題名:留学気づき事項

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日付:1998/5/8

前書き

1章

2章

3章

4章

5章

6章

7章

最後に

後書き


6. 合否状況について

大学に願書を送付する前後から、私の体調はみごとに低下していた。例を上げると、白髪は増えるし、おトイレに行くのもいやなくらいである。理由は一つ。仕事が嫌いなこと。さらに留学は自分にとってはたしてプラスになるのかマイナスになるのかという疑念が頭から離れなくなっていたからである。

留学するとたしかに2年間は自分の興味のある勉学にいそしむことができる。楽しいこともいろいろあるだろう。その後帰ってきたらどうなるのだろうか。早い話が私達に仕事を選択する権利はない。基本的に上司が与えた仕事を黙って一生懸命やるのが日本のサラリーマンの本分である。私の仕事内容については前述した。研究が目前の納期と不具合に対して如何に無力であるかも述べた。2年後にあるもっとも確実な仕事は今やっている機材の改善要望の反映と不具合対策である。部隊に納入した機材に対して、改善要望やら不具合やらが一度に殺到して、改善案立案、変更契約、見積、図面改定、既存部品の回収、仕様調整、客先説明がごちゃまぜになっていることは火を見るよりも明らかである。しかし予算はない。(こういう様子は人がさわらない部分を設計している人には決して理解されない。相手は燃料タンクに水を突っ込む連中なのである。量産設計は納入したからと言ってで終りではない。えんえんと改修がつづくのである)

ここでもし私が課長だったら、有無をいわせず私を今やっている機器の担当に再びするだろう。同じ一人分の工数を割り当てるなら、昔にたずさわったことのある人間の方が、コストパフォーマンスが高いからである。Master の研究内容?暇ができたら見てやろう。ところでこの契約仕様書の変更を明日までにまとめてね。などという光景が見え見えである。

こうなった場合には私は長くは持たないだろう。精神的にも身体的にも1年は持たない。残された手段は辞表を出すことである。しかし留学してしまうとそれもままならない。君の教育にいくら会社が投資していると思ってるんだ。留学してきて少しいい気になっているんじゃないか、簡単に会社を止められては困る。2年間遊ばせてやったんだからつべこべいわずに働きたまえ、多分こう言われるだろう。はっきり言って、今の機器の改修をえんえんとやらされるのならば、2年間全く勉強なしで遊ばせてもらったとしても到底割に合わない。さっさと首でも括ったほうがましである。

などということを考えていれば体調が悪化するのは当然である。しかしそんな思惑とは裏腹に、いつしか合否通知はくるのである。ここで注意しなくてはならないのは、Air Mailがきたからと言って、必ずしも合否通知だとは限らないということである。まず必ずどの大学も願書受領確認の手紙がくることである。従って結構どきどきして封筒を明けてみると、中身は「願書をうけとったよーん。結果が出たらすぐに知らせてやるからがたがた言わないでね」かもしれない。従って各大学から一つめが来ても、そうどきどきしてはいけない。

 

 このあたりからうちの母はどこで聞いてきたのか「あんた。Stanfordにしなさい。Stanford」とわめいていた。「お母様。そりゃStanfordに行きたいのは山々ですけど、これこの通り私は英語の点がたりないんですよ」と言っても全く聞く耳持たない風情である。

なんでも「あんたなんかどうせ勉強できるわけないんだから、寒いところの大学に行って”寒いよー。勉強わかんないよー”と言ってると思うとかわいそうでしょ。暖かいところに行って”勉強わかんないよー、へっつっつへー”って言ってればいいのよ」なのだそうだ。

 

さて。最初の返事はRensselaerから2月27日に来た。家に電話をしたら「なんだかレンセラーってとこから厚いのがきてるの」と母親が言った。この厚いという言葉だけで、私は合格を確信した。そしてその日のうちに、私はおうちに帰って、あけてみたら、結構こった書面に、「Congratulations!」と書いてあった。

それまで私は正直言ってどこも大学に入れないのではないかという恐怖に脅えていた。だって英語の点数が悪いんだもん。しかしこれで結構私の態度が大きくなった。へん合格したんだいということで、急にRensselaer Polytechnic Institutezが安っぽく見えてきた。おまけにうちの父親が言うことがふるっている。(うちの父親は若かりしころに米国に1年間研修に行っていたのである。)

