日付:2002/11/26
私は哲学という言葉に対してなんとはなしの嫌悪感を持っている。中国の諸子百家について読むことは好きだし、ソクラテスの弁明なんぞ読むと
「このおじさんは結構面白いやつかもしれない」
と思う。しかし他はどうもだめだ。人の薦めで「ヴィトゲンシュタイン」という人の本を読んだ時は3ページ目で鼻血を出して倒れた。また別の人からカントの本を借りて読んだ時は、当時の乏しい観測結果から直感と観念だけで「宇宙はこうなっているはずだ」などと数十ページに渡って述べているのを知り「何だこれは」と思った(そのこと自体は私に考えるネタをくれた、ということで有益だったのだが)。以来というものどうにも
「哲学だなんだと言って本人も何を言っているかわからない言葉をただ並べているだけではないか。」
という偏見にとりつかれている。そしてヴィトゲンシュタインが
「哲学に残された唯一の任務は言語の分析である」
と言ったというのを読み、そうそう。それくらいにしとけや、と思ったりもするのだ。
というわけで(全くロジックがつながっていないが)哲学堂公園にいくことにした。
サイトによれば
「哲学堂公園は、明治37年に東洋大学創立者井上圓了博士によって精神修養の場として開設されました。哲学や社会教育の場として整備された全国に例を見ない個性的な公園」
ということなのだが「個性的」という言葉は極めて広い範囲に適用できることに注意する必要がある。
西武新宿線新井薬師駅からてくてく歩く。空はどんよりと曇っておりかなり暗い。これは雨が近いためかあるいはすでにして夕方であるためか。公園の入り口についてみれば「公園は5時まで。ただし入場は4時半」と書いてあり泡を食う。今はもう4時。
中にはいると池があり、いきなり「ここは水遊び場ではありません。また全国的にO157が広がっています。水の中には入らないでください」という看板が池の中に立っておりうれしくなる。看板を横目で観ながら進むとちょっと開けた場所に出る。建物がいくつか建っているがまず目にはいるのはあちこちに立てられた看板だ。ある建物の裏には以下のような看板が立っている
「理外門 哲学を論究し尽くした上は、必ず理外の理の存することを知るが故に、本堂の裏門に当たる現地をかく名づけている」
ただの裏地にこんな名前と理屈をつけているのを読むとまた哲学に対する嫌悪感がわき上がってくる。いや、ここは哲学堂公園なのだからとにかく哲学だ。そう自分にいいきかせ辺りを見回すと、ちょっと変わった建物がある。普通の建物のように見えるが入り口が一角から斜めに突き出ているのだ。
「宇宙館」と名付けられたその建物の内部には皇國殿なる
「本館(宇宙館)内部に横斜して位置する特殊構造の一室であり、国家社会の原理を講究する哲学堂として本殿が設けられたものである。」
があるそうなのだが中を観ることはできない。その近くには四聖堂という正方形の建物がある。釈迦・孔子・カント・ソクラテスの「四聖」を祀っおり、彼らに対応する四面が全て正面らしいのだが、それ自体はどうってことないお堂である。それより観ていて面白いのは聖徳太子・菅原道真・荘子・朱子・龍樹・迦毘羅仙(印度)の六人を東洋的「六賢」として祀っている六賢臺のほうである。六角形で赤くて縦に長い。
孟子を入れず荘子を入れる辺り私の個人的な趣味と一致しているのでうれしくなる。
ここは現在中野区管理の公園となっており、アベックが歩いていたり家族連れがあるいていたり。そんな中で中年男が一人そこら中の写真を撮りまくっているのはどう考えても異様な光景。いや、これも全て哲学の為だ、などとわけのわからない事を考えながら見続ける。いや、「わけがわからない」などと自己卑下する必要はない。そこら中に書いてあることも私の自己正当化ロジックと似たり寄ったりではないか。例えばこうだ。
「常識門 正面の哲理門に対して普通の出入り口の意味で与えられた名称である」
「經驗坂 唯物園に達する道であって、階段は経験を表し、唯物論の立論には理化博物等の実験をその考証とすることによるものであるとしてこの名がある」
「感覺巒 經驗坂の中途に在り、経験のためには耳目等の感覚によらねばならないことを示している。」
ここまでくると「適当にこじつけて思いつきを並べてるだけだろう」という声がだんだん頭の中で大きくなってくる。かと思うとこんな看板もある
「天狗松 和田山や一本高し天狗松 伝説によれば、昔、住民がこの松を伐ろうとする度に天狗がじゃまして果たせなかったといい、樹齢約二百年、高さ八間、周囲七尺五寸に及び、昭和八年枯死した。」
これはどうみても哲学とは無関係である。首をひねりながら歩いているとこんなものがでてきて仰天する。
何かを思い説明を読めば、この哲学堂を作るために井上氏は全国揮毫して回ったのだそうな。その謝意と筆供養のためとのこと。これと相対する形で硯の石碑のようなものもある。
さらに奥に進むと中国の黄帝、印度の足目、ギリシャのターレスの三人が刻まれている何かがある。をを。黄帝って名前はよく観るけど顔観たことなかったと思いその石碑を観ると別に普通のおっさんの顔であった。そもそも想像上の人物だからどんな顔でもいいのだが。
などとやっているうちに場内に音楽がながれ、そろそろ閉める時間だよーんとか言われている気がする。泡を食って正門の方に向かう。この正門というのがまた異様であり、屋根瓦には「哲」の文字が刻まれ、左右にはなにやら漢字が並んでいる。
この門の外には野球のグラウンドがあり、歓声が響いている。その声と門内の異様な雰囲気はどうにも調和しない。門の外と中のギャップについて考えを巡らした方が門の中で二元論がどうとか考えるよりもためになるのではないか、などと考えてみたりしながら公園を後にする。
おまけ:図書館こと絶對城の外にある石碑