題名:沖縄

五郎の入り口に戻る

日付:2001/1/10

 出発 | 首里、海軍壕 | 戦跡に洞窟に基地 | 城に島 | 名護市 | 本島北部


城に島

翌朝私は6時に目覚めた。昨日はここにたどり着いてから寝てばかりいたから、何も追加料金を取られることはないはずだ。しかし私はしっかり神経衰弱になっていた。どうもこうしたリゾートホテルなるものは、私の伺いしれないロジックで動いているようだ。光熱費は別かもしれぬ。あるいはこうして惰眠を貪ることにすら料金を課すかもしれぬ。私がこうしている間にも何気なく消費している酸素はどうだ。

とにかくこんなところさっさと出るに限る、と思い荷物をもって外に出た。この日以外はすべてホテルで朝食を食べたのだが、こんなところで朝食など食べればいくら取られるかわからない。フロントに行くと慇懃な態度のお兄さんがいて昨日の余分な代金を全部返してくれた。私は人頭税の恐怖から逃れられて一安心。外はまだ暗い。考えてみればここは横浜よりもずいぶん日の出が遅いはずだ。 

かわなびに今日の目的地を入力する。ホテルの中に「中城城」というところがいいぞ、とポスターが貼ってある。私はとにかくあちこちにいくとそこのお城だけは(それが10年以内に建築されたもので、鉄筋コンクリート4階建てであっても)行くことにしている。沖縄がかつて内部であれやこれやと喧嘩をやっていたころのお城というのはいくつか残っており、ここはその一つとのこと。まずそこに行ってみよう。

そう思い車を走らせる。朝だし路は大変すいていて快適である。あっというまに目的地についた。車を止めると門らしきところに向かう。

そこはきっちりと鍵がかかっており「時間:9時〜5時」とかなんとか書いてある。いまや石垣しか残っていない城だから誰でも入れるだろうと思ったのがあまかった。どうやらきちんと時間を区切り入場料をとるようだ。時間は7時半。まだ1時間半もある。理論的にはこの近くで朝飯でも食べてのんびりすることもできるのだが、「先を急ぐ強迫観念」にとりつかれている私は第2の目的地に向かうべきだと判断し再び車に乗り込む。

目指すのは半島の中部東側にあるなんとか島というところだ。もともとは何にもないところだったらしいのだが、「石油備蓄基地を建設しよう」という案が実行に移されてから島の様子が一変したらしい。その建築を請け負った業者がいきなり沖縄本島と島を結ぶ道路まで造ってしまったそうだ。私はこうした海の上を走る道路が大好きだ。その昔フロリダ半島のさきっぽ。キーウェストに行ったときはあまりに直線道路が長く続く物だから

「ハンドルを切らなくていいのだろうか」

という強迫観念に襲われ、あやうくコンクリート壁に激突するところであったが、ここならそんな心配もあるまい。かわなびのお告げに従って、さっそく運転開始である。

車は快調に走り、あっというまに島の入り口についた。ここからが橋である。周りの見晴らしが大変よろしく快適だ。南側には海の上に岩がごろごろつきでているのが見える。それがなんとも奇妙だが、海自体はとてもきれいな色だ。島についてしばらく走ると見えてきた。石油備蓄基地というだけあって、石油タンクがごろごろ存在している。フェンスによってみると

「ゴルフ禁止」

なる看板が張ってある。なんとものどかな話だ。基地の一角になにやら化学プラントのようなものが見えるが他にあるのはタンクだけ。常時人がいるわけでもなく

「ええい。この広々とした空間を生かす方法はないか」

と考えたあげく、クラブを持ち込む事を考えた奴がいるのだろう。その看板は結構頑丈な材質でつくってあったから、2−3名不心得者がいただけでは無いようなきがする。

さて、路はまだ先に続いている。サンセットリゾート何とか島という文字が出ている。サンセットリゾートなどにはつゆほどの興味も持っていないが、何が奥にあるのか見てみたい。というわけでさらに奥に車を走らせる。しばらくは細い道が続くがそのうち集落らしきものが見えてきた。しかし何かが変だ。遠近法が狂っているような気がする。

近づいてみたらその「集落」は墓場だった。沖縄の墓がとても変わっていることはよく知られている。沖縄戦前に米軍はこう警戒していたとされる。

「各地に存在する墓はそのまま防御拠点となるので注意するように」

さもありなんというところだ。それまでもいくつか単体での墓にはお目にかかっていたのだが、こうして「集落」を形成しているところを見るとちょっと驚く。そこからさらに進むと小さな集落があった。ここには今回の旅行で唯一遭遇した「かやぶき屋根」の家があった。沖縄に来てからというもの、茅葺き屋根どころか木造の建築物自体お目にかかっていなかった私の目にはとても新鮮にうつる。しかしがっちりしたコンクリート造りの家が多いことには確たる理由があるわけで、これだけ台風が通る土地でこの家はどれくらいの期間持つ物だろうかなどと考える。またこの集落は何を生計としてたてている人たちが住んでいるのだろうか。

