題名:YZ姉妹(1章)

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日付:1998/1/25

まえがき  1章 2章 3章 おしまい おしまいの後に 4章 終章 蛇足編 あとがき 追加編 あとがき+登場人物のその後


1章 : KT & OS

 

 初めてYZ姉妹が私達某課の男の子達とかかわりを持つようになったのはいつであったか。あれは確か某主務と某主任の送別会があった後であったので、多分4月ごろであったろう。

その日難無く1次会が終わって、それから若いもので、紆余曲折の論議の末、ケントス に踊りに行くことになったのであった。メンバは、OS、KT、IK、KZ、大坪、AY、S(♂)、あとは誰だったかな。ケントスに入って踊ったり、飲んだりと適当にしている内にチークタイムになった。じつにケントスにはたくさんのチークタイムがある。この日は私達が帰るまでに4回あった。そしてケントスでは見知らぬ同士でも結構チークが踊れてしまう ことで有名である。

この時IKは1回目のチークタイムの後に鼻血を吹いてひっくり返っていた。チークタイムなんか僕には縁がないのさ、などといじけていたが、皆にさとされて、2回目からは踊れるように善処するとはりきっていたのが私であった。2回目のチークタイムには、前よりもたくさんの男の子が踊ることができた。私はと言えば、一瞬音楽が静かになったなと思って、吾に帰ったときにはもうすでに踊る奴は踊っていたし、踊らない奴は踊っていなかった。つまり私の相手はどこにも見つけられなかった。

3回目には、私の前に、後にティーチャーYZと呼ばれるようになるYZ姉が立っていた。私はこれはチャンスと思ったが、一瞬「まてよ。こいつはさっきからKTと踊ってたねえちゃんじゃねえか?」と思ってちゅうちょした。そのわずかな隙をぬって、私の半歩後ろにいたKTが私をだしぬいて、またもティーチャーYZと踊り始めたのであった。席に戻るとあぶれた男の子達がぶつぶついっていた。この時点までに、我々は様々な偵察行動を行い、ティーチャーYZが男4人、女4人のグループで来ていること。そのグループには、ろくな男はいないこと、などを突き止めていた。これなら勝てるかも知れない、しかし鍵を握って、楽しくやっているのはKTだけである。その欲求不満がKTに向けられるのは当然のなりゆきである。我々はKTに電話番号を聞かなければただではおかないと通告したのであった。

 ここで本当に電話番号を聞いてしまうのがKTの偉大な所である。じつに彼は最後のチークの時に「電話番号教えてよ」「また会えたらね」「そんなこといわずにさ」と粘って、ちゃんと聞き出していたのであった。その翌日にはもう電話していたのである。

 KTによれば、最初に電話したときに実に1時間もしゃべってしまったそうである。そして彼は「最初にティーチャーYZと会った男」という栄誉を長く維持することになった。

何曜日であったか忘れたが、栄で会社の帰りに会ったはずである。それまでKTは通称電車女ことミホちゃん一筋と称していたのだが、ティーチャーYZがでてきた途端に、ミホちゃんは単なる友達であるなどと言いだした。また私は、彼の得た幸運は合コンを行うことにより、公共の利益に還元すべきだと主張したのだが、彼はあまり乗り気ではないようだった。

 KTがティーチャーYZと会った翌日の会話

「やっぱり僕にはミホちゃんしかいませんよ」

おまけにいきなり合コン実現に協力的になった。なにが彼の態度の豹変の背後にあったか知らないが。。

 しかしKTの思惑は別として、それまで一人住まいの先生と聞いただけで鼻血を吹きそうになっていた私としては、私自身の都合を考えねばならなかった。2回目の渡米が目前に迫っており、もし機会を逃すと私は1箇月以上先までティーチャーYZの顔が見れないことになるのである。仮に見れるとしても運がいい場合にのみである。1箇月先までお話しが続いていることをだれが保証してくれるのだろう。確実な方法は私が渡米するまでの2週間以内に宴会を行うことである。私がKTにかけたプレッシャはひとかどのものではなかった。

 その宴会の予定があっさり決まって、渡米の前の週の金曜日となった。確か待ち合わせ時間は8時ごろであったような気がする。その時間にならないと女の子が集まらないんだそうである。私達−大坪、KT、OS、S(♂)はわくわくしながら待ち合わせ場所である日産ギャラリーに向かったのである。ところが、私達が来たのに女の子はなかなか来ない。そのうちどこかで見たような二人連れがいるというのでS(♂)が声をかけてみたら、なんとティーチャーYZの双子の妹、後にナース1号、ナース2号と称される姉妹であった。だって顔がよく似てるんだもん。ありゃわかるわな。少し遅れてティーチャーYZと後に南洋(にいれば)美人(だったのになあ)と称される南洋美人がきてメンバがそろった。そこで宴会場所である白札屋 に向かったのである。

