声を潜めこそこそと歩く。精鋭だろうがなんだろうが見つからないことが第一なのだ。ところがヤギをつれてきた一行に足を踏まれたところから運命が暗転する。無線はつながらず、タリバンが山のように襲ってくる。

映画とか本で知る限り彼らの行動原理というのは「仲間を守る」ことなのだな。タリバンから逃れるために何度か崖を転がり落ちる。そのうち一人が取り残される。他のメンバーは何の躊躇も無く

「ここを登ってあいつを助けに行こう」

と言う。彼らにとって一番大事なのは仲間を共に生き延びること。「何故死ななかった」ばかり言っていたかつての某国軍隊とのあまりの違いように驚く。

この戦闘に関する英語版wikipediaの記述はこの映画、及び元となった本の記述とは大分異なる。しかし生き延びた人間にはこう見えたのだろう、、ってこんな状況でどうやって生き延びられるんだ。題名からして一人は生き延びるはずなのだが。いかに鍛えられた軍人とはいえ、相手の装備と人数には抗しようがない。

そこに一つの「奇跡」が起こる。最後の「騎兵隊の到着」は映画的演出だろうと思っていたらやはりそうだった。しかしそれを除いてもこの映画はSEALS、ましてや米国の宣伝映画ではなく血の通った人間達の物語だ。そしてこの映画を作った人達に思いを馳せることもできる。崖を転がり落ちるシーンは、スタントマン一世一代の見せ場であり、CGがはいる余地のない「痛い」映像でもある。よく生きているなと思うが、実際肺が破裂した人もいたらしい。しかし現実世界の特殊部隊の矜持は、映画世界のスタントマンの矜持でもある。


ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅-Nebraska(2014/3/11)

今日の一言:Boozとは「飲んだくれる」という意味です。

映画の冒頭、老人が車道脇を歩いている。パトカーが止まって話しかける。

老人は「あなたに一億円があたりました!受け取る為にはまず雑誌を購読してください。そしてもしこの番号があたり番号ならば一億円はあなたのもの!、という宣伝を信じ込み、当選金額を受け取る為にNebraskaを目指す。いくら「そんなのは詐欺だよ」と言っても聞かない。何度も車道を歩き出す。しかたない、と次男が父を車に乗せる。

モンタナ、ワイオミング、サウスダコタ、そしてネブラスカ。ネブラスカは父が生まれ育った土地でもある。そしてその旅は息子にとって父の過去を知る旅にもなる。

父のお兄さんの家に着く。彼の国において「昼間から大の大人がTVを観ている」というのはろくでもない家庭のサインなのだな。両親が生まれ育ったのは、何もおこらない小さな小さな田舎町。目の前の女の子をおっかけ、車がどうの、時速何マイルで飛ばすのがどうの。話すことはそれくらい。

父は主人公が小さい頃からアルコール中毒だった。それには理由があることがわかるが、かといってそれだけで「実は父は可哀想なとってもいい人でした」というわけでもない。でも人間は皆そうしたものではないか。

「もしかしたら自分の母であったかもしれない女性」(いや、それはおかしい事はわかってるんだけど)はチャーミングであり、主人公の顔にはなんともいえない感情が浮かんでいる。でもスヌーピーがそういったように「配られたカードで勝負するしかない」のが人生だ。彼女は主人公の父親を巡る争いに破れ(理由が素敵だが)幸せな人生を送った。その彼女が最後に父親に向ける視線。

もしかしたら本当に1億円あたっているかも、なんてことはない。しかし映画は静かに、そして優しく幕を下ろす。小さな電気店で働き、彼女には逃げられるうだつの上がらない人生、などと思う必要は無い。私たちのろくでもない人生は、それぞれの輝きを放っているのだよ、と制作者は静かに語りかけているように思う。

なぜこの映画は白黒なのだろう、とずっと考えていた。多分風景の美しさを必要以上に押し出さない為ではないか。それでも最後にはなんの変哲も無い田舎の風景が美しく見える。


マイティー・ソー ダーク・ワールド-Thor Dark World(2014/2/8)

