日付:1999/2/24
前書き私は1998年10月1日から2000年11月30日までNTTソフトウェアという会社に在籍した。この集団-正直言えば私は会社と呼ぶのも過大評価ではないかと思える-を表すのに適当な表現は
「電電爺の幼稚園」
であり、私が見知ったNTTグループの基本ロジックというのは
「自分だけがよければいい」
である。あるいはこういっても良いかもしれない。私はこの2年あまりの間に「能力傲慢比」という指数を開発した。分母に傲慢な度合い、分子に能力を持ってくる。
NTTにいる人間より無能な人間はいくらでもいる。NTTにいる人間より傲慢な人間はいくらでもいる。しかしこの「能力傲慢比」を使うとおそらく頭3文字NTTの会社に勤めている人間は抜群の成績を示すはずである。
そんな人間の中ですごした2年は決して楽しいものではなかった。しかしそれも私の人としての日々の一部であり、すばらしい人間との出会いもちゃんとあったのである。
私はこの文章を二つの目的のために書こうと思う。一つはこの恐ろしく、そして素晴らしい経験が記憶の中に消えていってしまうのを少しでも防ぐため。そしてもう一つは私の頭の中からNTT時代のひどかった記憶を追い出し、もっとまともで有意義な事を考えるためのスペースを作るためである。それでなくても老化によって脳の容量はへりつつあるのだ。有効に使わなくては。
この文章を書き始めたのは1999年の2月。そこから相当の間ブランクがあり、2001年にさらに書き足しをしている。ひどくまとまりが悪いものになるだろうが、私は開き直るつもりである。
その日は久しぶりの雨だった。私が10月に関東エリアに来てからと言うもの、ほとんど空から何もふってこないのである。1月くらいには「記録的なからから天気」とかなんとか言っていたような気もするが、まあ水不足になって節水制限でもはずまらないかぎりあまり影響はないのである。最も家計を預かる身であれば野菜の高騰はおそらく大変いたかったことだろう。
私は6時で会社を抜け出た。当時は大きな声では言えなかったが、ほとんどやることはなかったのである。私はある会社に派遣となって働いていた。これは私が9月30日までは夢想だにしなかったシチュエーションだ。私の上には上司兼客先の人間がいた。そして彼は信じられないほど仕事の組立が下手だった。
ここで彼の事を非難するつもりはない。すべては過去のことだ。しかし結果として私は何もやることがなく、しかしそれを言ったところで彼は私にその場で思いついた仕事をアサインし、そして結局はその仕事を自分でやるだろう。そして彼は「上司」ではなく、「上司兼客先」であるから、それに文句を言うこともできない。従って「一日仕事をしているふりをしてすごす」毎日だったのである。派遣社員と正社員の間には深くて長い溝がある。派遣社員は自分で仕事を組み立てることは必要ないし、かえってそんなことは有害だ。言われたことを何も考えずに黙って多少下手でもやることが求められるのだ。ホワイトボードに”1+1=3”とかかれれば、「それは2ではないですか」と言ってしまう私は最低の派遣社員であっただろう。
6時に会社を飛び出すと、外はぱらぱらと雨が降っている。しかしここから駅まではなんともしようがない。ありがたいことにそんなに雨はひどくないようだ。小走りに品川駅に向かった。
私は元来傘をあまり持ち歩かない人間である。従って外でひどい雨にふられれば、傘を購入するしかない。しかしこういうことを繰り返していくと部屋の中は傘でうもれてしまうことになる。それがいやならば傘をかわずに我慢して家までたどり着くしかない。この日は幸運に品川から座ることができた。席について狭い中を無理して愛機Powerbook2400を広げて、ホームページの一節を推敲しだした。1999年3月1日という日付ではじまるその文章は「2月は終わり、私はまだここにいる」という言葉で始まっていた。
ここ数日私の調子は特によくなかった。最近自分の写真をとることがあったが、それに写っているのは背筋が曲がった(本当に曲がっているわけではないのだが)どこかおびえたような、「話しかけないでくれ」といった表情をしている中年男である。私はこんな顔をしているのか。10月1日にとった社員証の写真は多少ふとってはいるが、気力充実した顔をしていたが。そして日にちは過ぎていき、私の気力はつきていった。月曜日の晩は身動きもせず体をエビのように曲げて布団のなかで寝ていた。小学生の頃「1999年7の月に空から恐怖の大王が降ってくる」という予言を聞いたとき「そうか。そのころは36か。どんなになってるのかな」と思ったものだ。その年になった今私は相変わらず6畳一間のアパートで埃にまみれ、何も持たずに暮らしている。後ろを振り返って悔いることは最低の時間の過ごし方だが、この数日私は時々「何故このようなことになったのか」という自問自答が頭によぎるのを押さえることができなかった。そんなことを考えながら私は自分の体が縮んでいくような錯覚にとらわれていた。
