題名:留学気づき事項

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日付:1998/5/8

前書き

1章

2章

3章

4章

5章

6章

7章

最後に

後書き


1章:決定されるまで

私が米国留学を考えたのは、入社して2年目に、職場の先輩であるI社員が留学したときからである。当時の私は文字どおり悲惨な目にあっていた。当社は入社1年目だけが新入社員で、あとは2年目だろうが10年目だろうが同じ扱いである。2週間富士山の裾野に出張して、1週間返ってきて、膨大な量の不具合報告とスペック作成を行なうといった生活が続いていた。しかも自分が扱っている物が何か勉強しながらである。(私は入社1年目と2年目で、仕事の内容が急な配置換えにより、ごろっと変わった)

そのときの私の目に写ったI社員の姿は、まさに感動ものであった。最終日に、I社員は午前中挨拶回りをして、午後はひまそうにしていた。スペックもなければ不具合報告書もない机を前にして。私はいつかはきっとああいう日を送ってやるぞと決意したのである。

とはいえ、つい最近まで、留学はたんなる希望であって、具体的な目標ではなかった。当時は、留学は所で一番英語のできるやつが行くのである、という迷信がまかり通っていたからである。私の入社直後のTOEICの点数は580であった。ちなみにI社員のTOEICの点数は900近かったと記憶している。同期のなかでも800点を越えている人間が数人いたはずである。かかる状況において、私にとって留学が現実味のないものであったは当然である。毎年の人事調査表Bにも、留学したなどと書いていたが、単にかくねたがないし、なんとなくカッコいいから書いているといった様子であった。

その情勢がころっと変わったのは昭和63年の12月である。毎年この時期に海外留学候補者推薦の案内が回ってくる。私は課長から、希望を書くようにと言われて、用紙をうけとった。しかしどうせ通る筈がないときめこんでいたからそのままにしておいた

それから数日たってから、(最初の締め切り期日をすきていたが)いきなり課長が私の席にきて、「大坪君、留学の希望は書いたか?」と聞くので、「いえまだです」と答えたら「早く書け」と怒られた。ここまで言われては書かざるをえない。ここでものの30分で書き上げたのが付紙1の推薦書である。字をみてもわかる通り、推薦理由から修了後の予定業務まで自分で勝手に書いたものである。自分でも内容に関しては気がひけたので、課長に「こんなもんでいかかでしょう」と見せたら、意外にも「いいよ」とのことであった。かくてなんだかんだと言ってるうちに私の留学願いは提出されたのである。

ちなみにここで挙げてある希望大学(MIT, Stanford, Carnegie Mellon)も、装置設のH社員(平成3年度留学候補)のところに行って、「なんでもいいから、米国の大学でComputerScienceの分野が強いところを3っつ教えてくれ」と言って、教えてもらった順番に書いただけのことである。しかしこの時点でもまだ私は英語の点数が全然足りないから、まあとりあえず出してみるだけだな、などと考えていた。

ちなみに案内には英語力のRequirementとして「TOEIC730点以上、ただし技術系で留学先によっては650点で可の場合もある」と書かれていた。入社当時からちょっと向上したとはいえ、私のTOEICのスコアは640だったのである。

 

月日がたって(どれくらいかは忘れた)ある日当時部長室の教育担当であったK主査から電話があって「大坪君。この前出していた留学願いね、あれTOEIC の点数が低いからだめみたいだよ」と言われた。そんなことは百も承知である。「いやー、やっぱりそうですか。はっはっは。また来年でも出しましょうかね」などと私は答えた。この話を課長にしたところ「うん。低い」などといわれた。最初から点数たりないと思っていたら、なんでもいいから出せといったのは課長でしょうが、と心では思ったけれどもちろん口には出していない。課長からももっとがんばらねばだめだ、などと散々文句を言われた挙げ句、その次には人事教育課(昔は人事課はこういう名称だった)の主務から「大坪くん。この前の留学願いね。あれ英語の点数がたりないからだめだと思うよ。」などと直接電話でおこごとをいただいてしまった。だいたい点数が足りないのを承知で出させておきながら、それをねたにぶつぶつ文句を言うとは何事だ、などという不孫な考えはみじんも持たなかった。

 

