日付:1999/8/4
次の日次に目が覚めると周りは明るくなっていた。朝だ。
なんとなく「朝になればこの腰痛も少しはよくなっているに違いない」と思っていた。しかし頭がはっきりしてくるにつれ冷徹な現実に直面することになった。体を動かそうとしてもぴくりともうごかない。なんということだ。情勢はどうも悪化している気がする。どうしてだろう?昨日から少なくとも12時間以上はおとなしくねているというのに。今の私にとって唯一の治療方法というのはおとなしく寝ていることだ。しかしそれがどうも効いていないようなのである。
しかし今はそんなことにこだわっている場合ではない。とにかく電話をかけねばならない。電話はとりあえず手が届く位置にある。次には財布をさがさなければならない。オフィスの電話番号は財布にはいっており、私の大脳の中には存在していないからだ。体をひねって上方を見てみると、遠く離れて財布が落ちているのがわかる。よし、あそこまではっていこう。
しかしなあ、、とはいはいをして財布をとりながら考えた。世の中では「バリアフリー」なる言葉が存在しているようだが、この家はまさしく「バリアフル」だ。たくさんのたくさんのバリアー-障害-が存在して私を移動することをさまたげている。10cmの壁しかり、自分がちらかした服だのなんだのしかり。極めつけは中2階に行くのに必要な階段である。
などと嘆いていてもしょうがない。いい時間になったようだ。とりあえず会社に電話をしよう。
「今日、ちょっと体調が悪いので休ませてください」と言った。今の会社は基本的に他人のことに全くかまわないし、必要なことでさえお互いに話さないようなところだから、これ以上何も説明する必要はない。どちらにしても仕事は何もないから休んでも私の残り少ない年休が減るだけで大したことは起こらないのだ。これで一つの仕事が終わった。
それが終わると何もやることはない。正確にいうとできることはない。どう考えても退屈だ。パソコンは朝の5時半になると自動的にメールをチェックするようになっているから、パソコンさえ手に入れば少しは退屈がまぎれるに違いない。一発トライしてみるか。
やることは昨日と同じだ。まず体を曲げる。蹲踞の姿勢になる。ここまではうまくいった。次に階段に手を伸ばす。昨日は少なくとも一回ここまではこれた、多少痛みは走ったが体は伸びた。さて、理論的にはここから手の力の助けも借りて階段を上っていけばよい。手を上の段にのばすのはできた。次に足を1段上の階段にのせようとしたが、どうしても動かない。これでは階段を上るなんてのは夢のまた夢だ。おまけにこのままいつまで立っていられるかもきわめて怪しげである。しょうがない。あきらめよう。
体をまた元の体勢に戻した。しばらくそのまま先ほどの冒険の結果に耐えていたが、そのうちまたもやNature Callsが来ていることに気がついた。さて今朝はあの壁を越えられるかな?
