日付:1999/8/4
その日しばらく沈思黙考に浸ろうと考えた私だったが、その前にまだやることがあることに気がついた。最初はとりあえずねっころがっていれば、腰の痛みは感じずにすむだろうと思っていたが、事態はそれよりもはるかに悪いようだ。おとなしく寝ているのに痛みはなくならない。しかし試行錯誤の末、左を向いて足をじゃっかん曲げた状態にするとなんとか耐えられることを発見した。
さて、とりあえずその姿勢をとるとようやく一息つける。いろいろな事を考え出した。この調子ではしばらく動くことはできない。となれば明日の会社は休みだろう。しかし最近仕事は何もしていないのだからあまり問題はない。そう思うともうちょっとさしせまった心配も頭に迫ってくる。今は夏だ。となれば大変暑いことになる。なんとか通気用の窓を閉めてエアコンをつけたいと思う。しかしそのスイッチは私からはるかはなれたところにある。ここでちょと私の部屋の構造を書いてみよう。
ちょっと変わった作りになっていて、一階はほぼ5畳ほどの広さ。中2階があり、そこには階段で上る。この中2階に生活に必要なものは大抵集めてある。TV兼用のパソコン、ビデオ、コンポーネントステレオもろもろだ。秋から冬にかけてはここに布団もあったが、私の部屋は2階だから天井からの熱気がすごい。夏が近づくにつれ、あっさりと白旗をあげて1階に布団を引いてねることにした。
さて現在の私の体勢であるが、玄関側に頭を向けて寝ている。ここでクーラーをつけようと思えばなんとか1mばかり上方にあるクーラーの「みよこん」(これは私の姪がかなり大きくなるまで使っていた「リモコン」の呼び方である」まで手を伸ばす必要がある。以前はみよこんは布団の横に置いていた。ところが二日前にみよこんをどこにやったかわからなくなって大騒ぎをしてからというもの、ミヨコンは壁の定位置にしっかりとおいていたのである。それがこんなところで響いてこようとは。
私は体勢は変えずにしばらく考えた。どう考えてもあのみよこんのスイッチを押そうと思うとひどい激痛を何度か味わうような気がする。だいたいあそこもあでたどり着けるかどうかも定かではない。しかし私にはそのまま熱気の中で眠っていられない事情があった。
前述したように今の私にとってとって補給できる水分は、500mlのダイエットペプシが2本だけである。これが十分な量かどうかは私にはわからない。しかしそれだけとなるとずいぶん心細い気がする。とにかく次に水分が補給ができるようになるのが何日後か見当もつかないのだ。もし私がこの2本を飲み終えたらこのまま横浜のアパートの一室でミイラとなるのだろうか。
ミイラ化をできるだけくい止めるには水分の浪費をおさえることである。水分の浪費をおさえるためには、室温をさげなくてはいけない。本当の事を言えば冷房をかければ空気が乾燥するから失われる水分が増える気もするが、滝のように流れ落ちる汗に比べればましであろう。
さて、こう考えると私に選択肢は残っていないようである。意を決してなんとかみよこんのスイッチを入れることにした。さて、そのためにどうしたらよいであろうか。
今まで何度か腰痛を経験している私はここで、まともに立ち上がるなんてことは考えない。この状況はスキーに行って斜面で立ち上がろうとするのとチョット似ている。まず出来る限り足の先を自分のほうに引きつける。そこでおそるおそる上体を持ち上げてみるとなんとかもちあがるようだ。そこからちょっと意を決して「えいっ」とばかりに体を動かし、蹲踞の姿勢になた。つまるところキャッチャーのような姿勢である。
そこで一発目の激痛が「ガーン」と腰から頭にかけて響いた。体勢を戻そうか?しかしそれは何の解決にもならない。いずれにしてもこの体勢になってしまっているのだ。とにかく前進。私は階段にすがると手をできるだけ上方にのばした。なんとかボタンまで手がとどきますように。。。
もう一段上の階段にすがって、ようやくエアコンのみよこんに指が触れた。スイッチを押すと好ましい動作音が響いてくる。OK、これでようやく気温は下がるはずだ。
体の体勢を元に戻す途中で再びひどい激痛に見回れたが、とりあえず状況は改善された。とはいっても次の行動を考えるほど余裕ができるまで、私はふたたび横向きに寝転がってしばらく冷や汗をながしていたのだが。
しばらくして、激痛が収まると少しものが考えられるようになった。そのうち私はちょっと退屈しだした。この姿勢でいれば激痛は避けられるが、何もできないのである。音楽を聴くこともできない。私の部屋にある音を出す製品はすべて中2階にあり、今の私にとって中2階は遙か彼方にある。ほんの数十分前には私はあの階段を軽々と上がってパソコンでメールのチェックをしたはずだ。しかし今はそんなことどころか体を起こすこともままならない。
