題名:沖縄

五郎の入り口に戻る

日付:2001/1/1

 出発 | 首里、海軍壕 | 戦跡に洞窟に基地 | 城に島 | 名護市 | 本島北部


首里、海軍壕

首里城に行くのは、、と思っているうちにお目当てのバスが来た。座席に座ったとたん、妙にクッションが柔らかいのに気がつく。型が古いせいだろうかそれとも長い間使っていたためだろうか。そんな私の感慨とは関係なくバスは町中を走っていく。どうやら観光ガイドにも載っていた国際通りというというところを通っているようだ。なんとなく変わった通りである。いくつかの要素が混ざっている気がする。観光客向け、沖縄の人向け、そして米国趣味。そうしているうちに「首里城においでの方はここでお降りください」というアナウンスが流れる。

私と一緒に数人が降りた。そのうちの一組が首里城の方向を知っていたのは実にありがたいことでそうでなければ私は間違いなく間違った方向に歩いていっただろう。一番確信をもって歩いているとおぼしき人の後についていくと、そのうち「首里城」らしきものが見えてきた。石でできた坂を上がっていくと、沖縄の伝統的な恰好をした女性が何人か立って何か言っている。どうやら

「いっしょに写真がとれますよ」

と客引きをしているようだ。不幸にしてその客引きがそれほど功を奏しているとは思えない。彼女たちは大変あでやかな衣装を着ているのだが、そうした女性が5−6人固まっているとそれだけで私などは近くを通り難くなってしまうのだ。写真帳らしきものを見せてくれるが私はただ下を向いて手をふって歩きさる。こうした客引きの前を通るというのはいつも苦手なことだ。特に彼女たちの商売があまり繁盛していないときはなおさらである。かといって一緒に写真をとろうとかと思うほど私は記念写真というものに執着を抱いているわけではない。

さて彼女たちの前を通るといきなり2000円札にものっている守禮門がでてくる。実は私は2000円札を一枚として保有したことがない。であるからしてTVとかで見ただけなのだが、実物はお札から受ける印象よりも小さく感じる。以前つとめていた会社で、某取締役がこのお札を使ってスピーチをした。思うに彼は2000円札がこの世に登場したその日に手に入れた事を自慢したくてしかたがなかったのではないか。不幸にして彼がしゃべっている内容は誰にも理解できないものだった。(彼の話すことの8割はいつも意味不明なのだが、このときは10割意味不明だった)そこは米国企業の日本支店開店パーティーであり、英語への同時通訳が付いていた。日本語で聞いていても訳のわからないスピーチなのだからそれをどうやって訳すのだろう、と思って聞いていたが、プロは偉大だ。この門の意味するところは「礼」を守るということなのだが、同音異義の「霊」を守る、として適当に意味の通ったスピーチを英語ででっちあげていた。

そんなことを思いながら門をくぐり、人の流れに従って階段を上っていく。城の常として小高い山の上にある。多少息をきらしながら登っていくといつもであれば

「この階段を仕事へのいやな予感を抱えながら登った下級役人の憂鬱」

に思いをはせ、憂鬱になるところだ。しかし今日は違った。

どこかの説明用の看板で見たのだが、大戦中この首里城は軍の司令部が置かれていたという。ということはこの階段を琉球王国の役人が登った後に、軍人が登ったということだ。だから今日考えるのは

「この階段を先行きへのいやな予感を抱えながら上った下級将校の憂鬱」

である。司令部であればどれほど激しく攻撃されたのだろう。頭上に敵機が舞う前から彼は何を考えたのだろう。そこから人の流れに従って登って行くが、ある説明ある説明すべて

「大戦中に破壊されたが○○年に復旧された」

となっている。戦争の後には一体どれだけのものが残っていたのだろうか。

門をいくつかくぐる。どの門だか忘れたが、在りし日の姿が白黒写真に写っている。すでにしてぼろぼろだ。この門は戦前に撤去されたという。思えば当時この城をきれいにして観光客を呼ぼうなどとは誰も考えなかったのだろう。考えたところで当時ではそんなに多くの人が沖縄に観光だけのためにこれるわけもなかっただろうか。

