映画評
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ボヘミアン・ラプソディ-BOHEMIAN RHAPSODY(2018/11/17)
今日の一言:伝説のチャンピョン
人間社会には伝説が存在する。そこで語られるのは英雄の物語。しかしそれが「実際に起こったことの記述」であるわけがない。語り継がれやすいように編集され伝説となる。
事実と異なるから価値がない?そんな言説とは関係なく伝説は語り継がれる。人間が生きて行くうえでこの伝説がどういう役割を果たしているのかはわからない。しかし人々はそうした伝説によって導かれる。
私は素人バンドでクィーンの曲を歌ったことがある。We are the championsをラジカセで聞いたのは中学の時だったか。そりゃ歌詞を覚えるでしょう。ボヘミアン・ラプソディを覚えて歌おうと思うでしょう。
それは自然にしていたことだが、この映画の最後、Live Aidでの演奏を聴きながら、自分が歌詞を覚えていたことに感謝した。というか驚いた。これらの曲が書かれたのはこのコンサートのかなり前のはず。なのにこの歌詞はフレディ・マーキュリーの人生をそのまま語っているとしか思えない。I don't wanna die.
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映画の冒頭フレディの家族が映し出される。正しく人生を送れ、という父と「それでいいことあった?」というフレディ。バンドに加入し車を売り払ってアルバムを作り、有名になり。しかしフレディの道は定まらない。自分がゲイであることを自覚し、過ちを繰り返す。彼が唯一心を許せる女友達に電話をかけ、部屋の電気を点滅させて合図をおくるところの寂寥感はどうしたことだろう。世界中で知られている有名なロックスターだが個人は個人。
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自分がAIDSを発症したことを知る。病院の通路で、自らの将来を映し出すような男性に会う。彼がLeoという。自分の身分を、そしてAIDSであることを認めていいのか?しかしQueenのフレディ・マーキュリーはどうするべきか?彼はLeoと答える。心を決めた彼は一度は離れたバンドに再び戻り、Live Aidの舞台に挑む。それは出演料なしのボランティアであり、彼は父とハグを交わす。
見終わってから調べれば、彼がAIDSであることを自覚したのはLive Aidの後だったのだな。しかしこの映画は語り継がれるべき伝説。それまでに描かれたフレディの歩んできた道が、歌詞とともに蘇る。途中で自分の顔がくしゃくしゃになる。それがなんの感情なのかはわからない。
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この映画は批評家からの評価は今ひとつと聞く。しかしYahoo映画評を見る限り一般鑑賞者からの評価は圧倒的。ボヘミアン・ラプソディも批評家からは「ありきたり」と酷評されたと聞く。しかし数十年の時を超え、それは歌い継がれている。
この映画はQueenというバンド、そしてフレディ・マーキュリーという男の伝説になる。We are all legend,という劇中のセリフはそのままこの映画に当てはまる。
今日の一言:文科省やるじゃん
予告編を何度か観た。やたら目のでかい幼稚な絵柄。「若おかみ」?「小学生」?もうあれだよね。ひょんなことから旅館の若女将になった小学生がドジをやりながらも奮闘。大失敗をして落ち込んでいると、皆に励まされ最後には一発逆転の大手柄。そして「立派な女将になります!」と決意表明をして皆できらきら、テーマソングが流れるとそういう映画だよね。いつまでそんなことやってるんだ?一遍死んだほうがいいんじゃないの?文部科学省選定ってねえ。
ところが
ネットでとてもよい評判に出会う。絵柄と題名で損をしているとも。その声の大きさは無視できないほどになり、駄目元で観ることにする。
映画の冒頭、確かに主人公たる女の子の絵柄は予告通りだ。しかし他のシーンが実によく考えられ作り込まれていることに気がつく。座り直して画面に注意を向ける。