そうこうしているうちに(もう私の頭からは留学のことはすっかり消えていた)3月の頭になった。ある日K主査から電話で、部長室に呼び出された。K主査のおっしゃるには「この前のあの留学願いね。あれまだ生きてるみたいでね。」といいながら書かされたのが付紙2 の書類である。だいたいなんで大学を選定したかなんんて書けるわけがないだろうが。知り合いなんていれば苦労はしねえよ。などと考えたことであった。おまけに面接をするから本社に来いという。私は正直いってその時むかっときた。このクソ忙しいのに、わざわざ落とすために本社までこいとは何事か、という意見である。(ともかく落ちるものときめてかかっていた)

 

とにもかくにも席に戻ってみると、たまたまI社員が来ていた。I社員に、「ひどいと思いませんか。本社までいかされるんですよ。」などと言って話を聞いてみると。「えっ。それは受かったっていう意味だよ。俺の時は本社では形式的な面接だったけどね」などといわれてしまった。

こう言われても半信半疑な私である。ごにょごにょしていたらI社員が突然「俺達の時は面接は6月だったけどな。よし俺が聞いてやる」と言って本社の担当に電話をしだした。(I社員は決断即実行の人なのである)電話の結果は「3月に速めたのは準備期間を十分とってもらうためです。本社でやるのは純粋な選考です。」という返事であった。これではなんのことかわからない。おまけにソ設のAR社員も、このときに本社の面接にいくことがわかっていた。こんな身近の知り合いにもう一人候補がいるくらいだから、きっと今年から選考方法が変わって、本当に本社で選考をやる気なのではないかと、私は疑問に思った。

疑問のあまり、私は人事にも電話をした。「なんで私はうかったんでしょうか。よっぽど希望者がいなかったんでしょうか」「いや、いろいろ検討しまして、やはり大坪さんに行っていただきたいということになりまして」これではなんのことかわからない。

半信半疑のうちに面接の日がきた。本社の何階だったか忘れたが、どこか倉庫のような部屋に集められた。壁にはってある名簿を見れば、募集定員そのままである。あらやっぱり通ったかしら、などとそのときにいたって初めて考えた。まもなく担当がやってきて、色々書類を渡して、おまけに面接の想定質問までおしえてくれた。(教えたことは内緒にしておいてくださいと言われが)ここで教えてもらった想定質問を以下に示す。

 1. 候補者として選ばれるに至った経緯

 2. 留学に対する意欲、語学力についての評価

 3. 候補者になった気分

 4. 留学先選定理由

 5. 派遣先に、知人等はいるか

 6. 研究テーマの内容

 7. 体力、気力があるか

 8. 入社後の職務について

 9. 担当業務を通じての問題意識

 10. 研修を業務にどう生かしていくか

 

いづれも突飛なものではない。要するに我が社の入社面接の時と同じく非常にStandardな質問であるということができるだろう。面接はひとりづつなので、はっきりいって待ち時間はたくさんある。人事課の担当さんは、気をきかせてくれて、各大学のパンフレットなどを置いて、参考にしてください、と言った。ところがこっちとしてはそれどころではない。ついさっきまで通るわけがないと思っていて、ここまで来て定員しか希望者がいない現実を見たところで、ようやく「本当に行くのだろうか」と思ったところなのである。とてもカタログを見る所ではない。どきどきしながら想定質問に対する解答を考えていた。

ほどなく順番が回ってきた。面接の部屋に入ってみると、人事部長、担当課長、主任など5人程前に座っている。

面接が始まり、傾向と対策通りの質問がされた。こちらも想定質問に対しては結構心ずもりをしていたので、特になんということはない。(もっともここでは帰国後はC3Iシステムの開発に従事するなどとウソ八百言ってしまった。留学テーマについても平成元年8月から仕事がころっと変わったのでまったくデタラメとなってしまった。 このことに関しては後述する。)ここで想定質問以外に聞かれたのは次の点である。

(1)研究したい内容はわかったが、なぜ米国でなくてはいけないのか。国内の大学や企業ではいけないのか。

(2)分散処理の研究というのは、結構広い範囲にわたっていると思うが、具体的にどのようなことを中心に研究したいのか。

 

(1)項の質問に対しては簡単に答えられた。実のところComputer Scienceの分野で勉強をしようというときに、米国以外で勉強することは考えられない。問題は(2)である。実のところそんなことを聞かれてもこまる。だいたい言葉は並べてみた物の、実は何も考えていないのに、と心の中で考えはしても、口に出していわないのが正しい面接の対処方法である。私はここで「分散処理技術の効果を包括的に評価する方法について研究したいと思います。」と答えたが、あいてのおじさんは納得していないようだった。

