題名:巡り巡って
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関ヶ原-大谷吉継コース(出発-福島正則):岐阜県(2019/05/03)
私はひねくれ者なので、普通の観光コースを避けて通る。ではなぜいきなり改元10連休のさなか観光ツアーに参加しようと思ったのか。
前日の夕方までは関市に行って刃物関連の施設を回ろうと思っていたのだ。そこにこのTwitterの書き込みである。
明日午後開催の関ヶ原刑部殿ツアーの予約が全然ないとのこと……!
刑部殿大好きな皆も、お墓参り済ませてない皆も、関ヶ原を楽しみたいという皆も、どうか時間あらば参加して欲しい!!!
マジで刑部殿のお墓とか絶対泣くから引用元:石田三成さんのツイート
このツイートをした人は石田三成。実にセンスのある書き込みをする人でいつも楽しく読ませてもらっている。その三成殿の頼みであれば参加したくなるではないか。
さっそくリンクされているページを見ると、午前の部と午後の部がある。参加者が少ないというのは午後の部だが、こちらとしては午前中のあれこれ済ませて夕方からはのんびりしたい。幸いなことにまだ午前の部に空きがある。ということであっさり申し込んでしまう。
翌日は好天。それほど寒くも暑くもない。この天候であったことがどれほどありがたいことかは後ほど実感することになる。名古屋駅から東海道本線下に乗る。高校生の頃私は普通列車だけでの長距離の旅に取り憑かれていた。名古屋から西に行こうと思うと「大垣」という駅名を何度も目にする。そこをあっさり通り過ぎる。列車の中は結構混んでおり、ハイキングに行くとおぼしき年配(私より年上ということだ)の方の姿が目立つ。ひょっとして皆関ヶ原にいくのだろうかと思っていたら、一つ手前の垂井というところでぞろぞろ降りた。ここがハイキングのスタート地点か何かになっているのだろう。去年亡くなった父に聞けば一発でわかるがなあ。
関ヶ原で降りた人の数はそう多くなかったように思う。集合時間は10時だが、今はまだ9時20分。さてどうしようということで受付メールを見ると駅前の駅前観光交流館で受付となっている。駅前できょろきょろするとそれらしい建物がある。近寄っていくと受け付けらしい人がいる。順番を待って名前を言う。昨晩申し込んだのでまだリストにのっていないかもしれないと不安だったが、ちゃんと乗っていた。参加料を払う。500円という良心価格。
その時同じ場所で石田三成ツアー、松尾山制覇ツアーがあったことも知る。今調べて知ったのだがこの3っつのツアーの中で大谷吉継ツアーは真ん中の難易度だったのだな。もちろんその時の私はそれを知るよしもない。とにかく無事受付ができた。まだ出発までは30分ある。周りをみようとまず交流館に入って見る。分類としては土産物屋になるのだろうが、ここがなかなかどうして侮れない。元号が変わったばかりだからこういう製品があるのは理解できる。
しかしここで止まらないのが、関ヶ原の土産物屋である。関ヶ原といえば裏切り。というわけでこの2連発である。
小早川秀秋がどんな人間だったか知らないが、まさか数百年後に自分がスナックと飲料のネタにされるとは夢想だにしなかったに違いない。
というわけでご機嫌になった私だが、ただ見て喜んでいるばかりではない。今日は長時間外を歩くのだから水分を補給する必要がある。この場で買うことは割高かもしれないが、観光産業に貢献するのもいいことではないか。というわけでペットボトルのお茶を買う。
そこをでて関ヶ原の街を少し歩く。駅から少しのところに交通量の多い通りがある。そこがメインストリートのようだが、例によってシャッター通りとなっているように見える。しかし営業しているかどうか定かでなくても、味わい深い看板がある。
全日本和装学園駅前教室にはどんな人が通っていたのだろう。フジオ「百貨店」では何が売られていたのだろう。そしてあの床屋はいつまで営業していたのだろう。想像はつきない。
などとご機嫌になりながら街を歩き続ける。道を一本はいると住居があるのだが、建築の様式も推定される築年も様々だ。皆家を建てる時にこだわりをもって注文したんだろうな。学校の敷地内にあるタンクにも武将の絵が描かれている。ここは関ヶ原だからね。
などと喜んでいるうちに集合時間が近づいてくる。石田三成ツアー、松尾山ツアーが出発した後、大谷吉継ツアー参加者に声がかけられる。集まった人達の男女比率に驚く。数えたら男性は私を含め3人だけ。残り13人は全員20代-30代と思しき若い女性だ。これが噂に聞く「歴女」というものか。名前で存在は知っていたが、私は今その人たちを目の当たりにしている。一人の歴女が背負っているリュックにはいろいろな武将の家紋(とおぼしき)バッジがいっぱいつけられている。私のほかにいる男性の一人は奥さんと娘さんと来ているらしい。もう一人の男性は歴男とでもよびたくなるような人だ。
