五郎の
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日付:2008/4/1
1800円|1080円|950
円|560円|-1800円|値段別題名一覧 | Title
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夏休みお子様向け映画である。とはいっても前作ナイトミュージアムは 思いのほかよかった。しかし続編だからあまり期待はしない。そう思って見た。不覚にも感動した。
とはいっても、これは私の個人的な事情が関係した値段だから、”それがどうした”という方はワンランク割り引いて読んでいただきたい。というのは今 に始まった話ではないか。
New Yorkにある自然史博物館では”魔法の石板”のせいで夜になると展示物が動き出す、というのが前回からのお約束。夜警をやっていたベン・スティーラーは いろんな発明品を売り出してCEOになっていた。その間に博物館 は模様替えされることが決まり展示物はみんな箱詰めに。それらの送り先はスミソニアン博物館。ということは魔法の石板も行く訳だ。
なんと、あのすばらしいスミソニアンのあれこれが動き出す、と思っただけでもわくわくしませんか。そうですか。私だけですか。でもいいんです。今回 の脇役はカスター将軍にアメリア・イヤハート。米国では子供でも知っている彼と彼女でも日本のお子様達には解説が必要だろう。でもお猿とビンタをはりまくるシーンでちゃんとお子様達は笑っていたようだから 大丈夫。いや、40過ぎの中年男も何度か声あげて笑ったんですけどね。
このイヤハートが実に印象的なキャラクター。危ないから来るな、と言われれば喜んでついていく。とにかく冒険とチャレンジが大好き。当時の社会においてはそうした女性の行動は画期的であった。WW2当時の黒人戦闘機乗りが敬礼するのも理由のないことではない。
彼女はベン・スティーラーと数々の困難をくぐり抜け、復活しようとしたエジプトの王様を撃退する。この闘いに決定的な結果をもたらす”男”がいるの だが、彼の活躍に、前の登場場面とちゃんと伏線がつながっているのが偉い。
なんだかんだの後に、”展示物”達は元の自然史博物館に戻る。ということは、他の展示物を動かしていた”魔法の石板”もスミソニアンから無くなると いうこと。では朝の訪れとともにイアハートは,,,この問題に直面したときの彼女の姿が実に清々しく見えたのは私だけですか。そうですか。でもいいんで す。社会的にどうだとか前例がどうだとかを吹っ飛ばし、好きな事を楽しんでやる。そのシンプルな行動原理をつきつめたのがこの映画のイヤハートであり実在 のイヤハート。そうした人間を描く映画を見る度私は少なからず動揺するのだ。なぜならあれこれ理屈をつけ私はそこから目をそらそうとするから。
調べてみれば”魔法にかけられて”の人だとの事。歳はいっているがこの人チャーミングだな。
かくして私は不覚の感動とともに映画館を後にする事になる。エンドクレジットにシーンが入るというのはよくあるが、この映画のそれはきちんとオチに なっている。というかこれも日本の子供には、、だがいいんです。私は笑ったので。
読んではいないのだが、原作は一冊だけでも相当長いと聞く。その膨大な物語を2時間強の時間におさめるのは大変な苦労なのだろう。
こ
のシリーズでもその”映画化”に成功した例と失敗した例があったように思う。私の考えでは今回は成功例だ。原作をまったく知らない私でもちゃんと一つの物
語と
してみることができる。後半の闘い+謎かけは結構楽しんでみれたし、自分の妹とハリーの恋愛にやきもきするロンも楽しい。というかフェロモン全開の少年少
女の恋愛騒動は滑稽でよろしい。彼らを優しく見守る先生達の姿を見ていると、私は自分の立場をすっかり先生の側においていることに気がつく。若い者は
いいねえ。
しかし何が原因かわからないのだが、前半から中盤にかけて少し退屈したのも事実である。何をうだうだしているんだ。さっさと事件をおこ さんかい、と。というわけで少し割り引き1000円をつけるわけだ。
一 時は”この人ものすごい大根役者ではないか”と思ったハーマイオニーだが、今回はなかなかかわいい演技を見せる。ハリーもいいと思うが今回の一番はロン。 自分にやたらとべた ついてくる女の子にでれでれする顔、ふぬけになってさらすマヌケ顔、試合前にガチガチに緊張し泣き言を言う顔。やたら成長し筋肉質になった体とのギャップ が楽しい。ヘレナ・ボナムカーターは悪の手先その3を例のごとく怪演。この人最近こんな役ばっかりという気がするが台詞が少ない割に印象に残る。あと金髪 のエキセントリックな女の子も要所で笑わせてくれる。
今回は”終幕3部作”の一作目なのでとにかく謎を広げた訳だが、枝をごっそり切 り込んであるので、次作を見るときまで”だいたいこんな話だったな”というのを覚えておく事ができるだろう。スネイプ先生ことアラン・リックマンがやはり 鍵となる人であるのかな、、とおもいつつ次は一年後か。。