私は床につくのがとても早い。だからその後に電話がかかってきても不思議ではない。しかし次に時計を見たときは朝の5時40分だった。もうおきなくちゃ。ということは結局今日も電話はなかったわけだ。すこしため息をつく。
次にやることはNiftyのアクセスである。メールを、そしていくつかの会議室の内容をまとめてダウンロードする。読むのは電車のなかだ。画面上に流れる文字を見ていた時にめったにお目にかかれない「五郎の部の感想」というメールのタイトルが目に入った。これは誰かが私のホームページからメールを送ってきたことを意味する。おまけにやけに長文のようだ。何人かよくホームページからメールを送ってくれる人がいるが、それらはいつも短いメールだ。こんなに長文なのは、、またマルチの勧誘のメールか何かであろうか。
7分ほどあるいて駅にたどりつく。鈍行列車がはいってくるとそれにのる。運がいいと横浜をすぎたところで座ることができる。そこからしばらくの間はしばしパソコンを開いてメールを読んだり、返事を書いたり、このホームページにのせる文章を書いたりする。この時間が無ければこのホームページはとっくの昔に更新が止まっていただろう。アパートにいる間は呆然としているだけだからとても文章を書こう、などという気は起こらない。隣に布団があるのだから、たちまちそこに潜り込んで寝てしまう。
さてメールを読むまでの間、私は自分に言い聞かせていた。あれはきっと「奇跡のダイエット薬」を売り込むマルチのメールだと。だいたい私のホームページに対して感想を寄せてくれる人はそう多くはないのだ。またこうして悪い予想をたてて自分に思いこませることは今の私にとっては一種の防衛策でもある。希望があれば失望がある。最悪の状態を考えてそれに準備しておけば、何が来ても(予想外の最悪の場合で無い限り)その知らせは救いとなるのだ。
さてそう心の準備をして私はそのメールを読み始めた。読み終わると何度か読み返した。そして少しだけ頭が抑圧された状態から解放されたように思えた。
そのメールは私のホームページを丁寧に読んでくれた人(もちろん面識はない)からのもので、とても丁寧な文体でつづってあった。私にとってはホームページに書き散らした駄文を丁寧に読んでくれる人がいる、というだけでとてもうれしいことなのだ。しかもその人は私が文章を書いているときに何を考えていたか。何を思っていたかまで読みとってくれたのだ。この人は私が書いた文章をちゃんと読んでくれた。
そしてその人は「世の中には「変」なものを愛する人もたくさんいます」と書いてあった。あたりまえのことかもしれないが、今の私にこの言葉はうれしかった。
私が表層だけみているのかもしれないが、当時働いている職場の人達は人間が善良であることはともかく、話の内容に一定の規則がある人達であった。(もちろんこれは私から見ての勝手な判断であるし、名誉ある例外は多々あったのであるか)長い間の観察から、彼らは「計算機」に関することと、自分がした仕事の話し以外にはほとんど興味を持っていないようだった。それは極めて常識的な話なのかも知れない。世の中の多くの人はそうしたものかもしれない。しかしそれは私に以前働いていた職場を思い出させた。宇宙飛行士の公募があるといえば、同じ職場から5人も応募者がでる職場のことだ。賭けてもいいが仮に今の職場でその話を持ち出しても「へー」の一言でおしまいであっただろう。しからばもっと彼らが興味を持つ話を、と仮に私がNASAの計算機システムで研究をしたことがある(そんなことはしたことはないが)と話し出したとすれば「いや、僕が経験した仕事は。。」とどこかの出版社のシステムの面倒を見たときに徹夜した話を20分ほど聞かされるのが山だっただろう。
そうした「変な」私にとって常識のある人達にかこまれているのはとても平和ではあるが、抑圧された環境だった。実際この職場に来てからというもの、私が筆記式の健康診断に答えれば結果は
「情緒不安定。抑鬱症。消極的。なのに短気かというとそうではなく、苦労性かというとそうでもない。生活はまあ規則正しいが、身体のストレス傾向(心身症)は86%。精神のストレス状況(神経症傾向)も同じく86%。診断には身体的、精神的なストレスがやや多いようです。いろいろな身体上の不調の原因となっている可能性があります」
というものだったのだ。
そうした私にこのメールは少しだけ息をつかせてくれた。その日は久しぶりに背筋をしゃんと伸ばして電車を降りて職場に向かうことができた。何が変わったというわけではない。心持ちが変わっただけなのだが。これで少しは長く持ちこたえられそうだ。
そうした文書を書いている間に、電車は弘明寺についた。改札をくぐり抜け表に出てみると先ほどより雨は多少多くふっているが幸いにも傘を購入せずになんとか家にたどりつけそうである。それからおよそ10分くらいの間私は多少うつむき加減に家路をいそいだ。仕事のことなどを少し考えながら、しかし雨がふっていてかえっていろいろなことを考える余裕が無かったのは幸いだったのかも知れない。今は私は自分の力で職場の仕事をやり方を変えることはできない-仮にそれが小さなグループであっても-立場にある。あれこれ考えたところでフラストレーションが増すばかりで何の解決にもならない。考えて無駄なことならば考えない方がいい。この時期私はときどき自分にロボトミー手術をしたくなる衝動に駆られていた。視野が狭い人、願望が現実に見えてしまう人はなんと幸いであることか。