そこからしばらく進んだのが、また細い道になったし、そろそろお腹も減ってきたので引き返すことにした。途中からは別の島への橋も架かっているが、頭の中を朝食という言葉がぐるぐる回るいまとなっていはそこまで行って見ようとも思わない。ぶいぶい車を走らせるとそのうちファーストフードの店が見えてきた。何も考えずにそこにはいるとジャムつきパンとコーヒーなど食べてみる。考えてみれば昨日の晩飯はずいぶん早く食べたので、ひさしぶりの食事だ。やはり体が冷えていたのだろうか、大変おいしい。

さて、こんどこそ、というわけで中城城に向かう。今度は開いていてちゃんと入れた。ここには特に「戦争の際破壊された」という看板もないので(私が見落としただけかもしれないが)いつも通りの「この階段を上る木っ端役人の憂鬱」の妄想にかられる。昨日からだが空はずっと曇っている。高いところから周りを見回す。今は誰もいない静かな場所だが、この城の中に人がいたときはどんな光景だったのかな。

そうそうにそこをひきあげると近くの「中村家」というところに行く。別にこの中村さんを知っているというわけではない。昔のおもかげを残す貴重な民家というふれこみなのである。入場料金をはらって中にはいると確かに民家だ。私の他にはもう少し年上の夫婦がタクシーの運転手さんらしき人に案内されて回っている。こうした時はあまり露骨にならない程度に聞き耳など立ててみるとタダでいろんなことが聞ける。一度ガイドがつくパックツアーに参加したことがあり

「ガイドさんとは(いい人にあたれば)実にあれこれ教えてくれるものだ」

と感心したのだが、根がせこくて貧乏性の私は自分で頼もうとは思わないのである。向こうだって空気の振動が伝わることに課金しようとは思わないだろう。運転手さんは台所にある用品の呼び名が、中国語に近い物であることを説明している。

その説明を聞くとはなしに聞きながら(実は一生懸命聞いているのだが)ふと思った。運転手さんは結構年輩の方なのだが、まるでNot a native speaker of Japaneseが習った日本語のようなしゃべり方をする。そうと知らずに会えば「最近日本にいらっしゃったんですか」と聞きたくなるかもしれない。以前は相当言葉も違っていたのだろうか。そういえば若い人の日本語にも一種のアクセントがある。それは私が今までに聞いたどのアクセントとも異なったものだが。

さて、その一行と離れたりくっついたりしながら家を回る。縁側があり、小さな庭が見える。私は物心ついてからこうした縁側のある家に住んだ事もなければ、あまり訪問したこともないはずなのだが、なぜだか縁側にたったり座ったりするとご機嫌な気分になれる。ぼーっと庭を見ていると

「金をためて引退したらこうした家に住むのもいいかな」

と思う。もちろんインターネットが使えるという条件付きだが。そう思うのは正月であるというのに窓も何も全開で何の問題もない気候にもよると思う。私の祖母の家はまあこの家に近い伝統的なつくりなのだが、私が子供の頃、一家で祖母の家に行く前父はよく言った物である

「さあ。南極基地にいくぞ。あれこれ着込め」

子供の頃だったからあまり寒さも感じなかったが今だったら布団から一歩もでれないかもしれない。

しかしさらに見回っている間にその考えを捨てた。トイレというか厠を見たからである。扉は変色しており、隅っこに追いやられているそれは、私の「住みたい」などという妄想をふっとばすのに十分なほどの存在感を放っている。去年「ウォシュレットは20世紀の10大発明の中にはいるのではなかろうか」などとたわけたことを考えていた私だが、この厠にはどうしたってウォシュレットは着かないようだ。やはり人間自分が住み慣れた環境が一番であろうか。

家の裏側には牛小屋だの羊小屋、豚小屋がある。羊と豚はともかく牛がはいるのにはこの小屋はとても狭そうだ。飼っていたのは小さな牛だったのだろうか。家畜が中にいたころはさぞかしうるさかったのだろうな。