人には天職というものがあるようだ。それをやっているとき、その人は最も輝き、そして力を発揮する。
しかしその”天職”が必ずしも物質的、精神的幸せをもたらしてくれるとは限らない。そんなことを考えた。
80年代に活躍したレスラー。その業績がアナウンスと雑誌の表紙で語られた後いきなり”20 years later"という字幕が出る。プロレスは条件さえ整えば還暦まで続けられるが、それは決して楽だというわけではない。
ト レーラーハウスに一人住むかつての有名レスラー。スーパーで働きなんとか生計をたて、週末はレスラーとして活躍する。彼と微妙な関係にあるのが、こちら も”85年卒業か?”と揶揄されるストリッパー。二人とも体をはって闘っている。闘いの相手は観客。如何に観客を喜ばせ金を払わせるか。
しかし心臓発作を起こしたことから、そうした生活にも見切りをつけなくてはならない、と悟る。客相手にサラダを出し、疎遠になっていた 娘との仲を修復しレスラーは引退したと告げて回る。しかし彼の”天職”はあくまでもレスラーなのだった。
私は高校時代プロレスファンだったが、この映画で初めて”レスラーの闘い”が理解できたような気がした。体を鍛え、技を磨くがそれは相 手を倒すためではない。いや、相手はともに観客を喜ばせ るパートナー。その関係はお笑い芸人の相方に近い。であるから対戦相手が決まれば入念に打ち合わせをし、試合の後にはお互いの健闘を称え合う。その信頼関 係あってこそ観客が歓声をあげるすごい技を繰り出すことが可能となるのだ。
その世界では主人公は偉大な存在として仲間から賞賛を浴びる。彼が”落ち着こう”と目指した世界では本名をさらし、ポテトサラダを”多 い””少ない”と言われるたび何度も盛りつけする。
彼が最後の試合で”俺の家族は観客だ”と叫ぶ。観客はそれに歓呼で答えるが、もちろんそんなことはない。お互いそれがわかっていながら も会場は熱気に包まれる。そここそが彼の居場所なのだ。
そうした姿をこの映画は余分な虚飾なしに淡々と描き続ける。その姿を見ている間
”この男は何歳だ?俺と同じ歳か?”
と考え続ける。
あと、本職レスラー達の”名優ぶり”にも感嘆しました。彼の国ではあれくらいの演技力がないととても勤まらない職業なのだろう。
ダ・ヴィンチ・コードの 続編。前作ほど原作は物議を醸し出さなかったようだが、CERNで実際に働いている人が、小説の”正誤表”をWebで書いていたのは知っている。結論から 言えば”あんなに大量に反物質を作ることができたら苦労せんわ”である。だから安心して観れば良い。
教皇が崩御した。次の人は誰にしましょうか。さて、部屋に閉じこもって決定されるまで根比べ。といったところで謎の文字がバチカンに届 く。はて、これはいったいなんだろうか、と思っているうち後継者として有力な枢機卿が4人誘拐される。をを、これはイルミナティの仕業か。それではトム・ ハ ンクスを呼びましょう。
そこから謎解きが始まるのだが、時間は5時間しかない。一時間ごとに枢機卿が一人ずつ殺されていく。最後には反物質がどかんだ。かよう な構成なので無駄な エピソードがはいる余地はなく、緊張感が途切れない。
とはいえあまり感動するわけでもない。きっと小説なら時間がたつのを忘れるほど面白いんだろうなあとぼんやり考える。途中やたらと”あ やしげで屈強な男”のカットが挟まれていたがあれはなんだったのだろう。
次の教皇が決まるまでの間、事務の権利を委譲されたのがユアン・マクレガー。一見おとなしそうでありながら、どこか危うげな雰囲気をか もしだして熱演ではある。この人年とっても容貌がかわらないなあ。
最後に結論がでて、”犯人”の行動を振り返ってみればそれが結構な離れ業であり、奇想天外な陰謀であったことがわかる。身を投げた芸で あるからして、成功させてやってもいいではないか、などと考えるのは私がカトリック教徒でないからなのだろうな。でもなあ、あの”空”をバックにゆらゆら 落 ちてくるところは、まじめなキリスト教徒が見たら激怒したり、、しないのかな。小説には決してなしえない映画ならではの名シーンだと思うが。
どこも心には響かないが、退屈しなかったのは確かだし、前回に比べるととってもがんばりました、ということでこの値段にしておく。犯人 がなぜあのよ うな行動に至ったかを丁寧に書く事ができれば、あるいは心に響いたかもしれないが、映画ではそれだけで一本になっちゃうからね。
映画の冒頭いくつかのシーンが交錯する。メインのシーンでは少年が警察に拷問を受けている。取り調べが進むに従い彼が何をしたのかが語 られる。
彼はスラムの出身。スラムで生きるとは何を意味するのか。使えるものは何でも使い、生きていかなければならない。彼の兄貴分は悪くもあ る が、彼の面倒をそれとなく観てくれる。そこに少女が加わる。