両親の死という現実に相対した主人公が旅館の若おかみとして成長する。それは確か。しかしその描き方は奇をてらったところが一切なく、私が予想したような定型ではなく、しかし正面から描くという見事な芸。「スパイダーマン:ホームカミング」を観た時はそうした芸に舌を巻いたが、それに勝るとも劣らない芸を日本のアニメで見られるとは思わなかった。確かに主人公が立派すぎるところも、都合がいいところもある。しかしそれは感動を損なうものではないし、肝心なところではちゃんと小学生になる。ちょっと嫌味なキャラクターでさえちゃんと筋が通った人間(こちらも立派すぎるけどね)として描かれている。
もう一つ印象的だったのが、温泉旅館と温泉ホテルの描かれ方。それはもちろん架空のそれなのだが「こんなホテル・旅館があったら、泊まってみたい」と私のようなひねくれ者に思わせる。あといろいろな映画で何度もでてくる「服を買いに行ってあれこれファッションショー」も素晴らしい。これには正直感服した。
そして映画のラスト、冒頭と同じ神社での舞が映し出され、それは別れと成長のシーンでもある。ここで説明が一切ないのもよろしい。人生のイベントに誰も説明をしてはくれない。いつのまにか少女は独り立ちを始める。そんなことを考えると、孫がいてもおかしくない年頃で常日頃映画に文句ばかりつけている私の目には涙が浮かぶ。いや、お見事。
監督は初めて聞く名前であり、脚本家もそれは同様。しかし細田某のように名声しか存在していない人間とは比べ物にならないこの芸はどういうことか。この国にはまだまだ正当な評価を受けていない才能が眠っているのではなかろうか。
ミッション:インポッシブル/フォールアウト:MISSION: IMPOSSIBLE - FALLOUT(2018/08/18)
今日の一言:役者本人が演じる意味
いや、参りました。クソ面白い。
いつものミッションインポッシブルである。どこから強調され始めたかわからないが、今作品でのイーサン・ハントは「とにかく人を殺さない」ことを旨としている。だからいつもの仲間は彼を信頼してついていく。っていうかいつも周りは裏切り者ばかりだからね。
筋は多少ややこしい。しかしそんなことを忘れてもとにかくアクションがド迫力である。自分でもまさかこんな感想を書くとは思わなかった。Matrixでどんなに高速道路を逆走しても「ああ、そうですね」としか思わないし、今はなんでもCGで作れることを「知って」いる。だから何をしても驚かないよ、と思っていた。
でもってこの映画ではトム・クルーズは自ら落下傘降下したり、ヘリを操縦したりやりまくりである。映画を見る前は「はいはいそうですか。いい宣伝材料になりますね」と思っていた。しかし実際に画面で見ると「うわっ、おわっ、うぎゃー」の連続である。本人が演じていることが効いているのか、あるいは撮影方法が巧みなのか知らないが「ああ、そんなところに行ったら死んじゃうぞ」と本気で心配する。それだけでもこの映画を見る価値がある。
トム・クルーズは私より年上である。なのにこの元気さはどういうことか。彼が屋根の上を疾走するシーンだけで「俺も膝が痛いとか言っている場合じゃないな」と思う。
ミッション:インポッシブルだから絶対最後に任務が成功することはわかっている。なのにハラハラ・ドキドキ。そして最後は「あー、面白かった」。いや、お見事。
今日の一言:観ろ!今すぐ観ろ!
廃墟で映画が撮影されている。そこにゾンビが登場。出演者とかスタッフがだんだんゾンビ化していき。あれ?これどうみても画面に写っていない撮影者がいるよね。でもってゾンビはなぜかその撮影者は襲わないよね?あれ?あれ?
ネタバレを恐れないのがこの映画評のポリシーだが、この映画に関してはこれ以上書かない。何を書いても面白さを損なってしまうと思うから。こんな映画評など読んでいる時間があればぜひ劇場で見て欲しい。
しかしそれだけでは説得力がないので、もう少し書く。
一度エンドロールがでて少したってからは爆笑の連続。もうそれは涙がちょちょぎれるほどの。そして映画の最後には感動の涙が混じる。なぜだろう?脚本のアイディアが秀逸だから?おそらくこの映画のような構成をもった映画は世界中にたくさんあるに違いない。たしかに脚本はすばらしいがそれだけが理由とは思わない。ではなぜだろう?