さて、いくつかの門をくぐると、民族衣装らしきものに身を包んだ人たちがいる。女性は大変きれいであり、男性はなんとなく髭をはやしている。彼らは観光客の注文に応じて写真を撮ることを忘れないが、何かの時間らしい。これは良いときに来たのだろうか。

そこからサミットの時に何度か見た場所で、琉球王国の正月の儀礼のうちの一つが再現(もちろん観光用に大幅にアレンジされているが)された。王様と女王様は私の位置からは見えにくい建物の中にいて泡盛を飲んでいるらしい。それから今度は並んで座った家臣だのなんだの達に泡盛が振る舞われる、というストーリーである。最初の二人が飲んだ時には

「果たしてこれはどれだけ続くのか」

と恐れたものだが、そこは観光用バージョン。大幅に順番をすっとばし、列の最後尾に座った女官達が立ち上がり

「お客様達にも参加していただきます」

と観光客に泡盛をつごうとする。それを聞いた瞬間となりにいたおじさんが駆けだしていった。しばらくたって「あれは誰がついでもらえるか決まって居るんだよ」と言いながら帰ってきた。確かにこういう怪しげなおじさんの飛び入りを防ぐためには、事前にお客さんを指名しておいた方が賢明であろう。

宮殿の側には、何人かの若者が武器とおぼしきものをもって立っている。最初は皆そちらの方を見ていたが、いまや泡盛をついで回る女官達に視線が集中しており、彼らは大変ひまそうだ。暇だけならばいいのだが、他の人間が持っているものにくらべて重そうな傘を持っているお兄さんは気の毒である。そのうち鉈らしきもの持ったお兄さんがもぞもぞし始めた。どうにも彼はこの静止状態が耐えられないらしい。にやにやしながら何かぶつぶつ言っている。しばらく女官に見とれて視線を戻すと鉈をもったお兄さんは消えていた。何か理由をつけてさぼったのか、あるいは引っ込められたのか。

それが終わるとお城の中の見学である。王様が座ったという玉座は周りから離れて一団と高い所にある。あそこに座るというのはどういう気持ちだったのだろうか。私はいつも会議では一番目立たないところに座る男だからああいう目立つところはいやだな、等と思う。私は正月であるとか寒いときにお城に行くと

「なんて寒いんだ。殿様たってこんな寒いところに居るのは大変であっただろう」

と思うのだが、今日だけはご機嫌だ。正月だというのに気候はちょうどよく、シャツ一枚でご機嫌である。そこらへんにかざってある絢爛豪華な服装を着込んでいればおそらく問題なく過ごせたことだろう。最も夏は別の話だろうが。

などとしばし頭が琉球王国の役人モードになりながら内部を回る。歴代の王様を描いた写真があるが、実物はまたもや戦争の時にふっとんでしまったらしい。写真がとられていたので絵自体はわかるが色は全くわからない。

一通り見終わって石段を下りていく。ここに来たときから「ここにある石垣のうち、どこまでが戦前からあったものなのだろうか」と思っていたが、ある部分を見たときその答えが解ったような気がした。石垣のかなり下のほうに、「↓復旧前の石垣 ↑復旧後の石垣」という板が張ってある。そう思ってみると復旧前の石垣はかなりがたがたであり、きれいに隙間無く積まれているのはすべて復旧後の石垣だ。その線は地面から数十cmだけ上のところにあり、復旧前にはほとんど何もなかったのだろう、と想像させる。

さらに歩いていくと昭和50年代にたてられた、と思われる「首里城跡」の看板があった。この立派な首里城が復興されたのは1992年である。その看板に城の構造がすべて言葉で説明されているところを見ると、その当時ここはどんな様子だったのだろうか。がれきがわずかに残る小山のような状態だったのだろうか。

それからガイドブックを見てうろうろする。この近くにあるという「玉陵」という場所を探す。またもや看板が見つからず結構うろうろする。ようやく見つけると「玉陵」の読み仮名として

「たまうどん」

と書いてある。正確にいうと「ど」の字は小さくなっているのだがこれではうどんの一種のようだ。とにかく入り口で200円を払う。座っている女性は大変愛そうがよろしい。鬱蒼と木がしげる中を歩いていく。入り口にあった説明板には