彼らと彼女達をとりまく”現実”からは思わず目をそらしたくなる。しかしこれは世界のどこかで現実に起こっている事なのだ。 そして、映画の最後になり何故これらの”目をそむけたくなるようなシーン”が映し出されていたのか納得させられることになる。
少年はミリオネア、という番組にでていたのだった。この番組のコピーは世界中に存在しているのだな。最後まで正解すると多額の賞金が得 られる。しかし少年が求めているのは金ではない。愚直に自分が愛するものを求めるその姿は、どこかフォ レストガンプにも重なる。
インドの誰もが彼の姿をTVでみようとする。それは”現実から目をそらし夢を見るため”であるかもしれない。しかし彼が出演している理 由は違う。それを考えれば、この映画のクライマックスは映画が物理的に終わる少し前にあったことがわかる。つまり最後の問題に正解するか否かは問題ではな いのだ。そしておそらくは映画の制作者が描こうとしたのは、どんな状況、条件であっても、自らが尊いと思えるものをひたすら追い求める人間の姿、そしてた よりなげな表情の少年がみせる人間としての強さであったと思うのだ。
かように良い映画と思うのだが、アカデミー賞を総嘗めにするかと言われれば、私にはそこまでの映画とも思えない。おそらくこの映画の何 かがアカデミー賞を選ぶ人たちの感性を刺激するということなのだろうが、それが何かは私にはわからない。
観ている最中に考える。この面白さはFootball(日本でいうところのアメリカンフットボール)のそれだと。
プロのFootballリーグNFLは観客にとっての面白さを追求しつつ発展してきた組織である。その神髄は私が考えるに
”ルールをきちんと設定した上での容赦のない戦い”
に ある。ルールは公明正大。”大人の事情”が入る余地を徹底して排除した上で、勝者と敗者に強烈な陰影をつける。勝つ事だけがすべて。The winner takes all. それこそが観客にとって尤もExciting、というのがエンターテイメント大国アメリカが出した結論。こ の映画で取り上げられるインタビューはまさにFootballだ。
インタビューアはトークショーのホストがお似合いの男。 しかし彼は彼なりの理由から、Nixonにインタビューすることを試みる。実現のために私財をなげうち、友達から金を借りすべてを賭ける。インタビュー を” 売れる映像”にできれば勝ち。負ければ無一文で無職。
一方のニクソン。辞任はしたが自分の力量への自負は十分。カムバックの機会を狙っている。しかし懐具合は厳しい。そこに軽そうな男から のインタビューの依頼。金額も悪くない。かくしてインタビューは成立するのだが、勝負はこれから。勝者は一人だけ。
契約で取り上げるトピックが決まり、双 方準備の上で、カメラを前にした戦いが始まる。序盤はニクソンが圧倒的に有利。彼は何度も打ちのめされながら米国の大統領に2度当選した。 しかもベトナム、ウォーターゲートで容赦ない追求を受けながら決して自分の非を認めなかった男なのだ。フロストの参謀役が
”あいつは犯罪者だ。誰があんな男と握手をするか”
という。しかし本人に手を差し出されると思わず握手してしまう。それだけの力がニクソンにはあるのだ。容赦ない質問を浴びせたつもりで も、余裕をもってかわされそして逆襲される。はたして転換点はあるのか。
ここで映画では架空の会話を持ち出す。それはフィクションとしていい演出だと思う。しかしここから最後のクライマックスへの流れが今ひ とつわかり難かった。ニクソンは何故”告白”をしようとしたのか。新たな証拠をつきつけられて、ということなのか。
主 演のフロストはとらえどころのないキャラクター。軽いだけの男にみせ、合衆国大統領相手に打ちのめされながらも引きはしない。ニクソン役も容貌は異なるの だが、したたかな策士とはこうしたものか、と何度も思わせてくれる。誰もが結果を知っているストーリーではあるが、”面白い試合を見た”とご機嫌にスタジ アムを後にするような気持ちになった。
最後に一つ私信を書いておく。
ある日とてもチャーミングな大学生に会った。将来はジャーナリストになりたい、と言う。なるほどそれはいいことだ。日本にはまともな ジャーナリストが必要だ(ジャーナリスト宣言を出している某新聞社のような輩ではなく)
彼女は続ける。目標は安藤優子だと。
それを聞いてがくっとする。彼女がジャーナリストだって?あなたの望みって結局日本のTVにでることなの?そりゃ彼女は”日本のジャー ナリストとして唯一”湾岸戦争を現地取材したかもしれないよ。でもジャーナリストは”世界”中からたくさん来て取材してたんだよ。
この映画を見てご覧。合衆国大統領に”インタビュー”というリングで一対一の勝負を挑む。ジャーナリストを目指すのであれば、目標は他 にいくらでもあるのではないか?