この映画はとんでもない低予算で作られたと聞く。出演者はこれまた無名の人ばかり。最後の皆の「やりきった!」という表情が心に残る。そしてエンドロールでは本当にこの映画を撮影した人たちの姿を見ることができる。私と同じおそらくは無名のスタッフさんたちが。
ラ・ラ・ランドの冒頭のダンスシーンを思い出す。あそこに写っていた名前すらあげられることもない多数のダンサー。あの人たちはどんな気持ちで映画に関わっていたんだろう。
昨今の邦画は「理屈」で作られている。マーケティングやTVとのタイアップやアイドルの登用や製作委員会。リスクを恐れ、同意を得るための理屈だけで話が進む。そこでは「でもってこの映画面白いの」という質問は誰もしない。だって、こんだけ宣伝して、この俳優を起用したからこの層にアピールして、売り上げは、、と理屈は完璧。しかし誰も「いい映画」を作ろうとしていない。
この映画は全く違う。地位も金も名声もない人たちがそれこを身銭を切って作り上げた映画。そこにあったのは
「いい映画を作りたい」
というむき出しの願望ではなかったか。それが多くの人たちに伝わり、2館で上映が始まった映画は、今や大きな映画館で上映される。ここで起こっているのは純粋な感動の連鎖。この映画を見るということはその連鎖に自らが参加するということ。
今有名でなくても、資金がなくても、無給では働かざるをえなくても、自分たちの声を人にとどけ、心を動かすことができる。この映画はそう語っている。だから観ろってば。
おいちょっとまて。なぜ売店にTシャツが売ってないんだ!
オンリー・ザ・ブレイブ:Only the Brave (2018/06/24)
今日の一言:追悼
山火事に立ち向かった消防士たちの物語、と予告編からは受け取れる。となるとあれか。ユナイテッド93みたいに出動から鎮火までをドキュメンタリータッチで描くのか、と勝手に考える。映画の冒頭山火事のシーンがあるが、なぜかそこで炎のクマが走る。なんだこれは。
指パッチンで宇宙の生命を半分殺せる男ことジョシュ・ブローリンが主人公。彼の消防隊は1流の証であるホットショットになろうとあれこれ苦労している。それと並行して麻薬に溺れたダメ男がでてくる。なんだこいつはと思っていると、彼は娘ができたことから真面目に働こうと決心し消防隊に入隊志願するのだった。
最後は必ずひどい火災に遭遇し、危機に陥るに決まっている。そう身構えながら見ているとあらゆるイベントがそれの前触れに見える。あ、火をつける機械が故障した、あっ、ガラガラヘビに足を噛まれた。しかしそれは「消防士たちの日常」である。
おれ彼女に告白しようと思うんだ。俺この仕事が終わったら引退するんだ。来週バンドのライブがあるから見にきてね。わかりやすいフラグが立ちまくったところで「落雷によるちょっとした山火事」が大火事になる。ここらへんから自分が身を乗り出して画面に見入っていることに気がつく。
こうなると知っていたはずなのに。画面を見つめ私は涙を流す。残されたものの嘆きと悲しみの表情。こうなると知っていたはずなのに。
アリゾナだからでてくるのは白人ばかり。昔アリゾナをずっとドライブした時アジア人の私は、白人世界でどこか快適でなかったことを覚えている。しかしそんなことは関係ない。これは人間の物語なのだ。エンドロールで役柄の写真と実際の写真、それに年齢が表示される。20代、30代の若者が。
映画が始まる前に山ほど見た
「和製生ゴミ映画」
とこの映画の差は一体なんなのだ。炎のメモリアルを思い出す。かの国では「ヒーロー」として扱われることが多い消防士。その人たちに対する深い敬意と追悼の意が伝わってくる。全ての中学校で、高校でこの映画を見せるべきだ。もっと多くの人がこれを見るべきだ。
なぜそんなことを考えたのだろう。
レディ・プレイヤー・ワン:READY PLAYERONE (2018/05/06)
今日の一言:俺はガンダムで行く!