「先の大戦で大破したがその後復旧された」

という文言がある。歩いて行きながら私がここを攻撃する任務を与えられた米軍の司令官だったら

「あそこを平らにしろ」

と言うだろうなと考えていた。木の陰からは何がでてくるかわからない。遺跡だかなんだか知らないが戦争の時にはかまっていられまい。それは守る側にとっても同じ事だったのではないか。

そう思いながら歩いていき、木の列がとぎれた、と思ったところに石の壁があり、そこに小さな門がある。くぐると「たまうどん」の全景が広がっており正直言って驚いた。なんだか解らないがとにかく驚いた。未だにうまくいえないのだが。そしてもう一つ驚いたのがやたらと静かな事である。前庭とおぼしきその場所には私と二人連れの女性、二人しかいない。首里城なみに人間を詰め込めば200人ははいるだろうに。

しばらくの間眺めてまわった。ここから見る限りにおいては、柵があり、いくつかゲートが有り、屋根にシーザーがいることしかわからない。つまるところここは王族の墓らしいのだが、説明を読むと前庭には

「ここに葬られていい人」

が列挙されており、そこには当然あるべき近親者が入っていないという。この「たまうどん」は結構な建物だと思うが、そこにはやはり人がいるところついてまわるいさかいも存在していたのだな。

 

しばし感心すると次の目的地に向かう。在りし日の首里近辺の雰囲気を残している唯一の場所、なんとかの石畳である。ところがこれがどこにあるのかわからない。例の守禮門の近くには観光案内図があるのだが、でだしからして道の様子が現在のものと違う。どうにもわからず同じ場所を2度くらい回ってしまった。そのたびに

「写真はいかがですか」

という彼女達と対面してしまうわけだ。私は下を向いて足早に立ち去る。

何枚かの案内図やら「こっち」という看板を見たあげく、ようやく正解に達することができた。「○○寺」と書いてある道を進んでいくとだいぶ先のほうがその石畳なのである。説明の看板は不親切だ、と文句を言えればいいのだろうが、私が方向音痴になっている、という可能性も捨てがたい。実際この後も何度か私は滅多にやらない、と自分では思いこんでいる

「道に迷う」

というのをやらかすのである。つべこべ言わずに石畳の坂を下る。

かつての首里の面影、というのだが、確かに石畳の石はふるそうだ。両脇にある石の壁も古い。時々登ってくる観光客とすれ違うが坂はあくまでもとても静かである。そのうち手書きの看板がでてきて

「神が宿っている木。90m」

などと書いてある。一旦通り過ぎたのだが、戻って行ってみることにした。ガイドブックに堂々と載っている坂が静かななのだから脇道はもっと静かである。公道とも私道ともつかない道を歩き続け、「90mってこんなに遠かったっけ」と思い出す。そのうち巨木が見えてきた。近くには看板もある。

見ると木の前になにやらお供えのようなものができるようになっている。そこに老婆が二人座ってなにやらやっている。この「なにやらやっている」と書いたのは本当に彼女たちが何をしているかわからなかったからだ。食事のようなものを広げているようにも見える。実際一人はコップにビールをついでいる。もう一人はのし紙のようなものを並べたり数えたりしているようだが、その紙の正体については定かではない。しばし巨木の方を見る。樹齢200年とか書いてあったか。この木に宿っている神はどのような神なのか。

そう考えている間も老婆二人は何かをしている。相変わらず彼女たちが何をしているかさっぱりわからない。彼女たちの会話に耳を澄ます。しかし一言も理解できない。しばらく立ち止まって集中してみたが結果は同じである。あきらめてその場を立ち去る。

坂は結構長く続いている。どこまでが昔から残っている坂でどこからが復旧されたものなのだろうかなどと考えているうちに一般の道に出た。首里城からであれば、いくつかバスが出ているのだろうが、今いるのははるか下方である。従ってそこらへんでバス停を探すしかない。しばらく歩き回ると求めていたものが見つかった。今回来るにあたって父にあれこれ沖縄の事を聞いた。その中に

