映画評
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フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン:Fly me to the moon(2024/7/29)
今日の一言:ただ真面目に真っ直ぐに
資産形成とか株式や仮想通貨で一攫千金とかそんな言葉が飛び交う。だいたい無視するのだが、それでも心がざわつくこともある。
そんな時「ただ真っ直ぐ、真面目に努力すればそれで十分なのだよ」と感じさせるような映画に出会う。「遠い空の向こうに」はそんな映画だった。そしてこの映画もそんな気分にさせてくれた。
予告編から受ける印象-月着陸を地上のセットで撮影するドタバタ-とは異なり、アポロ11号の開発に全勢力を傾けた人たちが真摯に描かれる。もちろん映画なので、省略したり、一人の人物にまとめたり、脚本化した部分は多々あるがそれはどうでもよい。真面目に努力するエンジニアたち。ぶつぶつ言いながら票獲得のために上院議員の接待をするところとか本当にあったのだろうな。
そこに送り込まれる広報担当を演じるのはヨハンソン。この人いくつになったか知らないけど、相変わらず美しくチャーミング。それまで詐欺を重ねてきた人生が、広告業界にはいった瞬間「合法」になったという笑えるセリフもあるが、彼女とアシスタントも「ただひたすら努力する」人たちに共感していく。アシスタントが彼女に渡す人々のスケッチの力といったら。
謎の政府関係者はウッディ・ハレルソン。Cheersでデビューした田舎の純朴青年がこんな役をやるようになるとはねえ。こちらも怪演。月着陸というエンジニア的にはギリギリの偉業とそれを覆い隠そうとする試みは映画的な大団円を迎える。Flight Directorのサブと思しき脇役も見事。打ち上げ後、家族と抱き合う彼の姿をみて思わず涙してしまったのは、私が家庭持ちの疲れたエンジニアだからかな。
このように見事な映画なのだが、あえて文句をつけるとすれば、エンドロールの打ち上げはいらなかったと思う。逆にいうとそんな些細な点に目くじらを立てる私のような人間でも満点をつけたくなるような映画だったということ。お見事。
今日の一言:Pixar was alive
バズ・ライトイヤーとマイ・エレメントを見る限り死んだとしか思えなかったPixarだが少なくとも2020年にはちゃんと生きていた。かつてのPixarを思わせる大変な力作&傑作
しがない学校の音楽の先生をしている主人公。教員に採用される知らせが届いた時、ジャズの大御所と演奏する機会に恵まれる。わーいと思っていると穴に落ちて、ここはどこ?
話の組み立て方、幻想的な異世界、そこに現れるキャラクターの造形と動き、そして普遍的な「生きるとは」という問いかけ。どれをとっても深く考えられており見事としかいいようがない。奏でられるジャズも素晴らしい。いや、ジャズってちゃんと聞いたことないのだけど、この映画のそれは思わず聞き入ってしまう力があった。同じスタジオが3年後にマイ・エレメントを作ってしまうのだが、その間に何があったのだろう。
こんな力作を、Disney+という小さな世界に閉じ込めてしまうのは経営的にどうかは知らないが、この映画を作り上げた人たちに対する冒涜。短い間でも劇場公開してくれたことには感謝するが、本来もっと早く多くの人に見てもらい評価されるべき作品なのに。
最後はHappy endになるのだが、それは単純なものではない。そもそもHappyとはなんなのだ?彼は結局その後どうするのだろう?しかしそれはどうでもいいことだ、というのが映画のメッセージ。映画館からの帰り道、日差し、風、目に入る風景を見ながらそんなことを考えた。
デューン 砂の惑星PART2:Dune: Part Two(2024/3/17)
今日の一言:砂の惑星で過ごす2時間46分
画面を見ているうち、前作どんな話だったか少しずつ思い出す。主人公はプロレスラー一族に親を殺されたんだった。Spiceが鍵だったことは覚えているが、何の役に立つんだっけ?