さて家に帰り着くとまず郵便受けを覗く。ここ数日私はある電話を待っていた。しかし先日ふと気がついた。電話でなくて手紙がくる可能性もあることに。そしてこの場合手紙がくるということは、私が進む道が、ロボトミーを逃れて暮らせる道が又一つ消えたことを意味するのだ。郵便受けの中にはいくつか広告が放り込まれていた。そしてそのなかに一つ封筒があることを見て取った。なんということだ。
「あーあ」と声に出してその封筒をよく見ればそれは東京ガスからの料金払込書であった。まだ結果はどちらともつかないようだ。
部屋に飛び込むととりあえず電気をつけ、鞄を放り投げる。そこらへんなひどい惨状だが、とりあえず獣道のように一人が暮らすのに必要なスペースだけは確保されている。さっきコンビニで買った饅頭をおいてとりあえず着替えることにした。親愛なる東京ガスの振り込み様式をみればMT帳票だ。この5ヶ月の間にそんな言葉を覚えてしまった。そしてその代わりに何かをずっと失いつつある気がする。
よれよれの穴だらけのセーターとこれまた崩壊しつつあるジャージに着替えると階段を上る。私の電話、コンピュータ、机それに布団はすべて中2階にある。最初はなんだかへんな構成だと思ったこの部屋もなれれば結構快適だ。そして視線はまずAnswering Machine(留守番電話の機械)に向かう。そこに赤いLEDがあり、それが点灯していればメッセージがはいっている印なのだ。
ここ数日はこのLedを見てはため息をつくことの繰り返しだった。このAnswering Machineはアメリカで買ったもので、日本ではこうしたシンプルな外付けの留守電の機械自体を見つけることが難しいかも知れない。アメリカと日本の電話の鳴り方はちょっと違うから彼は(彼女かも知れない)ときどき変なことをやるがもう8年も元気にはたらいていてくれている。(そうだ。もうそんな長い期間になるのだ)私の留守電メッセージは心構えをしなかった人を沈黙せしめるに十分な異常さをもっているのであるが、彼はそれをいつも律儀に繰り返してくれる。
さて今日のLEDは。。。。ついている。点滅の仕方は一つメッセージが入っていることを意味する。それを見るとしばらく見なかった振りをして、椅子に座り、暖房をつけた。この部屋は私が一人で暮らした数多い野部屋のなかでごく少数に属する冷暖房完備の部屋なのである。頭はまだ先ほどの雨で濡れている。こんなところで風邪をひくのはもうごめんだ。
椅子に座るとまずNiftyにアクセスしだした。これは私の朝夕の日課である。メールをチェックするとともにいくつかの会議室を巡回する。College Footballの会議室ではときどき私の名前が取りざたされている。その会議室で一二を争う狂信的なファンだからだ。しかしその会議室に書き込みをしなくなってからしばらくなる。College Footballに興味がなくなったわけではない。その会議室の内容に興味がなくなったわけではない。(実際読むことだけは続けているのだ)心に余裕がなくなって書き込みができなくなってしまったのだ。College Footballを愛するというのは、余裕を持って狂信的に応援することだ、と私は思っている。心に余裕がなければ、楽しくCollege Footballで騒ぐこともできない。余裕こそこの数ヶ月の私にとって縁遠い言葉となっていたものなのだ。
さてNiftyのログが画面を流れている間、私はLEDの点滅を見つめていた。今まで何度か意味不明のメッセージがはいっていたことがあった。無言で切れているもの、全く違う人間へのメッセージが入っているもの(私は留守電のメッセージのなかでちゃんと名乗っているのだが)何かの勧誘のメッセージ。
今はそんなものを聞きたくはない。そして電話を待っているときにそうしたメッセージが流れてくるのはとてもつらいものだ。以前はそうした状況でしばらく呆然として動けなくなってしまったことが何度もあった。待ち望んでいるのとは違う声で「今度の合コンですけどー」というメッセージが流れて来たことが何度あったことか。
本来留守電のメッセージを聞くときにはメモの用意が必要だ。相手は名前と電話番号を言うかも知れない。普通メモにはコンピュータを使うが、彼は(これまた彼女かも知れないが)今通信でとても忙しい。私はConventionalな紙とボールペンを準備して、心の準備をして再生ボタンを押した。
「五郎様にお電話をしております。先日お問い合わせいただいた件で、お話したいことがあります。03-XXXX-XXXXX,までお電話ください。私E-Mともうします。失礼します」
最初電話番号が聞き取れなかった私はこのメッセージをもう一度繰り返して聞いた。これは何のことだろうか?
