題名:沖縄

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日付:2001/1/10

出発 | 首里、海軍壕 | 戦跡に洞窟に基地 | 城に島 | 名護市 | 本島北部


本島北部

さて、翌日ご機嫌に目覚めご機嫌に朝ご飯を食べると出発である。今日の目的地は明快であると言えるし全くいいかげんだとも言える。本日の目標。島の北部をぐるりと回る。そして適当に南下し、明日の朝10時までに那覇空港に着ける位置でホテルを見つけ宿泊する。

みろ、この明確な定義。しかし実際何をみるのだ、泊まる場所はどこだ、などは全く曖昧であることを見過ごすわけにはいかない。もっとも私が旅行するときの「計画」などはだいたいこうした類のものであるか。

さて、かようにいい加減な方針に従って北上を続ける。というのは嘘で実はその前にやることがあった。昨日ご飯を食べたあたり、名護市の中心街に向かう。ある商店の写真をとるためだ。

その商店には横に細長い看板がかかっている。右の端の方には「宝石・貴金属」といった文字が見える。しかし左のほうに行くに従いなんとなく雰囲気がおかしくなり一番左端には「タコスライス」と書いてあるのだ。果たしてここは何屋なのであろうか。名護市恐るべし。

さて、今度こそは北上だ。昨日通った街を通過すると、民家の数ががたっと減った。かといって路のそばに小型の集落に見える「墓場」が存在してるいることは相変わらずだ。それどころか民家が減った分だけ墓場が目立って見える。かくの通り何もない場所であるから、なんとか地域振興を、など考える人もいるのだろう。ところどころ

「海洋深層水設備の建設で地域活性化を」

とかいう看板が見える。海洋深層水というのはよくは知らないがとにかく大海の下の方を流れている水だとTVで見たことがある。それを含んでいることをうたい文句にした製品もいくつか見たことはあるのだがなんとなくしょっぱいのではないか、という恐怖心に駆られてまだ買ったことはない。

しかしその看板と裏腹なのが道の立派さである。このときはまだ島の西側を走っており、さらに何もなくなると言われている東側では違うのかと思ったら、とにかく最後まで道は実に立派であった。人がはたして歩くのだろうかと思えるような場所に立派な歩道が整備されていると多少奇異な感じがする。私が知る限りこれほど人が居なくてこれほど道路が立派な場所というのは他に見たことがない。沖縄には「いや」というほど公共事業費が投入されているというが、その結果がこれなのだろうか。

などと考えている間に北上を続ける。とうとう立派な道は最北端に到達したようだ。人もいなければ通り過ぎる車も少ない。さらにのろのろ進むと本土復帰の時の記念碑がある場所にたどりついた。

私は沖縄が返還された時のことはぼんやりとだけ覚えている。それまでは米国の領土にでもなっていたのかと思えば潜在的統治権は日本だが実質的に米軍が支配しているということだったようだ。記念碑があるとおぼしき方向に歩いていくとおどろいた。石碑は当然一つだろうと思ったら、なんだかしらないが4っつばかりごろごろ立っている。しかもそのうちの一つは漫画のような鳥の形をしている。

なんだこれはと思って見れば、どっかの島との友好記念だかなんだかのものらしい。この鳥はその島のシンボルマークであった。しかしそれはどう見ても異様であり、さらにはプレートに刻まれた

「2001年2月」

などという文字が一層の怪しさをかもしだす。今は2001年1月が始まったばかりというのに。

さて、真打ちであるところの「本土復帰」の石碑に向かう。そこにはどのような経緯でこの石碑が建てられたか書いてあるのだがその文体は一種独特なもので、ちょっと古い人が書いた文章かあるいは大学の時に教室に散らばっていた左翼団体が配ったビラのような感じがする。

とりあえず写真などとると、土産物屋の窓に「本土復帰なんたら記念館」とかいう文字がある。ちょっと勉強でもしてみるべえかと思いその建物にはいると、記念館というか資料館はほんの一角であり、写真が何枚かかざってあるだけ。ほとんどのスペースは土産物屋であった。まさか土産物屋の客引き用としてこの記念館を使っているのではあるまいな。