 白札屋での席順は私が片方の列の一番端、正面は南洋美人、左隣にはナース2号、その正面にKT、あとの4人の配置は覚えていない。但しティーチャーYZは私と反対側のサイドだったことは確かである。 乾杯とかなんとか言った後に宴会となった。この時は、私側の4人と向こうの4人に別れて主に話をしていた。私は席の配置からして、南洋美人となかよくせざるを得なかったのである。ただし2ショットは避けたかったので、KTもまきこんで4人で「KTと私とどちらがすけべに見えるか?」という点について真剣な論議を交わしていたのである。(このときの結論はなんと、「二人とも同じくらいすけべそう」であった。)

しかしこの会話の最中にナース2号から、やれ女体盛りだのこんぶだの、私が聞いたこともないようなセリフがぽんぽんでてきたのには正直言ってびっくりした。ナース2号の結構かわいい顔からそういうセリフをきくとは誰が想像したであろう。

 このときは始まりが遅かったので、女の子は一次会でさようならであった。それから男の子だけでどこかの居酒屋に行ってお話しをした。その結果をまとめると、(1)KTはナース2号が気に入った。(2)OSとS(♂)はナース1号が気に入った。(3)私は強いて言えばティーチャーYZが気に入った。というような話であった。その日結構酔っぱらっていた私は、KTにティーチャーYZの電話番号を聞いて、いきなりティーチャーYZの留守番電話に「いやーどうも合コンしてくれて有難う」などと吹き込んでしまったのであった。

 その翌日にも私はティーチャーYZに電話をした。「いやー、昨日は酔っ払って変なこと吹き込んじゃってごめんなさい」ってなのりである。この時、ティーチャーYZはやたらと私達の間での女の子の評判を聞きたがった。私は細心の注意を払いながら事実を述べた。ここで注意しなければならなかったのは、南洋美人がよいとは誰もいわなかったことを、どう表現するかである。まあなんとかしゃべったわけだ

 この後、私はアメリカに行ったので、その間の一箇月の状況は知らない。ただし合コンが終わった時点で、OSが自分の大学の学園祭に誰かを誘うとか誘わないとか言っていたことは覚えている。

 一箇月後に私が職場に戻ってみると状況は一変していた。OSは周りから「幸せ君」と呼ばれてやたら機嫌がよかった。ことの次第を聞き出してみると次のような事情であった。OSはまずティーチャーYZを学園祭に誘って、なかよくなったところでナース1号の電話番号を聞きだした。(KTの語るところによると、ティーチャーYZはこの時「みえみえじゃん!」と言ったそうである。しかし誰がOSの行動をとがめることができよう。)熱き血潮の燃えるOS君が電話をして、ナース1号と1時間半もしゃべったのは私が帰国する直前だったのである。当時の様子を某課の人間は皆よく覚えている。KTの言葉によると「OS君は何をしてもにこにこしていた。」キャサリン伊藤に言わせると「OSさんよかったね」と声をかけると「うん、うん」と本当に嬉しそうに笑いながらうなずいていたそうである。まさにOSの絶頂期であった。

 ところがこの幸せも長くは続かないのである。

 私がティーチャーYZに電話をしたのは、翌日かその次の日であった。まあ帰国後のご挨拶という感じである。このときにOSの話をすると、ティーチャーYZは「あのこ(ナース1号)は手強いよー」と言った。

 不安を感じた私は翌日OSの所に行って、「ナース1号は手強いそうだよん」と言った。OSの答えは「大坪さん。彼女は手強い」であった。細かな交渉経過は誰も知らない。ただしその後の交渉が手づまり状態になっているであろうことはその言葉から想像するに難くなかったのである。このころからOSは「不幸の青年」と呼ばれるようになる。最初はみんなでからかおうと思ったのだが、OSの態度の落差があまりにも大きかったために、からかうのもはばかられるほどであった。ところがぎっちょん、この時某課で局所的にはやっていた遊びというのが「すみ」なる遊びであった。 本でも机でも、隅の部分を指差して、「OSさん、これは」と言ってOSをいたぶるのである。(いうまでもないが「すみ」とはナース1号の本名である)

 私はこの時点までOSという人間を誤解していたことを認めざるをえない。彼は、私が思ったよりもずっと女の子のことに関しては一直線なのであった。私は自分と同様、尻の軽いにいちゃんかと思っていた。

 このことと前後して、(あるいはもっと前からかもしれない)ナース2号が婚約中の身であることも判明していた。そしてこのお話しからOSとKTの名前はほとんど消えてしまうのである。(もっともKTのほうは、IKと私が「ライバルじゃん」とか言って遊んでいたときに「僕もライバル」とか言っていたけれども)

 