最初は希望的観測が頭をもたげた。これこそが待っていたメッセージなのだ。相手はこちらが一人暮らしであるという確証をもてずに、わざと何のことか私にしかわかないメッセージの残し方をしたのだ、と。
しかし次にもっと現実的な考えが頭に浮かんだ。これは英会話か何かの売り込みではないか?
前に東京で学生をやっていたときに、ときどき玄関の戸に紙が挟んであることがあった。開けてみると「お話ししたいことがあります。お留守のようでしたので、XXX-XXXX番まで電話をください。○○(名前)」と書いてある。(このころ東京はまだ9桁だったのだ)
なんだろう?このメッセージは?結構綺麗な字だな、、などとちょっとどきどきしながら指定された電話番号に電話をすると、帰ってくるのは「はい。○○英会話教室でございます」という元気な声だ。要するに英会話の勧誘なのである。不思議なことだがこの手口は愛知県では(少なくとも私が住んでいたところでは)あまりはやらないようだ。去年こちらに戻ってきてしばらくして玄関の扉にこの紙がはさまっているのを見たときは、まるで昔の友達にあったように「Hi, ひさしぶり」と言ったものである。
さて時代は変わり、電話番号もあちこちで流れるようになった。(昔もこうした名簿の流失はあったのだろうが)この電話はその「扉に挟まっている紙」の変形版ではないか?だいたい用件を正確に名乗らないのがおかしい。今まで同じ様な電話を待っていたことがなんどかあったが、それは全て用件を正確に言っていたのだ。
しかしこうして一人でもんもんと考えていても何も解決しない。相手が何物であろうととりあえずかけてみるしかないのである。私はまず雑誌を手にとってそれに書いてある電話番号と符号するかどうか確かめた。雑誌に書いてあるのはフリーダイヤルだった。そして「やはり英会話か」と思った。相手がその雑誌に広告を載せた人間であるとすればそのフリーダイヤルの番号を言えばすむ話だ。またメッセージを待つ日が続くのか。
しかしとりあえず電話はしてみよう。英会話教室の勧誘でも暇つぶしにはなるな、、そう思ってダイヤルを回し初めて、いったん切った。頭に184をつけてナンバー非通知にしなくっちゃ。ちなみにかかってきた電話も非通知だったようだが。
受話器を耳にあててしばらく待つ。「○○英会話デーす」の声が流れてくれば即刻電話を切るつもりだ。呼び出し音が2回ほどした後にメッセージが流れ出した。
「はい。M○、採用部のE-Mです。ただいま電話にでることができません。ビープ音の後にメッセージをお願いします。後ほどこちらからかけなおさせていただきます」
Yes!これで少なくとも八方ふさがりの状況からは脱出できる。事の正否は当面の問題ではない。とにかく一歩でも、その先が泥沼であっても踏み出すことが今の私にとって必要なのだ。
一種の防衛策:このテクニックは私が愛する米国のコメディ番組Cheersで、精神科医の Fraiserが使ったテクニックである。妻が浮気を告白する前に「座って話をしましょう」と言われる。「そうか。座って話をしなくてはならないくらい悪いのか。。ちょっとまて一番悪いことを想像するから。。それが想像できれば何を聞いても救いになるわけだ。。。OK。君のニュースはなにかな?」「今日の午後、私浮気をしたの」"That was it, that is the worst thing I imagined. You slut !"と叫んでFraiserはバーを走り去っていくのだ。本文に戻る
5人も応募者:この件については「府中へ」を参照のこと。本文に戻る
視野が狭い人、願望が現実に見えてしまう人はなんと幸いであることか:(トピック一覧)この言葉を私に向かって投げつけたい人もいるだろう。本文に戻る