さっきの冒険でとりあえず立つことができた私はちょっと気が大きくなった。今度は立ってトイレに向かってみようかと思ったのである。あれこれつかまりながら立ち上がった。そこからなんとか足を前に出そう、としたのだがやはり無理のようだ。しょうがない。はいはいでトイレに向かった。しかしこの朝にはもう一ついいニュースがあった。今度は割と簡単に10cmの壁を越えることができたのである。
用をすますと、はいはいをしながら布団に戻る。体を横にする。退屈なので手に届く限りの本を読んでみたが、体を横にして長い間に本を読むことは出来ない、ということが判明した。どうやら読書も出来ないようだ。となればあれこれ考えることが今の私にできる唯一のことらしい。
ずきずき痛む腰痛を感じながらあれこれ考え出した。なんということだ。一日たてば相当楽になるだろう、と思ったが逆に情勢は悪化しているようだ。昨日はまがりなりにも立ってトイレに行き、髪の毛まで洗えたのに今日できることと言えばはいはいだけではないか。となるとこれは今までの腰痛とはちょっと様子が違うのかもしれない。
そもそもなんでこんな腰痛になってしまったのか。今まで何度か腰痛にさいなまれたことはあるが、こんな妙ななり方は始めてだ。原因が思いつかない。確かに腰の調子が悪かったのは確かだが、昼寝をしていて腰痛になったってのはどういうことだろう。ふと昼寝をしていたときに冷房をつけっぱなしにしていたのがいけなかったのだろうかなどと考えた。パンツ一枚で冷房の風にあたりっぱなしだったのだ。考えてみれば去年までの数年はずっと冷房のない部屋に生きていた。それがいきなり冷房にあたったのがいけなかったのだろうか。しかしそれで風邪をひくのなら理解もできるが、冷房でひどい腰痛に襲われるなんて話はあるのだろうか。
そんなことを考えていると、私が愛している「ボートの3人男」という小説の一節が頭によみがえる。冷たい雨に打たれて眠り、目が覚めたときには下半身不随になっていた男のことだ。ああいうことは本当にあることだろうか。そしてそれが私におこりつつあるのだろうか。
原因はともかくとして1日寝ているのに何故状況が好転しないのだろう?今まで例で言えば一日寝ていればすくなくともよちよち歩きは出来たはずだ。なのに今回は前日は可能だったよちよち歩きができなくなった。ひょっとして悪化しているのだろうか。しかしとにかく歩けない事には医者にも行けないではないか。
風邪であればどんなにひどくてもなんとか医者に歩いていくことができる。しかしこの腰痛では布団から1m以上離れることができないのである。そのうちふと思いついた。医者というのはこちらに来てもらえない物なのだろうか?そういえば「めぞん一刻」に医者の往診がかちあう場面があった。あの漫画を信じれば医者は患者のところにも来てくれるようだ。ということはこのまま私がこのアパートでミイラになる前に医者を呼ぶ、という手もあるのかもしれない。
考えてみれば世の中には救急車なるものも存在して居るではないか。私が知っている限り私の家が救急車に関係をもったのは一度だけ。祖父がなくなったときだ。亡くなったと聞いて泡食って救急車を呼んだのだが、救急隊員の方々はちゃんと来てくれた。そして祖母が一生懸命それまでに祖父が何を食べたかを説明している間一人は祖母の話に耳を傾け、あとの人たちは所在なげにそこらへんを歩き回っていた。そして私に向かって「お気の毒と思いますが。。やはり順番ですかね」と言った。
さて、かくのごとく大坪家は救急車というものに縁がないのだが、世の中には救急車をタクシー代わりに使っている人も存在するらしい、となれば私がミイラ化する危険に直面して救急車を呼んでもあまり世間的に非難はうけないかもしれない。
しかし、と考えた。そこまで行く必要はないかもしれないではないか。私の姉は千葉に住んでいる。いざとなれば姉に助けを求めたってあまり問題はないかもしれない。しかしその場合、姉はここを見つけることができるであろうか。そういえば、姉は昔弘明寺に住んでいたと言ったな。とにかく今は電話が使えるのだから、助けは呼べる。しかし助けが来たとして私は玄関の鍵をあけることができるであろうか。
