映画評
五郎の 入り口に戻る
日付:2014/7/1
1800円|1080円|950 円|560円|-1800 円|値段別題 名一覧 | Title Index
560 円-Part13(Part12へ | Part14へ)
スーサイド・スクワッド-Suicide Squad(2016/9/11)
今日の一言:面白い映画をつくるのは難しい
予告編は素敵だった。それと同時に「本当にこれがちゃんとした物語としてまとまるのか」という懸念も感じさせた。米国公開が近づくと評論家のレビューが公表される。見ればRotten Tomatoesで驚異の20%台である。経験から行けばこれは「ダメ映画」のサイン。
とはいえ、観客のスコアはそこまで悪くない。やはり行かなければ、と観てみれば残念ながら評論家スコア通りだった。話としてはバットマンV.S.スーパーマンの続き。スーパーマンがいなくなっちゃった。どうしよう。よし、悪人を集めて部隊を作りましょう。
でもって今回の敵役というのがよくわからない。どっかの遺跡から復活した魔女で心臓を人質に取られていたはずなのだが、いつの間にか弟を呼び寄せ暴れ始める。最初は二人であれこれやっていたのだが、スーサイドスクワッドが行くといつの間にか敵は大部隊になっている。
観ているうちに「こういう映画を作るのは難しいのだな」と思う。予告編であれほどまでに狂気を感じさせたジョーカーも、狂気と女性らしさを感じさせたハーレイ・クインも映画の中ではサッパリである。ボヘミアンラプソディーとか確かに予告編にあった通りなのだがなぜこうも退屈になる。魔女のおねえさんも可愛い感じなのだけど。
ウィル・スミスを切って浮いたギャラで脚本をちゃんと作るべきだったか。エンドロール後にちょっと顔を出すベン・アフレックが一番の黒幕ではなかろうか。有望なコミックの原作+個々のすばらしい演技をトイレに流してしまうという犯罪の。
トゥモローランド-Tomorrow Land(2016/6/18)
今日の一言:テロリスト礼賛
全般的には「古き良きダメディズニー映画」である。昔ダメ映画を作っていた人たちもまだ社内に残っているのだろう。
何がダメかといえば「お前らこういうのみとけば喜ぶんだろう?」という観客を見下したような姿勢が感じられる点。ある日いきなり「メッセージ」が届けられ「あなたは地球を救う人です」というセカイ系をなんのひねりもなしに出されてもねえ。
さらに
主人公の女性がどう「前向き」で「人類を救う人に選ばれた」かといえばロケット発射台の解体作業をテロ攻撃で阻止しようとするから。しかも執拗に。少し視点を変えればこれは9.11に代表されるテロリスト礼賛とどこが違うのか。あのね、世の中には話し合いや民主的な手段で解決というものがあってね、と言い聞かせるのも虚しい。さらにそのテロリストを娘にもつNASAの技術者はあっというまに娘を釈放させる。いや、無理だよ。これどう見ても実質的な損害を伴う犯罪だもの。
しかしディズニーはそんなことは意に介さない。理屈はさっぱりわからないが「常に未来に楽観的で前向き」な女性がいるだけで人類の運命はどんどん変わる。途中で脱落する観客の集中力も意に介さず、ダメ映画の特徴でもある「だらだら続くエンディング」もきっちりやってくれます。
というわけで印象に残るのは、ロボットの女の子。今はとってもかわいいけど、大きくなると、、エマ・ワトソンは奇跡的な例だったからなあ。
ファインディング・ドリー - Finding Dory(2016/6/18)
今日の一言:Pixar is dead, again
これを書いているのは米国での公開直後。Rotten Tomatoesでの評価は高いし、エンドロールの後に観客からまばらな拍手が起こったのは確か。しかし他人がどう評価しようが私は「ピクサーは死んだ(2度目)」以外の感想は持ち得ない。
ドリーを主人公にするのは定義からして難しい。彼女は短期記憶に問題があり、今聞いたことを覚えていられない。脇役としてちょっとしたボケをかますのにはいいが。案の定最初のほうはかなり同じ会話の繰り返しにいらいらされる。