今日の一言:兄と弟でワンセット

ソーの2作目である。一作目は観ていない。だってなんだか頭悪そうなヒーローが金槌振り回しているだけなんだもん。観なくてもいいだろうと思った訳だ。

しかし2作目を見終わった今は「一作目のDVD借りてみるか」と思っている。それとともにYoutubeでときどき見かけた「ロキ動画」がなぜ作られたかも理解できる。この映画は兄と弟そろって主役なのだな。

というわけで話はよくわからんが、ソーの恋人(人間)が何かのはずみに宇宙を破壊する力を体に取り入れちゃった。かといって彼女が強くなるとかそういうわけではない。それを狙って悪役がやってきて、ソーはロキに頭を下げ助けてもらうとかそんな話。

細かいところは突っ込みどころが満載だし、多分制作者も真面目に説明する気がないんだと思う。しかし考えてみればこういうヒーロー物で「ニュートリノが地球の地殻を溶かす」とか理屈をつけてもどうせでたらめなんだから意味が無い。じゃあ省略して面白いところを写しましょう。

というわけで、最後の決戦のさなか、ソーはロンドンの地下鉄にのって決戦場に戻ることになる。場内爆笑である。そのあと女性がわざとらしく、ソーの胸板によりかかるところとか。なぐりあいは真面目にやるのだが、ビルのガラス面を敵と仲良く滑り降りるところとか笑いどころが満載。そりゃ誰もが結果がどうなるかは知ってるんだから笑わせて何が悪い、いや楽しませてもらいました。

ではおちゃらけ映画かといえば、それだけではない。シーンの端々にロキが愛する母親を失った悲しみ、怒りが痛いほど伝わってくる。誰もがロキは裏切ると思っている。ソーもそう言うし、実際そうなのだが、ロキは「俺の怒りを信頼しろ」という。つまり真面目なところは真面目に、おちゃらけはおちゃらけという見事な切り分けで、ロキが魅力的な悪役として描かれている。もちろん全てがとは言わないが、こういうのがあるから、アメコミの映画化は侮れない。


少女は自転車にのって-WADJDA(2014/1/4)

今日の一言:泣くのをやめたら5リヤル(通貨の単位)

厳格なイスラム教の管理下にあるサウジアラビア。イスラム教のせいか部族の伝統のせいかしらないが、そこでは未だに「家系図」にのっているのは男性の名前だけ。つまり女性は子供を産む為だけの存在なのだな。我が国の有名な戦国武将の妻や娘も名前が残っていないが、21世紀のサウジアラビアはまだその状態だ。

10歳の少女は、一人スニーカーを履いている。そこは頑として譲らない。仲の良い男の子は自転車に乗っているが、少女には自転車がない。自転車に乗ればあんたになんか負けない、というところから彼女の挑戦がスタートする。

サウジアラビアでは、女性は男性に肌を見せてはならないし、声を聞かれてもいけない。自転車なんかのると妊娠できなくなる。そうはいいながら、人間であるからして足の爪にマニキュアしている女学生もいれば、彼氏を家に引き入れる校長もいる。彼氏と密会していた女学生は「宗教警察」につかまり「嫁にやられる」ここらへんの言葉が彼の国の文脈で何を意味するのかは、異邦人にはよくわからん。

「あらすじ」に書いてあった通り、少女は自転車購入の資金を作り出すためコーランの暗唱大会にでることを決意する。ここは恒例の「最初は駄目ダメだが、最後は優勝」の物語だが妙にあっさりしている。少し変だな、と思ったが見終わってみればそれはどちらかといえばサイドストーリーだった。より重みとやるせなさをもって迫るのは、その母親の物語。彼女は髪を短くしたいが「パパは長い髪が好き」とかとにかく旦那に気に入られようとする。それは愛情というより、それしか選択肢がなく、いつ捨てられるかわからないから。条件がよい仕事も「男といっしょの職場なんて、旦那がなんて言うか」と見送る。娘より母親のほうがはるかに努力している。

