五 郎の 入り口に戻る
私は呆然としたままバスに乗る。過去1時間に起こったことは夢ではなかったのか。そう考えると記憶が曖昧だ。どうもあれは単なる妄想だった気がする。この「疑惑」が払拭されたのはそれから数日後,誰かが撮影してくれた壇上の自分の写真を見てからだ。
そんなことは当時の私の知らぬ事。きっとあれは嘘だったんだ。そう思いながらバスに揺られる。まず三沢の中心街を通る。米軍向けと思われるような店とかそうしたものがいくつか見える。バスはことこと走り続ける。そのうち町並みが切れ道の両脇が木立になる。だいぶ走ったと思うが到着する気配がない。
しかし当時の私はそんなことを気にしない。ぼーっとしているからだ。そのうちまっすぐ進んでいたバスがぐいっと曲がった事を感じる。ここが目的地に違いない。
というわけで三沢航空博物館に到着である。ものすごくでかい。想像以上にでかい。そして寒い。さらに困ったことに入り口がどこかわからない。しかし寒いので、のんびり確認している暇はない。「多分こちらだろう」という方向に歩いて行く。珍しいことに勘があたった。中にはいると暖気が流れてくる。やれ助かった。入り口から券売機が置いてある場所までにはかなり距離がある。あたりの様子をうかがいながら歩いて行く。荷物をロッカーに預け券を買う。ありがたい事にロッカーはお金が戻ってくるタイプのものだ。中にはいるといきなりこの飛行機と対面する。
三沢から出発し世界初の太平洋横断を成し遂げた飛行機があったのだそうだ。ミス・ビードル号という。重量と抵抗軽減のため、離陸後に脚を落下させて飛んだとのこと。必然的にアメリカ到着時は胴体着陸になる。機体は修復されてその後も用いられたが、後日行方不明になったとのこと。ここに展示されているのは、その復元機らしい。飛行の模様、あるいはそれを三沢の人達がどのように支援したか、は紙芝居的な絵で説明されている。私はそれをぼんやり眺める。本来もっとちゃんと見るべきなのだが、ボーっとしているので先に進む。
館内をぐるっと見ると、ここはまさに航空科学館であることに気がつく。つまり感覚的に半分くらいは「科学館」であり、私が子供を連れてきたいような場所だ。しかし今の私は科学展示に興味は無い。というわけでその先に視線を向けるとドカーンと大きな飛行機が2機あることに気がつく。一機は懐かしいYS-11だ。私がまだ小学校低学年だったころ、母親が九州に飛行機で飛んだ。(当時新幹線はまだ博多まで伸びていなかったのだ)行きに使ったのがYS-11だったと記憶している。
私が最初に勤めた会社にはこの機体の関係者が働いていた。なんでも開発に国の補助を受けていたので会計監査院かなにかの検査で「無駄遣いではないか」と指摘を受けそうだったとか。確か商業的にはあまり成功しなかったんだよね。
しかしYS-11に関しては写真を一枚とっただけである。その隣に全く予測していなかった機体があるからだ。
航研機である。なんだそれは、と思われるかもしれないが、かつて長距離飛行の世界記録を作った機体だ。当時の日本はまだ貧しく飛行機のレベルも諸外国に及ばず。その中で世界記録の樹立というのはどれほどのニュースになったことだろう。私が小学生の頃読んだ「飛行機の秘密」といった題名の子供向け書籍にも載っていた。それが全く予想外に目の前に現れたのだ。
何故ここにこんなものがある。見たところ立派な機体であり、ハリボテのようには見えない。機体の前で「航研機復元の軌跡」のようなビデオをやっている。思わず見入る。ほとんど詳細資料が残っていない機体だが、きっちり図面を作成して復元したとのこと。機体表面の羽布ばりもいわば「失われた技術」なのだが練習し克服。実物では人力式だった引き込み脚も、モーターできっちり作動するようにしたとのこと。
この復元にかけたものすごい執念はなんなのだろう。私はただ圧倒される。機体の周りを一回りする。