スピルバーグがVRを題材にした映画を作ると聞いた。どーんなだろうなと思っていると米国での評判はいいような悪いような。。とにかく見てみないことには始まらないというわけで観に行った。
物語の舞台はオハイオ州コロンバスとVR世界の中のOASIS。なぜコロンバスか、というのは米国人なら笑えるのだろうか。主人公は何をして生計を立てているかわからないがVR世界に慰めを見出している。
でもってその世界を作った男が「三つの鍵をみつけたら、遺産とOASISの管理権をあげるよ」と遺言を残した。かくして皆で鍵探しが始まったのであった。
というところからして話は正直どうでもいい。VR世界に綺麗な女の子が出て来る。現実世界の彼女が「Detroitに住む体重140kgのデブ」だったらもっとよかったのになと思うが、残念ながらそういうことはない。分かりやすい敵役がおり、それとの戦いに皆が参加し。いや、本当にどうでもいい。
しかし
観終わったとき、私の目には涙が滲んでいた。この映画はスピルバーグのおもちゃ箱をひっくり返したようなものだ。それはただ集めただけでなく、それぞれに深い理解と愛情が注がれていることが伝わってくる。今やシャイニングを完全にCGの中で再現することができるのだな。あのホテルで黄色いボールが転がってくる。ああ、そっちに行っちゃだめだ。
Youtubeにあがっている動画を見ると、この映画に秘められた「イースターエッグ」は300以上にも上るらしい。私が理解できたのはその何十分の一でしかないだろうが、それでも目に涙を浮かばせるのに十分。アメリカの映画で日本人の少年がこんなにかっこよく描かれたことがあっただろうか。悪の親玉が乗り込む「メカゴジラ」にたち向う時、彼は
「俺はガンダムで行く!」
と日本語で言う(ここだけ英語の字幕がでる)このガンダムのかっこいいこと。ああ、どうして日本人にこれができないのか。
そう考えると私の目に浮かんだ涙は半分悔し涙だったかもしれない。ベイマックス を見た後のように。ええい。理由はどうでもいい。どうでもいいストーリーでも、都合がよすぎても、私はこの映画に心を揺さぶられた。だから1800円。
あと「悪い会社のブレインたち」がまるっきり「自分の知恵を使うことだけの興味があり、その結果どうなろうと知ったことじゃない」のが笑えた。だって、主人公がナゾを解くと拍手してるんだもん。ここらへんの描写はさすが。
今日の一言:pixar最後の輝き?
メキシコにも日本のお盆のような風習があるらしい。一族の写真を祭壇に飾り祖先の霊を迎え入れる。日本だったらナスとかキュウリに乗るんだろうか。
さて、靴職人の一家に生まれた少年。その一族では音楽が禁じられている。なぜならひいひいばあちゃんの旦那が家族を捨て音楽の道に進んだから。彼の顔は写真の中で破り取られている。しかし少年は心に宿る音楽への憧れを隠しきれず、その道のスーパースターだった国民的歌手に憧れている。
ここまでくると「家族に押しつけられた夢なんか捨てて、自分の夢をかなえるんだ!」に思えるがどうにも危うさが漂う。その国民的歌手も実にうさんくさい。これはどう決着をつけるのか、と興味を持って眺めていれば。
映画の後半はそういう余分なことを一切(ほんとうはちょっとあるのだが)考えなかった。頭をよぎるのはいくつかの思い出。昔メキシコで友達の結婚式に出席し、二次会で皆が歌って騒いでいる場所につれていってもらった。本当にメキシコ人は歌うのが好きだ。飲み屋を流しがまわってきて演奏をしてくれる。本当はその日体調が悪かったのだが、そんなことはすっかり忘れて彼らの歓待を堪能した。そして2週間前になくなった父。実家に飾ってある父、祖父、祖母の写真。思い出。
最後リメンバー・ミーが歌われるところでは周りから鼻をすする音が聞こえる。自分の頬も濡れていることに気がつく。それはなんの涙なのかはわからない。
家族で見に行った。映画の後食事をしたのだが、映画自体についてはあまり語られなかった。つまらなかったからではなく、皆が自分の心の中で感動を咀嚼する時間が必要だったから。
ちょっとだけ気になったのは、主人公が高いところから落ちるところで、トラさんが助けてくれるところ。あそこだけは普通のハリウッド映画っぽかった。なくてもよかったんじゃないだろうか。
いや、それも些細なこと。死後の世界を描く映像の素晴らしさに驚嘆し、ディズニー名でリリースされる作品とは異なるいかにもピクサーで完璧な脚本。トイストーリー3を最後に低迷を極めていたピクサーに何が起こったのか。 とはいえ、これでピクサー復活とは考えられない。今ピクサーで予定されているのはインクレディブル2にトイストーリー4。もはや過去の作品の続編しかないのだ。となるとこれは最後の輝きになるのだろうか。