そのうち彼女は両親を探す旅にでる。定義によれば自分がそう決意したことを忘れてもいいのだが、それでは話が進まない。見ているほうもイライラしなくなるから不問に付す。とはいえそこからのドタバタ珍道中はいささか退屈だ。シロイルカが超音波で驚異的な探知能力を得るのはまあいいけれど。
途中でニモの父親が「ドリーはすごい!」理由を台詞で説明する。主人公の素晴らしさを台詞で説明する映画にろくなものはない。クライマックスの「両親の行動」も一度にそんなに貝運べるなら、数年もたてばもっとすごくなってるよね、、とか冷静な観察をしてしまうのはやはり映画にのれなかったせいだろうな。
おそらくディズニー本体に予算と人材の量では勝てないのであのような完璧な脚本を期待しているわけではない。しかしインサイド・ヘッドで見えた「それでも方法はある」という復活の兆しはまた見えなくなってしまった。
今Pixarのサイトをみれば、来年Cocoという新作がある以外はCars3, Toy Story4, Incredibles2と続編ばかりが並んでいる。もはやピクサーは続編で手堅く稼ぐことしか期待されない存在になってしまったのだろうか。
エンド・オブ・キングダム-London has fallen(2016/5/13)
今日の一言:トランプ大統領に捧げる
題名と予告編から予想されるとおりの「ロンドン観光名所破壊の図と不死身のシークレットサービス&大統領」の物語。だから真面目に突っ込むことに意味はない。とはいえ日本の総理大臣の扱いはあんまりではなかろうか。あと各国首脳を丹念に個別に殺すより、葬式やる大聖堂をふっ飛ばせばいいんじゃないだろうか。テロリストはどこにでも爆弾しかけられる、という設定なら。いや、突っ込んだら負けだ。
映画の恒例に従い、合衆国大統領は若々しいハンサムで自動小銃をバリバリと打ちまくる。オバマはこの役を演じられると思うがこの文章を書いている時点で次の大統領になりうる二人の人間を考えると悪い冗談としか思えない。とはいえトランプ大統領が首を切られる直前、カメラに向かって何を言うかは興味があるところだ。こうなったのはイスラム教のせいだ、ムスリムを皆殺しにしろとでも言うんだろうか、あるいは恥も外聞もなく助命を始めるか。
八年のトランプ大統領治世を経ればこういう映画は作られなくなるだろうから、今が見納めかもしれない。
黄金のアデーレ 名画の帰還-WOMAN IN GOLD(2016/5/6)
今日の一言:欲張りすぎ
オーストリア在住のユダヤ人がドイツ併合にともない財産を没収される。その中に主人公の叔母を描いたクリムトの肖像画があった。主人公はアメリカに亡命していたが、姉の死をきっかけに肖像画を取り戻そうとがんばるのであった。
彼女が頼んだのが頼りない弁護士。でもってこの二人が支えあってあれこれ奮闘する。途中でかわりばんこに「もうあきらめよう」となるのだが、これがどうにも唐突。いや、実際の人間の姿というのはそういうものだと頭ではわかるのだが、映像を見ていると「はあ?」となるところが多すぎる。名優ヘレン・ミレンはちゃんと場面ごとに演じてはいるから、これは脚本だか演出だかの問題か。
ユダヤ人に対するナチスの非道な仕打ち-それは当時の多くのオーストリア人が選択した道でもある-はきっちり描かれる。それはわかるのだが、主人公夫妻の逃走劇が「お前はアルゴか」というくらい劇的に描かれるところといい、どうにも「作り物」の舞台裏が見え隠れする。
家族の物語、オーストリア相手に裁判に訴える道のり、それにナチスの迫害とどれも欲張って描こうとしたがために全体が散漫になってしまった。その上に「ほらほら、面白い場面ですよ。感動してください」とばかりの作り手の声が聞こえるとどうにも興ざめしてしまう。名画を取り返す苦闘をきっちり描き、他の要素は最低限必要なものにしたほうが返って印象深くなったのではないかな、とか自分で作らない人間は勝手な事を考えるのであった。
バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生-BATMAN vs SUPERMAN: DAWN OF JUSTICE(2016/4/2)
今日の一言:良いニュースと悪いニュースがある。
Bad News:わけがわからない
Good News:どうでもいい
というわけでバットマンとスーパーマンが喧嘩をする。前作マン・オブ・スティールは未見だったが、どうもそれは観ている前提らしい。いきなりスーパーマンが誰かと喧嘩して街を壊されてもねえ。でもってCIAのエージェントが砂漠の中でテロリストに身バレするのだが、その理由が「ちかちか光っているデバイスを持っていたから」なんだそれは、昭和の子供向け特撮番組か。
でもって肝心の「バットマンとスーパーマンが戦う理由」なのだが、スーパーマンはバットマンが「法律違反をしている」のが気に入らない。ちょっと待て、お前がそれを言うか。バットマンはスーパーマンが「強力でひょっとしたら敵になるかも」という理由で殺そうとする。ちょっと待(以下略)彼らが和解する理由に至ってはさらに「はあ?」としか言いようがない。
公聴会で起こる爆発前の「予兆」とか全般的に説明が不足している。もちろん私の読解力がおいついていない可能性もあるが。見ている人間を異常にいらいらさせる悪役(ソーシャルネットワークの人とのこと。流石)とか要素は悪くないのだが、全般通してみるとわけがわからない。ダメ映画につきものの意図不明のスローモーションの多用は言うまでもなく。
というわけで唯一の見どころはワンダーウーマンになるわけだ。彼女は普通の格好をしているとちょっと変な顔だが、ワンダーウーマンのコスチュームと髪型にするとかっこいい。しかしその唯一の登場シーンが夜なので結局よく見えないのであった。この「画面が暗すぎてよくわからん」というのは映画全般に言えること。
私にとってザック・スナイダーというのは当たり外れが大きな監督。不幸にして今回はハズレだったようだ。ある映画評論家の「シリーズ化の頭出しばかり考え、ストーリーを忘れた」という言葉に深く頷く。良い点を探すとすれば「どうでもいい」と思えるから大して腹が立たないところか。
ファンタスティック・フォー-FANTASTIC FOUR(2015/10/11)
今日の一言:この映画が作られてしまった舞台裏が知りたい
途中でおしっこに行きたくなった。どうしよう。映画はだらだら進んでるし、数分見なくても問題ないかもしれない。
結局最後までみることを選択したのだが、大正解だった。もしトイレにいっていたら
「しまった。私がみなかった数分の間のものすごいクライマックスがあったに違いない。それはなんだったのか」
と疑心暗鬼に陥っただろうから。
というわけで宇宙忍者ゴームズである。10年前のシリーズ(ファンタスティックフォー)はなかったことになっている。前のは結構コメディタッチで楽しかったが、これは、、、一体なんでしょうね。小学校5年生ですでに物質転送装置を作った主人公は謎の学校のようなものにスカウトされる。綺麗なねえちゃんがおり、アフリカンアメリカンがおり、とかはいいとして「異次元」に行った先がただの「別の惑星」。あのね異次元というのは次元数が違っていてね、、
とか突っ込んでいるうちはまだ平和だった。馬鹿が馬鹿なことをやり惑星に行ったみんなが変人になる。それはわかるが、なぜ地球でPCの前に座っていただけの姉ちゃんまで透明になるのだ。一人だけその惑星に取り残された奴がおり、そいつは定義によって悪くなる。でもって4人対一人の大げんか、、となるのだが「前哨戦」であっさりかたがつく。つまりおしっこに行っていたかもしれない私が「見逃した」と思うシーンはそもそも存在しなかったのだ。
その後ろで地球はあっさり危機になりあっさり助かる。このあっさりぶりはなんなのか。さらに言えばゴム人間の役に立たなさぶりがすさまじい。あいついなくても問題なかったんじゃないか。最後にはとってつけたような「シリーズ化の布石」がでてくるのだが、「はあ」としかいいようがない。エンドロールのあとに何かがあるかと思えばやっぱり何もない。アメリカで稀に見るほどの悪評だったのも頷ける。