さて、その土産物屋から山の方を見ると山の中腹に一種異様な物体が存在しているのがわかる。私は最初それを巨大な馬かと思ったのだが、案内図によれば

「ヤンバルクイナ展望台」

とのことであり、あそこに立っているのはヤンバルクイナの恰好をした展望台なのだ。静かで人気のない山のなかに巨大なオブジェが立っている光景は異様としかいいようがない。これもあふれかえるほど公共事業費のなせるわざなのだろうか。その後私はなんとかそこにたどり着こうとしたが例によって道にまよってしまい果たせなかった。

それよりも私の目を引いたものは「○○小中学校」という文字である。この先何度かでくわすことになるのだが、島の北部では数km離れて小規模な集落が存在している。ガイドブックによればたとえばその集落の人口は200−300人らしいのだが、それでも義務教育はちゃんと行わなければならない。というわけで○○小中学校という看板が出現するわけだ。何カ所か見たが大抵の場合校門の片側に小学校の、もう片側に中学校の看板がついている。むかし中学何年コーストやらを読んでいたら

「好きな女の子に告白したいんだけど、うちの学校は一学年一クラスしかないから、卒業までずっと同じクラスだ。振られたらいずらくなってしまいどうしようもない」

とかいう悩み相談を送ってきた男がいた。当時私がかよっていた中学は12−13クラスあったから「うむ。世の中にはそうした中学校もあるのか」と感慨に耽ったものである。人口300人の集落で小中学校に通う子供は何人いるのだろう。一学年は何人なのだろう。中学校では先生も分業になっていたが、ここではそんなことをしたら先生の数のほうが生徒より多くなってしまうのであろうか。小学校を卒業して、中学校に入学するといっても同じ顔ぶれ、同じ場所なのだよな。それでも卒業式も入学式も校長は気合いをいれてしゃべるのだろうか。

等と考えているうちにその名も「奥」という集落についた。小さな集落でありガイドブックには「昔ながらの方法で野菜などを売る人の姿も見ることができる」とか書いてあるが、別に誰かが野菜をもって歩いているわけではない。ぽつりぽつりと見える家の中に小さなアパートまであるのはちょっと驚いた。集落の中には「○○共同購買所」とかいうよろずやの様なものがある。何を売っているのだろうと思い中にはいってみた。

村の日常生活をすべて担っているのだろうその店には確かにありとあらゆる日用品が並べられている。雰囲気的にはコンビニに似ているのだろうがさらに網羅的である。何も買わずにでるのも何かと思い小さな饅頭を買った。なんとか名物とかいってとにかく赤い。店にいるのは女性が一人、おそらくは普通の購買担当、もう一人男性がおり、勝手に想像するところでは彼はガソリンスタンドの担当なのではあるまいか。

さて、饅頭などたべながらさらに先に進む。車もほとんど見ないが、それこらへんに

「亀の道」

だの

「亀に注意」

だのという看板がある。日本国内でも動物に注意といった看板を見たことがあるし、米国だと鹿に注意という看板があったり(実際に鹿が走っていくのだ)、道のわきに空に足をつきだし牛がはねられて死んでいたり、はてまた不法移民に注意といった看板があったりするが、ここでは亀なのである。亀を跳ねるというはあまり考えたことがなかったが確かにそんな事故が起これば車、亀、そして道路のそれぞれにとってきわめて好ましくない結果を与えるに違いない。私は一応亀を見張りながら走ったがどっかを歩いているといった光景にはでくわさなかった。

さて、奥をすぎると地図の上ではより道路がぐにょんぐにょんとなって整備されていない東側にはいる。とはいっても疲れ果てるほどワインディングになっているわけでもなく快適である。山はそんなに高いわけではないが、森には原生林がびっしりとしげっており、その木の種類もどこか違うようだが私に細かいことがわかるわけもない。そして前述のように小さな集落がところどころにでてくる。小中学校と共同購買所がある。

しかしそうした道の中にも突然あっと驚くものが登場したりするのだ。○○ダムとかいう標識があり、普段はそんなものに全く興味を抱かないのだが、あまりに道が単調なので行ってみた。その名の通りダムがあるだけであり、怠け者の私は実際におりてダムが見えるところまで歩きもしなかったのだがそこにある看板はまた印象的である。