ペンタゴンペーパーズ:最高機密文書 :THE POST(2018/03/31)
今日の一言:熟練の技
アメリカ人はとても歴史が好きだと思う。日本だと関ヶ原とかばかり言っているし、歴史に対して興味はないから本筋と関係ないアイドル出すけどね。
というわけでこの映画で扱われるのはニクソン政権下で発覚した政治的スキャンダル。といっても対象はニクソンではなく、トルーマンからジョンソンに至る歴代大統領。彼らは皆ベトナムへの支援が無駄に終わることを知っており、そのことを隠してひたすら戦争に邁進していった。
「本当のところこの戦争勝てるの?」というリサーチがちゃんと政府内部で行われているのも面白い。そしてそれを公表することに対し、廃業の危機に直面しながら「ジャーナリズムの矜持」を貫くのも興味深い。まさか朝日新聞はこの映画を見て「森友にまつわる改ざんを報道した我々も素晴らしいジャーナリストだ」とか悦に入ってないよね。
という背景はさておき、才能ある旦那が自殺したため、社主をついだのがメリル・ストリープ。モデルとなった人の子供が証言する「母は自分に自信がもてない人でした」を熱演する。その観点からすると、「気弱な社主が立派な決断をするところ」はもうちょっとなんとかなったのではないかと思うけど、それは些細なこと。彼女が不安を抱えながら銀行家との会議に臨む場面では、観客である私の心拍数も上昇する。
彼女を支える編集長?がトム・ハンクス。こちらも安定のすばらしさ。監督はスピルバーグとなればこれは熟練の技を安心して楽しめば良い。映画の最後に映し出される「ドアロックに無造作に貼られたガムテープ」だけでアメリカ人の多くはウォーターゲートとわかるんだろうな。
シェイプ・オブ・ウォーター:Shape of Water(2018/3/11)
今日の一言:いろいろな形
映画の冒頭水没した廊下にカメラがはいる。なんだこれは。そもそも「水の形」とはなんのことなのか。
聴力は問題ないが喋れない女性が主人公。よくこの役者を持ってきたと思う。典型的な美人ではない。しかしどこか不思議な魅力を持っている。彼女にちょっかいをだそうとする「イヤな役人」は大抵の男の中に住んでいるのだろう。彼女の向かいには会社を首になった画家が住んでいる。あれ?この二人仲よさそうだけど、男女の関係は全く、、と思っているとその理由が明かされる。そうだね。今の時代だったらまだよかったと思うのだけど。映画の中では米ソがミサイル・ロケット開発を競っている。
米国政府の秘密基地にも雑役婦は必要。主人公は黒人女性(この人どこでもでてくるな)と組んであちこちを掃除する。そこに運び込まれてきたのは半魚人。女性はその半魚人を恐れるよりも興味を抱く。
一見とっぴな組み合わせにも見えるが、映画は丁寧に丁寧に「二人」の愛を描く。解剖して中身を調べたい米ソと、その狭間で苦悩する科学者/スパイのディミトリ。その揺れ動く気持ちが観客にも伝わってくる。こうした映画に必要な「悪役」ですらこの映画ではどこか「我と我が身」を感じさせる。自分の指が腐り始めているのに「ねえ、犬飼いたいとおもうの」と無邪気に語りかける妻。確かに権威は持っている。しかしそれはボスである元帥の気分のまま。いつまで「成功」を積み重ねればいいのか。そうした心の隙間にもぐりこんだ古典的高級車は滑稽とも、哀れとも、「あるある」とも思える。彼が元帥と話すシーンは監督がスタジオの偉いさんと話すシーンそのままなんだそうだが。
LA LA LANDばりのミュージカルシーンは、少し浮いているかな。しかし丁寧に真面目に愛を描いたこの作品は見ている側の心に残る。アカデミー賞の投票権を持っている人たちが何を考えようが考えまいがいい映画。
gifted/ギフテッド:GIFTED(2017/12/29)
今日の一言:肩をぽん、と
小学校1年生にして、MITの教授が出題した数学の問題をすらすら解いてみせる少女。2+2=?とか退屈で叶わない。
一緒にいるのはボートの修理を生業としている男性。祖母は英国人でとても厳格。彼女をどう育てるべきなのか。普通の学校で普通の人生をおくらさせるべきか、あるいは特殊な学校に通わせ100万人に一人の才能を開花させるべきなのか。