パソコンか。パソコンさえあれば退屈など感じなくても済むのに。こうした場合インターネットサーフィンは時間をつぶすのに大変格好のものであるはずだ。指先さえ動けば良いのだ。指さえ動けばあれやこれやのサイトを巡っておもしろいことができる。この際だから電話代はあまり気にしないことにしよう。それにこのパソコンにさえ手が届けばHPにのせる文章書きでもできるかもしれないではないか。しかしいずれにしたってそれが中2階に存在している限り私にとっては地球の裏側に存在しているのと同じ事である。
いや状況はもっと悪いような気がする。特殊相対性理論及びそれを支持する実験事実を認めれば、この世の中には光の速度より早く伝わる物はない。だから光の速度でも届かないエリアの事象というのは全く自分と関係のない「よそ」だと何かの本に書いてあった。地球の裏側ならば飛行機だか船だかを使えばいつかは到達出来る気がする。しかし今の私にとって中2階は、光の及ばない位置と時間にある「よそ」の事象のようなものではなかろうか。つまりどんな手段をとっても到達することができない世界である。
しばらくはそんなことばかり考えていた。考えてもしょうがないし、だいたい相対性理論などに思いを巡らせている場合ではないようにも思えるのだが、今の私にとって動かせるものは頭の中身だけだ。それが仮にどんな無意味なものであってもとにかく動かせる物は動かしてみたい。などと考えている間にちょっと眠くなってきた。この体勢であれば寝るのが一番適当だ。お休みなさい。
どれくらいうとうとしたか知らないが目が覚めた。ふと思う。目が覚めたら腰がよくなっていないかと。
体を横向きの体勢から仰向けに動かしてみる。どうやらうまくいくようだ。これはすごい。調子にのって体を動かそうとするが、怖いのか痛いのかわからない。とにかく体は動かない。現実はいつもかくのごとく。
しょうがない。体を元にもどす。横を向いてまた元の姿勢だ。とにかく今できることはこれしかない。
そのうち怖れていたことが起こり始めたことに気がついた。自然の欲求-Nature Callsというやつである。しばらくの間私はこのCallを無視しようかと思ったが、そのうちそれは不可能であることに気がついた。であれば、迷っている暇はない。今の状態ではトイレにたどりつくまでにどれだけ時間がかかるかわわからないのである。私は思い立ち、トイレに向かうことにした。
先ほどミヨコンにたどり着いたのと同じパターンで蹲踞の姿勢になる。ここまでは前にやった。さてここからだ。この家に階段があったのは幸いであったかもしれない、と考え始めていた。階段にすがると腕の力をつかってなんとか体をひきあげる。なるべく腰に力を加えないように、、そのうち馬鹿なことをやった。下半身が動いていないのに、無理に上半身をのばしてしまった。体はつりばしのような形になり、結果として腰は弓形にしなった。激痛が頭を貫く。
しばらく自分のアホさ加減を呪いながらしばらく大きく息をつぎならがそのままの姿勢でとまっていた。
一息つくとまたチャレンジだ。体をのばさいないように、、ゆっくりと下半身を動かしていく。はたから見ればにじりよる、としか表現のできない格好かもしれないが、今の私にはそんなことを気にしている余裕はない。とにかくトイレに向かわなくてはならない。体をだんだんと階段にそって持ち上げ、なんとか直立させることができた。体がまっすぐに立っている間はなんとか耐えることができる。さて、問題はここからだ。とりあえず数時間前には数十メートル移動することが出来たはずだ。であればここからトイレまでの数mを移動できないはずがないではないか。
幸いなことにこの階段とトイレの間には多くの洋服かけがある。これを伝っていけばなんとかなるかもしれない。そう思って体を動かそうとするが、どうも数時間前よりも状況は悪化しているようだ。腰はひどく痛み、体を横に移動するのも容易ではない。おまけに足下には本だの洋服だのが散乱している。普通であればその間をよけて歩くことができるのだが、今はそんな贅沢を言っている場合ではない。足で洋服をかきわけながら進む。
ひどく時間を要したが、とにかくトイレの入り口まで来た。そこで私は大きな障壁にぶつかってしまった。トイレの入り口のドアは床に直接ついているわけではない。高さ10cmのところからドアになっており、その下には「壁」が存在している。それを越えないことにはトイレにはいるわけにはいかない。しかし今の状態でこの10cmの壁をどうやって越えればいいのだ?
