2006-03-30 13:37
バイオニック・ソフトウェア
Tom はそのパラダイムシフトを、「AI が IA になる(人工知能(Artificial Intelligence)が知性の拡大(Intelligence Augmentation)になる」と上手にまとめてくれた
Gardsの論文を書き、プレゼンについて考えているとき、おそらく私は同じようなことを考えていたのだと思う。
少なくとも去年あたりまで研究されていた「情報推薦システム」というのは、ユーザープロファイル(ユーザ知能の一部のモデルと考えている)を用いて人間が一覧できないほどの情報から、「ユーザーが好きそうな」情報をユーザーに代わって選別してくれる、というものだった。私の考えではこれはArtificial Intelligenceが目指したものの考え方に近い(延長線上にある、というよりは現実に合わせて対象を限定しているが)
それに対してGardsではシステム内に一切ユーザモデルを持たせず、
「その場その場のユーザ操作に反応して、情報をわらわら出す」
事を目指した。何故そんな方法を採ったかといえば人間の知能のモデル化、というのは仮に対象を限定したところで「本質的に無理」と考えたわけだ。
ユーザのモデルはユーザの頭の中にしか存在しない。システムが行うことは、ユーザの選択を拡張し、それに対して候補となるデータをとにかくわらわら(もちろんちゃんと認識できる範囲で)提示すること。
すなわちこの文章が言っているところのBionic Softwareを目指したわけだ。Gardsはそれ単独では何もしてくれない。ユーザとのインタラクションを通じてそのユーザにとって価値のある情報を提供することを目指している。
と書いていてふと思う。これは「なんだか有名な概念がでてきたら”俺はとっくに考えていたよ”といいたがる症候群」そのものではなかろうか、と。まあいいか。私はチンピラサラリーマンだし。
このBionic Softwareという言葉がはやってくれるとよいなあ、と思う。私が裏でこそこそ作っているものは、たぶんArtificial Intelligenceよりそちらに近いと思うから。
2006-03-30 08:25
芸大生「萌え系」フルート奏者が人気
クラシック界にも“萌(も)え”旋風!東京芸大4年生で、今年1月に「メルヘンの風」でCDデビューしたフルート奏者yumi(22)が愛くるしいルックスから「萌え系」として人気を集めている。
まあ事務所だかプロダクションだかの誰かがこうやって売り出そうと考えたのだろうが。。
そこからリンクされているサイトを見ると何枚かの写真、動画がある(結局私は見ているのだ)
でもってそこから聞こえてくるのは
「ほら、てめえらこういうのが好きなんだろ?こういう写真観るとうれしいんだろ?」
ってな感じの受け取り手を完全に馬鹿にした作り手の声だ。
私はこの「商品」の想定顧客には入っていないだろうから、想定顧客がどう受け取るかはわからん。しかし元オタクが見ると、これほど不愉快な写真はここしばらく観たことがなかった気がする。
2006-03-23 11:56
またまたLife is beautifulのエントリーより
SEはメニューのないレストランのウェイターか?