「台風が多いから、看板とかがとにかく頑丈にできている」

というのがあった。そう思ってみると普通に見るよりは看板を支えている支柱が少し多いようである。もっと明白な違いはバス停である。少なくとも名古屋と関東エリアでは、コンクリートでできた半径数十センチの土台に鉄のパイプが埋め込まれており、そのうえにあれやこれやの板が着いている。土台はおいてあるだけなのだが、結構な重さがあるから困らないわけだ。しかし私が目にした沖縄のバス停はあらかた次のような構造である。鉄パイプに板がついている。そこまでは同じなのだが、その鉄パイプは直接道路ないしは歩道に埋め込まれているのだ。台風に耐えるためにはここまでやらなくては。名古屋型のバス停であれば、台風の度にそこら中倒れたバス停だらけになることであろう。

などと勝手に想像をふくらませながらバスを待つ。いかにも観光客でござい、という男が一人で歩道などに座っているとタクシーが通り過ぎるたびにスピードを落とす。しかしこちらとしては230円で行ける場所に1000円(と勝手に想像しているのだが)払うつもりは毛頭ない。まもなくバスが来た。

バスに揺られながらこの後どうしようかと考える。まだ時間は2時だ。ここからホテルの近くまでどれくらいかかるか知らないがまあ最大30分だろう。となるとホテルに3時前にはついてしまう。そこで寝てしまうのはあまりにも怠惰すぎるのではなかろうか。バスの路線図を見ると明日行くつもりだった海軍壕にいく系統もあるようだ。所要時間を適当に計算してみても、閉館にある5時半までにはつけそうではないか。よし。今日中に行ってしまおう。

それまで快調に走っていたバスはこの国際通りに入ったとたん亀のような速度で進むようになる。大変な繁華街でバスがうようよ走っているのに片道一車線だから混雑も無理はない。適当なところでみきりをつけておりた。目的とする系統の時間までしばらく喫茶店などに入って時間をつぶす。

そろそろよかんべ、と思ってバス停に降りていく。予定の時間を20分以上過ぎてバスは到着した。これではたしてゆっくり見る時間が残るだろうかと思ったがバスが走行する時間はガイドブックに書いてあったものより遙かに短く結局予想より早く着いた。

さて問題はここからである。例によって看板はあまり親切ではない。曲がり道の突き当たりのようなところに「海軍壕→」という大きな看板がある。しかしその矢印が指し示している方にあるのは普通の民家だ。まさかこの民家の中に海軍壕がある、というわけではあるまい。ということはその家の前の細い道を通って行け、ということか。しかしそこにはへんてつのない道であり、はたしてこれでいいのだろうか、と心配になる。しかし他に選択肢があるようにも思えない。

しばらくその道を歩き続ける。上り坂になってようやく看板がでてくる。しかしどちらに進めば良いかは今ひとつわからない。とにかくこちらだろうと思う方向に歩き続ける。そのうち海軍壕らしきものが見えてきた。

いくつか売店があるが無視して入り口とおぼしき建物に向かう。全体は小高い丘になっており頂上に慰霊の碑らしきものがある。ガラスで囲まれた円形の建物が入り口らしい。入場券を買うと中に降りていく。入り口近くには折り鶴が山のようにかかっている。蒸し暑く感じる。

それから色々な事を考えながら壕の中を歩いていた。司令官の部屋には辞世の句が書かれている。その他には二つ黒い字で描かれた文字がある。他の説明文はほとんど英訳されている。実際私の前には英語を話す白人のカップルが熱心にビデオを取りながらまわっていた。しかしこの壁の文字だけは英訳されていない。それも当然だろう。一つは「神州不滅」であり、もう一つはよく読めなかったが「醜米撃滅」とか書かれていたからだ。今は清潔に明るく照らされているこの部屋はそして通路はどのような有様だったのだろうか。

ここで自決した太田司令官は異例とも思える「沖縄県民かく戦えり」という電文を残しており、それは何度も説明文にでてくる。軍は県民を省みることはできなかったが、県民は積極的によく戦ってくれた、彼らの今後を頼むといった内容である。当然県民の中には「誰が積極的にだ」と言う人もいるだろう。しかし私はちょっと別の感慨をもってこの電文を眺めていた。

ここは海軍の司令壕だった。陸に上がった海軍に何が出来たというのだろうか。陸戦隊すら陸軍の指揮下に入れていた司令官の仕事はなんだったのだろうか。武器無く兵なく。何をすることも出来ず、美しい緑に覆われていた沖縄が木も草もなくなるほど荒廃し、県民までもが悲惨な運命に直面する。そうした光景を兵のない司令官として見ていた彼は、あの電文を打たずにはいられなかったのではなかろうか。脇役であったからこそ、表にたって戦闘の事ばかり考えていた陸軍とは別の見方をしたのではなかろうか。

