日付:1999/8/4
1997年の冬この年、1997年の正月、私は天地神明、あと思いつくなんでもかんでもに対して神妙な誓いを立てた。それまでの私は合コンにあけ合コンにくれる毎日を送ってきた。しかしあと2ヶ月ちょっとで34だ。ずいぶんいい年だ。毎年正月に母に言われる皮肉もそのとげとげしさを増してきている。もう合コンも卒業だ。今年はまじめに嫁さんをさがすぞ、と。
この誓いは全くもって真面目で真剣なものであった。そしてそうしたまじめな誓いを立てたときこそ、どこにいるかわからない神様がちょっと運命をひねってみようと思うときである。それから約40日後、私は苦虫をかみつぶしたような顔をして極寒のDetroit International Airportに立っていた。そして私が誓いを守るのも不可能になったのである。
さて、このDetroit暮らしは悪いことばかりではなかった。年に4ヶ月だけある夏の間は結構緑が美しく、週末に遠く遠くドライブをするのは結構楽しい。その短い夏が終わる8月の初め、私は会社を辞める決心をし、それを日本にいる父に話そうとしていた。父は戦中派の人だから、○○重工というのは父にとって世界で一番良い会社だ。その世界一の会社に勤めながら会社を辞めるなんてのは世界一の親不孝息子だ。しかしやむ終えない。彼らは通告から3日の猶予を与えただけで私をアメリカに放り込み、そして"See you in next century"と言い放った。それが業務命令ということは、文句があれば辞めろ、ということだ。向こうがカードを切ってきたのであればこちらも切らせてもらおう。
しかしそうは思い切ったものの、それをいざ父に告げるとなると容易なことではない。もんもんと悩むある日私は自分がひどい腰痛にみまわれているのに気がついた。原因はさっぱりわからないが、ひどく腰が痛む。最初の日はなんとかごまかした。早々に帰宅しとにかく寝ていた。腰痛に対処するには寝るしかないのだ。
翌日目が覚めると、腰痛は消えるどころかさらに悪化している。当時は金色に輝くジュラルミンのアタッシュケースを持って通勤していたが、このアタッシュケースの重みが脳天に響くようである。私はGM(General Motors)のオフィスの中を足をひきずりながら歩いていた。そこに来たのが私が相手をしていたDesingerグループのLeader, Rich Neuである。彼は白髪のおじさんであり、私をからかうのが大好であった。朝8時からMeetingということになり、私があまりの早さに「うーん」と白目をむいてそっくりかえると「Goroが喜んで居るぞ。もうちょっと早くしようか」と言ったのも一度や2度ではない。
そのRich が"Goro , How are you ?"と聞いた。私は顔をしかめながら"Fine"と答えた。実際私はこの質問に対して他の答え方を知らないのである。彼はそのまま立っていた。私は「うん。腰がいたくてね。。」と言った。彼は「接骨医とかいろいろあるよ。行ってみたら」と言ってくれた。ということは私は傍目にもよれよれとして歩いていた、ということだ。
その日は本来会議の無い日であった。ところがこうした日にこそ飛び込みの会議が飛び込むのである。なるべく立ち上がりたくない、、と思ってめだたないようにしていると、Detroitにおける私の天敵、Markがにこやかにやってきた。会議に一緒にでろという。今の私にとって長い時間いすに座っている状態、というのはもっとも避けたい状態であり、次に避けたいのはその座っている状態から立ち上がることだ。そしてうれしいことに会議はとなりのビルで行われるという。私はGMのEngineerの後についてよたよたと歩いて行った。
その会議自体は興味深いものだった。しかしその間中私は腰がぶつぶつと不平を漏らしている声が聞こえるような気がした。そしてついにはもっとも怖れていた瞬間がやってくる。会議が終わり、立ち上がった瞬間激痛が脳天を突き抜ける。私はふたたびよたよたと元のオフィスに戻った。
その日はふてて帰った。当時そのGMに駐在していた人間で英語がしゃべれるのは私ともう一人しかいなかった。そして私たちは2カ所に分散して働いていたから、その場所で英語がしゃべれるのは私だけだったわけだ。そう思い、極力休みをとらずに暮らしてきたのだが、事ここに至ってはなんともならない。それから3日間私はアパートの床に寝転がってくらした。