そんなことをうだうだと考えていたらのどが渇いてきたので、昨日半分飲んだコーラの残りを飲んだ。これであと1本だ。まあしかし、とそのとき初めて気がついた。考えてみれば水道はとまっていないのだから、日干しになる前に水道水を飲めばいいではないか。昔小学生のころ、夏休みの注意として「生水を飲まないようにしましょう」というのがあった。私はこの「生水」なる言葉の意味を理解するのにえらく時間がかかったが、どうやら水道から直接水を飲むことを言うらしい。しかし今はそんな夏休みの注意に気を払っている場合ではない。ここでまた或本の一節が頭に浮かぶ。ノモンハン事件でのことである。ソ連軍の猛攻撃にさらされた日本軍の部隊は補給の途絶に悩まされた。弾薬よりも食料よりも水の不足に苦しんだある部隊は、ソ連の機関銃の冷却水をねらって突撃を敢行したという。その冷却水たるや機械油がまざったシロモノだったようだが、人間渇いている時はそんなことにはかまっていられない。そのことを思えば生水がなんだというんだ。
つれつれと考えているとどうもミイラになる必要はないようだ。となれば後はおとなしく寝ているしかない。そう思うと私はまた眠りについた。よくもこうたくさん眠れるものだ。
気がつくと私はなんだか知らないが、屋根の上を小走りに走っていた。あれ、俺は腰痛ではなかっただろうか。そうか。一眠りしたから治ったんだ。とちょっと腰を不安げに思いながらもうれしく走っていた。ところで何故俺は屋根の上を走っているんだろう。
そう思っていたら目が覚めた。時計を見ると2時頃である。やはり夢であったか。とはいってもひょっとしたら体が動くようになっているかもしれない。そう思って上半身を少し持ち上げてみた。しかしそこからやはり体は動かない。夢は夢か。
また頭に浮かぶのは本のある場面である。「天才柳沢教授の生活」という漫画に、主人公である教授が先輩(?)を老人ホームに尋ねる場面がでてくる。先輩は夢の中で若い頃に戻って女を口説いてやりたいほうだい。それが夢から覚めるのがつらいという。自分のさびついた体を見るのが怖い、という。今の私はなんとなく自分の腰痛が快方に向かう物だと決めてかかっている。しかし何故そう言えるのであろう。人生70年とすれば私はもう半ばをすぎているのである。体力はおち、そして健康は注意しなければ手に入らないものになりつつある。本当にこの腰痛は治るのだろうか。あるいは今回治ったとしてもいつかはその先輩のように夢の中だけでやりたい放題、できるようになるのだろうか。
いや、こんな事を考えてもなんの役にも立たない。そのうち別の事を考え出した。きっかけはさっきの「医者の出前」という奴である。
考えてみれば世の中には「出前」なる食事を届けてくれるサービスも存在するではないか。仮に出前が来たとしても私にとってドアまではっていって鍵を開けるか、という問題は残っている。しかしとりあえずトイレにも行けたのだから、鍵も開けられるかもしれない。そういえばNTTの番号案内なるものも存在するから聞けばここらへんで出前をしてくれる店の電話番号が聞けるかもしれない。しかし番号案内、というのはそんなに気が利く物であろうか。
などともんもんと考えているうちに、もっと容易な案に気がついた。世の中にはピザの宅配なるものが存在する。何故そんなことを知っているかと言えば、私のアパートにも時々広告が入っているからだ。私はとんでもなくだらしない人間だから、そうしたビラをみてもきちんとゴミ箱まで持っていったりしない。そこらへんに散らかしておく。そしてその堆積が耐えられないレベルに達するとまとめてゴミ箱に捨てに行く。
となれば今がそのサイクルのちょうどいい時期に当たっていればそこらへんにビラが落ちていても不思議ではない。少なくともこれはかけるに値するオプションのような気がした。こんなことを数分考えたあげく、私は腕の力を使って頭のほうにはいずりはじめた。うまくいけばそこらへんにビラが。。。あった。
それから数分そのビラを詳細に調べて過ごした。どうやら住所を言えば注文したものを持ってきてくれるようである。正直言えば高血圧と中性脂肪の値と体重が気になる私にとってピザなるものはあまり魅力的なオプションではない。しかし今はとにかく食べることが重要なのだ。おまけにうまくやればここは飲み物も持ってきてくれそうではないか。注文の品を決めると私は電話をかけた。