というわけで私の頭には「ゴームズ・ゴームズ」という歌とともに疑問がぐるぐる回り続ける。この「クライマックスをごっそり省略した映画」が生まれた背景はなんだったのか。途中まで作って監督が引きこもってしまった。代わりの監督を連れてこようにも誰もが逃げ出し、結局大道具が監督をやった、とかそういう物語があるはずなのだ。この映画に金を払ってしまった人にはせめてその内幕を教えてくれるのが礼儀ではないでしょうかねえ。
ジュラシック・ワールド-Jurassic World(2015/6/11)
今日の一言:小学校低学年向け
というわけでジュラシックパークである。冒頭子供たちが親から離れて旅行にいく。別れを惜しむ長男が彼女といちゃついている。イラっとする。島に着くと迎えがいるのだが、この女の人が何もしない。顔もろくに写してもらえない。役者さんが気の毒である。長男があちこちで女の子に色目を使ったり使われたりするが、それはなんの意味もない。ここらへんで、この映画に意味を求めてはいかんのだと悟る。
それから例によっていろいろ起こる。しかし一作目のように「完璧と思われたシステムが、ちょっとしたほころびから崩れていく」といった話の巧みさはこの映画に求めるべくもない。というか多分何も考えずに恐竜のCGだけ外注したんだと思う。しかしせめて
「客寄せ用に合成した恐竜」
はもっと強くて怖そうでないといかんのではないだろうか。そうできなければ、少しずつ姿をみせて恐怖心を膨らませるとかさ。
観ていてイライラするような馬鹿がたくさん登場し、わかりやすい「馬鹿な行動」をとる。良い点からいうと、「話の設定上こいつは最後まで死なないだろうな」という馬鹿以外は順番に殺される。欲をいえば長男は食べられてもよかったのではないかと思う。恐竜はそのためにどこにでも自在に現れる。人間の味方をするのもいきなり敵になったり改心したりするのも全ては馬鹿を順番に殺すためである。
恐竜をCost/Profitの管理対象としか考えない馬鹿女に、飼い慣らせると思っている馬鹿男と対比させようとしたのかな。その割に両者が歩み寄るとかお互いを理解するとかは皆無である。いや、そんな真面目な要素を求めるのがまちがっている。これはギャグ映画なのだ。ユーモアのセンス抜きの。アメリカで公開直後にみたのだが、時々ギャグで笑いは起こるものの悲鳴も歓声も上がらない。これどちらかというと日本のゴジラ映画(最初のを除く)を模倣したんじゃなかろうかな。あるいはGODZILLA ゴジラとか。
San Andreas-カリフォルニア・ダウン(2015/6/7)
今日の一言:ロック様の「俺様映画」と割り切るしかないのだが
予告編が印象に残っていたので見に行った。一言で言えばロック様の「俺様映画」それ以上でもそれ以下でもない。景気良くビルが倒れたり津波がくるが、本物を体験した身としては「ふっ」としかいいようがない。それくらいの揺れで景気良くビルが壊れたり倒れたりって、この映画での地震は全て「ロック様」を引き立てるための小道具であり、リアリティはユニバーサルスタジオのそれである。
とかなんとか文句をつけてはみるものの、震災から4年たってこれくらいなら日本でも上映できるかな、と思い始める。しかし津波のいい加減な描き方をみてその考えを捨てた。いや津波ってただの大きな波じゃないんだけど。がれきだらけの海をいくら吃水が浅いといってボートが高速で走り回るとかね。そうしないとロック様が活躍できないのはわかるんだけどさ。(調べてみたら日本で5/30に公開されるはずだったのが延期になっている)