しばらくその壁(普通の時だったらこれを「壁」とは表現しないだろうが。しかし今の私にとっては壁としか言いようがない)を眺めて考えた。一番簡単な方法はこのまま立った姿勢で足を10cm持ち上げてトイレの側に体を移すことである。そう思いそこらへんで捕まれるものに捕まり、なんとか足を持ち上げようとしたがどうしても持ち上がらない。となるとこのオプションは放棄せねばなるまい。
となると選択肢は一つしかないようだ。膝をひどく痛める可能性があるが、、、今はそれにかまってはいられない。幸か不幸か激痛に気をとられてNature Callsのほうは結構おとなしくなっているようだ。早めにここまで来たのは正解だったようだ。
さて、意を決すると私はその壁の上に膝をついた。できるだけゆっくりと膝を落としたつもりだったが、その壁の上にはクッションがあるわけでもなんでもない。だからひどい痛みが生じるはずなのだが、それほど気にならなかった。腰の痛みに比べればなんでもない、というところであろうか。
次にやることは上半身を倒して、トイレのほうに手をつくことである。どうやって便器の上に上るかは後で考えようとにかくこの壁をこえることが先決だ。
かなり大きな音とともに体は前方に倒れた。なんとかこれでトイレの中に体がはいったわけだ。さて問題はどうやって便器の上にのぼるかだ。そう思ってトイレを見回すとここには実に好都合に捕まれるものが存在していることに気がついた。洗面所やら風呂桶のふちに手をついてなんとか便器の上によじのぼる。そこで一息つく。さて、だいたいうまくいったように思うが、もう一つ問題が残っている。どうやってパンツをおろすかだ。確かに今私は便器の上に腰掛けている。しかしパンツをおろすためには二つのことをする必要がある。まず腰を(というかおしりを)一つづつ持ち上げる必要がある。そうでなければパンツはどうやっても便器とおしりが接触している場所から足の方に移動させられないからだ。しばらく格闘した末になんとかそれに成功した。ここでしばらく硬直して呼吸を整えなくてはならない。
次にすることは出来る限りパンツを下におろすことだ。しかしこれはほとんど不可能であることに気がついた。パンツをさげるためにはそれをつかんで腰をかがめる必要がある。しかし今の私にとって腰を前に曲げた状態というのはもっとも避けたい姿勢の一つなのである。とにかくできる範囲でパンツをさげるしかない。
この後の詳細に記述は省略するが、とにかくNature Callはなんとかなったようだ。次に私は妙なことを思いついた。
昼からというものひどく汗をかいている。暑いのはもちろんだが、それにもましてひどく冷や汗をかいているからだ。おかげでやたらと頭がかゆい。ふと気がつくとシャワーはすぐとなりにある。この機会を逃すといつ頭が洗えるかわからない。病気の時であれば、頭がぼけているからそうしたことにはあまりきにならないのであるが、腰痛の場合、幸か不幸か腰の他は実に快調に動いてくれる。だからそうしたこともやたらと気になり、おまけに他のことが何一つできない状況であれば余計そんなことばかりに神経が集中する。
私は意を決した。便器からずりおちると、風呂桶の上に頭をだした。シャワーを使って頭を洗う。。これは思ったよりも簡単だったが、普通よりは難しかった。片手ずつしか使えないからだ。体を支えるためにつねに片手は風呂桶のふちにおいておかなくては。残った片手で頭をかき回し、シャンプーをつけ。。
髪の毛を拭くのもそこそこに、今度は長い長い帰り道が待っている。はいずってトイレの入り口まで行く。激痛を避けながらなんとか10cmの壁を乗り越えた。本来だったらここから立ち上がってみよう、ということだが、どうもその気が起きない。とりあえずはいはいの姿勢で戻ってみよう。ところがこのはいはいもそう簡単ではない。下手に手と膝の位置が離れすぎると腰は下向きにそることになる。そうなると恐ろしい激痛が待っている。私は布団にもどるまでにこのことを何度か身をもって知ることになった。かといってこれはやってみるとわかるのだが、手と膝の距離を或程度離さなくては前に進まないのである。激痛をさけつつ、前に進める間隔を試行錯誤で見つけながら進む。