この他にはそうきびしい質問はとんでこなかった。他に私が答えた内容で、相手にうけがよかったと思われるセリフは、

「現在C3Iシステムは他社が先行しております。私は将来的には分散処理技術がC3Iシステムを考える上でのKey Technologyと なると考えています。私はこの技術を修得して、C3I市場参入への糸口としたいのです。」

という大仰なセリフであった。特にこの中でKey Technologyという言葉がアピールしたようである。もっとも単なる平社員が吐くセリフとしては、態度がでかすぎたのか「それで、あなたが帰ってきたら中核としてやっていくわけですか」などと言われてしまった。

 

そんなこんなで面接は終わった。終わるとほっとして、他の候補者と馬鹿話をする余裕も生まれてくる。名詞交換などして、お互いに決まったら連絡しようね、などと言った。

面接はもう一つあった。英語の面接である。実は本社に来る前には、こちらのほうで恐怖を感じていた。実のところ私はそれまでNativeのEnglish Speakerとほとんど話した事がない。しかし結果においてこれは杞憂であった。この英語の面接は、端にも棒にもかからないやつを振り落とすための面接のようであり、相手は東京女子大で英語の講師をしている気のいいおっちゃんであった。神戸の某ちゃんの話によると、「相手がしゃべってることがわからなくて、ぼけっとしていたら、”だからー”と日本語で話かけてきた」というほどのものであった。

さて私はと言えば適当に受け答えをしていた。何を勉強するんだと聞かれたので、適当に答えた。なんの役に立つんだと言われたので、適当に答えた。Stanfordはどこだか知っているか?と聞かれたので、西海岸でLos Angelsの近くだといい、Carnegie Mellonはどこだか知っているか?と聞かれたので、東海岸でNewYorkの近くだと答えたらほほーという顔をされて、両方とも全然違う、 と馬鹿にされた。そんなこんなで面接は終わった。最後に担当さんが「4月の初めには皆さんにいい知らせが行くと思いますので」と言った。

面接の1週間後から私は1月米国に出張した。帰国して課長の前に報告に言ったら、「そういえば来てたよ」といわれて、付紙3の書類を渡された。

こうして私は留学候補生になったのである。

後日判明したことだが、面接の後に本社の人事から私がいた事業所の人事に電話があって吊りズボンしてへらへらしたのが来たけど、あいつはいったいなんだ」と言われたとか言われなかったとか。私は未だに自分の選考過程について疑問を感じている。

次の章

 


注釈

国留学:(トピック一覧へ)思えばこのホームページに書いてある内容に、この言葉が出てくる頻度は結構高い。いろいろな話のネタになっている、ということだろうか。本文に戻る

 

配置換え:トピック一覧)この配置換えは「あそこだけは行きたくねぇな」と思っていたグループにまさにどんぴしゃりで移動になったこともあり、あまり私にとって幸せなものではなかった。。。これはもちろん私にとって、最初の「あまり幸福でない配置転換」であったが。。。しかし、「あまり幸福でない配置転換」がこれで人生で最後というわけでももちろんなかった。本文に戻る

 

 付紙1:この申請書は紛失した。だいたい内容は次の文章を読んで貰えば想像はつくと思う。本文に戻る

 

内容に関しては気がひけたので: 当時は若かったので、留学の希望内容というものは真面目にかかなくてはいけないものだと思っていたのである。当時は課長の気安い「いいよ」という言葉に驚いたが、いまならば「留学の内容に興味はない」ということを考えただろう。本文に戻る

 

付紙2:この書類も紛失した。内容は大学選定の理由。希望大学に知り合いの教授がいるか?などという内容だと思った。本文に戻る

 

両方とも全然違う: StanfordはLosAngelsから車で高速を飛ばして6時間。CarnegieMellonからNewYorkまでは多分12時間くらいかかるだろう。本文に戻る

 

付紙3:この書類も紛失。要するに選ばれましたという書類である。本文に戻る

 

電話があって:この話は私の友人が人事の人間から聞いた話でまずまちがいなく事実である。私がその人事の人間に直接聞いたときには「そんなことはないよ」と言っていたが。彼女はプロの人事社員であったのでこんなことは口が裂けても本人には言わないのであった。本文に戻る

 

りズボンしてへらへらしたの:トピック一覧)当時の私は「なんだ。緊張した雰囲気をほぐそうと思って会話をしていたのに」とぶつぶつ言っていた覚えがある。ひょっとすると世の中ではああいう場所で、だまりこくっているのが正しい姿なのだろうか。本文に戻る