その間は実に暇である。しかしなんともすることはできないのはいつもの通りだ。このデトロイト生活の孤独感を少しでもやわらげてくれたのはパソコン通信の会議室である。当時の私の会議室への書き込みを引用してみよう。架空の弟子が、私のことである師匠について述べる、という形をとっている。これは腰痛から回復した後に書いた物だが、当時の私の心情が出ていると思う。
(引用ここから)
師匠は瞑想中と称して何やら昼寝をしていたようですが、先週末に腰痛を発してさすがにこたえたらしい。3日間何もせずにねそべっておりました。
さすがの怠け者の師匠も3日間なにもせずに寝ているというのは、さすがに退屈したらしく、しきりと痛む腰を曲げては会議室にに書き込みをしようとしていたようですが、○○様の「ちょっと鬱モードですね」と指摘されたのを読み、
「その通りじゃ。こういう時に陰気なレスなど書いてはわしの人格を疑われる」などとのたわまって、観念して寝ていたようです。
未だに自分に疑われるに値する人格が存在していると考えるのも、普通の人間の及ばない(及びたくない)境地だと思うのですが、、まあそれはいいとしましょう。
確かに腰痛で寝ていた間の師匠というのは、いつもに増して異常でした。例えば、「ピラミッド」という映画をTVで観ていた時のことです。要するに王女が自分が偉くなりたいがために、王様を殺させて、見事富をひとりじめするけど、王様の死体とともにピラミッドに閉じこめられてしまう、という話です。
そこで閉じこめられた、と悟った王女様が(余談になりますけど、「王女様」だと問題ないけど、「女王様」だとなんだかHなのはどうしてでしょうね)「よよよ」と地面に泣き伏すシーンがあるわけです。普通はここで、
「ああ。この王女も悪行の限りを尽くしたが、とうとう報いがきたか」
と思うわけですが、師匠のつぶやきは
「見たまえ。彼女はこんなに健康な腰を持っている。あのように立った姿勢から伏せた姿勢に移行できるとは」
でした。確かに体が弱るとろくなことは考えないようです。いつもに増して。
お陰様というか、天だか神だか仏だか知りませんが、有り難いことに師匠のような変人にも自然治癒の恵みを与えてくれるものです。月曜日から行動が可能になりました。。。が、たまった仕事で会議に引っ張り回され、ただでさえ「世界で一番会議が嫌いな男」を自称している師匠は、英語が飛びかう会議で再びよれよれのようです。
(引用ここまで)
かのように、自分が何かを煩っているときは「これさえなければ」と思い、王女が床に伏せる姿勢をみるだけで嘆息する。しかしそれがいざなおってしまうと必ずそのありがたみを忘れ、そしてあれこれ不平を言い出す。かくのごとく人間は生きるためには不平、不満が必須であるかのようだ。
あけて月曜日、私は会社を辞める事を父に告げた。父は「あんまりろくなことにならないとは思うけど、まあやってみろ」と言った。父の言葉は正しかった。ごらんの通りのざまである。しかしそれで私の心の重荷は一気に軽くなった気がしたし、腰痛もそれ以降しばらくは私の頭からおいだされたかのように思えた。
そして12月。私はほうほうの体で雪と氷の世界-Detroitから逃げ出した。日本に帰ってきてみればすべてが暖かく、そして平和に思える。私はしばらく幸せに暮らした。
その年の暮れ、12月26日に私のアパートの電話が鳴った。でてみれば元同室だったHRの声である。「やめるんだって」とかなんとかいう挨拶の後に彼は言った。私の同期が死んだ、と。
私は「同期のお父さんではないのか?」と聞き返したが、同期本人だという。なんていうことだ。
小学生の頃から今まで、同級生、同期で死んだと聞かされた人間は4人目だ。人が生まれて死んでいくのはこの世の定めとはいえ、何故良い奴ばかりが早く死ぬのか。葬儀にでてみれば本当に彼が死んでいる。死ぬ前に一言いってくれればいろいろ話もできたものを、もう今となっては花をささげることしかできることはない。
I lost my job, I'm not married yet, but I'm alive, anyway.