「よくある話」なのだと思う。しかしその「よくある話」をきっちりと観せる技は見事。祖母は男性と裁判で争うことになる。双方についている弁護士、判事、それに少女の担任教師。それぞれの脇役が見事な存在感を見せる。考えてみればこの映画にはイライラさせるバカがいない。
男性はどこかで見た名前と顔だなと思えば、キャプテン・アメリカ。彼は単なるムキムキではなくいい役者なのだな。そして何よりも強烈な印象を残すのが天才少女。数学の難問に取り組む表情、校庭で友達とはしゃぐ姿。それらを見事に演じ分けて見せる。マルモリの女の子も見事な演技と思っていたがそれどころの話ではない。
こうした設定ならば最後にどうなるかは誰もが分かっている。しかしありきたりな「父の愛情が勝ちました」ではない。誰も自分が正しいことをしていると確信できないのだ。しかし確信がなくても勇気をもってそれぞれに進もうとする。
考えてみれば現実世界もそうではないか。正解がわからなくても、とにかく進むしかない。それが一番いい方法だと確信しているのか?と聞かれNoと答えるキャプテンアメリカは現実世界の我々の姿でもある。
この映画を観ると「それでいいんだよ」と肩をぽん、と叩かれたような気になる。キャプテン・アメリカにそう言ってもらえるなら心強い。というわけで年末に観るのにちょうどよい映画であった。来年もがんばろう。
ブレードランナー 2049:BLADE RUNNER 2049(2017/11/3)
今日の一言:最後は誰も一人
ブレードランナー(無印)は未見。しかしハリソンフォードがでていたことは知ってます。映画の冒頭説明がでるからそれだけ読んでおけばよかろう。
監督はメッセージの人。主役はライアン・ゴズリング。とはいっても歌って踊りはしない。役柄とはいえ彼は全く笑顔らしきものを見せない。感じるのは
「そもそも人間とはなにか。人間らしさとは。自分とは」
という問い。ゴズリングと暮らしているのは電源をいれる時起動音がなる「製品」。しかし見ているほうも彼女の「愛」が本物なのか、それとも単なるプログラムなのか揺れ動くことになる。街中にある巨大な広告映像とおなじ「製品」ということはわかっている。なのにみているうちに「もうどちらでもいいじゃないか」という考え出す。でもどうだろう。もし自分が惚れた相手が
「うん。そうプログラムしておいたからね」
と言われたらやはり動揺するだろう。それはなぜだ。
レプリカントと呼ばれる人造人間。人が作ったものだから大人の形で「製造」されるのだが、子供のころの記憶が埋め込まれる。しかし埋め込まれた記憶とはなんなのか。さらに人造人間が子供を出産したらしいからいろいろな人たちが大騒ぎを始める。人造人間は「大義のために死ぬことは人間らしいことだ」という。しかしそもそも人間らしい、とはなんなのだ。
映像は美しいが長い。途中で「この映画は永遠に続くのではないか」とちょっと退屈する。しかし後半それまでの想定がひっくり返るところから話は静かに、そして激しく終結に向かう。というか何の結論も得られないのだけど。世の中はそうしたものか。
最後のシーン。降りしきる雪の中、階段にゆっくり腰を下ろすゴズリング。悩んだこと、考えたこと、悲しんだこと。そうしたことを経て、映画は寂しく静かに終わる。見る人を選ぶ映画だと思う。幸いなことに私の心にはこの映画のいくつものシーンが残っている。エンドロールでジャレッド・レトーが出ていたことを知り驚く。そうか、あの会社社長が。
ドリーム:Hidden Figures(2017/10/9)
今日の一言:映画の嘘
現実世界では数年にわたって行われたことを、映画では2時間ちょっとに収めなければならない。しかも世に知られていない物語を語るためには観客への説明もしなくては。
それゆえ映画には「嘘」が必ず含まれる。複数の人物を一人にまとめたり、あるいは話を単純化するためわかりやすいキャラクターを作り上げたり。しかし私の考えではこの「嘘」には「良い嘘」と「悪い嘘」がある。
「悪い嘘」とは話を作り上げる側の都合のためのもの。主要人物が都合よく瞬間移動したり、「実はこうでした」と観客を置いてけぼりにした設定が披露されたりする。映画を作る苦労はぼんやり想像しながらも、そういう嘘をつかれるとげんなりする。
この映画にも「嘘」がたくさん含まれている。しかしそれは現実に起こった事、生きた人間に対して敬意を払った上の嘘であることが伝わってくる。主役は三人の女性。NASAの初期の宇宙計画で計算に活躍した女性、初の黒人エンジニアとなった女性、それにプログラミングを担当し、初の管理職になった女性。