この角度からみて、長年の疑問が解けた。子供の頃みた挿絵には、人が乗っている部分を示す風防が全く見えなかったのだ。どうやら胴体の中に完全に隠れており、外を見る窓があるだけらしい。これでどうやって離陸したのだろう。前が見えないではないか。そして不思議なことに平面である風防の先に小さな風よけのような窓がついている。前を見る必要があるときだけ、平面窓を開けて、前をみたということなのだろうか。
思わぬ掘り出し物に大満足の私だが、今日のハイライト「特別展示」はまだ先にある。一番奥の扉をくぐると(比較的)小さな部屋がある。はいるとまずこんな機体が置いてある。
零戦21型、、ではなくその撮影用レプリカとのこと。先ほどの航研機とくらべるとやはりどこか「実物感」にかける。機体のまわりをぐるっとまわる。21型なら翼端が50cmずつおりたためるはずだが、さすがにそんな機構は再現されていない。
私の父は零戦が実際に飛んでいるのを見た世代である。(幸いにも零戦に乗るには少し幼すぎる年齢でもあった)父がいうには、油が漏れ、風防に付着し前が見えなくなって墜落なんてことがよくあったらしい。そして零戦のエンジン音は遠くから聞くと、2ストロークの軽トラック(最近はこのエンジンもないか)のような甲高い音だったとの事。周りにはいろいろな展示があるが一枚の写真に目を留める。
零戦64型である。割と最近まで機首の形状がわからなかった機体だ。子供の頃読んだ本には、なんだか機首形状がずんぐりした絵がかかれていたがあれは
「54型ってどんな形っすか?」
「わかんないんだよ。まあエンジン大きくなったからちょっと太くしとけばいいんじゃない?」
とかそういう会話の末生み出されたのであろう。
そんなことを考えながら歩き続ける。すると掃除をしていたおばさんが「そこに登るといいよ」と行ってくれる。何の事かと思えば、近くに撮影台のようなものがおかれており、「ここに登るといいアングルで写真が撮れます」とか書いてある。礼を言ってさっそく一枚写真を撮る。
一式双発高等練習機である。最近湖底からひきあげられたとのこと。塗装の色合い等きっちりと残っているのに驚く。
聞くところによれば現在「修復するかこのままにするか」の議論中とか。確かにこれを元の姿に修復するのには金がかかるだろう。その姿を見たい気持ちはあるが、昼食代を寄付に回すほどの熱意はない。というわけで写真をとりつつ見て回る。
この座席には誰が座っていたのだろう。平和な今であれば、飛行機が落ちれば原因究明だ遺族がどうのと大騒ぎだ。しかし当時はある本の表現によれば「命が安かった時代」。そこでは墜落も一つの「事故」としか扱われなかったのではなかろうか。そう考えてると、この機体はこのままでもいいのではないかという気がしてくる。もっともこの壊れた機体をみてそんなことを考える人はあまりいないかな?
一通り見るとまた元の部屋に戻る。窓の外にはジェット機が何台か並んでいるのだがあそこにはどうやって行けばいいのか。あちこちうろうろし、2階にも上がってみる。年代毎に模型飛行機がならんでいるコーナーがある。
「なぜこの機体を」
という少数しか制作されなかった機体やら試作品があって楽しいことこの上ない。じゃあ写真を撮っておけよと思うのだが、そこで写真を撮り忘れるのが「ぼーっとしている」大坪君だ。あれこれ歩いたあげく一旦外に出るしかないという結論に達する。というわけで再入場が可能なことを確認した上で一旦外に出る。建物の外にでるとレストランがあることに気がつく。というわけで先にご飯を食べると、また外に出る。晴れているが寒い。
外に並んでいる機体には懐かしい物がある。私が工場実習で触らせてもらったこともあるT-2/F-1もならんでいる。そうだよなあ。思いっきり引いて少し戻すと操縦桿がガタガタ振動するんだよなあ、とか思い出している場合ではない。
とかなんとか言っているのだが、撮影した唯一の機体はこれ、F-16である。初飛行はとても古い機体なのだが、F-15などに比べ半歩先を行っている印象がある。しかしもうこうやって展示に回る機体があるような世代だったのだなあ。そういえばこれをベースに開発したF-2が水浸しになったのはこの近くであったか。
といったところで航空科学館見物はおしまい。帰りもずーっとぼーっとしているうち家に帰り着く。