どれだけ時間がかかったかわからないが、ようやく私は布団の上にひっくり返り、横になることが出来た。またしばらく休む必要がある。私は冷蔵庫を開けてペプシを一本あけて半分ばかり飲んだ。幸運なことにあまりのどは渇いていないようだ。普通なら勢いで一本飲んでしまうところだが今日はそんな贅沢をするわけにはいかない。おまけに下手に飲み過ぎればまたトイレに行きたくなる。トイレに行く、というMissionは成功したが、その間の激痛はすさまじいものだった。可能とわかってもその機会はできるだけ減らしたい物だ。あと残りは一本半。
やれやれ、とりあえずトイレにもいけるようだ。これができなければ悲惨な事になるところだったが、、などと考えているうちにしばらくうとうとした。
目が覚める。まだ真夜中のようだ。頭が寝ぼけていたせいかもしれないが、またトイレに行きたくなった。理論的には先ほどの同じ方法でいけるはずだ。そろそろと体を縮めて次に蹲踞の姿勢をとろうとする。ところがさっきはできたこれがどうしてもできない。この理由がなんだったのかは未だにわからない。痛みが増していたせいか、あるいはさっきトイレにいったので力を使いはたしてしまったのか。しばらくがんばってみたが(がんばるとはいっても体をエビのように丸めて、上半身をちょっと起こした状態で、固まっているだけなのだが)なんともならないようだ。しょうがない。またはいはいで進まなくちゃ。
こうした状態でも人間は何かを学ぶことができるようだ。はいはいがだいぶ向上しているのに気がついた。今度はさして激痛を覚えることもなくトイレの入り口にまでたどりつくことができた。しかしそこまでだった。
私は四つん這いになった姿勢でしばらく考えた。さっきはいったいどうやってこの10cmの壁を越えたのだろう?理論的にはわかっているのだが、どうしてもその行動をとることができない。どうやっても足も手も床から1cmも浮かせることができないのである。
そのまま数分間かたまった後私は断念した。考えてみればそんなにトイレに行きたがっているようでもないようだ。私はそのままはいはいで後ずさりした。そして考えた。Hey、けっこうこの後ろ向きのはいはい、というのはいけるじゃないか。私は腰痛にも襲われず、行きの倍のスピードで戻ることができた。どんな状況でもちょっとはいいことがあるようだ。
さて、その後うとうとして、また目が覚めたときにトイレ行きをトライした。しかし今度もトイレの入り口で引き返しをよぎなくされた。なんてことだ。
その次にはなかなか眠れないので、あれこれ考え出した。この分ではどう考えても明日会社に行くのは無理だ。電話をしなくてはならない。電話は私のすぐ横にある。しかし問題はその位置である。今の私は左向きにしか寝られない。しかし電話は右にあるのだ。となれば明日の朝までにはなんとか体を反対の方向に向けられるようになっていてほしいものだが。。。
などと考えている間に、ちょっくら体を反対に向けてみようかと思い出した。一つにはいいかげんこの体勢にも飽きてきたことがある。とにかく数時間基本的には一つの姿勢しかしていないのだ。このままでは床ずれなるものもできてしまうかもしれない。私は決心した。
まず仰向けになる。これはなんとか耐えられる。次に必要なことは体を右に向けることだ。しばらく呼吸を整えた後に私は思いきって体をひねった。
その瞬間ひどい激痛が走った。しかし体は確かに右向きになっている。確かに電話は目の前にある。電話に手を伸ばすこともできる。しかしその間体の痛みは非常にかんばしくない状態にある。あまり長くはもたないようだ。すばやく電話を移動させると私は次の行動について考えた。また体の姿勢を元に戻せばひどい激痛が走ることは間違いない。できればこのまま右を向いていたいが、この姿勢を続けているだけでも激痛が走っている。となると私には選択肢はない。行くも激痛、とどまるも激痛。意を決して体をひねった。
ひどい激痛とともに体はまた左を向いた。私はしばらくの間冷や汗を流してうめき声を上げていた。しばらくの間右を向こうとするのはやめた方が賢明のようだ。しかしとにかく電話は手が届く位置に来た。これで明日は無断欠勤をせずにすみそうだ。そんなことを考えながら私はまた眠りについた。