そんなことを考えながらその場所を後にした。さて、どこに行こうかと思う。実は朝来たときに、この近くに成田山があることを見つけていた。成田山とは成田にあるのかと思っていたら全国どこにでもあるような気がする。神社の全国チェーンであるようで、何号店かしらないがとにかく沖縄のこの地にも存在しているわけだ。正月だから初詣をしよう、という概念は私にはないのだが(大坪家は子供が受験の時は遠くまで行ったが、やる気のないときは、そこらへんの路の近くにある名もない神社に10円をなげて初詣にしてしまう)そこから少し離れた山の稜線上に、今は廃棄された建物が見えるのがきになった。廃棄されているくらいだから文字通りの廃墟なのだが妙なところに行って見たがる性分の私としてはちょっと行ってみようかなどと思うわけだ。というわけでそちらの方面に車を走らせる。

しかし(当然なのかもしれないが)その廃墟に行く路が見つからない。あちこち走り回ったあげく、やはり成田山から路があるのかと思って結局お参りすることになってしまった。車をとめて歩き出すと結構な人出である。やたらと作業服を着た人が多い。どうやら今日が仕事始めで、職場ごとごっそりとお参りに来ている人たちのようだ。最初はやたらとがんばって営業している食べ物屋をみて

「こんなにがんばっても客がいるのだろうか」

と思った物だが、これだけ参拝客がいれば帰りにつまみ食いをしよう、という人間もいるだろう。あまりに混んでいて、仕事の貴重な時間を使ってお参りに来ている人のじゃまをしては悪いと思い、結局賽銭を投げたり手をぱちぱちするのは省略してしまった。

なんとかあの廃墟に通じる道がないかと思いながらぶらぶら車に戻るが見つからない。かわりに見つかったのがまたもやでました巨大な墓である。墓には大きく2種類有り、家のような形をしたもの、地面に半分埋め込まれたようなものがある。この地面に半分埋め込まれたようなものはトーチカそっくりであり、私が米軍の指揮官であったら、片っ端から破壊して回るだろう。そのうちの一つにはびっしりと苔が生え、草がからみつき緑の中に埋もれようとしている。いくら立派な墓を建てたところでそれは結局生きている人たちの物。人の縁が切れればそれまでだ。

さて、もうこの辺りで見るべき物は見たようだ。次の目的地は少し北になる。再び基地をかすめる道路を通ってもいいのだが、ちょっと別の路を通ることにした。沖縄を南北に走っている高速道路である。

のってみるとこれが結構快適でおまけに空いている。時々米軍の車両にでくわして泡を食う他には平和なドライブだ。今回沖縄旅行で何がよかったといって、米軍の基地があるエリアでは米軍向けの放送が聞こえることである。正直に言うが私は運転中音楽を聴くのは好きだが、日本の「一部」のラジオでの会話には我慢がならない。以前書庫日記に書いたネタだが

「20世紀の10大ニュースをおよせください」

「どんなのがありますかね。阪神の優勝とか」

「キムタクと静香の結婚もあるじゃないですか」

などという会話を聞くと発狂しそうになる。であるからして米国から帰ってきてしばらくは現地で録音したラジオのテープを流しながら運転していたほどだ。

それがただで聞けるのだからありがたい話だ。もっとも米軍基地から離れたエリアでは電波がとどかないようだが、この近辺ではご機嫌である。American Force Networkということで、普通のCMははいっていないような気がする。

「赴任した土地の文化を学ぼう」とか

「柔道は最も早く広まった武道だ。君も柔道を学んでみないか」

とかそんなCMらしきものばかり放送の合間に流れる。あるいは米軍向け放送らしく

「なんとか将軍はこんなすごいことをしました。みなさん誇りに思いましょうね」

とかいう米軍豆知識みたいな内容もしゃべっている。私は観光客だからふんふんと思って聞いているが、米軍の人があんな事を聞いてもうんざりするだけではなかろうか。はてまた

「よう。この前上司にひどいこと言われて落ち込んでいたいんだ。あんなひどい言葉使いをしなくてもいいだろうにって。それを女房に言ったら

”あんた。いつもあたしや子供にそういう言いかたしてるわよ”

って言われちゃった。」

「そうか。君みたいな人の為に"Anger Control Class"(怒りの制御クラス)があるんだ。受講してみないか」

とかいう会話調のCMもある。これなど日本ではあまり聞かないようなものだが、彼の国の人間が怒りやすいのかあるいは日本にもこういうクラスをもうけるべきなのかは私にはわからない。

さて、この日は幸いな事に11時頃から全米カレッジフットボールNo1を決めるOrange Bowlの放送が始まった。というわけで私はますますご機嫌になって車を走らせる。ほどなく目的地の万座毛についた。