主人公の女の子は目が青くて胸部が適度にでっぱっている。アメリカのティーン向けにはこういうのが受けるのだろう。前のファンタスティックフォーの人が「ちょっと憎まれ役」ででてくるのだが、ぼこぼこがれきが落ちてくるところでビビって逃げたからといってコンテナで叩き潰すのはどうなのよ。あと実にタイミングよく少しずつ壊れるビルとか、まあユニバーサルスタジオのアトラクションだからしょうがないか。とはいえもう少し短くてもいいんじゃないのかな。後半の「これでもかこれでもか」という災難の連続はちょっとやりすぎだと思う。
というわけでそんなに目くじらたてて怒るような映画では思うが、ロック様の狂信的なファンでない限り1800円払う価値はないと思う。
今日の一言:何をどうしたらこんなに退屈にできるのか
ミュージカルを映画化したものを見ると「難しいな」と思うことが多い。不幸にしてこの作品もその一つ。元は有名らしいから、きっとミュージカルは面白いのだろう。それを映画にするとなぜこうなってしまうのか。
孤児としてキャメロン・ディアズに面倒見てもらっている黒人の女の子。ひょんなことから怪しげな携帯会社の社長で市長選に出馬している男と知り合いになる。選挙参謀は「この女の子は使える」と考える。
といった設定から起こるだろうと想像することが想像した順番に起こる。出演者は豪華だが話は退屈の一言。時々
「映画の中でうちの携帯を使わせるために50億使いました。今映画はこうしてなりたってるんです」
とかいう楽屋ネタが語られるが、もちろんクスリともしない。初めて社長の部屋にはいった女の子と役所の職員が飛び跳ねだすところなどきっと舞台でみれば拍手喝采なのだろうが、この映画の中では「元気ですねえ」と思うだけ。こうした舞台と映画の演出の違いはよほど考えなくてはならないことなのだろう。
そうした難しさを考えず適当に作るとこうなってしまうのか。舞台で実績のある歌のはずなのに、ヘリコプターでNew yorkを普通に飛んでいる背景で流されると、退屈な場面のBGM。見ている方は「なんでこんな場面が延々と続くのか」と不思議に思うだけ。
すっかりババアが板につき始めたキャメロン・ディアズは正直いなくてもよいキャラクター。彼女を丸々削り、90分くらいにすればまあ少しはマシになったのではなかろうか。おもしろくできなければせめて短くしましょう。
ジュピター-Jupiter Ascending(2015/6/7)
今日の一言:ジョージルーカス病患者がここにも
この日(1日が24時間以上あったのだが)映画を5本見た。そのあとで「あれ?3本目なんだっけ?」と唯一思い出せなかったのがこの映画。つまりそんな出来。
CGばりばりのSFとおもっていたら出だしが貧乏で気の毒なロシア人夫妻でちょっと肩透かしをくったような気になる。とはいえすぐ宇宙に行くから安心しよう。悪い奴が3人兄姉弟。でもって米国で掃除夫やって生計たてている主人公がいきなり「女王陛下」になったものだから、懐柔しようとしたり結婚しようとしたり退位させようとしたり。それぞれの立場には理由があった気もしたが忘れた。
でもって主人公は犬と人間とのハーフの男に惚れている。
「私犬は好きよ」
という口説き文句は(劇中言及があるのだが)確かに傑作。逆に言えばこの映画で印象に残るのはそこくらい。思うにウォシャウスキー姉弟はジョージルーカスと同じ病にかかっているのだと思う。技術もてんこ盛り、予算もそこそこあるからどんな映像でも作れるぞ、とはりきってつくるのだが肝心のストーリーが空っぽ。ルーカス、ピータージャクソンと同じくウォシャウスキーもCG技術のダークサイドに落ちてしまったか。
ホビット 決戦のゆくえ-THE HOBBIT: THE BATTLE OF THE FIVE ARMIES(2015/1/10)
要約:ピーター。君は「ルー・ゲーリック病」じゃない。「ジョージ・ルーカス病」だ。
というわけで、「せめて前後編にしておけば」のホビット3部作である。前回はなんだかわかんないけど、竜が近くの町を破壊に行ったところでおしまい。
例によって「はて、この人は誰だったか」と思い出すのに一苦労。金銀財宝を抱え込んでいた竜が退治されたものだから、お宝を狙っていろいろな種族がわらわら集まって大げんか、というのが全体のストーリー。各種族の王様がそろいもそろって底抜けの馬鹿。でたらめな命令で前進し命を落とす兵士たちが気の毒。ポケモンじゃないんだからさ。