ようやくオーケストラのチェリストになった男が、突然職を失う。故郷に帰り”とりあえず話だけでも”と応募した職は納棺職人だった。 というわけで、葬儀屋の下請けとして納棺をする日々が始まる。
白 い死体の顔が化粧を施されることによりあたかも眠っているかのように美しくなる。それは厳粛な儀式なのだが、ユーモアも含めてちゃんと描くところがすばら しい。日本の”芸能”にありがちな内輪受けの悪ふざけでもないし、アカデミー賞をとったということは日本人限定のウケでもないのだろう。
主役は元シブガキ隊の人。”すしくいねえ”とかいって踊っていた頃は単なる派手な顔つきの男と思っていたが、気弱な中に筋の通った男を 見事に演じている。会社社長の山崎、それに事務の女性も見事な芸。
し かし広末某だけはどうにも体質的に受け入れられない。ここだけが単なる役者の地に見えるのだ。とはいいつつも脚本にそった演技はしているなあと思い後で調 べれば、彼女の部分だけはキャスティングの後に書き換えられているとのこと。なるほど、役者を念頭において書かれていたのか。
もう一つ気になったのが、音楽の扱い。これは私だけの感想と思うが、音楽が鳴り響いたとたん、TVの2時間ドラマになる。安っぽく、わ ざとらしいのだ。チェロの美しい響きはそうした演出を要しないと思うのだが、そうでもないのかな。
な どと残念なところはあるが、やはり葬儀は葬儀。順番が反対になってしまうのは本当につらい。順番通りで、しかも天寿を全うしたと皆が 思っているときはどこか陽気ですらある。こうした事も含め、登場人物は台詞で語らず観ている者に何かを感じ、考えさせる。
だ からまあ細かい事は言わずに1800円かな、と思っていた。しかし最後のクライマックスだけはその”押さえた演出”が緩んでしまったように思える。1/5 の時間でも伝えたい事は十分に伝わり、より深い印象を残したのではないだろうか。
コロっ、フラッシュバックする父の顔、そして”父さん”
そ れだけでいいではないか。映画館の中は”普段あまり映画にはこないとおぼしき”高齢の夫婦がたくさんいた。その中の一組が私の前に座り、”あれ、○○だ よ”とネタばれを大きな声でしゃべっていたことばかりが感動を損なったとは思わない。
などとケチを付けてはみるが、良い映画であったことは確か。というか”日本の芸能”などとまとめて”素 人、幼稚、内輪受け”と考えていた自分の不明を恥じる。アカデミー賞受賞という”外圧”でしかこうした作品を知り得ないのは問題であ るなあ、と反省する。
映画の冒頭カストロがゲバラからの手紙を読み上げる。自分は新たな革命に身を投じると。
彼が向かった先はボリビア。そしてキューバで成功したゲリラ戦による革命を再度試みる。捕虜を殺さず、農民を尊敬し、病人がいれば診察 してやり、志願兵を受け入れる。まるで前半そ のままである。
しかしそこからの経過は大いに異なる。映像は山中の道なき道からほとんど離れない。ゲリラの勢力は拡大する事なく、政府は脅威を感じつ つも、米国の協力を得て組織的に反撃してくる。
ほとんどの時間、ひたすらチェ達は山中を移動し、時々戦闘を行い、そして坂道を転げ落ちるように敗退していく。そもそもボリビアの農民 達はこれ以上の革命を欲していないのだ。革命が成れば貧しさから脱却できる、と呼びかけても、彼らの反応は
”戦争はよそでやってくれ”
だけ。