今の私にとっては飢えることよりも渇くことのほうが遙かに恐ろしいことである。だから一番小さいピザ(それでも2−3人前と書いてあったが、考えてみれば昨日の昼から何も食べていないのだから、これくらいはかまわないだろう)それに500mlのウーロン茶2本とダイエットコーク2本を頼んだ。相手にしてみれば「これは4人で一つのピザを分け合うのだろうか」と思ったに違いない。
「では30分から40分でお届けします」という声とともに会話は終わりとなった。相手の口調は終始事務的であった。普通であれば「もうちょっと愛想良く応対できなものか」とか思うところであるが、今の私はとにかくミイラ化を免れそうだ、という期待の気持ちでいっぱいだ。
さてそうなると、ろいろしなければならないことに気がつく。この部屋に人が来るのである。となればいくらなんでもパンツいっちょで相手を迎えることはできない。上方に移動して短パンをはいた。これはとても努力を要する事柄だ。トイレのとこで述べたが、腰が曲がらない限りパンツをしたにおろすのは至難の業である。おろすのが難しいということはあげるのも難しいということだ。足の指を使って短パンをつかみ、なんとか足の位置に持ってくる。あしをもぞもぞやってなんとか短パンを上のほうにおくる。後は腰を極力かがめずになんとか指が届く範囲でそれをひっぱりあげる。床の上でばたばたしながら数分かけて短パンをはいた。その後今度はTシャツを着る。これは上半身だけの作業だから楽と言えば楽だ。しかし下手に腰に力をかけると激痛が走るのを忘れてはいけない。
それが終わると財布をもって玄関の扉のほうにはっていく。先ほどの電話から10分もたっていないのだからあと少なくとも20分は相手はこない。では何故こうやって急ぐか?今の私にとって玄関まで何分かかるかは予想のつかない事柄なのである。相手が玄関まで来ているのに、そこにたどり着けず、扉があけられずにそのまま帰られてしまってはなんとも悲しい事態だ。
そう思ってずりずりと上方に移動していく。思ったよりも快調のようだ。少しは快方に向かっているのかもしれない。そんなことを考えながら玄関にたどり着いた。まだ時間は早いがえいと手を伸ばして鍵を開けた。理論的にはもしピザの配達がくるまでに妙な人間が来てしまったら私はなんともすることができない。にっこり笑って財布を差し出し「他にはなにもないよ」というだけだ。しかし鍵を開けるのに何分かかるかはこれまた全く未知の事柄なのだ。幸い思ったよりも順調に鍵に手は届いた。
さてそれから少なくとも20分は玄関の前で座っていたようだが、その間何をしていたものやらさっぱり覚えていない。頭に響く腰痛のおかげで思考能力がちょっと落ちていたのはこの場合幸運かもしれない。そのうちちょっと退屈しだした私は正座してみようかと思った。それまでおかまっぽく上半身を起こすか床の上にへばりついていた私だが、この格好でピザの配達を迎えれば相手はちょっと驚くかもしれない。あるいは-とふと考えた-ピザの配達をする人間が目撃する光景と言うのは私が思うよりもバラエティに富んでいるのかもしれないが。ピザを注文したことを忘れ、鍵をかけることも忘れて何か別のことに熱中してしまう人だっているかもしれない。
そのうちバイクの音がした。どうやらあれらしい、と思っていると今度は階段を上る音がした。それからしばらく何の音もしない。何がおこったのだろうち不安になったころに声がかかった。
私は自分でドアを開けたくない。ドアはちょっと彼方にあるのだ。「開いてますよ」と言ったが相手は扉をあける気もないようだ。こうなれば自分でドアをあけるしかない。意を決して体を伸ばし、ノブを回す。開いたドアからはまぎれもなく私に食料を運んできてくれた人間の顔が見えた。
相手は何を思ったのだろう。注文の内容からすればおそらく数人の人間がアパートの一室にでもいる光景を想像していたのかもしれない。しかし存在しているのは靴と傘とゴミと下着がちらかった部屋。その中に正座して立つ様子もないが一応Smileだけ顔に浮かべている男だ。しかしこのとき浮かべたSmileは愛想笑いではない。私は本当にうれしかったのだ。とりあえずこれでミイラになる危険性はない。