話の流れは説明不足でぶつぶつのわりに(もちろん登場人物を全員馬鹿と想定してもいいのだが)どうでもいい場面は延々と続く。前2作で「何があっても善いものは死なない」とわかっているので「手に汗握る」と製作者だけは思っているシーンもあくびをしながら見ていればよい。しかしいつもながらオークって格好だけ強そうで、大して強くないよね。っていうかあの巨大ミミズ使って城の内側に潜り込めば戦争なんてしなくて済むじゃないか。しかしバカの王様どもにはそういう理屈は通用しないのであった。
種族が違ってもイケメンには惚れるお姉さんが「それは真の愛だ」とか言われてもねえ。などと弱々しいツッコミをいれている間にふと気がつく。この3部作はStar Wars1-3と全く同じだ。壮大なはずのストーリーにちりばめられたどうでもいい登場人物。ストーリーはグダグダだけどCGを使った映像だけはてんこ盛り。ルーカスと同じく、ピーターも広角の絵を多用する。その結果「大規模な戦闘シーン」もまるで模型がもぞもぞ動いているように見えてしまうのだが、特に気にしていないようだ。というか「俺はこんだけ全部のCGモデルを作ったんだぞ!」とでも言いたいのか。
と文句を言っているばかりでは生産的ではない。善いところも少しはある。魔女としか思えないケイトブランシェットの「覚醒」シーンはよかったし、ワトソンとシャーロック(声だけ)のペアはそれなりに楽しい演技をしていた。あとエージェントスミスとか92歳のはずのクリストファーリーとか。でもこんなので喜んでいるのは邪道だよね。
ピーター。この病が癒えない限り君は監督業から引退すべきだ。指輪物語の監督としてだけ後世に語り継がれることを願いながら。
要約:「敵国」は好きなように描かれちゃうよね
1945年4月だから、結末を知っている人にとっては「あと少し」の時点。しかしシャーマン戦車に乗って日々「ここに行け」と言われる人間にとってはそんなことはなんの関係もない。
という映画を作ろうとしたのだろう。前半は悪くない。悪くないはずなのだが、どこか背中がむずかゆいような気がする。戦場の暴力が描かれはするのだが、どこか「米軍はみんないい人」なのだ。綺麗な姉ちゃんがでてくるが、(想像するような)悲惨なシーンはないので安心しよう。女の子の家のシーンで画面がだらけているのでトイレに行った。帰ってきたらまだその家にいる。なんだこれは。
でもってある拠点を確保しろと言われたブラピ一派。タイガーに仲間の戦車をふっとばされる。この「戦車戦」も実物タイガーを使っているはずなのにどこか迫力に欠ける。たった一両残ったブラピ車は地雷を踏み動けなくなる。ここからが見せ場であり、わけがわからなくなる。
ブラピは動けない戦車の上で「ここを動かない」と宣言する。それは勇気じゃなくてただの自殺行為なんですが。しかしドイツ兵は協力的だ。歩兵用対戦車兵器、パンツァーファウストを沢山かついで歩いていたドイツ軍はそれを使わず戦車の固定式機銃の前を走ってばたばたやられる。相手は動けないのに、なぜわざわざ前を通る。「これだけしかない」と二「箱」のパンツァーファウストを持ってくるが発射されたのは2発だけ。っていうかその前に少年兵がパンツァーファウストでシャーマン吹っ飛ばしてたじゃないか。過ぎ去っていくドイツ軍はやっぱりパンツァーファウストをかついでいる。製作者の皆さんあの長いもの何に使うか知ってますか?楽器か何かだと思ってる?
でもって翌朝になってみると、戦車の周りにはドイツ兵の死体が山のように転がっている。かくして冒頭のような感想しか抱けないわけだ。まあ「敵国」は引き立て役だからいいように使われるのは古今東西の真理。しかし終戦直後に作られた映画ならともなく、世紀も改まったことだしもう少し真面目にやってもらえませんかねえ。細かいことは問わないとしても、これ誰が喜ぶと思ってるの?