この喩えは大変しっくりときた。そうだ。実際にソフトウェアを作っている人間はシェフだったのだ。なのにレストランのシェフとプログラマーの「日本における社会的地位の差異」はなんなのだろう。
料理本があればシェフは要らない、と叫ぶ声はあまり聞いたことが無い。しかし完璧な詳細設計書があればプログラマーなんて誰でも同じだ、という信仰は(誰も口に出してはいわないだろうが)はびこっているように思う。
ここでいきなり話は飛ぶ。
最近何故共産主義が惨めな失敗に陥ったのかと考えている。理由はいくつも挙げられるのだろうが、ここ数週間考えているのは
「本来経済というものは完全に計画できないものなのに、それを計画しようとした」
ということだ。
では自由市場に任せておけばよいかと言われればそれも間違っている。適度な計画に適度な自由さが混在していてなんとか均衡を保っているわけだ。
この「適度な計画と適度な自由さの混在」
というのはいろいろな場所に存在しているのではないか、と思われる節がある。そしてソフトウェアの開発-規模の小さなものから大きなものまで-もそれに該当するのではないかと思えるのだ。
そしてLife is beautifulの言葉を借りれば
「ウェイターがレシピを書き、アルバイトが料理を作る状態」
というのは経済における共産主義と同じく、本来完璧に計画-この場合は設計か-ができなソフトウェアというものを、計画できる物である、と誤解していることから起こるのではないかと。
こうした
「計画性への過信」
はどこから起こるのか。思うに大企業ほど計画が好きである。自分たちが現実から離れれば(ソフト開発で言えば、下請けに●投げする)離れるほど、計画に対する「信仰」が強まる。そして美しくそして現実から乖離した計画が尊重されるようになり、とんでもないことが起こる。
計画ができないものを扱うためには、現実からのフィードバックを常に受け止め、実際に現実に接している人間が(人間が持つ偉大な)柔軟性を発揮した行動を取れるようにしなければならない。料理の材料は季節によっても変わるし、仕入れの度に変わる。それに柔軟に対応してすばらしい料理を作り上げるのはシェフであり職人。なのにコードを書く人間など外注でOKと信じる人たちは「レシピがあれば料理人などアルバイトでOK]と言い切る。そうしてできあがっているファミレスの意義を軽んじるわけではないけれど。
2006-03-16 07:49
対外向けのコメントだから割り引いて考える必要が有るかもしれないが
■新サービスを次々と提供できる要因は。
最も大きな要因は、我々自身が技術に親しんでいるだけでなく、熱心なインターネットのユーザーだということです。我々自身が欲しいサービスを作る、という発想からアイデアが生まれるのです。会社はそれを手助けする環境を作っています。
「Web2.0をグーグル社内で議論することはない」
少し前、コンサルタントに「新しいサービスを考案し、それを評価する方法は」について意見を聞いた。その人の答えは
「あなたがそのサービスを金を出して使いたいと思いますか?」
だった。
会社にはいってからずいぶんと適当な「需要予測」だの「ユーザ評価結果」を作った。そうして何を学んだかといえば、
「大抵の評価結果はでっち上げられる」
ということだ。この「でっち上げ」というものには意図的なものと結果的にそうなるものが含まれる。つまり売れるか売れないかは(製品として成立していないものはさておき)誰にもわからないのだ。
もう一ついえる事。優れた製品(含むサービス)は作っている人間自体が面白い、使いたいと情熱を持っていなければ生まれない、ということだ。当たり前のことだと思われるかもしれないが、会社にいると「企画書」とか「レビュー」とか「たくさんの承認」が優れた製品を生む、と思っている人の多さに驚かされる。というか作っている人間が情熱を感じていなくても、そうしたプロセスを通過することは可能なのだ。しかしそうしたところで、それが良いものになるか否かということとは何の関係も無い。
優秀な人材を集め、その人たちが自分で使いたいと思うサービスを開発させ、ネット経由で迅速にフィードバックを得る。Googleではこのサイクルがうまく回っている。これらの要素はどれが欠けてもうまくいかないものなのだと思う。このことを理解しないで、一部だけ真似したってだめだよ。
2006-03-13 07:29
私は文句ばかり言う男なので、世の中に嫌いなものがたくさんある。その一つがこの「理系・文系」という言葉だ。
というかこの言葉がでてきた時点で、後の言葉は「ふんふんそーですね。トイレいっていいすか」モードにはいるほどだ(こうして大事な事を聞き逃していくのかもしれん、、)