翌日、そんなことを考えながらパソコンをたかたか叩いていた。思うにこのホームページを作っていたのではないだろうか。さて、今日はこんなところかと思い立ち上がろうとした瞬間、腰が動かないことに気がついた。原因は全く理解できなかったが、とにかく私はまたもや腰痛に見回れたのである。
腰痛を感じるのも生きていればこそ、などと言っている余裕もない。ろくに歩くこともできない状態である。しょうがない、とりあえずコンピュータのけりをつけよう、、と思っていじっていると、どうもこちらの方も調子がおかしい。作ったはずのファイルが消えている。また作ると今度は確かに現れるが、ちょっと目を離すと別のファイルが消えていく。要するに私のコンピュータのハードディスクは緩慢かつ確実な崩壊に向かってつきすすみつつあったのだ。これは認めたくない現実だが、とにかく対処をしなくてはならない。手元にあるディスク修復ツールを使ったが状況はよくならない。私はとにかく後ろにひっくり返って寝ることにした。ハードディスクを救う為にはおそらくちゃんとしたツールを購入する必要があるだろう。しかしそのためにはまず私は歩けるようにならないくてはならない。そのためにできることはおとなしく寝ることだ。
翌日目が覚めた。この悪夢が目が覚めたらきれいに消えますように、とはいつも思うところだが、世の中はそれほどうまくはできていない。たぶんトイレにいくくらいはできたのだろうが、車にのって買い物にいくことなどとても思いもよらぬ状況である。そのままひたすら寝ていた。
午後の4時になるとさすがの腰痛も少し調子がよくなったようである。それでなくてもコンピューターのハードディスクが吹っ飛ぶ、というのは恐ろしいことだ。ハード的な物であれば買いなおせばすむ。しかしそれが私が作ってきたファイルであればその損害はとても金に換えることはできない。私は多少腰に不安を覚えながらも車にのって買い物にでかけた。
アパートから店まではおよそ30分のドライブだ。今までの経験によれば車の運転をする、というのはもっとも腰に悪いことの一つだ。ちょっと腰をかがめた姿勢が悪いのか、あるいは柔らかいシートがわるいのかあるいは振動が悪いのか。そして一番恐ろしいのは車から降りる瞬間である。それまでぶつぶつ言っていた腰が一気に悲鳴をあげる。店の駐車場で車を降りた私はしばらく車から離れることができなかった。しかししばらく休むと歩き出した。とにかくこここまで来てしまった以上、ソフトを買わなければ丸損だ。
皮肉なことだが、この場合座っているよりも歩いているほうが楽である。目的のソフトを買って車に乗り込んだとき私の腰はちょっとご機嫌になっていた。帰り道は同じ路を戻るだけ、しかしその距離は来たときより長く思えた。
そして車から降りれば懐かしの激痛が走る。足をひきずりながら部屋に帰ると、しばらくひっくり返る。そしてソフトをインストール。幸いなことに今度ばかりは少し良いことが起こった。とりあえずハードディスクのほうは回復したのだ。しかし腰の方はまだまだである。
翌日も私は一日寝ていようと思った。退屈しながらも心すこやかに眠っていた私の部屋の電話がなった。弟が帰省しているとのことである。なるほど、世間は年末年始の休み、というものになっていたのだ。おまえもこないか、という親の声だ。それでなくてもこの年でこの不況下に自己都合で退職するなどとても孝行とは言えない。親が少しでも喜んでくれるのならば、実家に帰ろうではないか。
アパートからはおよそ1時間のドライブである。昨日30分のドライブで何が起こったか忘れた訳ではないが、あれから半日たっているから少しはましになっているのではなかろうか、と思いこむ以外手はない。
実家の前で車を止める。おそるおそる車から降りるが、そこからたっぷりと5分は動けなかった。やはり腰の調子は良くないのだ。なんとか足をひきずりながら家に入る。弟と両親が「おう」とか言っても声を返す余裕もない。冷や汗を流し、荒い息をはきながらなんとか床に倒れ込む。両親はけらけらと笑っている。いつもならば両親のからかいを愛情の現れ、ととるのだが元々器の小さい私は腰痛のためにそれほどの力も残っていなかったようだ。黙ってひっくりかえった。