「犬を捨てないでください」

その文字の下には犬が「すてないで」としゃべっている漫画が書き添えられている。確かにこれだけ深い森があるのであれば、扱いに困った犬を捨てに来る人でもいるだろう。そこからしばらくしてそれらしい犬を見かけたような気がするが確証はない。実家のノータリン犬ことアイちゃんは、

「何かの理由で迷子になったら、帰省本能もないだろうし、自分で餌を見つける才覚もないだろうから1時間もしないうちに死んでしまうだろう」と言われているが、世の中の犬がそうしたものばかりとは限らない。いつのまにか野生化していくものもおり、何かと問題になっているのだろうか。

その他にはいきなり米軍の施設に出くわすこともあるが、最大限の驚きはかなり北部の方を走っているときに訪れた。コーナーを曲がるとそこにあったのは

「なんとかイン」

とかいう一見ラブホテルのようであるが、それよりも確かにしゃれてはいるペンションとかなんとかいう類の宿泊施設である。それは何もない森林地帯の中にいきなり現れ、そして私が「うぎょー」とか言っている間に後方に消えた。ひょっとするとこの地帯にもああしたものがぽつぽつ存在するのだろうか、と思ったが目にしたのは後にも先にもあの一軒だけだった。周りに何があるのだろうか。あのなんとかインに泊まった人は何を見るのだろうか。

そのうちなんとか湾という静かな湾に近づいてきた。そこら中にはやたらと「基地はいらない」とかいう看板が立っている。どうやらここに基地を移設する計画があり、一生懸命反対している人がいるらしい。「基地は残っても金は残らん」というまことに実質的な看板も多くみかける。米軍関係者相手に英語で書いた看板もそえられているところが念のいったことだ。「ジュゴンを守れ」とかいうものもあるが、湾はとても静かで確かにジュゴンがいるのかもしれないが、今までみてきた長大な海岸線のどこにでもジュゴンがいてもいいのではないかと思ったりする。アメリカ人向けのメッセージであれば確かにそれは有効なのかもしれないが、私などが見ると「ジュゴンがどうしたぁ。人間様の都合のほうが大切だぁ」と言いたくもなってしまうのだが。

などと感慨にふけっている間にだんんだん街になってきた。どうやら北部の森林地帯もお終いのようである。

 

さて、そうなると周りをきょろきょろする楽しみはへるから、「そろそろお昼ご飯」ということのほうが気にかかる。例によって何か沖縄名物はと思って走っていると

「名古屋名物 味噌かつ」

などという看板を見つけて腰を抜かしそうになる。考えてみれば沖縄に来てからというもの「札幌ラーメン」という看板にもなんとなく違和感を覚えているのだが。しかし何がおかしいのか、と言われるとそれは私だけの物の見方だということに気がつく。名古屋にも沖縄家庭料理を看板にしている店がちゃんとあるではないか。沖縄に住んでいる人が名古屋の味噌かつを食べようと思って何が悪い。

さて、そんなことを考えてはみたもの、観光客の私としてはここまできて味噌カツを食べたくはない。そのうち道沿いにあった「ドライブイン」を見つけてはいった。結構こみあっており、ひょっとしたらおいしいものでも食べられるかと思ったのである。中にはいると勤め人らしき人たちで混み合っている。午前中の仕事が終わり、ちょっとご飯でも、といった雰囲気だ。メニューを見るとあれこれの物があり、ショウガ焼き定食とかこれまた全国どこにでもあるようなものもあるのだが、下の方に

「ソーキ炒め」

という名前がある。ソーキといえば、先日食べた「ソーキそば」のソーキか。実はこのときはそばの原材料の一種かと思っていた。つまり沖縄版そば粉の元となる植物ではないかと思っていたのだ。

それを炒めるとはどういうことか。普通に考えれば野菜炒めである。なんとなく肉でもばりばり食べたいと思っていた私に満足行く物であるかどうかはわからない。しかしせっかくここまで来ているのだから一発チャレンジしてみようではないか。