少女は暗唱大会で優勝するが、、、、そこからの筋は書くまい。しかし子供を持つ親である私に母親の最後の台詞は反則である。

映画の最後、自転車を気持ち良さそうにこいでいる少女の姿はどこか危なっかしい。自動車がびゅんびゅん走っているそばを、そんなんで大丈夫かと心配になる。しかしサウジアラビアの人からみれば我が国の女性もそんなものだろう。確かに肌も顔もみせないほうが犯罪に巻き込まれる可能性は少ないかもしれない。しかしそれは多くの可能性をつぶしていることでもある。

映画は少女の笑顔とともに唐突に終わる。静かに真面目でそして観客にいろいろなことを考えさせる映画だと思う。


47 Ronin(1000円)(2013/12/8)

今日の一言:意外

キアヌ・リーブスが忠臣蔵に出ると聞いた。なんだそれは。予告編を観る。なんで竜が飛び回ってるんだ。ありきたりな「日本勘違い映画」だろうか。

と思いつつも少し興味がある。というわけで観てみた。衣装とか建物のデザインは、「日本について全く知らないデザイナーに要素だけ渡して自由にアレンジしてもらいました」という感じ。将軍がまるで金色の急須を思わせる出で立ちなのには笑わせてもらいました。そこらへんに立っている雑兵まで兜をつけているとこうもおかしくなるものか。

キアヌ・リーブスは英国人と日本人のハーフ故、周囲から阻害されてきた、という設定。しかし幼いころお殿様に拾われ、お姫様と仲良くしていました。そのお姫様が大きくなったのが柴崎コウ。多少老けたが、眼力は健在。意に染まぬ相手に差し出された手をにらむシーンだけで、存在価値は合格である。

オリジナル忠臣蔵の「弱点」は浅野が吉良を殺害しようとするほどに憎む理由が弱い点にある。史実の吉良は少なくとも地元では名君だった。であれば、おかしいのは浅野ではないか。そもそも意地悪されたくらいで殺そうとするとか。その「無念」をはらす為の集団テロとはいかがなものか。そう思ってもおかしくない。

この47roninではそこを見事に解決した。吉良は若い男であり、領土拡張及び美しい姫を手に入れるため浅野を妖術で陥れたことにしたのである。これなら話が分かりやすい。悪いのは吉良とその背後にいる牝狐ー菊池某-だ。というわけで真田広之演じる大石は仇討ちの計画にとりかかる。47士の動機は明確だし、最初から「事が成就した後には腹を切らなくてはならぬ」と明言しているところもすばらしい。しかし真田広之は時代劇やらせるとやっぱりかっこいいねえ。

さて、クライマックスの討ち入り。吉良の側にいた巨大戦士があっさりふっとばされるのにはちょっとがっかり。しかし若い吉良とそれより年上の大石がバコバコ殴り合う図柄には笑わせてもらった。

最後の「おとしまえの付け方」も史実通り。いや、あるいは史実より潔いかもしれん。金色急須の将軍の台詞がちゃんと決まったところで少し涙が出そうになったというのは本当のところだ。お姫様が「一発必中」でキアヌの子供を宿したりしないところもいいし、台詞がほとんどない大石の妻が最後に見事な表情の演技を見せるところには感心した。

つまりこの映画ではデザインとか衣装は自由に飛躍しているが、日本人がこの物語を愛している所以はちゃんと尊重しているのである。これはおそらく日本人には決して作ることができない見事な「21世紀の忠臣蔵」。いや、あの衣装は、という人はそもそも日本人の頭の中に存在する忠臣蔵もかなりの部分フィクションであるという事を認める必要がある。

どうしてこのような作品が可能になったのか今私はその事に興味を抱いている。


42~世界を変えた男~ - 42(2013/11/17)

今日の一言:お前に俺の苦しみが解るか? No

黒人初のメジャーリーガ、ジャッキー・ロビンソンの伝記的映画。実に真面目に正当に作った映画であり、私が中学校の教師なら学校で上映するところ。(主人公の奥さんがちょっと色っぽすぎで中学生には刺激が強いか)