理由をいくつか書いておく。
・Stanfordですごした2年間でこの言葉を聴いたことがない。そもそも英訳できんのではないだろうか。
・使われている文脈からして、この両者を分けているのは数学、理科が得意かそうでないか、らしい。しかし文系と区分されるであろう経済学で使われている数学は「理系」のバックグラウンドを持つ私には全く歯が立たないほど難しかった。
心理学でも実験結果の整理に数学は欠かせないはずだ。では心理学は理系なのか文系なのか?という問いは自分で書いていてもばかばかしい。
・そもそも定義が曖昧なレッテルを他人や自分に貼り、それをベースに議論をしようなどとは全く愚かな行為と思える(大きな声では言えないが、同じ理由により●●屋、という言い方も大嫌いだ)
というわけでまだスマートな言葉は無いけれど、私が考える「区分」はこうだ。
・物事の多様性、相対性の存在を知り、自分が体験したことの卑小さを実感する人
・曖昧で誰にも定義できない区分を作り上げ、その中に閉じこもり世界を狭くすることで、相対的に自分の存在を大きくしようとする人
なんかいい言葉ないですかね。
何故こんなことを書き出しかと言えば、以下のブログ参照
プリオンの話はもちろん
ぼくは、オオバタンが何と言っても、
日本のいわゆる「思想系」の人たちが
サブカルに堕しているという印象は変わらない。
自分たちを「文系」と規定している
時点で、アウトである。
勘弁して欲しいよ。
別にフランス現代思想やフッサールや
ベルグソンを読んでいればそれで済むんじゃなくって、
物理もやれば、ネットワーク・サイエンスも
追って、脳科学をやり、
web 3.0も考えなければならないんだよ。
そうじゃなくっちゃ、世界全体なんて
見えてこないし、
そもそも現代と向き合うことなんて
できるはずないじゃん。
現代では
「文系」=「サブカル」
(部分問題を解くヒト)ということを
肝に銘じて欲しい。
もちろん、その意味では自分を
「理系」と規定してそれで良しとする
人もまたサブカルであるが、
思想系の人たちは、あたかも世界全体を
引き受けているような顔をしているから、
時に始末が悪い。
かつては哲学が支配していた問題領域のいくつかの問いは科学によって答えが得られることが解ってきている。というかここ数百年それは明白なのだが、まだ「文系領域」に閉じこもって世界を語る人間がいる、というのには驚かされる、、わけでもない。繰り返しだが、自分の存在を大きくするためには世界を狭くすることが一番手っ取り早いのだ。
2006-03-10 13:19
ベールを脱いだ“Origami”、MicrosoftとIntelがOrigamiことUMPCを披露
まずは脊髄反射的な感想を。
「VAIO-U再びではないか」
しかしこのデザインの野暮ったさは。。
なんというか
Origamiの位置づけ
うん。とてもロジカルだと思うよ。位置づけは明確。小さくてもWindows XPが走る機能。あれもできてこれもできて。
しかし「これ欲しい!」とは全然思えない。インフラメーカーのMicrosoftらしく、実に手堅い。うん。あれば便利だと思うけどね。
Microsoftの物作りには何かが決定的に欠けている。こうした製品を「ライフスタイル」カテゴリーの製品と位置づけているようだが。。これを作った人間達は自分たちがこれをリビングルームで使いたいと本当に思っているのだろうか?それとも
「マーケットリサーチをしてユーザーをセグメンテーションして、必要な機能をインプリメントして、ユーザ調査の結果もフィードバックしたから売れるはずだ」
とでも思っているのだろうか。
2006-03-07 10:19
「ハウル―」アカデミー賞逃す
昨日はやたらとこういう論調の記事やらニュースを目にした。しかし私はここで主張したい。
「あたりまえだ。あんな映画でアカデミーを取ったらそっちの方が驚きだ」
一度あの映画を見て、自分が気に入った気に入らないとは別に「誰がこの映画を評価するだろう」と考えてみれば、結論は明白。そもそもあの映画は他人に見せるために作ったものではないような気がする。敬愛するm@stervision氏の言葉を借りれば
年寄りの手慰み
以外の何者でもないように思うのだ。面白いと思う人だけ面白がってください。そんな言葉が聞こえてくるような。
受賞した作品はまだ見てないけど、コープスブライドはハウルの500倍くらい良かった、、少なくとも私にとっては。というわけで、
「ハウルアカデミー賞逃す」
という言葉を聴くたびにぎゃーぎゃーわめいていたのでした。トリノオリンピックじゃないんだから、そういう無意味な持ち上げは止めろ!と。