ここはどのガイドブックにも載っている観光地だからきっと沖縄料理を食わせる店でもあるか、と思ったら予想に反して仮設のような土産物屋が並んでいるだけである。しょうがない。お昼ご飯はもう少し先だ。一万人でも座らせることができると誰かが言ったために万座毛という名前らしいが確かに芝生が広がっている。ただしきちんと

「芝生育成中。入らないでください」

と看板があるから勝手に座るわけにはいかない。見事な断崖絶壁があり、ガイドブックには

「コバルト色の海がきれい」

と書いてある。たぶんきれいなのだろう。日さえ射し込めば。しかし今日は時々小雨がぱらつくくらいの雨空である。看板によればコバルト色であるべき海の色も今ひとつさえない。そもそもコバルトってのはどんな色なのだろう。確かアトムの弟にそういう奴がいた気がするがとにかく名前から察するに金属系の元素なのではないか。誰か見たことがある人はいるのだろうか。それはどんな色をしているのであろう。今の海は鉛色。コバルトはたぶん違った色だと思うのだが。

そんなことを歩きながらだらだら歩く。風が大変強く、寒くはないがのんびりしようとも思わない。大抵の場所にはちゃんと柵があり、それ以上崖のほうに近づくなという警告になっているのだが、ふと先を見ると崖のすぐちかくに若い女性が立っている。おおすごい。彼女は柵を乗り越えて崖に迫っているのかと思ったが、近くにいってみたらそこだけ展望台のようになっていて、別に柵越えしなくても

「どぼん」

と落ちそうなところまで近づけるのである。その近くには例によって沖縄の着物をきた女性が傘をもって立っており「一緒に写真いかがですか」と呼びかけている。その女性はなかなか美しいが、表情が完全に摩耗している。心なしか笑顔は浮かんでいるが感情は全く読みとれない。こんな風の強い崖の上に何時間もつったっていたら誰だって表情が消滅するに違いない。

車に戻るとさらに北に進む。先はまだ遠いのだがしかしお昼であるし昨日からろくなものを食べていないのでお腹がへっている。何かないかと思えば

「ソーキそば」

なる看板を出しているレストランがある。迷わず入った。

中にはいると店の人が愛想良く応対してくれたが客は私だけである。所在なく待つこと数分ソーキそばがやってきた。そばの上に肉のかたまりがのっている。箸をつけるとこれがご機嫌にうまい。名古屋に帰ってから母に

「そーきそばおいしかった?」

と聞かれた。私は確かにそれに「うん」と答えたのだが、常に科学的方法論を尊重する私としてはおそらく母が聞き流したであろう以下のような注釈をつけずには居られなかったのである。

「確かにおいしかったのだが、当時私は前の晩からあまりろくなものを食べていない状況にあった。したがってそば自体がおいしかったか、あるいは当時の私は暖かい物であれば吉野屋の牛丼であっても涙を流して食するような状態だったのかあまりはっきりしないのである」

断って置くが私は吉野屋の牛丼は大好きだ。ただし普通の場合涙を流すことはしない。そんな小難しい理屈はとにかく、この日私はそーきそばを涙をながさんばかりの感激とともに食べ、ついでに汁まで全部飲んでしまった-これは私が滅多にしないことである。その理由はどうあれ、これで私はさらに幸せな気分になった。

さて、食べ終わるとまた北上である。途中名護市というところを通る。ここは後で知ったのだが、沖縄の北の中心というだけあり、それなりに何かがある。そこを通過しさらに北上する。今日はさらに北の半島にある海洋博の跡地までいくつもりなのだ。

私は海洋博というものが実施されたとき、いくつだったのだろうか。何を覚えているかと言えば予想に反して客がさっぱり集まらなかったこと。それを受けてか、姉が購読していた中学X年コースに

「客を呼ぶためにはこうするべきだ」という提言があり、その一つがマスコットマークをイルカから色っぽい人魚のお姉ちゃんにするべきだ、というものだったことくらいなのだが。

さて、ガイドブックを見ればその跡地はきちんと整備され今や一日遊べるレジャーランドとかしているという。私の脳裏に焼き付いている「なんだかわからないけど海中に立っている構造物」を見たい一心でひたすら走る。かわなびはそろそろ目的地が近いことを示している。すっかりはしりまくりモードになっている私は近くにある土産物屋などに目もくれない。さあいよいよ到着だと思ったらどうも様子がおかしい。よく見ると

「本日は休園日」

となっている。なんということか。はるばるかっとばしてきたのにこの仕打ち。それから「一部でも開いていないか」と思いうろうろしたが、つまるところ何も開いていないのである。しょうがない。

 

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注釈