そんなことを考えながら壕を見終わると今度は資料館に行く。旧軍が使用した品々の展示にまじり、壁にはいくつか写真がかかっている。米軍が首里城を占拠した瞬間の写真に写っているのは石がごろごろところがっているだけの光景だ。爆弾を抱えて戦車に体当たりしようとした少年兵は文字通り体を蜂の巣のように打ち抜かれている。今までこの「蜂の巣のように」という表現は修辞的なものかと思っていたが、文字通りの意味だとわかった。そして裸でお守りだけを身につけ、べそをかいている少年の写真。もし私がこの場に生まれ、何かの間違いで生き残っていたとしたらこの少年のようになっていたのかもしれない。その写真からは子供の泣き声が聞こえてくるようだ。生存者の証言なども読めるようになっているが、数頁読んだだけであとは読むことができない。

展示室からでる。掲示板のようなところには、新聞のコピーがいくつか張ってある。その中には沖縄サミットについて言及したものがいくつかあった。私は今でも沖縄サミットは小渕総理の大ヒットではなかったかと思っている。彼は太田司令官と同じく沖縄県民のことを気にかけていたのだろう。しかしその発案者は志半ばで倒れ、歴代総理の中でも最低の呼び声高い森が出席するというのはこの世の皮肉というやつだ。

表に出ると傾いた日がてりつけ、少し風はあるが周りはとても静かだ。タクシーの運転手さんが草笛などならしている。子供の頃に聞いたきりで、もう何十年聞かなかった音だろう。

 

帰りのバスは比較的すんなり那覇市内にたどり着いた。私がとまっていたホテルは国道58号線ぞいにあり、バス停はそれとほぼ並行に走っている国際通りにある。ということは国際通りから58号の方向に向けて垂直に歩けば、間違いなく58号線にたどり着くはずだ。そう思って歩き始めたのだが、あるけどあるけど58号の陰も形も見えない。そのうち川を越えた。街角でガイドブックを取り出すと位置を適当に確認する。うん。きっとこの川だからもうすぐ58号のはずだ。しかしそこからしばらく歩いても国道の気配すら存在しない。

そのうち私は避けられない結論に達した。自分がどちらの方向に進んでいるか解らない状態に、つまり迷ってしまったのである。理論的には平行に走る二本の道路の間で迷えるはずがないのだが、その起こり得ないことが起こっている。一つだけ考えられるのは平行な道路に垂直に歩いているつもりで、いつのまにか平行に歩いて居るのではないかということだが。

しょうがない。とにかく交通量の多そうな方に向かう。そのうち待望の58号に出た。しかしまだ問題は解決されていない。目指すホテルが右にあるのか左にあるのかすらわからないのである。街角でガイドブックなど取り出してみるのはいかにも観光客でござい、という感じでなぜだかいやなのだが(よくよく考えると何故いやなのだろう)こうなったら見栄も外聞もない。地図をとりだし、腰をおろして考える。一旦

「こっちだ」

と思い歩き出したが、15m歩いたところで

「やっぱりこっちだ」

と反対の方向に歩き出した。結果的にこの決断が正解だったのはありがたいことで、一日中歩き回った私はすでにして半ばよれよれになっていた。目指すホテルはなかなか見えないが、確実に58号の両脇はオフィス街になっていく。疲れた足をひきずりながら歩くこと数分。ようやく元のホテルに戻ってきた。

部屋に荷物を置くと、今度は慎重に考える。私は旅行に行ったとき、名物料理を食べようとは滅多に考えないのだが今回だけは違っていた。名古屋に居たとき何度か沖縄料理を名乗る料理を食べたことがあり、結構きにいっていたのである。それでなくてもちょっとかわった名前の料理があれこれあるようではないか。

