日付:2003/4/2
大船駅から大きな観音像が見えるのは知っていた。
「駅のすぐ近くに観音様があるから、大船で駅の場所が解らなくなることはないんだ」
と誰かに聞いたのはずいぶん前だったか。なのだが実際その場所に行ってみるのは今日が初めて。大船駅から「大船観音」という看板に従い歩いていくと、こんな坂の入り口にぶつかる。
ここからしばらくはこの坂をえっちらおっちら昇る(私は運動不足なのだ)上り詰めたところにあれこれ建物がある。そこから観音に近づくまでにはまだ少し歩かなくてはならない。道の両脇にはおそらく寄付をした人達の名前を記した灯籠がある。
この写真に示される通り日本人ばかりではなく、横文字の名前も多い。(珍寺道場によればミャンマーの人の名前だという)坂を上り灯籠がつきたところにどーんと観音様が存在している(立っているわけでも座っているわけでもない)
観ての通りこの観音は胸像であり、胴体と頭、および頭に埋め込まれた小さな像くらいしか識別できず、腕も足もない。
しばし正面からお顔を拝んだ後裏に回る。すると胎内にはいることができる。
空の台座がある部屋が二つ(写真に写っているのは一つ)あとなにやら写真を飾った部屋がある。それらについてその日私が知った事を書いてみよう。
まず台座だけの部屋であるが、入り口にこんなことが書いてあった
「この二つの石の台座は、大船観音建立発起人である花田反助氏や浜地天松氏らが計画した昭和当初の二体の大船観音像を奉安するためのものです。
この二体の座像と胸像の大船観音像は、木造の原型があったと伝えられもので(ママ)(後略)」
当初観音像の案が二つあったのか、あるいはそもそも二つの観音を作るつもりだったのか。この文面からではよくわからない。この後には復元のために皆様の「ご協力」がお願いされている。いつの日かそれらの像がここに飾られることがあるのだろうか。
また観音像の前にはこんな説明書きがある。
「昭和4年、当時の日本は第一次大戦後の不況や飢饉など、不安定な社会情勢の中にありました。
そこで、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようと護国大船観音建立会を設立。昭和9年には観音像の輪郭まで完成したのですが、日中戦争・太平洋戦争に突入し、資金や資材不足となり、観音像は未完成のまま放置されました。」
胎内にあるもう一つの部屋に入ってみると、戦前〜戦後ここに未完成のまま放置されていた観音像の姿、及びそれがどのように今日の姿になったかが写真で説明されている。
左:当時の外観 右:顔の型をとっているところ
戦争中この未完成像は大船の人達にとってどのように見えたのだろうか。特に敗色濃くなった頃にあっては。「護国観音」がこの有様では、、と思った人もいたのだろうか。
そんなことを考えた後、ふと入り口近くにあるノートを読む。ここを訪れた人達があれこれ書いているのだ。イラク戦開始直後でもあり、世界平和、戦争のない世界を、という言葉が多い。もちろんもっと深刻な内容もあり、思わず書いた人の気持ちに思いを馳せることにもなる。
中には
「来年こそは芸大に合格しますように」(3月17日)
というのもあり、ああ、きっと今年駄目だったことが解ってその直後に来たのだろうかなどと考えたりする。さらにはこんなのがある。
「ちょっと愚痴を聞いてください」から始まりノート半分を使って子供をいじめる子がいて、でもその親がとっても非常識で、、、と延々実生活の愚痴が書いてある。最後は
「まだ書きたいのだけど、子供がそろそろ飽きてきたので今日はこの辺で」
で終わっている。愚痴を誰かにぶつけたい気持ちは分からぬでもないがそれをぶつけられる観音様も大変だ。静かに柔和な顔をして黙っていることしかできぬぬのだが、それで良いのかも知れない。
中にはほかに小型版の大船観音も祭られている。それはいいとして、その前にあるこれは何だろう。
観音様や仏像の前で「礼拝用マット」ってあまり観たことがないのだけど。跪いて祈りを捧げるのはキリスト教かと思っていたけど観音様にそうやって祈りを捧げる人もいるのだろうか。
といったところで大船観音見物はおしまい。外に出て街を見下ろす。観音様はこの街の変貌を長い間ただ黙って見つめていたのだろうな。