そう思って注文する。しばらくたって出てきたものは私の予想を大きく越える物であった。味噌ともソースともつかないもので炒められた野菜と肉の盛り合わせなのである。こう書くと普通の肉野菜炒めのようだが、肉というのが豚足だかスペアリブだかのようなとにかく骨つき肉のかたまりで、後でしったことだがこれがソーキであり、豚のあばら骨のところなんだそうな。それがごろごろする下に野菜がてんこもりである。

箸をつけるとこれがご機嫌においしい。昨日たべたてびち汁と違い「これを毎日食べたい」とは思わない。もしそんなことをすれば、2ヶ月後には体重が100kgを越えているだろう。しかし当たりであることにはかわりがない。

さて、すっかりご機嫌になるとさらに南に向かう。食のほうは見事に収まったので今度は住のほうだ。今晩のホテルを探さなければならない。しかし例によって半島半ばあたりからだとそう簡単にホテルは見つからないのである。カワナビの神様も何軒か示してはくれているが、いくらなんでも時間が早すぎるとか、道の向こう側だから曲がりづらいとか思っていたうちに通り過ぎてしまう。そのうちかわなびの神様の画面にも何も表示されなくなった。道沿いに一軒「何とかホテル」なる看板がでており、大きさも手頃なので、苦労して(道を2度ほどまわったのだ)飛び込んでみると門をくぐって目にはいるのは「休憩:2時間 ○千円」の札だ。つまるところここはラブホテルなのである。泡をくってそこから抜け出す。

そうこうしている間に結局那覇近辺に戻ってきてしまった。ここまでくれば那覇に泊まるのがよかろう。たくさんホテルが集まっているということはきっと価格とサービスの競争だって起こっているだろうし。そう思って走っていくとかわなびに「陸軍病院壕」という表示がでだした。持っているガイドブックには特に記載はないが、よってみる。

例によって看板の少なさに悩まされながらもようやく到達した。小高い丘に壕がほられ陸軍の病院として使われていたらしい。そこには時の総理大臣(だったのだろうか)佐藤栄作の名前がある石碑が建っている。しばし周りを見回す。ここ数日は曇りの天気が続いていたのだがこの午後はまた晴れになり日が射している。そして私はこの静かな風景の場所は当時どのような状況であったのかと考える。

 

見終わると再び那覇に向かって進む。市街地にたどりつくと、かわなび画面にはそれこそ無数の宿泊施設が表示されだす。とりあえず近くのところから当たることにした。せっかくみつかっても駐車場がどこにも見つからなかったり、探している間に細い道に迷いこんでしまったりとなかなか一筋縄ではいかない。今回借りたのはVitzという小型車で、めちゃくちゃうれた、というニュースだけは聞いていたが、なるほどよい車だ。小型なのだが居住スペースは(私には)十分でおまけにくるくると実によく回る。戦車には普通の自動車と違って片方のキャタピラを止め、もう片方だけ回すという旋回の手段があり、それをやると非常な小回りを実現することができるのだが、この車にはその機能がついているのではないかと思ったほどだ。こうした市内をくるくるまわるのには誠に便利だ。

さて、そうやって試行錯誤をすること数件。ようやく感じのいいホテルにたどり着いた。値段もお手頃であり、迷わずお願いしますという。愛想のいい女性に部屋まで案内してもらい、荷物をおくとさっそくおでかけである。

もう今までにさんざん迷っていたので、今度こそ迷わないぞ、と思えばいいものをまた例によっていい加減に「ああ。こっちの方に行けばいいわけね。No Problem」と出発してしまうものだから迷ってしまった。アーケードを通っていけば自動的に国際通りに到達すると思っていたのだが、いつのまにかまた国際通りと平行に歩いてしまっている雰囲気である。しかし幸いなことに今回はそれほど迷う余地の大きい場所をあるいていなかったのでほどなく国際通りに到達した。

実はこの日は「あそこで食べよう」と思っていた場所があったのである。二日目に那覇市内を歩いた時、「復帰前の雰囲気のあるアメリカンレストラン」なる看板があるのに目を留めた。そりゃ米国の支配下に会ったときは多くの苦労があったのだろう。しかしどんな苦労であってもそれがすぎるとなんとなく懐かしむ動きがでてくるのは人間の生業である。わざわざ復帰前の雰囲気を看板にかかげているあの店はどんなところであろうかと。