では行きますというわけで案内の方の後ろについて歩き出す。途中「このペースで大丈夫ですか?」と言われる。この時点では皆元気であるから問題ないと答える。いや、ゆっくり歩くとかえって疲れるんですよねと言われる。そういうものか。歴男氏が大きな声で賛意を示している。
とかなんとか言っているうちに中学校の門をくぐる。校舎の屋根には私が子供だっった頃には絶対になかったものが並んでいる。エアコンの室外機だ。世の中は変わった。休日に入っていいのだろうか。ここは特に門を閉めたりしていないのか。そもそもなぜここに入るのか。理由は間も無く明らかになる。
中学校の敷地内に史跡がある。東軍の藤堂高虎と京極高知が陣を置いていた場所とのこと。この後実感することになるが、関ヶ原は盆地で、西軍は西側の山に陣取っており東軍が平地を進んでぶつかった形になっている。この両軍はその先っぽの方にいたようだが、説明を聞くと両名共直接の戦闘であまり活躍したとかそういうことではない。藤堂高虎は戦闘よりも事前の「裏切り工作」で貢献したとのこと。思うに戦闘で直接相手を殺すより、事前の工作のほうが人も死なず貢献を認めるべきではなかろうか。ちなみに彼は何度も主君を変えたそうで、7度主君をかえなければ武士ではないと言ったとかなんだとか。私も転職回数が多い人であるからこういう言葉には好感を覚える。数ある転職サイトの中で一つくらい藤堂高虎をイメージキャラクターにしてもいいと思うのだが。ちなみに上の写真からは参加者の様子がわかると思う。
そこをでると、こんな看板が目につく。
なぜ社員募集という文字だけなのだろう。今写真を拡大して知ったのだが社名が消えてしまっている。大垣市にある婦人服縫製メーカーが社員を募集していたのは何年前のことなのだろう。
とか私が感慨にふけっている間に一行はどんどん進む。次にはこんな場所で止まる。
福島正則の陣である。右側の杉の木は樹齢800年を超えているとのこと。関ヶ原合戦を描いた絵にもこの杉は登場しているのだそうな。
私の日本の歴史に関する知識は大部分「まんが日本の歴史」によっている。その中では関ヶ原の戦いの始まりはこうなっていた。
霧の中でどこかとどこかの兵が敵とでくわし「うわあ敵だ」と戦いをはじめ、その後福島正則が「宇喜多の陣を猛攻せよ」と鉄砲の射撃を行う。それに対し宇喜多秀家が「何を、福島のひげだるま。宇喜多の強さを見せてやれ」と応射する。
だから今だに「福島正則」という言葉を聞くと、自動的に「ひげだるま」と思う。本当はどうだったか知らん。NHKの大河ドラマ、真田丸では福島正則は若手のイケメンだったが。
説明を聞く。このころは「先陣を誰がきるか」というのが重要だったのだな。馬鹿げたこととも思うが、それが彼らの生活に大きな影響を与えたとすれば、笑う方がおかしい。いつの時代も理不尽な社会のしきたり、システムの中でなんとか生きていくしかない。とにかく福島はほぼ先陣を切って戦い東軍の勝利に貢献した。結果として関ヶ原の戦いの後出世したのだが、そのあと疎まれ、最終的には2万石の小大名として生涯を終え、お家も断絶してしまったと。ここらへんサラリーマンならばその辛さが身にしみると思う。身を切って会社に尽くしたところで風向きが変わればあっというまに没落。
一行は先に進む。最初の受付場所にあったパンフレットを見て、関ヶ原は関ヶ原の戦いだけでなく壬申の乱の舞台でもあったと知った。説明は壬申の乱について触れる。なんでも川をはさんで東と西で敵同士に別れていたとのこと。大友と大海人だ。その遠い昔の「敵対関係」がずーっと尾を引いて戦後しばらくまで川の向こうとこちらの家で結婚とか養子縁組とかできなかったのだそうな。今でも仲が良くないらしい。
ここには壬申の乱の後にできた不破の関というものが置かれたとのこと。でもってこの辺りに並んでいる家がものすごく豪華である。写真を撮ろうと思ったが、家の人がいたので遠慮してしまった。関守だった人の子孫が住んでいるだそうな。年号は何度も変わり、人の生活も変わるが1000年以上の年月を経て残っているものもある。何が代わり何が残るのかを調べると人間性について何か面白いことがわからんかな。人が所有している土地、身分とかの因習は受け継がれていくということなんだろうか。
などと考えている間に一行はどんどん進む。そこからしばらくあまり史跡のないエリアを通っていたがまた前方に何か見えてきた。