米国には「平均」という言葉が実に似つかわしくない。カリフォルニア、New Yorkで通ることが、南部に行くと条例違反になる。ロビンソンは白人とプレーすることを禁じられるのだ。そのDeep Southでロビンソン夫妻が歩いていると、ふと呼び止められる。何を言われるのだろう。危害を加えられるかと身構える。そこで中年の男が言った言葉に思わず泣きそうになったのは観客の私だ。アメリカという国には本当に平均という言葉が似つかわしくない。初のプロ野球黒人選手に罵声を浴びせるのも米国人。「才能がある人間は成功するべきだと思う」(うろ覚え)とフェアな言葉をかけるのも米国人。

肌が白かろうが黒かろうがシマだろうが野球ができる奴を使う、と言い切るドジャースの監督が実にかっこいい。プロスポーツの監督とはこうでなくてはならない。その代役に引退したじいさんがでてきたが、全く見せ場がないのはどういうことだろう。

ベタな話だし、最後はちょっと間延びする。すっかり年寄り役が板についたハリソンフォードの演技もすばらしいが、それだけで点を甘くするわけではない。観ているうちに気がつく。(これを書くと黒人から冒頭の言葉を投げかけられることを承知で書くが)

我々は皆ニグロなのだ。

どこにいても、自分が不当に扱われていると思うことはある。それにどう対処するか。この映画が「黒人向け映画」でなく、日本で公開される価値があるとすれば、公正とはとても言えない世の中で苦闘しながら生きる普遍的な人間の姿を描いているから。それゆえ極東の島国に住む、黄色い初老の男の心を揺さぶるのだろう。


恋するリベラーチェ - BEHIND THE CANDELABRA(2013/11/4)

今日の一言:おうちに帰って調べるまで、主演の人がウォールストリート の人だとは気がつきませんでした。

日本ではほとんど聞いた事が無いが、70年代から80年代にかけてアメリカで活躍したリベラーチェという人の物語。もんのすごく趣味の悪い衣装で、もんのすごいピアノを弾きまくる。ミュージシャンともアクターとも違う。彼は文字通りのエンターテイナーであり、ゲイだった。(当時のアメリカではそれを公にすることはできなかった)そして成り行きから彼のパートナーになるのがマット・デイモン。

デイモンが初めて楽屋を訪れるところで、リベラーチェが「弟」と紹介していた男が無言で非常に不機嫌な態度を取る。彼は何も言わずに消えるが、彼の気持ちが説明されるのは映画の後半である。

デイモンとリベラーチェの仲は段々深まって行くが、整形を強要されるところで明らかに一線を越える。そこで「あごにへこみを作ってくれ」というところがどういう意味かは彼の親父がカークであることを知ってようやく解った。

そしてリベラーチェを取り囲む人がデイモンにどこか冷めた態度を取っていた理由が(後から考えればそうなるのが当然なのだが)明らかになる。彼はリベラーチェにとって「またか」という存在でしなかったのだ。

デイモンは薬物中毒になり、はした金をもらい放り出される。この映画にはほとんど男しかでてこない。もっと言えば男の7割はゲイ。でもってその「男の雰囲気」ムンムンでは全くない映画は淡々と進む。ソダーバーグの技が炸裂である。デイモンは太るのも筋肉むきむきになるのも自由自在。ダグラスの芸達者ぶりにも驚かされる。

そして終わってみれば、ソダーバーグが描いたのはゲイの物語でも、駄目ミュージシャンの逸話でもなく、普遍的な「人間の姿」であったことに気がつくのだ。人間は自分勝手で欲深く、孤独で人の優しさを欲しがったかと思うと、簡単に袖にする。そしてまたその相手にすがりたくなる。ソダーバーグはそうした人間の姿を静かな愛情を持って描いている。


パシフィック・リム - Pacific RIM(2013/9/7)

今日の一言:おもしろいじゃねえか。クソッ

怪獣や、ロボットアニメをみて育った監督が作り上げた映画。それは元となった日本の作品への敬意と、この映画を作る事ができなかった日本の映画界への絶望感を味あわせてくれた。

いや、もう巨大ロボットが船を鷲掴みにして怪獣を殴りまくるとか笑ったり感動したり。光線はあまりださずにもうお互いタコ殴りですよ。その中でキメポーズを作っているパイロットとかね。