などということはどうでもよく、今回もカタカナの固有名詞はさっぱり覚えられないが「なんとなくこういうことであろう」と思いながら画面に見入ってしまった。
青い液体を飲み未来を見通せるようになった主人公。その姿はどことなく進撃の巨人のエレンのよう。彼が見た未来は明かされないが、断片的に映し出される映像はロクなものではない。主人公の元々陰鬱な表情がもっと硬くなる。今作の最後は一見Happy な展開のようにも思えるが、そんな簡単な幸せはないとわかっている。Part3はひどいことになるのだ。
よくよく見れば他の映画でよく見る人が出ている。ヒロインは今作とてもいいなあと調べてみれば、スパイダーマンの相手役の人であったか。雰囲気の違いに驚く。
観ているうちに、Star Warsシリーズとの比較にどうしても頭が向く。この面白さの違いはなんなのだ。Star Wars疲れとか、スーパーヒーロー疲れとか寝言を言っている人たちはこの映画を見て正座すべき。どんなジャンルだろうと面白いものは面白い。なぜ面白いかが説明できないのが歯痒いが。
落下の解剖学:Anatomie d'une chute/Anatomy of a Fal(2024/2/25)
今日の一言:人間
良い人間、悪い人間。スーパーヒーローものなら悪役と良い役の区別は一般的に簡単だが(時々良い役同士で喧嘩したりするが)現実世界の人間は皆まだらや灰色。良いこともすればひどいこともする。
そんな当たり前のことを思い出しながらずっと画面に見入ってしまった。
人里離れた山中にある一軒家。中年女性と若い女性がなにやらインタビューのようなことをしている。しかしどちらがどちらに聞いているのかわからない。背景にはうるさい音楽が。あまりにうるさいのでインタビューは終了する。
その家の子供とおぼしき少年が犬をつれて散歩に行く。家に戻ると父親が頭から血を流して死んでいる。これはどうしたことか。状況からして可能性は二つしかない。父親が投身自殺したか、あるいは家にいた妻が死に関与しているか。
妻は一貫して自分は良い人間だ。潔白だと主張し続ける。しかし状況証拠は彼女に不利で、やがて殺人事件の犯人として起訴される。法廷でさまざまな事実が明らかにされる。
脚本は実によく練られており、その時々で観客の推測を誘導はするが、どちらとも決定的な証拠ではない。妻にとって不都合な真実はいくつも明らかになり、虚偽の証言も暴かれるが、それはそれであり裁判の行方を決定するものではない。
その過程を観客も追体験することで、この家族にどのような諍いがあったのか。それはなぜなのかを考え続けることになる。そして思うのだ。裁判の判決がどうなるかは、この妻にとっては大きな違いだが、それがどうだというのだ。人間は皆クソだという事実を確認しただけではないか。
知っているつもりのその事実をこの映画は丹念に描いてくれる。そして観客の心に何かを残す。お見事
哀れなるものたち:Poor Things(2024/1/27)
今日の一言:Yes, we are poor things
エマ・ストーンとハルクが踊る。流れる音楽は正当な音楽と不協和音が入り混じっており、二人のダンスも見事なステップと本能の赴くままの動きがいりまじって。そして見るものに強烈な印象を残す。
映画全体がそのような調子。舞台は過去のヨーロッパのようでありながら、妙に現代調のところも。エマ・ストーンは最初中身が幼児の女性に見える。彼女がだんだん成長すると変化が。なるほど。身体が第二次性徴を迎えているのに脳が幼児だと確かにこうなるよね。というわけでこの映画にはSexシーンがたくさんでてくる。しかしそれらは全くエロティックとは思えず、「なるほど」と思わされる。考えてみれば男女を問わずSexというのは意思決定に大きな影響を与えているのだが、普段はそんなことはないかのように皆振舞っている。体が大人で頭が幼児の主人公の言動から、そう気付かされる。
エマ・ストーンは映画の間中(心的に)成長を続ける。恵まれた環境の自分とは違う人がいることを知り、涙を流し助けようとするがその「努力」はあっさり無に終わる。確かに子供は一度はこんな経験をするのだろう。そんな彼女に惹かれるハルク。舞台や設定は一見奇妙だが、そこに描かれているのは我々人間という哀れな存在-poor thingsの姿。
けばけばしい空の色は悪夢のようではあるが、現実の世界とどう違うというのか。誰にpoor thingsと言われようが、今ある物で生きていくしかない。そんな当たり前のことを再確認したような気になり映画館を後にする。
キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン:Killers of the Flower Moon(2023/10/25)
今日の一言:クズ人間から目が話せない3時間26分
オセージ族というNative Americanが所有する土地から石油が出て、彼らと彼女たちは世界一裕福な部族になった。働かなくても贅沢な暮らしをし、白人を使用人として使えるようになった。
そしてそれを快く思わない人もいた。部族の言葉を学び彼らの友達になり、そしてつまるところオイルマネーを手に入れようとした人もいた。その黒幕がロバート・デ・ニーロ。彼を頼って現れた元軍人がレオ様。レオ様の演技には感心させられた。彼が演じるのは根は善良だが自分が何をしているか認識する知能がない男。デニーロに言われたとおりなんでもやる。しかしオセージ族の女性を心から愛し、彼女との間にできた子ども達を愛してるのも確か。