要約:Take him to Detroit
というわけでロボコップのリメイクである。とはいっても最初のは観ていない。なぜロボコップがDetroitに登場したかは、不幸にしてその場所に住む事で理解ができた。
作品が始まるとサミュエルジャクソンがTVでわめいている。そして米国は海外に警備ロボットを配備し、「町の治安維持」に従事させている。それに自爆攻撃をかける父親がおり、それはいいとして包丁もって道路でうろうろする息子はなんなんだ。この「無駄な死」を観た時いやな予感が脳裏をよぎる。これは駄目映画かもしれない。
米国はロボットを自国には配備したくないのだそうな。そりゃ国民の自由が大事だからね。ライフルもつ権利も含めて。というわけでなんとか国民の支持を得たい会社は爆弾で半死半生になった警官を「ロボコップ」に改造する。ほら、人間とロボットの間の子ならこんなに格好いいでしょ。でもってロボコップがあれこれするわけだ。
このロボコップには息子がおり、私も息子を持つ身だから彼の子供に対する気持ちは身につまされる。しかしこの映画で感情を揺すぶられたのはそこだけだった。ターミネーター的な無敵の強さもなければ、はらはらする場面があるわけでもない。「顔のバイザーを下げると実は自動運転」とかいう設定があるのだが、それはただそのまま。
ロボコップがオリジナルの色合いかそれとも格好いい黒のバージョンか制作者にとっては何かの意味があるのだろうが、観ている方にとってはどうでもいいこと。かくして映画は平和なエンディングを迎えるか、と思いきやまだサミュエル・ジャクソンが何かわめている。なんだこれは、と思うがどうでもいいことには変わりがないのであった。
ラストミッション-Three days to kill(2014/6/28)
今日の一言:American Stupidity
まあなんというか概要説明そのままである。CIAの凄腕エージェントが余命3-5ヶ月と言われる。分かれた妻と娘と仲良くしようと思う。ところがCIAは最後のミッションを実行しろと迫る。エージェントはあれこれあってそれを断れず、家族との絆を深める傍らパリで悪い奴を殺しまくる。
頭空っぽの映画だから細かいところは問わないにしても、それまで下っ端を虐殺していたケビン・コスナーが親玉を殺すのだけは「妻が仕事を止めろといっている」と躊躇するとこで誰も疑問をいだなかなかったのかな。
まあ多分コスナーか映画の関係者がパリに行きたかったんだろうなあ。フランスは犬のうんこが転がっているところを除けばいいところだし。気持ちは解るよ。でもって観客に金を払えといいたいわけ?これで?
300 スリーハンドレッド ~帝国の進撃~300: RISE OF AN EMPIRE(2014/6/22)
今日の一言:続編はこんなもの。しかしなぜそうも自信を失ったの?
というわけで300の続編である。正確に言えば前作テルモピュライの戦いは10年に渡るペルシア戦争の中の一つの戦いなのだな。この映画はその別の部分を描く。であるからしていきなり時計が元に戻ったりするがそこは気にしない。スパルタが地上で戦っていた時、海軍力を誇るアテネは海で戦っていた、という御話。
この映画を観ると解るのだが、前作は実に潔かった。とにかく筋肉ムキムキの戦士が切りまくる。それだけで2時間の映画を作り上げた。
しかし
6年の時を経て、ザック・スナイダーはおどおどした臆病者になってしまったようだ。ペルシアの王様はとてもエキゾチックな容姿をしている。前作ではそれで「どや!」と通したが、今作品では「なぜあの王様には毛が無いのか」を一生懸命説明する。
アテネもスパルタと同じくらい筋肉ムキムキにはできない。今回は筋肉に頼れない、という不安にかられたスナイダーは延々台詞で説明を続ける。そんなのどうでもいいんだよ。誰もペルシア戦争を真面目に描く事なんて気にしていないから。とにかくおもしろいもん見せろよ。しかしスナイダーはナレーションで埋めきれない不安を「血」と「おっぱい」で埋めずにはいられない。
確かに新しい女の子の胸部は綺麗だよ。でも今時それで誰が金を払うというのか。スパルタの女王様役の女優さんにとってこの6年はちょっと長かったね、、とアップになるたびに思う。アテネの将軍さんはレオニダスほどの存在感は持ち得ないし、彼をとりまく部下達とのやりとりにも気合いが乗らない。
かくして何の高揚もない平板な映画ができあがる。結局スパルタが参加してくれれば勝ちって、史実ではスパルタはちょっとしか海軍もってなかったんですけどと突っ込みを入れるのは野暮だと知りながらそうせずにはいられない。スパルタ船にのっている筋肉軍団を観ると「ああ、スナイダーは彼らを出さずにはいられなかったのだな」と理解はできるけど。