菊地凛子は不思議な日本語をしゃべる。司令官が時々日本語をしゃべることからして、彼と彼女の関係を暗示しているのだな。しかし「センセイ」や男の人の前でみせる恥じらいの表情は、米国人が考える"Shy Japanese Girl”そのもので笑える。でもこれがいいんだ。そして彼女の幼少期を演じたマルモリの人には正直驚かされた。

っていうか凛子の重要な台詞に字幕がついてなかったけどいいのか。あと最後にキスしないのはすばらしい。

なぜ舞台が香港であり、東京ではないのか?やっぱり今の国力とかそういうことか、と思ったが「人海戦術」で怪獣の死骸を解体しているシーンで「ああ、これは中国じゃなきゃだめだ」と合点がいった。日本はああいうことやるには大人しすぎる。あとあやしげなハンニバルなんとかというおっさんとかね。あのアクの強さは(行った事ないけど)きっと香港が相応しいのだろう。

親子でパイロットの親父は「お前息子が,,なのにさわやかな顔していていいのか」とか思うし、ちょっと最後の方筋を練るといいかな、、とか思わんでもないが面白い。血湧き肉踊るとはこのことだ。

今の日本人以上に日本の怪獣映画、ロボットアニメをわかって、敬意を払っている監督。それにひきかえ
「ピアノ線が見えてないから、特撮じゃない!」
とかどうしようもない「型」を作り上げ、そこにはまっている多くの日本人。日本人には決して戦争映画を作ることができないのと同じ理由が根底にあるような気がする。


華麗なるギャツビー - The Great Gatsby(2013/6/23)

今日の一言:古典は素敵

前から何度も題名だけは聞いていたが内容は全く知らなかった。見終わって考えれば、そもそも簡単に要約できる物語ではないのだな。

大恐慌直前、バブル絶頂の米国。その描かれ方をみてるとバブル期というのは洋の東西、古今を問わず様子が似ていると思う。株式投資で一山当てようという若者。どんちゃん騒ぎ。「目デカ」メイクをするちょっと下品な若い女。バブルはバブルとしてアメリカの金持ち生活の描写にもちょっと驚いた。

語り手は演技力がなくてはならない。したがってトビー・マグワイアが適役である。彼は元証券マン。隣人はお城に住む謎の男。ある日その男からパーティーへの招待状が届く。

キンキラキンたるギャツビーはディカプリオ。一種類の顔しかできないのは知っていたが、出会いの「素晴らしい笑顔」はもう少しがんばってもらいたかったと思うぞ。「お里が知れる」ところは見事だったけどね。ギャツビーは若くしてなぜそんなに金持ちなのか。なぜパーティーを開いているのか。それは全て彼がかつて愛した女の為だった。

筋を細かくは追うまい。二人の男と一人の女の愛憎劇。女は劇中の台詞にあるとおり「いるだけで場が華やぐ」女。しかし彼女にとって一番の生き方は「馬鹿な女として生きること」。その場その場で「自分の味方として最適な男」を選ぶ勘がたより。その夫はそんな素敵な女性を妻に持ちながら下賎な女との浮気に余念がない。そしてギャツビーがひたすら追い求めているのは彼の思い出の中にある女。

そうした人間達が繰り広げる悲劇は、最後少しの伏線も残さず見事にぴたりとはまる。それは人間界の常として悲劇と喜劇がいりまじったもの。なるほど、古典として語り継がれる物語は、やはり凡百の映画脚本とはできが違う。そうした感慨に耽りながら、マグワイアが書き上げた本の表紙に

"The Great"

と書き足すのを見守る。ギャツビーは怪しげな商売で財をなした成金にすぎない。しかし確かにそう呼ばれるだけの意味はあると納得しながら。

見終わって考えた。所詮人間は自分のことばかり考えている愚か者だ。「相手を思う」とは自分の考えで作り上げた「相手」であり、この映画にでてくる人物達のように、相手の言葉に耳を傾けるより自分が考えた「あなたはこうあるべき」を押し付ける。馬鹿げた行為だがそれが人間というものだ。そう考えればこの年になって初めてこの物語に触れたのは幸運だったかもしれない。

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注釈