要するに善良でバカなクズ人間である。しかしそのクズ人間から目を離せないのはどういうことだろう。時間の経過を一切考えることなく、ひたすら映像に見入ってしまった。Native Americanを「聖人集団」にしていないのもよろしい。ヒロインは確かに賢明で美しいのだが、糖尿病を悪化させる高カロリー白人食を食べているのも確か。そして映画を見ていると思う。近寄ってくる白人男性はオイルマネー目当てのコヨーテだと言いながら結局そいつらの結婚しているではないか。
棺桶代金をボろうとしている男が言う。「オセージ族が働いているのを見たことあるか?俺は真面目に働いているんだ」それも確かなのだ。
これがダメ映画なら20分でサトリモードにはいるところ。しかし「人間というのは、私も含め結局こんなものかもしれないなあ」と思わせるのは監督と出演者の技としか言いようがない。この映画を作った監督にマーベル映画を批判されては「すいません」としか言いようがない。
今日の一言:バービー・ケンという存在
予告編を見た時、ピンク一色の世界で「これで映画として成立するのか」と心配になった。見終わってみればちゃんと考えられた素晴らしい映画だった。
バービーというのはもちろん人間の想像、妄想、都合の産物である。ケンにいたってはそもそも単独で存在し得ない。ではそれらが感情、思考を持ったらどうなるのか。そうした問いに制作者は深く考え絵答えようとしている。安易なフェミニズムに陥ることなく、もちろん「バービーとケンは恋におちて幸せにくらしました」なんてこともあり得ない。
女であれ男であれ「XXでなければならない」社会的圧力は常に存在する。ではそれに反対すればよいのか。真の自由とは、選択とは。マーゴットロビーは整った顔とスタイルをしているが何者にもなれない(スーサイドスクアッドの予告編におけるハーレイ・クイーンを除いて)人だったが、ついにハマり役を見つけた気がする。
そして
何よりも驚いたのはキーになる人物として登場したCheersのカーラ・トッテリことリー・パールマン!まだ生きていたのか。彼女はCheersではとても子沢山のウェイトレスを演じる。ある選択を口にするバービーに彼女はその道に待っているものを見せる。Cheersの役柄を意識しているのかどうか私にはわからないが。
そして最後バービーはImmortalの人形とは違う道を選ぶ。その道には生があり死がある。車を降りる彼女を皆が声援とともに送り出すところ。いや、すばらしい。というかこれほどまでに真面目にちゃんと考えられた映画が大ヒットする、という事実を見る時、世の中それほど悲観したものではないのではないかと思える。
ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE:Mission: Impossible - Dead Reckoning - Part One(2023/7/21)
今日の一言:人生で最も短い2h43min.
トム・クルーズが崖からバイクごと飛び降りるスタントは何度も予告編で見た。というか「予告編が全て」の映画と言ってもいいと思う。なのになぜこんなに面白いのか。
ミッション・インポッシブルである。トム・クルーズは絶対死なないし、この世の中も滅びない。それはお約束である。なのになぜこんなに面白いのか。
カーチェイスという言葉があることは知っている。しかしほとんどの場合私にとっては退屈なシーンである。なのになぜこの映画のカーチェイスでは私までのけぞり顔を歪めているのか。
このシリーズは良い作品、ダメな作品入り混じっているが単なる正統派美人ではない女優さんが出ていることは一貫している。新しいヒロインはただ強いだけでなく、弱さも、普通っぽいところも見事に演じてみせる。あと殺し屋のお姉ちゃんも大変よろしい。あのセリフからしてまたどこかで出てくることであろう。
などと考えていたらあっというまに2時間43分が過ぎた。私より年上のトム・クルーズがあれだけ走って飛んで無茶やっている。昨日までの疲れが残りよれよれ映画館に入ったが、出る時は背筋が伸びていたのは確かである。
スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース:Spider-Man: Across the Spider-Verse - Part One(2023/6/16)
今日の一言:なぜこんな映像を作り上げられるのか、、と思っていたらまさかの前編!
昨日フラッシュをみた。両者ともスーパーヒーローもので、マルチバース。なのになぜここまで出来が異なるのか。
スパイダーマンは常に影を背負ったヒーロー。そしてそれはマルチバースに存在する全てのスパイダーマンに共通する。なぜか。そんな展開を背景にしているが、描かれているのは、恋する少年少女、それに両親と子供の普遍的な物語。
子育てにようやく慣れたと思ったら用済み。このセリフが最近身に染みている。しかしそれは本当にありがたいことだし、単に私たちが幸運に恵まれているからにすぎない。そんなことを考えながら画面に見入る。インド風のマンハッタンとかよく作るよなあ。というかこの映画をぜひ庵野監督に見てほしい。今の時代にリメイクするとはこういうことだよ。過去の映像をそのままなぞって喜ぶのはただのオタクであり、プロのすることではない。
しかしだいぶ時間がたったような気がするけど、まだ話は収束しない、、と思っていたらまさかの
to be continued..
ちょっとまて。この続きをあと何ヶ月も待たせるつもりか。邦画が最近復活させつつある「前後編」には目くじらをたてる私だが、これだけすばらしい映像と物語をたくさん楽しませてくれるのならば文句はない。来年まではなんとしても生きて元気でいようと思う。
今日の一言:こういうのが観たいんだよ!