これは「嘘」らしいのだが映画の中のNASAではトイレ、それにコーヒーポットもColoredとそれ以外に分けられている。私が幼かった頃、アメリカにはこういう州がまだ存在していたのだ。映画の冒頭車が故障し黒人女性三人が立ち往生する。そこにパトカーが通りかかるのだが、女性たちは「これで助かった」という表情を浮かべない。緊張し、言葉に気をつけろとお互い注意する。そういう時代だったのだ。
この映画に描かれているのは、そうした世界でなんとか自分の道を切り開こうとした人たちの姿。それが極東の島国に住むアジア人老人の心を揺さぶるのは、必要な「嘘」を交えつつ普遍的な人間の物語を描いているから。
と思ったがアメリカで初めて地球を周回したジョン・グレンが「あの女性に計算をチェックさせろ。彼女がGoなら俺はGoだ」というセリフはいくらなんでも作り過ぎだろうと思っていた。見終わってから調べれば本当にそう言ったらしい。
彼女たちの道の開き方に比べて、お前はなんなのだ。ぐでぐで文句言っている場合か、という気分にさせられるのはつらいが嬉しいことでもある。白人の女性管理職はどこかでみた顔だなあと思えば、スパイダーマンのキルステン・ダンスト。まあ立派に老けて。ケビンコスナーもかっこいいぞ。黒人女性たちは最初「あまり趣味じゃないなあ」と思うが映画が終わる時にはどこか素敵に見えてくる。お見事。
それとともに
この名作に「私たちのアポロ計画」などというデタラメな副題をつけようとした日本の配給会社には怒りしか感じない。売れりゃなんでもいいのか?嘘も方便で、観客はバカだからわかりやすい言葉を並べればいいのか?黒人とみればゴミを片付けさせるように、観客はバカだからアポロもマーキュリーも一緒でいいんだよ!とでも思ったか?
スパイダーマン:ホームカミング:SPIDER-MAN: HOMECOMING(2017/8/19)
今日の一言:脚本の技
最近日本のTVがつまらないのは、あれやこれやと制約が多いからだという意見を目にすることがある。そういう寝言を言っている人はこの映画をみるべき。どんな制約を満足しているかといえば
・登場人物が白人ばかりではいけない。黒人、アジア人、インド系などとりまぜて
・エログロは絶対禁止。小学生が見ても大丈夫なように。
・そもそも人が死ぬのもいかがなものか
・スーパーヒーローはいつも通り大活躍しないとだめ
・高校生の青春ものの要素をちゃんと取り入れて
・しかも「ありきたり」のパターンは使用禁止
これだけ制約がある中で、面白い物語を作ることができるか?驚くべきことだがこの映画を見るとその回答はYesである。
ちょっと無理もあるがこの映画では人が死なない。悪役ですらちゃんとした「法の裁き」を受ける。スパイダーマンを取り囲むのはアジア系のオタクデブに、黒人と白人のハーフ、それにちょっと肌が浅黒い変わった女の子に少し嫌味なインド系。よくもこうもちゃんと混ぜたものだ。
自分がスーパーパワーを身につけ、あこがれのアベンジャーと一緒に戦う。しかしまだ扱いは「見習い」。なんとか自分を認めさせたい、という若者の焦り。気になる女の子がスパイダーマンのファンだという。「実は僕が」と言ってその女の子の前でカッコよくしたい気持ち。そういう「あるある」な要素をちゃんと取り入れながら例えば「彼女の前でカッコつけようとして、結局彼女を死なせてしまいました」といったことにはしない。
振り返ればこの映画は、少年が自分の周りをなんとかしたい、そうした気持ちからひたすら頑張る姿を描いている。スーパーパワーは偉大だが、それはすべての問題を解決してくれるわけではない。日本のヒーロー物にもそうした要素はあったが、マーベルコミックスはそうした現実をより深く考えているように思える。それゆえこの映画のスパイダーマンはちゃんと
「真面目な高校生」
に見える。「ここから落ちたら確実に死にます」という場面では見ているこちらもムズムズする。どこに糸をかけているか問わないのがお約束のスパイダーマンだが、広い草原では走るしかない。これには笑った。がれきの中から必死に這い出る場面では見ているこちらにも手に汗握る。ヒーロー映画だからいいものはやられない、とわかっているのに。
飛行機の上での最後の戦いがちょっとわかりにくかったとか減点要素は確かにある。しかしこの脚本には本当に驚かされた。私が映画会社の社長なら
「この脚本家にいくらつんでもいいから契約しろ」
と命じるところ。こういう映画を見るとやはり映画において脚本は大きな要素を占めているなあと思う。監督、脚本家の今までの作品をみると小品ばかりのようだが。
注釈