さて、歩くこと数分。ようやくお目当ての店を見つけた。店頭にあれこれの見本が飾ってあるがそれは確かに偉大な量を示唆している。中にはいるとレジのところにいきなり

「ここでは日本円しか受け取れないよ」

と英語で書いてある。メニューをみるとA,B,Cのランチがあり、Cランチは普通なのだが、Aランチはビーフカツ、チキン、白身フライ、ハンバーグ、サラダにご飯にフライドポテトという恐ろしいまでの量とカロリーを主張しているしろものである。まだ時間が早いしそんなにお腹も減っていないのだが、こうした物を見るととにかく食べてみたくなるのが私の性分である。運ばれてきた物は期待通りのすごいものだった。なかなかおいしいわい、と思いながら食べたのだが、食べている間中一つの疑問が頭に残っていた。

日本で外食しようと思う場合、所謂「揚げ物」を避けて通ることは大変困難である。体重が気になる私としては「揚げ物」の偉大なカロリーは大変恐ろしい物だが、事実はいかんともしがたい。逆にアメリカではあまり「カツ」というか、ころもをつけて揚げた物を食べたことがない。さて、ここにある巨大な「ビーフカツ」は大きさはともかく本当にアメリカンテイストなのだろうか。

まあそんなことは気にせず数本のフレンチフライを残しては食べてしまう。正月に体重を減らすことを公約として誓ったばかりなのだが、その誓いを数度ふっとばすほどの偉大なカロリーを摂取してしまったに違いない。しかし食べた物は今更なんともならないのである。

さて、お腹も膨れたし。ということでご機嫌に街を歩き出す。夕暮れの街は、暑くなく寒くなく、適度に人でもありぶらぶらするだけでご機嫌になれる。ふと「インターネットカフェ」というものが目に入る。実はこの旅行に来る前愛するPowerBookの調子がおかしくなり、連休の間ネットにアクセスができるかどうかかなり危ぶんだのである。メールで連絡をしなければならない用事もいくつかあったのだが、PowerBookなしでどうすればいいのか。頼りになるのはインターネットカフェであるが、果たして沖縄にインターネットカフェはあるのだろうか。そんな危惧を持っていたがちゃんと存在するようである。そう思うと無性に入りたくなった。明日は実家に戻るからいくらでもネットサーフィンができるのだが、ひょっとすると私にはネット依存症のけがあるのかもしれない。まあもう見物したいものもないし。

中にはいると女性が大変愛想良く応対してくれる。最初は空いた端末が無かったのだが、では端末が空いてから時間をカウントで良いです。その間は漫画でも読んでいてください、と言ってくれる。ゴルゴ13を読んでいる間に端末が開いたようだ。しばしあれこれのサイトを巡って時間を過ごす。

外にでるともう暗くなりはじめている。さすがの私も帰り道は迷わなかった。このホテルには共同風呂がありその隣にはコインランドリーもある。旅行の間中同じ服ばかり着ていたのでここで一発洗濯もする。外側も内側もきれいにした私は至極満足のうちに眠りについた。

 

翌日は朝食を食べると早めに空港に行く。この空港はまたとっても立派であり、公共事業費の威力であろうか等と考える。飛行機に乗って名古屋につくとこれが(当然のことなのだが)素敵に寒い。母が言うには私が出た後から寒くなり雪もふったとのこと。父はおととし沖縄に行っており、母は2週間前に行っている。家族で沖縄談義に花がさく。私が

「引退したら冬は沖縄に住みたい。あれだけ暖かいと外に出る気になる」

というと母も同意したようで、新聞に

「最近は引退した夫婦がハワイに住むのがはやっている」

という記事があるのを見ると

「あたしはハワイより沖縄がいいわ」

などとつぶやいている。私もいつになるかわからないがまた沖縄に行くことになるのではなかろうか。


注釈

 おととし沖縄に行っており:このときの様子は「沖縄紀行」参照のこと。本文に戻る