映画の冒頭から岡田准一が情けない男を熱演する。この演技はやり過ぎてもくどくなるし、かといって普通にやればかっこいい男なので塩梅が難しい。雨の中飲酒後に母が危篤と聞き、病院に急ぐ。電話からは「お前がやってることが表にでてるぞ」と上司から電話。ちょっと待ってと言い返すその前にいきなり女が!避けたと思ったら
というところから彼に「ひどい出来事」が降り注ぎ続ける。監察官と対面しおしまいかと思えば、あれ?これでいいの?と思うともちろん話はそうはすまない。
やりすぎと過小、コメディと真面目の境界線上を映画も出演者も走り続ける。監察官の「ああ、やられた」と気がついた瞬間、しかし「満場の注目を集めている中でそれを表に出すわけにはいかない演技」がすばらしい。かと思えば、内閣官房長官!こんなところで何やってるんですか。
映画が終わった後私の後ろにいたカップルが「ドリフかよ」といった衝撃シーンも登場し、私は「これをどうやっておしまいにする気だ」と考えながら画面を見続ける。美しい朝日を浴びながら、涙を流して感動に落とすかと思ったらやはりそうはならないのであった。
韓国映画が原作とのことだが、5chを読む限りそこから大幅に脚色されているらしい。そうだよ。「日本中が感動に涙する」はどうでもいい。こういうのが観たかったんだよ。
今日の一言:人間というどうしようもない存在
ケイト・ブランシェットが演じるのは天才指揮者。指揮だけでなく、さまざまな方面の才能を持つことが映画の冒頭「対談」という形で語られる。
この「対談」はかなり長く続き、その間舞台は文字通り舞台を離れることがない。なのに観客たる私は退屈しない。まずそのことに驚く。
ターはジュリーアードで講義を行い、ベルリンに戻れば娘の母であり、ベルリンフィルらしきオーケストラの常任指揮者でもある。しかし過去に実在のアーティストがそうであったように、抑えきれない自分の欲望も持っている。
この映画は説明を極力抑え、観客に考えさせる。映画の終盤までその姿が全く現れないクリスタとはどのような人物なのか。それがだんだん明らかになっていく。そしてターはその立場を追われる。
ここでもほとんど説明はされない。安っぽいタクシーの料金を自分で払い、古ボケた屋敷に一人戻るターの姿を見て観客は考える。何があったのか、と。そして場面はいきなり東南アジア(どの国かは明示されていない。フィリピンがモデルと思しきセリフはあるが)に飛ぶ。
クラシックの世界的なオーケストラを率いていたターは東南アジアでゲーム音楽の演奏会で指揮をしている。最初私は
「ああ、都落ちか。しかしこのオチはちょっと弱いかな」
と思っていた。
しかし
某掲示板で紹介されていた監督のコメントを読み評価が百八十度転換した。
確かに舞台は東南アジアであり、現地のおそらくベルリンフィルからは数ランク落ちるオケであり、ゲーム音楽だ。しかしその国の人はターにちゃんと敬意を払っている。そしてターも「あたしも落魄れたものね。。まあ適当にやっておくか」というそぶりは微塵も見せない。オケに向かって「作曲者の意図は」と語り始める。(作曲者は事前打ち合わせに来てくれなかったけど)
そう思えば
今我々がありがたがって聞いている「クラシック音楽」が当時今のゲーム音楽と同じようなものだったかもしれないではないか。そしてターは同じような熱意をもってそれに接している。観客はコスプレまでして演奏と映像に見入っている。
よく言われることではあるが、よく忘れることでもある。人間は100%善でも100%悪でもない。賢いところ、恐ろしく愚かなところ、良いところ、悪いところが入り混じったものが人間。その当たり前の事実を思い起こした時、ターという存在がまさに血の通った人間となった。そしてそれを見事に映像化した人たち、主演のブランシェットに拍手を送りたいと思ったのだ。
今日の一言:生きよう
主演はビル・ナイ。Love Actuallyで裸でギターを弾き歌っていたじいさんである。
彼は市役所に勤める公務員。市民からの陳情を盥回しにし、後回しにし、消えるのを待つのが仕事。そんな彼は医者から余命6ヶ月と宣告される。
その時どうすればいいのか?物語の舞台は1953年。癌を本人に告知することすらタブー視されていた時代。彼は彼なりにいろいろなことを試みる。そして人との対話の中で彼が見つけた「生きる」こととは。
時間を気にせず画面に見入ったのは久しぶり。最初座席にだらしなく座った私の姿勢は最後にはピンとしていた。それとともに祖父母の家の近くにあった小さな公園を思い出した。誰か人物の愛称がついた小さな公園。それは確か地元の政治家というか少なくとも立候補はしていた人の作った公園だった。彼が政治の道を断念したとき公園の名前は変わった。
しかしあの公園にもきっといろいろな人間の物語があったのだろうなあ。その公園も今は存在しない。それでいいのだ。きっと。
そんなことを考えながら映画館を後にする。この映画に描かれていたようにそれで人間の行動が変わるとも思わないが、少し立ち止まって考えることはおそらく良いことなのだと思う。
トップガン マーヴェリック:Top Gun: Maverick(2022/5/28)
今日の一言:脱帽
トップガンである。トム・クルーズである。そして予告編から予想された通りのことが起こる。トムだから最後はハッピーエンドである。全ては予想通り。