さて、料理を扱う漫画というのがこの世の中には何種類か存在しており、その中の一つ沖縄料理をあつかったものがあった。そこには「国際通りにある沖縄料理屋などは観光客向けのもんだ」という文句があり、私はさようか、と思っていたのである。しかしホテルにたどり着く間にもあわよくば沖縄料理を食わせるところがないだろうかと思っては見たのだが、あるのは居酒屋ばかりだ。それでなくてもこの国道58号ぞいにはあまり飲食店がないようである。もう疲れたし、とにかく今日は国際通りに行こう。

さっき一度迷ったので今度は慎重に目印となる建物を覚えながら進む。ここに銀行があって、ここに橋があって。。と言っている間に国際通りについた。暗くなったのだが人通りは相変わらず大変多い。しばらくふらふらと歩いてみた。ちょっと裏通りにも入ってみたが食事を出してくれるところはそれほど多くない。たまに「沖縄家庭料理」なる看板があると、そういう店は正月休みなのであった。考えてみれば当然だ。結局こんな時に開いているのは100%観光客向けの店だけなのだ。

数度同じところを往復したあげく、私は開き直った。この際文句は言うまい。とにかく沖縄料理らしいものが食べられれば満足だ。それでなくても普段あまり歩かない私の足はよれよれになっている。近くにあった

「沖縄づくしセット」

を標榜しているレストランらしきものにはいった。

正直言えば入った瞬間「しまった」と思ったのである。店の中はどうみても飲み屋であり、沖縄料理はそのおつまみとしてでてくるようだ。しかし私は妥協という言葉が大好きだし、疲れた時というのはさらに「もうなんでもいいや」となってしまう。座ってメニューを広げるとあれこれ注文を考える。

ラフテーとかそういう類のものがある。豚の角煮だからまあ間違いはあるまい。それに見たこともないタコスライスというものがある。なんだこれは。タコの足でもはいったチャーハンがでてくるのか。まあ人間が食べるものだからそう間違いはあるまい。そのふたつと店の雰囲気に合わせてビールを注文する。(私は基本的には一人で飲まない人だから、これは大変珍しい行動である。)

まもなく注文した品々が運ばれてきた。ビールは沖縄において圧倒的なシェアを誇る地場産業、オリオンビールであるが、私は正直いってビールの銘柄というのは全くわからない。強いて言えばバドワイザーがあまり酔っぱらわないので好きな位である。とにかくごくごく飲む。つぎにきたのはラフテーだ。確かに豚の角煮だ。私は角煮が大好きなので、ご機嫌になって食べる。名古屋あたりで普通に食べる角煮よりちょっと脂身が少ない気がするが、なんといっても飲み屋のつまみだからこれがラフテーの特徴なのかどうかはわからない。

最後に来たのはタコスライスである。運ばれてきた物を見て名前に納得がいった。メキシコ料理でタコスというものがある。薄い皮にあれこれを巻いた物だ。その中身がご飯の上にかかっていると思ってほしい。その後も何度かこのメニューは見かけ「沖縄名物」と書いてあったから、私が食べたことがなかったのは、単に私の知見が狭いからだけではなさそうだ。

私は一瞬おののいた。それでなくても最近自分の太股が非常にたくましくなっている感触(なぜきがつくかと言えば、必要以上に太股に布の感触を感じるからだ)に恐怖しているのに、このいっぱいに振りかけられたチーズは何であろう。恐ろしいカロリーを持って知られるピザにはあれほどのチーズがかかっているではないか。これが同様のカロリーを持っていないとは誰が言えよう。しかしぐだぐだ言っても始まらない。とにかく食べてみた。

これが結構おいしいのである。ご飯自体にもちょっと味がついているのか知らないが、チーズの恐怖も忘れ私はぱくぱくと食べご機嫌になった。もうちょっとチーズが減れば時々食べてみたいと思うような味だがな。ビールもはいりほろよいになった私はご機嫌に家路(というかホテル路)についた。

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注釈

以前つとめていた会社:NTTソフトウェアの取締役は、こういうわけのわからないことを公言し、平然といばりかえることができなければつとまらない。本文に戻る

 

言う人もいるだろう:今となっては太田司令官がどう考えていたかは誰にも解らない。しかし今の私が考えていることは「ああ書くしかなかったのではないか」ということである。電文を読むのは本土の軍部だ。であれば彼らに解る言葉で書くしかない。それが事実と異なる事であろうと、所詮大抵の人間は自分に理解できる言葉しか受け付けないのだ。本文に戻る