「New York Troy(Rensselaerの所在地である)はいいところだぞ。夏は涼しくて。冬は死ぬほど寒いけどな。まあ日本で言えば青森大学に行くようなものだな。」

なんという言い草であろう。こんなとこにいくのは馬鹿だといわんばかりである。そうこう言われているうちに、まあ他の大学の通知がきてからでも返事をするのはいいやと思い始めた。ここで述べておくと、各大学の合格通知にはたいてい大学に入学するかほかの大学にいくか返事をするフォームがついていて、それをAs Soon As Possibleで帰すようになっている。この返事の仕方には二つの説がある。ひとつはすぐに返事をしたほうが良い、だまっていると向こうの顰蹙を買う。という意見と、ゆっくり返事をしてかまわない。ことによっては、一度入学すると返事をしておいて、あとでいかないと言ってもかまわない。という二つの説である。これは主に向こうの大学の校風にもよるところが多いのだろう。

 

私はどちらの方法をとったかと言うと、前者の方である。しかしレンスラーにはすぐに返事をすることはできなかった。他の大学の返事がなかなかこなかったからである。もっとも他の大学の合格通知が一つでもきたら、即刻断り状をだすつもりだった。ここで断り方についても述べておこう。

合否の決心をするフォームには大抵の場合、どうして断るかを示す選択肢がならんでいる。大抵の場合はDifferent Opprtunity of Academicとかなんとかにチェックをすれば良いが、結構笑えるような理由もある。例えばIさんはMITをけっとばすときに書いた理由は「ボストンの冬は寒い」であった。断り状については、フォームがない場合でも文書例があると思うので問題なかろう。次にきたのはGeorge Washington University と,ど本命のStanford Universityである。手紙がついたという連絡をうけたところで、私は仕事もそこそこに家に帰った。Stanfordからきた手紙の表を見ると差しだし人はProfessor Cottleである。私が理解しているところによれば、学部がだいたい入学関係を扱う事務所に推薦するとそれで合格がきまるのである。ということはだいたい教授の名前で手紙がきたら合格と思って間違いない。中をどきどきしながらあけてみれば、やっぱり合格であった。大笑いである。TOEFLの点数が全然たりないのに。私はここでIさんのセリフを改めて思いだした。「Stanfordは金の保証さえあれば絶対OK。学校にしたって金さえとれれば損するわけじゃないんだから。」

しかしやはりおいしい話には裏があるのである。しばらくしてGraduate Admissions Officeから来た手紙には、(3月22日)「あんたの点数はたりまへん。色々方法はあるけど、Stanfordの英語学校にはいることを条件に入学を許可してやりましょう」と言ってきた。まあこんなことは予想したことである。この時点でもう私はRensselaerには用がない。あっさりとお断りの返事を出した。しかしこの時点ですぐにStanfordに決めたわけではない。まさかと思っていたJohns Hopkins Universityから合格通知をうけとっていたからである。

 

願書を作成する時点で、私は自分の目的とする分野で一番進んでいるのはJohns Hopkins Universityだということを知っていた。しかしORとして願書請求を出したら、帰ってきた願書はMathematical Scienceであった。早い話が数学科のようなものである。私は自慢じゃないが数学は嫌いである。あんまり行きたくないし、おまけに願書の中に今までにとった数学関係の単位を書け、なんて書いてある。ろくな単位をとってるわけがない。はなから受かるはずはないし、受かっても行かないもん、などと考えていた。願書を発送するのすら、一時はやめようかと思ったほどである。

ところがそうこうしているうちにきた手紙は、合格通知である。(3月27日)おまけにその文面がすばらしい

「Ph.Dコースに合格だよーん。絶対うちに来たほうがいいと思うね。あんたの目的はうちの学科にぴったりだよーん」

これを読んで心をうごかされないわけにはいかない。だいたいPh.Dという言葉の響きがよい。私ははっきり言うが肩書きが好きである。おまけにPh.Dがあると、Mr. Otsubo ではなしにDr. Otsubo である。なんてかっこいいんだろう。