なのにみ終わった後のこの疲労感、そして感動は何なのか。そもそも役者を後席とはいえジェット戦闘機に登場させ、空母から発艦までさせるとは正気の沙汰ではない。しかしその狂気をちゃんと実行し、CGでは決して作り上げることのできない映像にしてみせる。例えばTENETで実際にジェット旅客機を吹っ飛ばして見せられても「あーはいはい」と思うだけ。しかしこの映画でパイロットの顔面が歪んでいる時、観ている私の顔も歪んでいる。
しかも
その「狂気じみた撮影手法」はあくまでも手段にすぎない。男女のラブシーンとか恋愛要素は必要最低限にまで切り詰められている。
本作を見た後、オンラインで公開されていた前作の冒頭10分を見た。「ああ、スタジオで役者が演技しているな」としか思えない空中戦シーン。続編を作る意味はなんなのか。それをとことん考え突き詰めた結果がこれ。「当たり前の話」をこれだけ面白い映画にしてみせる。その覚悟と実行力には脱帽以外の言葉がない。
こんなに観て疲れた映画は始めて。そして一息入れて思うのだ。私の生き方はどこか間違っている。小賢しい理屈を振り回しうじうじ考えていて何ができたというのか?まさかトム・クルーズの映画をみて自分の人生について考えさせられるとは思わなかった。
今日の一言:嬉しい驚き
世界的に有名な歌姫が普通のさえない数学教師にいきなりプロポーズ
古から洋の東西を問わず繰り返されてきた「スーパースターと普通の人の恋愛物語」いや、もちろん今でも傑作と思う作品はあるのだが、こういう
「あの素敵な芸能人と付き合えたらなあ」
なんてのは中学生までの妄想だと実感する年齢でもある。芸能界という虚飾の裏にあるものをいやというほど見せられ、顔の配置がどうであろうと話が合わない相手とは一緒にいて苦痛だということも実感し、相手を求める衝動も失せてきた疲れた男にこんな話が面白いと思えるわけない。
などというひねくれたスタンスの人にもおすすめできる意外な良い映画だった。そもそもの「ステージの上で世界的な歌姫にいきなりプロポーズされる」ところで普通の人間なら逃げ出す。しかしそこでなぜYesと答えるかがちゃんと映像で描かれる。何もわからないまま臨んだ翌日の記者会見も見事。
つまりこの映画では主役の二人がとーっても頭が良く、しかもほぼ完璧にいい人なのだ。とはいいつつも、ちゃんとそれなりに文脈を踏まえお話は進んでいく。歌姫が小学校のクラスに突如現れるところで、最初に馬鹿な質問をする男子がいるのもリアルでよい。その後の話の展開はもっと見事だが。
ジェニファーロペスという人は名前とハスラーズにでていたことしか知らなかったが、歌、踊り、演技どれも素晴らしい。コンサートのシーンでは身体中に鳥肌が立っているのを感じる。
21世紀も二十年たってからこのテーマを取り上げようと思えば、これだけ考えた脚本を作らなければね、と考え実行した製作陣に敬意を払いたい。欲を言えば、最初の「親父の愛情のウザさ」がちょっとしつこかったのと、あと二人がいい人すぎるところ。「ノッティングヒルの恋人」くらいちょっと欠点がある主人公でもよかったかな。それを言うともう一段ハードルが上がるけど。
THE BATMAN-ザ・バットマンー:The Batman(2022/3/13)
今日の一言:前に進もう
私が観たものだけでも何度目かわからないBatmanのリブート。この映画には超人がでてこない。確かにブルース・ウェインは卓抜した格闘術を持ち、強力な防弾チョッキを着てはいるが普通の人。それは悪役も同じ。
そうしたリアルさがあるゆえに「いつものゴッサムシティの退廃ぶり」も観客の心に迫る。バットマンも何でもかんでも助けるわけにはいかない。そして自分がやっていることに意味があるのかどうかもわからない。それでも戦いを続ける。
選挙戦を戦っている現職の市長が何者かに殺される。次には警察のお偉いさん、検事。犯人-リドラー-はビデオだけを残すが正体がわからない。なぜ犯罪を続けるのか。父が計画していた慈善事業は何故関係するのか。彼を追う過程で、ブルースは自分の父親がどんな人間だったのかを知る。
「罪を犯したことのないものだけが石を投げなさい」と言ったのはイエスのあんちゃん。ブルース・ウェイン、それに観客はこの言葉に直面する。ううむと思っているとリドラーがあっさり捕まる。
「ちょっと待て、これでは映画が終わらないではないか」
と思う。そして実際そこでは終わらない。リドラーは牢屋にいても街を破壊できるのだ。銃を持った一般市民がたくさん彼を助けてくれる。アメリカを模したゴッサムだと確かにあんなことが起こりうる。
彼らと戦い、傷つき、それでも被害者に手を差し伸べ灯りをかかげ一歩ずつ歩むブルース。おそらく自分は罪とは無縁ではないことを知っている。しかし復習の連鎖は悪化していくだけ。人には希望が必要なのだ。悪を倒したヒーローではなく、救助活動を献身的に行うヒーローとしてバットマンが紹介される。その姿は今の世界情勢を見る時とても心に残る。
バットマンというヒーローを扱いながら、人間をちゃんと描き、ジョーカーのように破壊に陥ることなく希望を描いてみせる。この力量には感服した。彼の地にも遠からず希望の火が灯ることを。
などと考えながらエンドロールを眺める。あれ?コリン・ファレルどこに出ていた?さらにエンドロールを見てびっくり!あのペンギンが!
