日韓電気メーカーの実力差

2011-01-31 07:50

日本の電気メーカ全社あわせても売り上げ、利益においてサムソン一社にかなわない、という話を聞いてからしばらくたつ。

20世紀末において、日本の電機メーカーは圧倒的な強さを誇っていた。電器製品といえばMade in Japan.アメリカでどこで作られたかよくわからないTVを買い、電気をいれたら煙が立ち昇った(漫画のようだが本当だ)のもいい思いである。

それから月日は流れ、サムソン性のAndroid端末(Galaxy S/Galaxy Tab)を触る機会があった。仕事で触っているのでのんびり、というわけではないがよくできていることは実感できた。某社のXperiaなぞとはレベルが違う。Timescapeだのなんだの誰も使わないような機能などつけず、一番大事な

"基本的なレスポンスのよさ"

を磨いていることが伺える。電車内などでXperiaを使っている人をみかけると"かわいそうに"と思うが、Galaxyシリーズについてはそんなことはいえない。

さて、一方親愛なる日本のメーカーである。iPhone/iPadショックを受けた時期も一緒、Androidが使えるようになった時期も一緒。そこからよーいドンで端末開発競争が始まった。その結果をみてみよう。

これが日本有数(かつては世界有数だった)の電機メーカーが売り出そうとしている製品だ。指でさわるタッチパネルがありながら、スタイラスを備えており、かつカーソル移動用とおぼしき巨大な4方向キーまで持っている。youtubeにはこんなコメントが上げられている。

"これを発売するなんて、正気か?"

私のような人間からみればこれを発売するのは正気の沙汰ではない。しかし日本の没落しつつある大企業においてこうした"狂った判断"は日常茶飯事なのではないかと思う。そうした企業に勤め続けるには、こうした製品を胸をはって世間に問えるほどの"器量"を持っていなくてはならない。

日韓の電機メーカーについてしまった差はこれほど大きい。なぜこんなことが起こってしまったのか。

しかしこのように会社を没落させた張本人たちは

"最近の若い社員には元気がない"

とかいいつつ、莫大な退職金をもらって引退していく。それが世の中の仕組みとわかってはいるのだが。

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このサムソンという会社の強さについてはひとつ体験したことがあるのだが、それについては別の機会に書きたい。


21世紀のソニーはいつまでも21世紀のソニーだ

2011-01-28 07:54

20世紀のソニーは輝いていた。いまや何の会社かわからなくなってしまっているが、当時は

It's a Sony

というコピーだけでその製品が売れたのだ。
昨日PSPの新型が発表された。


PlayStation Meeting 2011「Next Generation Portable」サービス編:「LiveArea」「Near」そして「Suite」――ネットワークに溶け込むNGPのサービス戦略 - ITmedia Gamezより引用:

ソーシャル、位置情報とトレンドはひと通り押さえた形

今までほかの会社が先行して実現したことは"一通り押さえた形"まさにそのとおりだ。つまりこれはMicrosoft流のものづくりであって、何も新しいことは提案していない。

ゲーム機の進入をかたくなに拒んでいた我が家であるが、今リビングにはWiiがある。遊んでみて、それが実に家族を楽しくしてくれることに気がつく。

では日常目にするPSPはどのような使われ方をしているか?いい年をしたサラリーマンが電車の中でゲームに熱中している。中学生が車座になって座りPSPを黙って覗き込んでいる。本人は楽しいのだろうが、はたからみていて美しい光景とはいえない。

今度のPSPもそのコンセプトはまったく変わっていない。描画性能を上げました。いまやPS3なみです。新しいセンサーもつけました。PSPという線をどこまでも延長していこうとしているのだろう。PS3 v.s. Wiiで絵に描いたようにイノベーションのジレンマにはまったことから何ひとつ学んでいない。

とどめは、この発表会で

"なるほど、新しく追加された機能を使うとこんなすごいことができるのか"

という点をひとつも示せなかった点だ。(これも過去数年ずっと繰り返されてきたことだが)この先ソニーは徐々に死に絶えていくのだろうか。20世紀だったら

"いや、ソニーのことだからきっとあっと驚く隠し玉を持っているに違いない"

と本気で思えたものだが。


本家の映画評に"ソーシャルネットワーク"を追加

2011-01-27 07:41

いや、誰も読まないブログでこんなことかいてもしょうがないのだけど。

本家映画評:ソーシャルネットワーク

映画を見ているといろいろな思いがよぎる。ちょうど同じ時期にその昔Stanfordで撮影したビデオをデジタルデータに変換していた。つまるところ当時の自分の姿を見ていたわけだ。

Stanfordにもあんな排他的な"クラブ"が存在していたのだろうか?春休み、夏休みになると寮に短期語学留学の日本人女子大生が退去しておしかけ、その行動により日本人男性の血涙を絞らせていたものだが、今もあんなことが行われているのだろうか?

映画をみてビデオを見ると、自分がもっと時間とチャンスを有意義に使うべきだったと思いはする。しかし昔のことを振り返っている余裕はない。

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すばらしい映画なのだが、ひとつ懸念点がある。日本では受けないのではないかと思うのだ。なんといってもダークナイトと少林少女の興行成績が肩を並べてしまう国であるから。
何年か前にはRookiesなどという映画が大たりしてしまう国であるから。

かつては日本でも七人の侍のような映画を作ることができたはずなのだが。。サマーウォーズがアカデミー賞ノミネートを逃したなどというニュースを読むとため息しかでてこない。


子供にサッカーを習わせたい

2011-01-26 08:03

先日子供が言い出した。

「習い事を減らしたい。友達と遊ぶ時間がない」

なるほど。では何を減らそう?私は

「サッカーは続けなさい」

といった。
彼が将来キャプテン翼のような選手になるに違いない、とおもっているからではない。もう少し続ければ、きっとサッカーの見方のようなものが学べるのではないかとおもうからだ。

私が子供のころはスポーツと言えば野球だった。その野球が世界的にみればマイナーなスポーツであることを知ったのはいつの頃だろう。

そしてその「世界的に普及したスポーツ」に詳しいことの意味(一部)を知ったのは27のときである。

英語がしゃべれればな、と誰もが思うらしい。しかし英語を聞き取り、文を構成できるようになれば次の山が見えてくる。そもそもほかの国の人間と何をしゃべればいいのか。

会話の基本は日本人同士でも国籍が異なる国の人とでも変わらない。まず共通項を探すのだ。できれば政治、宗教、そのほかの話題には触れないように。

そう思ったとき、サッカーというのは実に適当な話題であるように思うのだ(相手が米国人の場合は駄目。その場合はBasket ballかFootball)サッカーの話題は言語としての英語並みの普遍性を持っているのではなかろうか。

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そんなサッカーだが、どうしても好きになれない点がある。ジャッジや運営についてまわる"怪しげな気配"だ。私はサッカーについて何も知らないが、今回の日本-カタール戦、日本が最後に得点するシーンの審判はでたらめにしか見えない。日本の選手が5人くらい転がっているのに最後までペナルティはとられなかったのだ。

審判をどうにかして自国の勝利を得て、それで満足する、というのは私の考えからすれば幼稚な楽しみ方。しかし大きな国際試合においてもそうした行為が蔓延しているサッカーというものがどうも心底から好きになれない。あるいは世界的にみればサッカーというスポーツはそうした楽しみ方を受け入れる観客を相手にしている、ということなのかもしれない。

ルールをきちんと決め、厳守させた上で、容赦のない戦いを繰り広げる。エンターテイメント大国米国が選択したのはそうした道だった。サッカーが米国でメジャーになれない原因にはそうした要素もあるのではなかろうか。