そ れでもチェ達はあくまでも戦い続ける。カストロは豪華なランチを食べ、チェは野宿している。そうした言葉は事実かもしれないが本質をついていな い。チェは自らの中にある革命だけを目指している人間なのだろう。彼にとっては平和な地での生活より、ゲリラとして革命を目指している方が快適なのだ。 キューバではそれが現実と合致しており、ボリビアでは現実から遊離していた。ただそれだけのこと。こうした人間は自身が変わらなくても、状況の変化により 勝ち 続けたり、負け続けたりする。そうした意味ではどこまで行っても平和の中に安住できず、人生の後半は失敗の連続だったヒトラーの姿を重ねることもできるか もしれない。
映像はその姿を淡々と映し出す。主人公が最初から最後までただ負けていく映画は初めて見た。2部作の後半であることを差し引いても、実 に珍しい映画と言わねばならない。そしてその静かな映像にじっと見入ってしまったのは驚きだった。
米国マサチューセッツ州に実在する、平均年齢80歳のコーラス隊。それで聖歌とか歌っていれば珍しくもなんともないのだろう。しかし彼 らと彼女が歌うのはパンク、R&B、ロック and so on。
この映画は彼らと彼女達がコンサートに向けて取り組む数週間を描いたドキュメンタリー。最初は同じように実在のコーラス隊を描いた”歌え!フィッシャーマン ”のような話かと思う。しかし話が進むにつれ映画に引き込まれていく。Shall I stay, or shall I leave ?若い女性が歌えば男相手に決断を迫る歌詞だ。しかし92歳の女性が歌えばこの世に残るか、あの世に行くかの意味になる。
他にも知っているはずなのに驚かされた曲は多い。私と同じ年代の人であれば知っているであろうビージーズのStay'n aliveという曲。それを80歳の彼らが歌えば、まさに”生きていている”という叫びになる。(とはいえ、この場面は唯一映画的演出が過多と思われたの も確かだ が)
平均年齢80歳であるからして、練習も簡単には進まない。なかなか新しい歌詞も頭にはいらないし。あれやこれややっているうち、二人の 団員が死亡する。感謝祭の間はゆっくり休んで、明け たら練習に参加すると言っていた男、そして癌と戦いながら”あと10年は大丈夫”と言っていた男。しかし思うのだ。こういう死に方というのはまさに私が望 むところではないか。最後の瞬間まで自分が好きな歌を歌いたい、歌える、歌おうとしている。
コンサートのシーンでは彼らに捧げる歌が流れる。歌っているのは、心臓発作をおこし、余命2年と言われその期限からさらに4ヶ月 経過した男。映画を見終わってから彼の歌声だけをWebサイトで聞き、印象の違いに驚いた。おそらくは同じ曲を一緒に歌う筈だった男を 思いながら歌い上げる彼の表情は何を物語っていたのだろう。なくなってしまった団員を思いながら全員で歌うNothing compares 2 you.何度も聞いた事がある歌なのに全く違う歌に聞こえる。
このコーラス隊を指揮しているのは53?才の若造。これがまた厳しく、そして愛情を持って接している。というか基本的に相手を”お年寄 り”扱いしていないのだ。当たり前のことだが、プロの歌い手として接している。そうした彼らの間にある信頼関係。”おじいちゃん、おばあちゃんお元気そう で。”といった慇懃無礼な言葉が入る余地は全くない。
そして映画を見ている私にも、彼らの歌は”お年寄りが元気だ”ではなく”彼ら、彼女達の年齢でなければ出せない味をもった歌”として伝 わってくる。うまく表現できないが、余計なてらい、力み、格好付け、打算を若い頃に置き去った、心からの歌声のように聞こえる。
映画を見終わると妄想が爆発する。俺が75になったらこういう楽団を作り、ロックやポップを歌いまくってやる。そして区役所でコンサー トを開き
”おじいちゃん。おばあちゃん。いつまでもお元気で”
と心にもないことをいう司会者に向け
”人の心配をするまえに、自分の健康でも心配したらどうだ”
と言い放つのだ。