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注釈

難無く1次会が終わって: 「難なく」と書いたが、このころの某課の宴会の常として、決して何も無かった訳ではない。主任になったばかりのY主任は、いきなり「快傑ハリマオ踊り」を始めて、課長をして「えらいやつを主任にしてしまった」と嘆かせていたし、TGとIKは「よかちん踊り」をやって、別の席のお客さんからも大ウケであった。おまけに気がつくと主賓であるべき某主務は、知らないうちに早ばやと帰ってしまっていたのだった。本文に戻る

 

ケントス: 生バンドつきでなぜか踊れてしまうお店。ここのケントスは、中日ビル裏の方である。本文に戻る

 

見知らぬ同士でも結構チークが踊れてしまう: 実際そうなのだが、なんとなくチークを心待ちにしているような「おばさん」がいることも忘れてはならない。「へっへっへっ」と思って踊っていると相手は、結構お年を召した方かもしれない。本文に戻る

 

男4人、女4人: このときに来ていた男の先生は、全員既婚者だったそうである。また女の人のなかには南洋美人も含まれていたらしい。本文に戻る

 

KTだけである: 結局KTは4回あったチークタイムで、4回ともティーチャーYZと踊っていた。おまけに何回目かのチークの時に、男の先生のうちの一人から「まずいんじゃない」ってなことで、妨害が入ったのだが、二人ともどこ吹く風で踊り続けたのである。本文に戻る

 

ちゃんと聞き出していた:すんなり書いてあるが、当然のことながらこの場合、KTは何の筆記用具も持っていない。聞き出した電話番号は全てKTの記憶によるものである。バンドの演奏がガンガン響くなかで聞いた、記憶だけに頼った電話番号であるが、結果はみごとに正解であった。本文に戻る

 

会社の帰りに会ったはずである:この時については、二つのエピソードが知られている。一つはティーチャーYZが「生徒に会うとまずいなー」と先生らしい心配をしていたこと。もう一つは、初めてKTと会うにあたって、信頼できる友達に「実はかくかくしかじかで、明日KTさんと会うんだけど、もし私に何かあったらこういう事情だからね」と万が一の場合のそなえも怠っていなかったことである。本文に戻る

 

電車女ことミホちゃん: KTは車がこわれていたときに電車で通勤していた。いつも同じ車両に乗るかわいい女の子に気がついたKTは、車が直って電車は今日が最後という日に、電車の降り際にいきなりその女の子にLove Letterを渡した。なんとこれが見事に成功し、一時結構なかよくしていたのである。これが電車女の語源である。「システムKT」又は「キッチンKT」という言葉も、このミホちゃん関連で生まれてきた言葉である。初めてのデートでいきなりシステムキッチンを見に行った、と聞いた私達は、これは女の子は完全にその気であると噂しあったのであった。本文に戻る

 

合コン:トピック一覧)当時はこうまじめに考えていたが、KTの立場から見れば、相手が気に入った時にわざわざ合コンやって、ほかの男にうばわれる危険を冒すなんてのは愚の骨頂だろう。本文に戻る

 

金曜日となった: 合コン前に、相手のメンバを聞いて、4人のうち2人教師で、2人看護婦。おまけにそのうち3人は姉妹だと聞いて、前代未聞の変な合コンだなと思った。本文に戻る

 

白札屋: 日産ギャラリのすぐ上にある和風だか洋風だかよくわからない居酒屋。女の子が妙に多いので有名。いつかAYと、私の高校時代の友達(♀)ではいって、テーブルについてはっと気がついたら、私とAYと除くテーブル全員が女の子で、目がチカチカした覚えがある。本文に戻る

 

反対側のサイドだったことは確か: なぜこのことだけ覚えているかというと、最初の自己紹介の時に、私が喋ろうとした途端、ティーチャーYZがテーブルの反対側から「一番はげしく踊ってた人!」と言ったからである。場所が狭かったのであまりはでには踊っていなかった筈なのだが。本文に戻る

 

女体盛りだのこんぶだの: お医者さんのところに御嫁に行けば、玉の輿じゃん。と言ったら、ナース2号が「医者だけはいや。とんでもないすけべだもん」と言ったところから、この話になった。ところで女体盛りを見たことがあったら教えてください。

それは別として実にナース2号はおきゃんぴーな子であった。最初の自己紹介のときにいきなり「所属は肛門科です」(実際は成形外科)と言ってのけた。おまけに合コンが終わった後も、ティーチャーYZに「おねえちゃん。あの二人(KTと私である)は遊んでるみたいだよー。危ないよー。」と言っていたそうである。KTに関しては真実かもしれないが、私に関しては事実誤認もはなはだしい。本文に戻る

 

なんとかしゃべったわけだ: 実際には話の途中で、ティーチャーYZに「えっ、それじゃ南洋美人が気に入った人は?」ともろに聞かれていたのである。残念なことになんと答えたかまったく覚えていない。本文に戻る