ウエスト・サイド・ストーリー:West Side Story(2022/2/19)
今日の一言:至高の芸という暴力
実は前作は見ていない。しかしダンスシーンは何度も目にした。
その作品をスピルバーグが作るという。どんな作品になるのか。
最初のダンスシーンでのけぞりそうになる。なんだこの踊りは。私は踊りに全く関心がない人間だがこの芸はなんだ。そして歌。特にマリアの歌声には鳥肌が立つ。
取り壊しが始まっている街。そこで白人とプロルトリコの若者が喧嘩をしている。両方ともゴロつきだし、愚かな争いばかりをしている。それはあたかも滝に落ちる寸前の木片の上で争っているカマキリのよう。
しかし
この映画を見ていると思うのだ。我々だってそんなに賢明な判断をしているわけではない。それどころかもっとバカかもしれない。やっていることがこれとどう違うというのか。
兄を殺されたことを知ったマリアはまだベイビー・ドライバーと愛し合う。これを愚かということもできるが、人間所詮馬鹿じゃないか。ただ画面に見いる。歌、踊り、演技、ストーリー。全てが至高の域に達しており、見ている私は鳥肌が止まらない。
スピルバーグはこのトニー役の役者を知っていたが、歌って踊れるとは知らなかったらしい。というか、アメリカの芸能界のこの芸の広さはどういうことか。私が唖然としているうち映画はエンディングを迎える。半ば呆然と映画館を後にする。
今日の一言:正面からぶんなぐられて泣きました
漁師の一家に生まれた女の子。家族で彼女だけ聾唖者ではない。彼女は歌の才能を先生に見出される。彼女は歌いたい。しかし一家の生活は苦しく、彼女の力が欠かせない。
彼女がボーイフレンドといちゃいちゃしているとき、家族の漁船は危機に陥る。だからといって彼女は一生家族の通訳として過ごさなければならないのか?大学に行って歌を学んではいけないのか?そうした問題に対して、逃げることなく、茶化すことなく、深刻ぶることなく、実に真っ当に正面から描く。
音楽クラスの発表会。ちなみにここにでてくる生徒たちの歌の上手さは日本の芸人の95%が裸足で逃げ出すほどである。彼女とボーイフレンドのデュエットのところで、不意に音が消える。観客は耳が聞こえない父親の立場に置かれる。父親が彼女の歌の素晴らしさを感じる表現はかけねなしに素晴らしい。
多くの名画がそうであるとおり、この映画はさまざまな条件を超え、与えられた環境を受け入れながらなんとか前に進もうとする人間の普遍的な姿を描いている。これだけ正面切って描かれては観客たる私はぐうの音も出ない。ただ最後には涙を流す。お見事
マトリックス レザレクションズ:The Matrix Resurrections(2021/12/19)
今日の一言:想像力
三作で完結したはずのMatrix.機械と人間の間に和平が成立し平和が訪れたはずだった。主役は二人とも死んだはずだった。
映画の冒頭第一作のシーンが再現される。それを新しい登場人物が見ている。これはどういうことか。
NEOがでてくる。いや、この物語ではトーマス・アンダーソンと呼ばれることが多いか。彼は世界的なゲームデザイナー。その上司というかCEOと思しき人物が顔が変わったエージェントスミス。彼が「ワーナーブラザーズから新作の依頼があってね」というころは一瞬「は?」となる。しかしちゃんと話はつながっている。
てんこ盛りのカンフーアクションも健在。しかも見ていて飽きない。新幹線のシーンでは日本人がちゃんとマスクをしているのも笑える。しかしこれ一体どうやって話を決着させるのか。当惑しているとカーアクションも交えきちんと収束に向かっていく。
元の3部作もそうだったが、完璧と思われるシステムの中に「必要」なアノマリティ(異常性)が一つのキーワード。それとともにレボリューションズではいささかおざなりになっていた人間の物語もきちんと描かれる。この映画の主役はどちらかといえばトリニティか。年を重ねた顔が美しく描かれる。文字通りのLeap of faithの場面では(冷静に考えればここで死ぬわけないと知りながら)鳥肌がたった。
全3部作をきちんと踏まえた上で新たな物語を紡ぎ結末を迎える。この力量には素直に驚く。よい体験をさせてもらえました。
#エンドロールの後のシーンは一体なんなんだ?面白いけど。
ミラベルと魔法だらけの家:Encanto(2021/11/27)
今日の一言:ディズニーの完璧主義再び
三つ子を抱え故郷を追われた若夫婦。途中で夫は殺されるが、その時妻に奇跡がプレゼントされる。魔法でコンロンビアの奥地に家を作り、一族は代々ある年になると魔法の力を持つようになった。主人公を除いては。どうしてあたしにだけ魔法がないの?ところがその家自体に危機が迫っていた。
ベイマックス と ズートピアを思い出した。全てのシーンに信じられないほどの工夫が詰まっている。予告編でも使われた主人公の姉が周りに花を咲かせるシーンなど驚くしかない。
主題は「生きているその事自体が奇跡」。自分の子供や自分のことをふと立ち止まって考える時、私も考える普遍的なテーマ。それを見事なミュージカル映画にしてみせる。惜しむらくは英語特有の同じフレーズの繰り返しをうまく日本語の歌詞にできなかったことか。
しかしそれは些細なこと。主人公は決して美人ではない。しかし映画が進むにつれて彼女はAttractiveに感じられるだろう。最後に魔法が復活しなくても話は十分成立していたように思うが、まあそこは問うまい。
そうした些細な点を除けば文句のつけようのない脚本。映像、動きに歌。エンドロールを見ながら唖然とし悔し涙(いや、私は映像製作者じゃないんだけど)が滲むのはベイマックス以来か。
DUNE/デューン 砂の惑星:Dune(2021/10/23)