両親はようやく笑いやんだ。そして私に湿布薬をくれた。なんでもよくきくのだそうである。しばらく家で話をして、ゴハンをたべてアパートに戻る。車から降りると激痛に耐えながらアパートの3階、自分の部屋を見見上げる。あそこまで果たして歩いていけるのだろうか。
このとき初めて「杖」がほしいと思った。杖さえあればおしゃかになりかけたかた足に体重をかけずに歩けるではないか。しかしもちろんそんなものはない。それから数日は真剣に杖の購入を考えたが、腰痛がなおるとともに、この「杖購入計画」は消え去ってしまう。未だに私は杖を持っていない。
それから2日間寝ていてようやく腰痛はよくなった。ご機嫌になってパソコンをいじっていれば、またもやハードディスクが緩慢な死に向かいはじめた。こんどは大枚はたいて買ったツールの霊験も効果なしだ。一つファイルが救えれば5つファイルが死んでいく。もうハードディスクを丸ごとバックアップしてフォーマットしなおす以外に手はなさそうだ。そのためにはまた車にのってバックアップ用の光ディスクを買いに行かねばならず、そしてそうすれば腰痛は再び悪化し。。。
当時何故この年に2回も腰痛が発生したのか私にはわからないかった。しかしこの腰痛が収まったころ、私は一つの原因に思い当たったのである。
1990年から1992年の米国生活の間、私には色々な変化が起こった。一番あからさまだったのは体重の増加である。母に言わせると私はこの間に「ぷーっと太った」のだそうであり、今から考えれば高血圧だの中性脂肪を気にするようになったのはこのころからであろうか。
そのほかにもこの間に健康によくない習慣を身につけていたのである。私はもともと足の行儀が悪い。これがいわゆる左ハンドル車と組合わさったときに変なことになった。もともとオートマ車というのは左足が遊んでいる。右ハンドルであれば、左足はセンターコンソール(つまりラジオだのエアコンだのあるエリアだ)のほうにあるから、特に変なことはできない。ところが左ハンドル車の場合、左足の前にあるのはせいぜいエアコンの吹き出し口だけである。そこで私はそこに足をのせていたのである。ハンドルと同じ高さに足があるのだから、とても異様な光景であろう。しかし何故か私にはそれが快適だったのである。
いかにそれが妙な格好であったとしても米国でそうやって運転しているのが私だけではないことは確かである。いつかHighwayですれちがった車からは足が4本突き出されていた。彼らは前に2人、後ろに2人乗り込み、足をエアコン吹き出し口にのせるなんて中途半端なことをせずに、窓からつきだしていたのである。4人が4人とも。
彼らに比べればおとなしかっただろうが、その姿勢は腰にとてもよくないもののようだ。日本に帰ってきてからもその癖がぬけない私は、ラジオの辺りにに左足をのせて、(珍しく)助手席に座った女性から「その足やめて」と怒られたことがある。私は素直に彼女の文句を聞き入れた。しかし隣に誰も座っていなければ問題はないだろう、とばかりに米国に幽閉されていた間ずっとこの格好で運転をしていた。思えばDetroitで起こった腰痛の原因はあれだったのだ。
では日本に帰ってきてから起こった腰痛の原因は?失業して暇になった私はそれまでいっさい所有していなかった家具というものを購入し始めていた。そしてこれが根っからの貧乏人の悲しいところだが、ちゃんとした椅子を買えばいいものを、ビーズクッションを安値で買って椅子の代わりにしていたのである。おまけにパソコンがおいてある机は、本来物置に置く棚か何かを流用した物だ。確かに安くあがったかもしれない。しかし結果としてそれは私に無理な姿勢を強要し、座り続ける間に腰を破壊した、ということなのである。安物買いの銭失い、とはこのことだ。
そのことに思い当たった私はさっそく「ちゃんとした」家具を買いにいった。これで少しは腰もよくなるであろうかと。
さてこれでようやく昔話は終わり今の話に戻る。腰痛3日目の朝があけようとしている。
注釈