にっこり笑って代金を払う。今度は鍵を閉め、ピザと飲み物をひきずりながら布団に戻る。そしてばくばくと食べた。あまり飢えは感じていなかったが胃袋は空に近かったようだ。2−3人前のピザをあっという間に平げるとがぶがぶ飲んだ。これで人ごこちついた。
こうやっておなかが膨れると私は大変ご機嫌になってきた。そして一つまた2階に上ってパソコンを取る、という計画にチャレンジしてみようか、とも思い始めたのである。実はこれには切実な必要性も一つあった。
明日、つまり火曜日だが、私は仕事が終わった後に某所に行くことになっていたのである。しかしながら今の段階ではいはいしか出来ないようではとても明日そこにいけるとは思えない。早くキャンセルの連絡をいれなければならないのだが、相手の連絡先はメールでもらっていたので私のパソコンの中にしか存在していなかったのである。もし明日までパソコンにに手がとどかなければどうしよう。相手は連絡がなければ当然こちらは予定通り訪問するものだと思うだろう。10分がすぎ、20分がすぎ、、そして相手はきっと激怒するに違いない。
かような妄想に立ち向かう唯一の方法はとにかくパソコンを手に入れることである。おなかは膨れたし、幸いにして腰の具合も少しよくなってきているようだ。よし、もう一度チャンレンジだ。
先ほどと同じように階段ににじりよっていく。確かに状況はよくなっているようだ。今朝はぴくりともあがらなかった足だが、なんとか階段を上ることができそうだ。とはいってもほとんど腕の力で体をもちあげているから、ひどく疲れる。一歩一歩、一段一段手を伸ばし足を持ち上げ階段を上っていく。するとなんと中2階に顔がでた。ここまでくれば後ははいはいでパソコンがとれそうである。
中2階にころげこむと、真夏の太陽の照り返しでひどい熱気である。ここと下でどの程度気温が違うのだろう、などと脳天気な事を言っている場合ではない。ここで蒸し焼きになる前に(まさかそんなこてゃないと思うのだが)早くパソコンをとらなくては。机ににじりよると、あれやこれやはずしてまた階段に戻る。今度は一歩一歩降りていく。山道でもマラソンでも下りのほうが大変だとはよく聞いた気がするが、確かに今の私にとってはそうだ。もし足をすべらせて数段とびに落ちよう物ならその後の衝撃はおそるべきものになる。
今から考えても当時の腰の状態でよく、パソコンをかかえながら階段を下りられた物だと思う。しかし結果としてなんとか無事に布団の上に戻ることができたのである。体は汗だく、手はほとんどきかなくなってきている。しかし手元にはパソコンと必要なケーブルがある。
しばらく息を整えた後時間をかけ、体の位置をずらしなら、なんとかパソコンをネットに接続、「明日は腰痛のためうかがえません、申し訳ありません」のメールをうち、そしてたまっていたメールを受信した。幸いにして特に急ぎのものはないようである。
さてそこからちょっとネットサーフィンでして時間をつぶそうか、と思ったが、寝ころびながらやるサーフィンというのは大変楽しくない物であることがわかった。早々に切断して、元の体勢に戻った。
正確に言えば元の体勢から少しずれている。今度は第3の姿勢、腹這いにチャレンジしてみたのである。聞くところによればこの腹這いをして顔を上げる、という姿勢は腰痛に悪いとのこと。しかし今の私はそんな贅沢を言っていられない。体はだいぶ痛み始めてきており、かりに短い時間であっても体の位置をずらす必要があるのである。この腹這いをやってパソコンなどいじるとこれは結構調子がよろしい。腰痛の危険性におびえつつも私はしばらくその姿勢であれこれやっていた。
さて、と思って体を横に向ける。その瞬間ひどい激痛が走るのではないかと大変怖れていたがそうもならなかったようだ。どうやら体勢も三つもとれるし、なんとかトイレもいけるし食事もとれる。今回も山は越えたようだ。
そう考えると私は安らかな眠りについた。
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