今日の一言:頭はおいてけぼり。目は釘付け
名前だけは聞いたことがあるDUNEという映画。予告編を見ると題名通り砂だらけだし、あんまりアクションもないし、これどうなんだろう。
アメリカでの評判は良いみたいだけど、日本での評価は今ひとつ。はてどういうものかと観にいった。
砂漠から香料が産出される惑星。皇帝はきまぐれにその惑星を支配する「家」を切り替える。もともと砂漠に住んでいた人たちにはただの迷惑である。主人公は新しくその砂漠の管理を命じられた家の長男。その父親が私が愛するオスカー・アイザック。立派な父親兼家族の長を演じてくれる。
さて、皇帝にとってどの家族であってもあまり強力になるのは好ましくない。というわけで惑星を前に支配していた家とアイザック家を争わせることにより弱体化を図る。突然皇帝の支援を得た旧家が攻めてきて、アイザック家はコテンパンにやられる。頼れるアイザック家の武将がアクアマンにアベンジャーズの敵役サノス。この映画を見ていると「を、この人が」とどこかで見たことがある人ばかりがでてくる。
かくして主人公は母親のレベッカ・ファーガソン(ミッションインポッシブルのお姉さん)と砂漠に逃げ出すことになる。そして砂漠の民ととりあえず仲良くなったところで一作目は終わり。
そうなのだ。映画の冒頭Part1とでていたように、この映画1本では解決しない。おまけによく知らないなんちゃらかんちゃらという単語がたくさんでてきて見ている方は混乱する。最初に書いたように舞台の背景はほとんど砂漠であり、彩にも乏しい。おまけに映画の長さは2時間35分もある。Star Wars的に派手にビームが飛び交うこともなく、剣技は必要最低限。素晴らしく引き締まっているが派手さはない。
なのに
この面白さはどういうことか。ブレードランナー 2049の監督ドゥニ・ヴィルヌーヴはここ数十年のスペースオペラとは全く違う方法で素晴らしい映画に仕立て上げた。砂漠の美しさ、過酷さ、そこで生きる民の息吹き。そうしたものが画面から伝わってくる。え、今の単語何?と頭は混乱し続けながらも、目は画面に釘付けである。
これ作っといて続編作らない手はないでしょう。特に主人公の男優がふけると容貌変わっちゃうかもしれないから、早く作ってくださいよ。
今日の一言:爆発する想像力と深く真面目に考えられた脚本
ライアン・レイノルズことガイがゲームの中のモブキャラ。(英語ではNPCだが)彼は毎日同じ行動を繰り返す。銀行に出勤すると必ず銀行強盗がくる。床に伏せ友達とおしゃべりする。
そんな彼の日常はある女性を見かけたところから一変する。あの女性に話しかけたい。そのためにはサングラスが必要?サングラスをかけてみると。
というわけで、ゲームの中と外で人々の物語が進む。そもそも「あの女性」がなぜゲームをしているかといえば、彼女のパートナーと開発したゲームが不当に奪われ、できあがったのがこのゲーム世界なのであった。なんとか奪われた証拠を探さなければ、と奮闘する。その過程でガイと言葉を交わすようになり。
彼女と出会ったことにより独自の行動を始めたガイ。彼の呼びかけによって独自の行動を始めるNPC達。なぜそんな行動を始めるかといえば、ちゃんと説明がついている。「人工知能」の詐欺的主張にはめくじらをたてる私だが、「いやいや映画だから」と流せるくらい、ちゃんと考えられている。プログラマーとしては、タイカ・ワイティ演じる社長が自分で作ったキャラクターのセリフにところどころ「未設定」とか「決め台詞」とかはいっているのがツボにはまる。「現実世界」の私は声をあげて笑う。だからタイカ・ワイティが物理的にサーバーを破壊すると、うまい具合に仮想世界が破壊されていくとことか文句をつけないよ。
このゲームの中のキャラクターは、確かに「外の世界」によって作られたもの。しかしその上で自分たちの道を見つけようと努力する。ガイが親友に「この世界は現実じゃないんだ」という。親友は
「今僕は親友を助けたいと思って話をしている。これがリアルじゃないとすれば何がリアルなんだ?」
と答える。思わずはっとする。考えてみれば、私たちも同じようなものではないか。与えられた条件に制約されているが、実は生き方、一瞬一瞬の行動は自分で選べる。しかしそのことを忘れ同じ日を繰り返し下を向いて自分の境遇に文句を言い刹那的な享楽で誤魔化し時間を浪費する。
この映画を観て考える。そうしなければならない理由はない。NPC達のように「配られたカード」を理解した上で勝負をすることもできるのだ。そう思えばこれはまさに普遍的な人間の物語。
このゲーム内世界と外の世界の物語は交わっている。そもそもガイがなぜ女性に惹かれたかといえば、それは「外の世界」の愛が溢れたものだった。どうやってそれぞれの話をまとめるのかと思えば、ゲームの外と中で「人間」たちはそれぞれの生き方を選択し進んでいく。
エンドロールに流れる大勢の人の名前を眺める。この人たちも、そして私も皆NPCなのだ。そんなことを考えていると自分の目に涙が浮かんでいることに気がつく。
調べてみれば監督はナイトミュージアムの人だったか。ディズニー傘下ならではのネタにも大いに笑わせてもらった。笑って泣いて考えさせられる贅沢な時間を体験できた。お見事。
今日の一言:こんな戦争映画もあったのか
題名は昔から知っていたが未見。知人に推薦され「まもなく見放題が終了します」の字幕にせかされAmazon Primeで鑑賞。
第2次世界大戦中の中国戦線。そこに曰くありげな新聞記者がやってくる。彼の目的はなんなのか?独立愚連隊というからいわゆる「企画外」の兵隊ばかり集めた変な部隊の物語かと思ったら違った。確かに愚連隊はでてくるのだが、主眼はそこではない。そもそもこの「新聞記者」の目的はなんなのか?