さっそく僕は相手のおじさんに手紙を書いた。

「いやー合格とはうれしいね。でもねStanford にも合格しちゃったの。そこで次の質問に答えてね。(1)確かMasterに応募したと思うのだけれど、どうしてPh.Dに合格したのかしら。(2)もしPh.Dに入れたとして、2年間でDoctorをとれるのかしら。この情報がないと決められないの、よろしくね」

といっった文面である。

ほどなくして返事が来た。その内容を見ると、ようするに東海岸の大学によくある「Direct Ph.D」という類のものであるようだ。つまりマスターから直接ドクタの課程に進めるだけであって、別にすぐにドクターの単位がとれるというものではないらしい。(普通の場合は、マスターからドクターに行く間に口頭試問というか、試験があるらしいのである)志望者のうち、できのいいほうのやつはこのDirect Ph.DをOfferされることがよくあるらしい。期間は最低でも4年かかると言ってきた。普通のセンスでみれば、実に丁寧な、親切溢れる手紙であった。4年かかるけれど、最初の2年の間に単位をとれば、あとの2年は会社にいて、論文の口頭試問のときだけもどって来て、試験をうける形態でもよいよ。もし会社が滞在を4年認めてくれたら、大学の奨学金もあるよ、と。しかし私は自分の環境をそれほど楽観的に考えるわけには行かなかった。早い話が、4年も大学にいくことを認められるはずもないし、おまけに会社に帰ってきて、論文を書くことがみとめられるはずはないのである。(認められるかも知れないが、誰もそのための時間は認めてくれないだろう。そうなると論文書いてると、「そんな余力があるなら他の人を手伝いなさい」などと言われるのが落ちである。要するに当社の設計部門に於て、学問はファッションであり、なんら仕事とはみとめられないのである。)

そんなことを考えながら、私は誠に残念ながらという始まりで、Johns Hopkins Universityに断り状を書いた。断り状を送付した翌日にMr.ARがSAM副所長と、S3主査にその話をしたところでは、「StanfordとJohns Hopkinsだったら後者のほうがいいわな。論文書くんだったら、それに向いた部門に職制変更もできるはずだよ」などと脳天気なことをおっしゃっていたそうである。おっしゃっていただけるのは有り難いが、私の人事権は副所長が持っているわけでも、よその部の主査がもっているわけでもない。私は翌日Stanfordに入学意思表示の手紙を書いた。

 

あとの3校についての結果も述べておこう。

 

最初に返事が来たのはCarnegie Mellon Universityであった。ここまで私は3戦3勝。大学なんてうかるもんだと一気に増長していた。ところがぎっちょんカーネギーメロンからの薄い封筒を手にした途端、私はこけたことをさとった。手紙にはあっさりと「おめえみてえな馬鹿はいれてやらない」と書いてあった。実のところもともとカーネギーメロンは入れると思ってなかったのである。そりゃORと同じ目的では機械工学科にははいれんわな。

 

次に来たのはU.C. Berkeleyであった。私はこの大学に関しては、結構自信があった。だってStanfordにはいれて、バークレイにはいれない筈はない、と。ところがぎっちょんなんと不合格であった。断りの文面はカーネギーメロンとほとんど同じ。どこが悪かったとも書いてない。何が問題だったのだろう。未だに良くわからない。まあスタンフォードに受かってしまえば、バークレイなどどうでもいいのだが。

 

最後に忘れたころにきたのがGeorge Washington Universityである。これも合格だが、いきなりI-20を送ってきた。I-20というのは詰まるところ、大学が正式に発行する入学許可証のようなもので、学生として米国にはいるのに必要なF-1ビザ申請の為に必要な書類なのである。(スタンフォードもほどなく送ってきたが)しかし今更ワシントン大学などどうでもよい。あっさりと断り状を書いて、I-20を同封して送り返してしまった。

最終的な対戦成績は4勝2敗であった。

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注釈

 

あっさりと断り状を書いて:George Washington universityにはまだ後日単がある。私がStanfordについてまだ日が経たない頃、実家からいろいろな荷物が届いた。それにはなんとGeorge Washington universityからの「再度の合格通知」が含まれていたのである。文面には「いや。あんたの願書をよく読むと、あんたがやりたいことは、別の学科だよ。だからそっちに合格にするね」と書いてあった。

私がそれに対してだした手紙は「もうStanfordにいるんですけど。。。」というやつだったが。本文に戻る