テンポよく話が進み思わず画面に引き込まれる。それとともに「今はこういう映画は作れないんだろうな」とも思う。やれ慰安婦の描き方がどうだとかやれ中国兵の描き方はどうだとか(中国兵の描き方は公開当時も議論があったようだが)何よりも、わたしの記憶にある限り昨今こうした「戦地における普通の人間の物語」はつくられていないように思うのだ(この世界の片隅にを除いて)戦争映画といえば、特攻隊であり、その関係者であり、とにかく「悲惨な物語」で反戦を訴えなければならぬといった枠がはまってしまっている。
この映画に描かれているのはそんな紋切り型の物語ではない。およそ戦争の行方を左右するような戦線でなくても人々は生きている。手榴弾と引き換えに中国人から酒をもらう前線の兵士。閉鎖された環境でしかも定義によって全員が銃を持っている。この環境で「正しさ」とどう付き合えばよいのか。
「不正」を働く側も「こんな軍票、そのうち紙屑になる」と悟っている。主人公の目的が達成されても、命令は生きている。最後には中国、日本兵の死体の山ができるが、それは戦線全体になんの変化も及ぼさない。北支前線異常無し。これほど戦争について人に考えさせるシーンがあるだろうか。
そう考えればこの映画に描かれているのは、理不尽さと向き合いながらひたすら生きている人間の姿でもある。もっとこういう映画が見たいのだ、と思ってもこの映画が作られたのは数十年前か。
今日の一言:二人のエマ
ディズニーの映画を作ることは制約との戦いと思う。101匹わんちゃんにでてきた悪役クルエラ。アニメではタバコをふかしていたが、今やディズニーでは喫煙はご法度なのだそうな。だからこの映画ではタバコのタの字もでてこない。他にもいろいろディズニー禁止事項はあるだろうが、それを順守した上ですでに確立されているイメージを壊さず現代の観客に受け入れられる作品にしなければならない。
この映画はその難題に正面から取り組み、少なくとも私をノックアウトするほどの見事な世界を作り上げた。謎の人間との対話中に母親は崖から転落死する。一人になった少女エステラはロンドンでなんとか生き延びる。デザイナーとしての才能をひょんなところから有名デザイナーに見染められ...
この有名デザイナーがエマ・トンプソン、主役がエマ・ストーン。二人のエマの演技力と存在感が炸裂する。エマ・トンプソンのお付きのような地味な男がいるがどこかで見たようなと思えばマーク・ストロング。なぜこんな地味な役をと思えば、やはりちゃんと見せ場がくるのであった。
私のような年代の人間には涙がちょちょぎれるような七十年代ロックの名曲にのせて映画はテンポよく進む。二人のエマに関わるある秘密が明かされたとき「それで腑に落ちた」とクルエラのサポート役が言う。観客たる私も「なるほど」と思う。そしてオチの付け方もまさしくディズニーである。この映画では必要最小限の人間しか死なないし、動物も虐待されない。それでちゃんと物語を成立させてしまうのだから、こちらは驚くしかない。
現在デザイナーの頂点にいるエマ・トンプソンとそれを打ち壊すパンクムーブメントを体現したエマ・ストーン。私はおよそファッションデザインとは程遠い世界にすんでいるのだが、クルエラとしてのエマ・ストーンの姿には驚いた。衣装が美しいし目を引く。さらにエマ・ストーンは衣装に負けない存在感を発揮する。クルエラはヴィランなのだが、それでも観客の心を掴むようなキャラクターでなければならない。それを達成した脚本家、監督、エマ・ストーンには感嘆の他ない。確かにヴィランであり、確かに美しい。
ぐうの音も出ないとはこのことであり、私は頭を振りながら映画館を後にする。この映画はおそらくこれから何度か見ることになると思う。
注釈